彼女について知っている二、三の事柄






『あなた、妹を作りなさい』


「そう言われても、なあ…」

はあ。

お弁当箱に残ったプチトマトを箸の先でつつきながら、あれから何十回目かのため息をつく。
昼休みの薔薇の館。
いつものように、山百合会2年生組が集まっての昼食。
普段なら、他愛のない、でも楽しいおしゃべりに興じて過ごす素敵な時間なのだが、学園祭が終わって以来、上の空の物思いとため息に明け暮れるばかり。

はあ。

このため息は由乃さん。
彼女もまた、同じことで悩んでいる。
悩みのポイントは祐巳とはちょっと違うけれど。

「妹かあ…」

図らずもふたりの声がユニゾンを奏でてしまい、脇で眺めていた志摩子さんが一瞬きょとんとしたあと、くすくすと笑い始める。

「…そんなにおかしい?」
「ごめんなさい、でも、ふたりが同じようにため息をついて悩んでいるのはなんだか…ね」

紅薔薇のつぼみ・福沢祐巳と、黄薔薇のつぼみ・島津由乃は、共に妹を作るようプレッシャーをかけられている。
祐巳は、姉である紅薔薇さま=小笠原祥子さまから。
由乃さんは、先代の黄薔薇さまである鳥居江利子さまから。

「いきなり妹を作れなんて言われても、じゃあはい、なんて気安く出来るもんでもないよねえ」
「いっそ、聖さまみたいに3年になるまで妹を作らないというのも」
「そうしたとしても、祥子さまも令さまも何もおっしゃらないとは思うけど…どの道おふたりはあと半年でご卒業なさってしまうのよ」

ああ、それは考えないようにしているのに。
お姉さまのいない学園生活なんて、今はまだ想像したくないし、できないし。

「山百合会のお仕事は外にお手伝いを頼ることができても、心の拠り所はどうにもできないわ。今だからわかるけど、わたし、お姉さまがご卒業なさってから、乃梨子と出会えるまで、とっても不安定だったから」

志摩子さんの言葉には実感がこもっていて、今の祐巳たちには重たい。

「あーっ、どの道わたしはそんな悠長なこと言ってられないのよ、締め切りがあるんだからっ」

由乃さんが頭を抱えて唸る。
江利子さまの挑発に乗って「11月末までに妹を紹介する」なんて約束するから。

「でもわたし、1年生の子なんかほとんど知らないし、1年生の方にもあまり人気ないみたいだし」

乃梨子ちゃんの話では、そんなことはないらしいけど。
1年生には由乃さんを密かに慕っている子はたくさんいるそうだ。
手術が成功して以来かなり健康的になったとは言え、色白で華奢な由乃さんは、依然として儚げな美少女のイメージで絶大な人気を持っている。
令さまの反対も押し切って剣道部に入部したりして、その見かけによらない意外とイケイケな性格なんかも最近は徐々に知られるようにはなってきたけれど、それさえも「健気」と受け取られて、更なる人気を呼んでいるとか。

(まあ、祐巳にしても、お近づきになる前は祥子さまのことをただ「優雅で清楚なお嬢様」としか思っていなかったし、イメージなんてそんなものだ)

でも、何しろ令さまと由乃さんのカップルは、私生活でも本当の姉妹同然、ベストスールにも選ばれるほどの収まりのよさで、そこに敢えて割り込もうと思うような勇気のある子はそうはいない。
また、山百合会そのものに対して、一般生徒とは別格の存在というイメージを求める人もいる。
白薔薇さまの志摩子さんは外部生の乃梨子ちゃんの入学早々に電撃的に姉妹の契りを結んでしまい、紅薔薇のつぼみの祐巳は親しみやすい(やすすぎる?)庶民派なため、フリーでいながら手の届かない殿上人のイメージを維持するのは、今は由乃さんだけなのだ。
そんなわけで、1年生たちにとっての由乃さんは「高嶺の花」であり続けている。
祐巳の人気が一見高いのも、本当は由乃さんに憧れているけれど、由乃さんはレベルが高くてとても手が届かないからってことで、レベルの低い祐巳の方に流れてきてるだけじゃないのかなあ、なんて考えたりもする。

(あ〜あ…)

お姉さまが卒業してしまうことを考えると気が重いけど、お姉さまを心配させたまま卒業させたくはない。
だからお姉さまの妹を作れという要請には応えたい。
でも…

「祐巳さんは悩むことなんかないじゃない、もう候補がちゃんといるんだし」
「候補…なのかなあ」
「あのふたりの他にもっと親しい子でもいるの?」

由乃さんの言う「あのふたり」とは、松平瞳子ちゃんと細川可南子ちゃんのことだ。

「いや…いないけど」
「だったらあとはどっちにするか選ぶだけじゃない。それとも、祐巳さんはあのふたりじゃ不満なの?」

そんなことはない。
ふたりとも、くせはあるけど、いい子…だと思う。
妹にしたらきっと楽しいし、そそっかしい自分を支えてくれそうだ。
ここ数ヶ月、手伝いもそつなくこなしてくれたし、山百合会的にもたいへん有用な人材であることは間違いない。
不満なんて、あるわけがない。

「でもなあ…」

あのふたりのどちらかを妹に、というのはなんだか現実味がない。
選んで決めるのが難しい、というのではなく、それ以前の段階で、自分が妹を持つなんてまだ考えにくい。

「祐巳さんも由乃さんも、ご自分のお姉さまのことが好きすぎるのかもしれないわね」

志摩子さん、ご明察。
祐巳も由乃さんも、それぞれのお姉さまにすべての気持ちが向かってしまって、未来の妹にわけてあげられる分なんかない、っていうのが本当のところじゃないか、っていうのは自分でもうすうす感じてはいる。
そんなことではいけない、とは自分もわかっているし、いずれは姉離れをしなければならないのもわかっている。
お姉さまもそう思っているからこそ、敢えて「妹を作れ」と突き放しているんだろう。
それはわかっている。
でも、わかっているからと言って納得したかと言えばそうではなくて、理性と感情は別なのであって。
お姉さまがわたしを妹にした時、お姉さまのお姉さま、先代の紅薔薇さまだった水野蓉子さまへの気持ちにはどうやって折り合いをつけたんだろうか。
知りたいけど、それをお姉さまには尋ねるのもなんだか気後れするし。

「…はあ」

かくして、ため息の数だけが積み重ねられていくのだった。

でも、現実に妹を作るとしたら。
やっぱり、瞳子ちゃんか可南子ちゃんのどちらか、ということになるのかな、とも思う。
話しかけられると嬉しいのでつい誰にでも愛想を振りまいてしまうものだから、1年生に知り合いの子は多い。
毎朝銀杏並木の途中で挨拶をくれるあの子とか、運動会でわたしと踊りたかったと言ってくれたあの子とか、ミルクホールでよく出会うあの子とか。
でも、瞳子ちゃんや可南子ちゃんほど親しい子はいない。
自分と祥子お姉さまのように、あるいは志摩子さんと乃梨子ちゃんのように、突然の出会いから急速に進展する、という可能性もないとは言えないけれど、自分が姉として主導しなければならない立場では、そんな劇的な展開はなさそうな気がする。
そもそも、お姉さまと自分の時だって、お姉さまはわたしのことなんか知らなかったとしても、わたしの方はずっとお姉さまのことを見ていたのだし。

…お姉さま、か。

可南子ちゃんには、リリアンのスールとはちょっと違うけど、同じように慕っていた上級生のお姉さんがいて。
その人が自分のお父さんと男女の関係になっちゃって、子供まで出来ちゃったなんて、そりゃあやっぱり衝撃だったろうなあと思う。
それ以前に、自分の両親が別居して離婚してしまうほど仲が悪くなっちゃうなんて、呑気な父母しか知らない祐巳にとっては、そんなハードな状況はとても想像できない。
可南子ちゃんがあんな風にかたくなになってしまうのも無理ないと思う。
ふたつ年上って言ったら、自分の場合なら蓉子さまたちと同じか。
蓉子さまがうちのお父さんの恋人になったとしたら。

(………)

「祐巳さん、なに赤くなってんのよ」
「あっ、いや、べ、別に」

やばい。
その図を想像したら案外違和感がなかったので逆に焦ってしまった。
いや、あのお父さんじゃ正直蓉子さまとは全然釣り合わないと思うけど、大人の男性とおつきあいしている蓉子さまのイメージは不自然さがなかった。
そう言えば、江利子さまなんかまさにそういうことでリリアンかわら版のネタにされたりしていたし、実際にも10歳も年上の山辺さんとおつきあいしているわけだし、そんなにおかしな話でもないのか。

(女の子は16歳になったら結婚できるんだしね)

とは言っても、たとえば今日明日男の人と関係を持って、来年子供を産むとかはもう異次元の出来事にしか思えない。
可南子ちゃんにとっても、たぶんそうだろう。
どんな気がしただろう。
大好きなお姉さんと、お父さんが、結ばれてしまって、自分を置いて去っていってしまったなんて。
裏切られ、見捨てられた気分になっただろうか。
そうしてリリアンに入って、祐巳のところに来た可南子ちゃんは、もしかしたら助けを求めていたのかもしれない。
だけど、自分はそんな可南子ちゃんの気持ちを打ち砕いてしまった。
だってしょうがない、実際の自分は彼女の理想とは全然違うのだから、幻の「完璧なお姉さま」を求められたって、応えられない。
学園祭の日に、夕子さんやお父さんと会って話をして、ちょっとでも許してあげられたのなら、可南子ちゃんの傷ついた気持ちも少しは癒えたかも知れない。
でも、ふたりが新しい家庭を持って、可南子ちゃんの前から去ってしまったことは変わらない。
そんな可南子ちゃんの気持ちを、今の自分が、改めて受け止めてあげられるだろうか。
優しくしてはあげられるかもしれないけれど、支えてあげられるかはわからない。
姉として、良い方向に導いてあげられるかどうか、自信がない。
それは可南子ちゃんに対してだけじゃない、瞳子ちゃんについても同じこと。
瞳子ちゃんは。

瞳子ちゃんは。



瞳子ちゃんは。






(…あれ?)






「…どうしたの、祐巳さん」


瞳子ちゃんて、どんな女の子だったっけ?
おしゃまで、生意気で、言いたいことを言うけどなんだか憎めなくて、どこか可愛らしくて。
でもそれ以外は?


瞳子ちゃんの好きなこと。

瞳子ちゃんの嫌いなこと。

瞳子ちゃんの気持ち。



「祐巳さん、祐巳さんてば」



……………なんてことだろう。

どうして今まで気がつかなかったんだろう。





(何も、知らない)






わたしは、瞳子ちゃんという女の子について、何も知らないんだ。











わたしは、瞳子という女の子について、何も知らない。

それに気がついたのはいつだっただろう?

「なんですの?人の顔をそんな風に見つめるのは、失礼でしてよ」
「…ちょっと穴でも開けてやろうかなー、とか思ってね」
「あら、わたくし女優なんですから、顔は勘弁してくださいな」

そう言ってくすくすと笑う。
お弁当を食べ終えて、ミルクホールで買ってきた紙パックのドリンクを飲みながら、教室でけだるく過ごす昼下がり。
瞳子はいちご牛乳、わたしは烏龍茶。
お茶はそろそろホットが美味しい季節。
ふたりで窓際の席にもたれて、葉がすっかり落ちてしまった銀杏並木を眺めながら、乃梨子はかねてから胸にひっかかっていた疑問を投げてみた。

「ねえ、瞳子の趣味って、何?」

聞かれた方は意外そうな顔をした。

「…そうですわね、彫刻の造形を鑑賞するような高尚なものではないのは確かですわね」
「それ、皮肉なの」
「そう取られるのは心外ですわ。他意のない率直な気持ちでしてよ」
「ま、そういうことにしとくわ。で、どうなの」
「何がですの」
「趣味よ。瞳子の」

沈黙。

「…いいじゃありませんの、そんなこと」

少し、困ったような顔。

「わたしには教えたくない?」
「そういうわけではないですけれど…特にこれと言ったものはないというだけで」
「バイオリン、弾くそうじゃない?それが趣味なの?」
「誰にそのことを」

急に不機嫌な顔になる。
何がそんなにいやなんだ。

「祐巳さま。夏休みに避暑地で見たって。結構上手かったそうだけど」
「大したことありませんわ。たしなむ程度。それに…」

それに?
でも、その先はそのまま消えてしまった。
また沈黙。

「…わたし、乃梨子さんがうらやましい。夢中になれる趣味があるって素敵」

意外なほど素直な言葉が出てきて、ちょっと驚いた。
だってこの子は、いつも芝居がかったような物腰で、ひとをはぐらかそうとするから。

「演劇はどうなの?あれは瞳子の趣味とは違うの?」
「演技するのは、わたしにとって欠かすことができないから…必要だからしているだけで、あれが趣味というのとは違いますわ。むしろ、やらないとしかたないからやっていると言うべきなのかも」

まあ、確かに普段から演技の入った振る舞いを見せる子ではあるけど、しかたないから、って理由はまた随分とネガティブなんじゃないだろうか。
およそそんな後ろ向きな動機で何かをするような人間とは思えないのだけど。

「だから、乃梨子さんのように、お姉さまやお友だちと一緒に心から楽しめる何かを持っているの、うらやましい」

あんまり見たことがない、寂しそうな顔。
これは予想外の展開だ。

「瞳子には、ないの?」
「わたしは…」

また黙る。
この子のこういうところがわからない。
他人にはうざったいほどにお節介で、失礼なくらいどんどん立ち入ってくるくせに、自分のことはほとんど明かそうとしないし、こちらから立ち入ろうとすることもやんわりと、でも頑として許さない。
許さないくせに、拒否しながらものすごくすまなそうな、悲しそうな、複雑な顔をする。
だから、なんとなくそれ以上追及するのもいけないことのような気にさせられて、結局はぐらかされてしまう。

不意に、いたずらっぽい笑みがその顔に浮かぶ。

「ええ、夢中になりすぎて高校受験に失敗するような趣味は、わたくしにはないですわ」
「この…」

どつこうとした手をすり抜けて、ころころと笑いながら逃げていく瞳子。

「ほらほら乃梨子さん、もうお昼休みも終わってしまいますわ。ご自分のお席に戻られた方がよろしくてよ」

楽しそうな捨て台詞を残して、彼女は背を向けて自分の席に戻っていく。
くそう。
またはぐらかされてしまった。



リリアンに入学して半年。
最初はその強烈な個性に面食らったけれど、人間何にでも慣れてしまうもので、今では瞳子にもすっかり馴染んでしまった。
マリア祭で道化を演じさせられた恨みは忘れていないので、いずれ絶対に仕返しはしてやろうと思っているけど、それはそれとして、今では瞳子は大切な友達だ。
それも、リリアンの同級生では一番親しい友達。
たぶん、瞳子にとってのわたしも、そうなんじゃないかと自負している。
なにしろ瞳子は口が悪いと言うか、言うことが結構キツいので、クラスメイトからは一目置かれると同時に一歩引かれちゃってる感じもあるので。
わたしの場合は最初があれだったし、その後薔薇の館に共に常駐するようになったりもして、わたしの方からも遠慮なくずけずけものを言える間柄にいつの間にかなってしまったので、そのうちに教室でもなんとなくいっしょにいることが多くなった。
中等部以前から瞳子と知り合いの敦子さんや美幸さんに言わせると、瞳子を呼び捨てに出来るなんてすごいことらしい。
友達だったら名前で呼び捨てくらい大したことじゃないだろう、と思うけど、考えてみたらここで呼び捨てにしている相手は瞳子だけだ。
同じ薔薇の館常駐組の可南子さんですら、「さん付け」でしか呼んだことはない。
そう思うと、やっぱり瞳子はわたしにとって特別親しい友達、なんだろう。
瞳子の方も、呼び捨てにされて不愉快そうではないし。

でも、最近になって、そこに壁があることに気がついた。
それは、ここまで親しくなったからこそ、その存在を知ることができるものだ。
親しくない子には、そもそもこの壁があるところまですら近寄ってはこられない。
友達になっても、いや、友達になったからこそ、この先には入ってきて欲しくない、無言のままそう主張する壁が自分の前にある。

わたしは何も知らない。
瞳子の学校の外での日常。
瞳子のうち。
瞳子のひとりの時間。
学園の中で出会う以外の瞳子のことや、瞳子の周りのことを、わたしはほとんど知らない。
瞳子の家族ってどんな人たちなんだろうか。
構成すら聞いた覚えがない。

運動会の時は、志摩子さんのお父さんが、キリスト教の学校に仏教の僧衣で現れるという大胆な行動で娘の頭を抱えさせていたのを筆頭に、山百合会の面々のそれぞれの家族が顔を見せていた。
可南子さんはまあ家庭がああいう事情だから誰も来ていなかったみたいだけど。
瞳子の家族がどうだったのかは、あとで聞いてみても誰も、祥子さまや祐巳さまさえ、知らなかった。

思い返してみると、学園祭の時も、瞳子の身内は誰も来ていなかったような気がする。
演劇部の公演ではまがりなりにも主役のひとりを演じた、文字通りの晴れ舞台だったと言うのに。
可南子さんとチケットの分配で相談した時には、そう言えば瞳子はいなかった。
とりかえばやの舞台稽古の時に親戚の誰だかにあげるとかいう話をしていたけど、相手はなんだか祥子さまも知っている人らしく、既に祥子さまが渡した(しかもその人は祐巳さまのチケットまでゲットしていたらしい)と聞いてもなおその人に渡そうってのは、考えてみると変だ。
あの子は余っていないと言っていた割に、5枚しかないチケットを、重複させて結局無駄にされてしまうのがわかっている相手に渡してもいいほど、他に渡す相手がいなかったのだろうか。

瞳子は教えてくれない。
他人の詮索はわたしもあまり好きじゃないから、瞳子が自分から語ろうとしないことを、周囲に根掘り葉掘り聞いて回るのもなんだか憚られて、結局うやむやのまま。

(なんと言うか、「立入禁止」って張り紙が目の前に貼ってある感じよね)

5時間目の講義をなかば上の空で聞き流しながら、瞳子の背中を眺める。

この壁の向こうに行くには、ただの友達ではきっとだめなんだろうな、と思う。
もっと近い…そう、「姉妹」みたいな間柄にならないと、瞳子の心の城壁の内側に入ることはできないんだ。
その門を最初に開くのは、残念ながら、わたしじゃなさそうだ。
鍵を開けるのはきっと、彼女の「姉」になるひと。
わたしが志摩子さんとしたように、心の深いところで繋がることのできるひと。
いつか、わたしもその壁の内側に入れてもらえるようになればいいな。

秋晴れの昼下がり、襲いくる睡魔と闘いながら、乃梨子はぼんやりと考えている。











そう、わたしは、瞳子ちゃんという女の子について、何ひとつ知らない。

「…花寺の先生から怒られないんですか、そういうの」

通学路には場違いな、真っ赤なスポーツカー。
運転席の窓から身を乗り出すのは、高そうなスーツに、派手なピンストライプのシャツの襟元を開いて、サングラスをかけたハンサムな若い男性。

(テレビのバラエティ番組に出てきたホストみたいだ)

いささかげんなりした気分になりながら、そんなことを考えてみたりする。

「今日はプライベートさ。いくら僕でも、この格好で講義に出るほど酔狂じゃないよ」

柏木優さんは、そう言って笑った。

下校途中、校門を出たすぐのところで、クラクションで呼び止められた。
正直言ってあまり近寄っていきたくはなかったのだけど、一応まだ名目上お姉さまの許婚ではあるし、弟がお世話になった先輩でもあるし、無下に知らん顔をするわけにも行かず。
そばを通り過ぎる他の生徒たちの視線が容赦なく突き刺さり、とっても恥ずかしい。
当の本人はそんなことはさっぱり意に介していない風なのが余計に腹立たしい。

「学園祭以来だよね。さっちゃんは元気にしてるのかな」
「そんなこと、ご自分で確かめに行けばいいじゃないですか。身内なんだから」
「冷たいなあ。帰るんだろう?送ってってあげるよ。ユキチの家なら道はわかってるし」

いつの間に。
油断も隙もないな。

「プライベートはどうしたんですか」
「そっちはもうすんだんだ。さ、乗って」

結構です、という言葉がのど元まで出かかったけど、ふと思い直す。

「…じゃあ、お言葉に甘えて」

車を降りた柏木さんが、優雅に気取った物腰で助手席のドアを開けてくれる。
通り過ぎる生徒たちが、その様子を目撃して目を丸くしたり指差したりしているのが見える。
ああ、これ明日噂になっちゃうな、面倒だなあ。
でもしょうがない、この人とふたりだけで話をする機会なんてそうはないし。
まあこの人なら、交通事故に遭う恐れはあっても、送り狼になる心配だけはないから。

「じゃあ、行くよ」

不安になるほど低い車高のスポーツカーのエンジンが、轟音を上げて回り始め、あっという間に校門から遠ざかっていく。
相変わらずの荒い運転で、走り始めて1分もたたない内に目が回りそうになってきた。
信号待ちで壁にぶつかるような止まり方をしてから、柏木さんが口を開いた。

「僕に聞きたいことがあるんじゃないのかい」

まだ何も言ってませんが。

「普段僕を敬遠してる君が、今日に限って簡単に僕の誘いに乗ってきたのは、そういうことだろう?」
「…お察しのよろしいことで」

それだけ気がつくんなら、お姉さまの気持ちにも気づいてあげられそうなものだけど。

「で、何だい?またさっちゃんのことかな」
「いえ、あの、瞳子ちゃんの」

そこまで喋ったところで、信号が変わって、後ろから蹴っ飛ばされるように車がスタートした。
気をつけないと舌を噛みそうだ。

「瞳子か…」

柏木さんは微妙な表情をした。

「祐巳ちゃんは、瞳子のお姉さんになるのかい?」
「わたしの質問がまだ終わってないんですけど」
「わかってるけどさ。祐巳ちゃんが瞳子のお姉さんになってくれるのでなければ、僕が瞳子について勝手にペラペラ喋るわけにはいかないな」
「…ずいぶん瞳子ちゃんにお優しいんですね」
「そりゃあ、僕にとっても瞳子は大切な妹だからね」

そうなんだ、この人は見た目は軽薄そうでも、中身は思いのほか義理堅くて男っぽい。
なんだかんだ言ってもそこは男子校の人らしい。

「で、どうなんだい。瞳子を妹にするの?」
「それは…わかりません」

そう、わからない。
だって、わたしは瞳子ちゃんのことをまだ何も知らないんだもの。

目線が低いせいか、窓の外の景色が、普段乗っているバスの倍くらい速く通り過ぎていくような気がする。

「わからないから、判断材料が欲しい。ってところかな」

交差点でハンドルを大きく切りながら、柏木さんが独り言のようにつぶやく。

「……わたし、瞳子ちゃんのこと何も知らないんです。瞳子ちゃん自身のことも、瞳子ちゃんの周りのことも。瞳子ちゃんが話してくれたのは、お医者さまをなさっているっていう離れて暮らすお祖父さまのことだけだし」
「瞳子はおじいちゃん子だからな。まあ、あのじいさまも面白い人だけど、瞳子は特に、ああいう…」

そこまで言いかけて、柏木さんは急に口をつぐんだ。
特に、ああいう、なんだろう。
続きがありそうだったのに。

それからしばらくは信号待ちにも渋滞にもひっかかることなく、車はスムーズに走り続けた。
その間、柏木さんは何も言わない。
舌を噛みたくないから喋るのを控えているのかもしれないけど。
いくつ目かのコーナーを回ったところで、ようやく踏み切り待ちで車が止まった。

「…祐巳ちゃんはいい子だから、きっと瞳子のことも良くしてくれるとは思う。さっちゃんが君のおかげで救われたようにね」
「そんな…」

救ったなんて、大げさな。
むしろ、わたしの方がお姉さまに寄りかかったりぶら下がったりしているのに。

「だから、その君が知りたいと言うのなら、瞳子について僕が知っていることはできるだけ教えてあげたいと思う。ただし」

ただし?

「それは、君が瞳子に対して本気であることが条件だ。さっちゃんに対するのと同じ気持ちを、瞳子にも向けてくれることが」

お姉さまに対するのと同じように。
それは…今は約束できない。
瞳子ちゃんとはできるだけ真剣に向き合いたいと思ってはいるけど、わたしの中で瞳子ちゃんの存在がお姉さまと同じ重さになるかどうかは、まだわからない。
でも、もしも瞳子ちゃんと姉妹になるのなら、そうでなくてはいけないとも思う。
本気でなければ、姉妹の契りなんかやっちゃいけない。
1年前にも、そう思ったからこそ、お姉さまの差し出したロザリオを一度は拒んだのだ。
黙り込んだわたしに、柏木さんが感心したように言う。

「…こういう時に、その場限りの口約束でごまかそうとしないのが、君ら姉弟のいいところだね」
「ああ…そういう手もありましたね」

どの道そんなことをする気は最初からないけども。

「結局のところ、これは祐巳ちゃんと瞳子の間の問題だから。いくら近しい間柄でも、僕が横からおいそれと首を突っ込むべきことじゃないと思うんだ」
「いつぞやの貸しを返してくださる気はないんですか」
「それは覚えているけど、それで余計なことを喋ったと瞳子に怒られるなら、それはちょっと割に合わないかなあ」

柏木さんはそう言って含み笑いをする。

「…まあ、ああして黙っていることが瞳子にとって良くないことだと思ったら、その時は瞳子が何を言おうが、君に洗いざらいぶちまけるけどね」

踏み切りはなかなか上がらない。

「ただ、今はまだその時じゃないんじゃないかな。僕としては、君と瞳子がふたりで問題を解決して、僕の介入する必要がない方が理想だよ。いつかのさっちゃんみたいなのは、僕も辛くなるからごめんだ」

その言葉で思い出した。
梅雨空の下、わたしをお姉さまの元まで導いてくれたのも、この車だったっけ。
瞳子ちゃんを、お姉さまを挟んだライバルとしてではなく、ひとりの人間として意識し始めたのも、そう言えばあの頃。

長い踏み切り待ちがようやく終わり、また車が走り始める。
気がつくと、もう周りは見慣れた景色。
普段はバスを乗り継いで小一時間かかる距離を、15分くらいで来てしまった。
速いと思ったのは気のせいじゃなくて、やっぱり制限速度を相当オーバーしていたんじゃないだろうか。
今さらながらちょっと恐ろしくなった。

「このへんでいいかな」

うちのすぐそばまでたどり着いて、柏木さんが車を路肩に寄せる。
車を停めたが早いか、すぐに自分が先に降りて、わざわざ外からドアを開けてくれる。
いちいちやることが紳士気取りだが、まあ悪い気はしない。

「ありがとうございました」
「どういたしまして。…もし、もし瞳子のことで、もう本当に祐巳ちゃんひとりではどうにもならないと思ったら、すぐに僕に言っておくれ。その時こそいつかの借りを返そう」
「…はい」

ちょっと頼もしい。

「また、うちに遊びにおいで。ユキチもつれてね」
「あの子がいやだと言わなければ、そうします」

柏木さんはそれを聞いて楽しそうに笑うと、車に乗り込んだ。

「それじゃあ、ごきげんよう、柏木さん」

ちっちっち。
車の窓から顔を出して、立てた指先を揺らしながら。

「固いな祐巳ちゃん。できればこれからは、優お兄さま、と呼んでおくれ」

呆れてものが言えないわたしを置いて、赤いスポーツカーは華麗に走り去った。











みんな、瞳子ちゃんという女の子について、何も知らない。

「祐巳さんなら、今日はもう帰ったわよ」
「そうですか。…いえ、祐巳さまに会いに来たわけではないんですけど」

黄昏の薔薇の館。
放課後、剣道部の練習が終わって、大会に備えての令ちゃんの顧問の先生や部長との居残り練習や打ち合わせが終わるのを待つ間、ここでお茶を飲みながらひと息入れるのが、最近の習慣。
学園祭が終わって、当面は大きなイベントもないので、山百合会もしばらくは開店休業。
散発的な事務処理の他にはすることもないし、時節柄日暮れも早くなってきたから、部活に入っていない人は最近は放課後にここに長居することもなく、さっさと下校してしまう。
この時間まで学校に残っているのは、剣道部所属の令ちゃんとわたし、そして演劇部の瞳子ちゃんくらいだ。

「せっかく来たんだし、お茶飲んで行ったら?相手がわたしでよければだけど」
「…はい」

おや、素直。
皮肉のひとつも言うかと密かに構えていたのに、ちょっと肩透かしだ。

「ダージリンでいいですか?」
「え?あ、うん、ありがとう」

頼みもしないうちから、わたしの空になったカップを取り上げて、流しに向かう。

「令さまの分はどうしましょう」
「あー…まだ当分来ないと思うから、今は用意しなくていいわ」
「はい」

よく気が回ること。
わたしだったら、たとえば江利子さまとふたりだけになったら、その場にいない人のことまで考えてる余裕はないなあ、きっと。
カップを用意する背中に、ほんの少しだけ、落胆が漂っている。
いないことを予想しつつ、いればいいな、くらいの期待しかしてこなかったんだろうけど、実際にいないとなると、そこはやっぱりがっかりしてしまうものだ。
ほんとに祐巳さんのことが好きなんだなあ、この子は。

「どうぞ」
「ありがとう」

…美味しい。
自分で入れるより美味しい。
この子は、わたしの好みをちゃんと知っていて、それに配慮してくれている。
ちょっと悔しい。
そんなわたしの気持ちなど知らない顔で、瞳子ちゃんはひとつ離れた席で黙ってカップを口に運ぶ。
わたしの視線を感じていないはずはないけど、特にそれに向かってくるでもなく、意地になって無視しているでもなく、ただ、普通にそれを受け止めている。

沈黙。

重苦しくも、硬くもない、穏やかな空気。
別にわたしの前だから取り澄ましているとかそういうのではなく、ただそれが自然だからそうしている、という雰囲気。
静かにお茶を飲む目の前の少女のたたずまいは、なんだか志摩子さんのようだ。

(この子、こんな子だったっけ)

瞳子ちゃんと自分は、キャラがかぶる、ということになっている。
傍若無人で、強情っぱりで、甘ったれで。
でも、本当にそうなのだろうか。
いや、自分がそうだというのは否定しない。
だけど瞳子ちゃんはどうだろう。
この子は、わたしとふたりだけの時は、わたしと似ても似つかない別人だ。
最初はそれに気づかなかった。
この子はいつも、祥子さまや祐巳さん、あるいは1年生3人組の他のふたりといっしょで、わたしとふたりだけになる局面なんかなかったから、学園祭が終わって落ち着くまで、この子のこういう面を知る機会もなかった。

瞳子ちゃんは、いつでも何かを演じている。
甘えん坊で、おしゃまな妹。
小生意気で、天邪鬼な下級生。
積極的で、お節介なクラスメイト。
頭のいい、機転の利く後輩。
ちょっと軽薄で、お調子者の女子高生。
時と、場合と、相手によって、それらの「仮面」を、器用に使い分ける。
わたしの前でその仮面を外してしまうのは、わたしとよく似たキャラクターだと思われているだけに、ふたりきりになってしまうと、それが仮面であることを見破られるのがわかっているからなのだろうか。
似たもの同士のわたし以外の観客の目がないところでは、演技しても無意味だと思っているからだろうか。
それとも、わたしが見ているこの顔もまた、もうひとつの仮面なのだろうか。
よくわからない。

瞳子ちゃんはわたしとは違う。
普段、似ていると言われるからこそ、かえってわかる。
この子は、わたしなんかよりずっと繊細で、周りの人間の気持ちに敏感で、そして、とても脆い。
学園祭の準備期間中に、瞳子ちゃんが演劇部でもめた、という話を聞いた時に、それが確信になった。
瞳子ちゃんはその時、痛烈な捨て台詞を吐いて、演劇部に背を向けたと言う。
それは一見威勢のいい行動に思えるけれど、実際のところは逃亡でしかない。
瞳子ちゃんは、自分に向かってくる敵意と対決することから逃げたのだ。

自分だったら、島津由乃だったら、そんなことはしない。
とことんまで自己主張し、たとえ自分の方が間違っていても正しいと言い張り、相手が根負けするまで食い下がり、その場に居座り続けるだろう。
それでどれほど周囲に迷惑をかけ、場の空気を悪くし、自分が痛い目を見るとしても。
島津由乃はそのくらい頑固で図太いのだ。

だけど、島津由乃でない松平瞳子には、それは耐えられなかった。
お得意の演技力を駆使すれば、その場をうまくかわしてしまうことも、この子なら造作も無かったはずだ。
けれど、相手を悪者に仕立てることで倍増するだろう敵意を受け止める勇気も、下手に出て相手に媚びる屈辱を飲み込む忍耐も、この子には無かった。
だから、薔薇の館に逃げてきた。
しかも、逃げてきた薔薇の館で、この子は逃げてきたことを誰にも言おうとしなかった。
乃梨子ちゃんが聞きつけて、祐巳さんがフォローしなかったら、この子はきっと、何も起きていないという仮面をつけたまま、学園祭が終わるまで押し切ろうとしただろう。

祐巳さんに説得されている間、山百合会からも放逐されるのではないかと感じた時の瞳子ちゃんは、明らかに恐慌をきたしていた。
自分の居場所がどこにもなくなってしまう可能性に恐怖していた。

(それにしても、あの時の祐巳さんの対処は、見事だったなあ)

自分が逃げ場になってあげるから、いつでも逃げてきていいから、だからがんばれ、なんて、わたしには絶対言えない。
甘ったれんな、と尻を叩いて、もっと追い詰めてしまったに違いない。
あの時の祐巳さんは、まさしく妹を見守る姉の貫禄だった。

「妹、か…」

思わず口に出してしまった言葉に、瞳子ちゃんが反応した。
ぱっと見にはわからない、けれど今まで力が抜けていた表情に、違うものがのぞく。
別にからかってみようとか、かまをかけてやろうとか、そういう気はなかったけれど。

「…ねえ、瞳子ちゃんは、祐巳さんの妹になるの?」

お、赤くなった。
可愛い。

「どうして、そんなことをお聞きになるんですか」
「純粋な興味。答えたくなければ答えなくていいけれど。どうなの?」

でも、返ってきた言葉はつまらないほど冷静だった。

「妹をお選びになるのは、祐巳さまの方ですから。わたくしがなるならないを決めることではありません」
「まあ、そうだけど。祐巳さんが選ぶのはあなたなんじゃないかしら」
「そんなこと、わかりません。祐巳さまがお選びになるのは可南子さんかもしれないし」
「可南子さんは、わたしの聞いた話では、たとえ選ばれても、祐巳さんの妹にはならないって言ったそうだけど。それについてはどう思うの?」
「それが可南子さんの本心かどうかはわかりません。たとえその言葉を発した時には真実だったとしても、人の心なんて変わってしまうものだから」

この子について一番違和感を感じるのは、こういうところだ。
リリアン育ちの生粋のお嬢さまのくせに、時折妙に世慣れた風の、達観した態度を見せる。

「…でも、祐巳さんがあなたの前にロザリオを差し出して、妹になって欲しいと言ったら、その時は受け取るのでしょう?」
「それは」

困った顔で答えに窮する瞳子ちゃん。

「…わかりません…」

おいおい、なんだそれは。
申し込まれたら一も二もなく受け取るもんだとばかり思っていたけど。
薔薇のつぼみの妹になることに憧れていたんじゃなかったのか。
祐巳さんのことが好きで好きでたまらないんじゃないのか。
ますますわからない。

「じゃあ…もし、祐巳さんがあなたを選ばなかったり、選ばれてもあなたが受けなかったりした場合は、わたしが申し込んでもいいのかしら」
「え」

ただでも大きい目が一層丸くなって――

「ごめえん由乃、お待たせ…あれ、瞳子ちゃん」
「…ごきげんよう、黄薔薇さま」
「うん、ごきげんよう。なんだか久しぶりだね。ふたりきりで何かお話?…どうしたの由乃、むくれちゃって」
「……………」

ほんっと、間が悪いんだから、令ちゃんてば。

「ははあん、また言い合いでもしてヘコまされたのね」
「とんでもない、わたくしが由乃さまに口先でかなうわけありませんわ。いつもいじめられてばかりで、瞳子つらくって」
「なっ…」

こいつは。
もう仮面を変えてしまっている。
令ちゃん受けする、由乃クローンの顔に。

「ははは、だめだぞ由乃、下級生には優しくしないと、妹が作れないよ」

んもう、令ちゃんのこういう無神経さって時々猛烈に癪に障る。

「黄薔薇姉妹のおふたりだけの時間をお邪魔しては申し訳ありませんから、わたくしはこれで失礼致しますわね。由乃さま、すみませんけど令さまのお茶は由乃さまがご用意してさし上げてくださいな。令さまはその方がお喜びでしょうから」

このお。
毒気のある笑顔に嫌味を散々ちりばめながら、瞳子ちゃんは自分のカップだけを片付けて部屋から逃げ始める。
あと少しでこの子の仮面の下の顔を見られると思ったのに。
歯ぎしりしながら見送る由乃の前で、扉の向こうに去りかけた瞳子ちゃんは、ふと振り返って。

「先ほどのお話ですけれど」

いたずらっぽく微笑みながら。

「こんな風なわたくしでもよろしいのでしたら、お受けすることを考えなくもありませんことよ、黄薔薇のつぼみ」
「えっ…」
「締め切りに間に合わなさそうで、わたくしの身がまだ空いているようでしたら、ぜひご相談くださいな」

意味深な言葉を残して、するりと消えていった。

(知ってたのか)

くそお。

「…なに、何の話なの?」
「いいの、令ちゃんは」

もう令ちゃんてば、心は乙女のくせに、どうしてこう空気が読めないのかしら。
まあ、そういうところも好きなんだけど。

「…ダージリンでいいよね?」

がんばってあの子より美味しく入れてみせるんだから。











それでもわたしは、瞳子ちゃんという女の子のことを、とても知りたい。

「昨日は優さんと楽しくドライブしたそうね」

まあ、耳に届いていないはずはないと思っていたけど。
開口一番棘だらけの言葉を向けられると、返答に窮する。
別に後ろめたいことなんか何もないのになあ。

「ええ、まあ、いろいろとありまして」

今朝から学園中は大騒ぎになっていた。
曰く、紅薔薇のつぼみが花寺のプリンスと愛の逃避行、だとか、ひどいのになると、高級クラブのホストに白昼堂々お持ち帰りされた、とかなんとか。
例によって真美さんは目の色を変えて朝一番でコメントを取りにくるし、例によって蔦子さんはいつの間に撮ったのか、わたしが車に乗り込む決定的瞬間を写真に収めているし。
休み時間には先生にまで呼び出されて、釈明するのが大変だったのだ。
柏木さんへの貸しにこれも上乗せしたいくらいだ。
午後になってようやく騒ぎも一段落して、一息つこうと思って立ち寄った薔薇の館で待っていたのは、何よりも恐ろしい、祥子お姉さまの氷のように冷ややかな視線。
他のメンバーは、お姉さまの爆発を恐れてか、全員逃亡済みだった。
ああマリア様、わたしが一体何をしたというんですか。

「…聞かせてちょうだい。何がどう、いろいろ、なのかを」

怒らないから、というその声がもう怒ってるよ、お姉さま。



まあ、どの道お姉さまに話を振ってみようと思っていたことでもあるし、ちょうどいい。
お姉さまのご機嫌に慎重に配慮しつつ、昨日の車中での会話を包み隠さず伝えてみた。
「優お兄さま」の下りはさすがに割愛したけども。
話が終わる頃には、お姉さまの眉間の皺も消えていた。

「瞳子ちゃん、ね…」

まただ。
お姉さまも柏木さんと同じように微妙な顔をする。
そして、お姉さまもまた、答えの代わりに問いを返してくる。

「…どうして、祐巳は急に瞳子ちゃんのことが知りたくなったのかしら」

どうして。
どうしてだろう。
よくわからない。

「わたくしが、妹を作りなさいと言ったから、意識するようになったの?」

確かに、それもある。
でもそれはきっかけに過ぎない。

「…わたし、ちょっとショックだったんです。こういうきっかけがあるまで、何も知らないことにさえ気づかないままで過ごしてきたことが。瞳子ちゃんは、こんなに長い時間、わたしのすぐ近くにいたのに」
「あなたは瞳子ちゃんの姿や、言葉や、振る舞いをずっと見て、聞いてきたはずよ。それでは知っていることにはならないのかしら」
「でも、それだけじゃあ、本当の瞳子ちゃんはわかりません。わたしは…」

お姉さまが、優しく微笑んだ。

「…そうね」

わたしの頬に手の平を当てながら。

「でも、知ることが必ずしも幸せな結末にはならないかもしれないわよ。知ることで、あなたは今と同じように瞳子ちゃんと接することができなくなってしまうかもしれないし、あなたに知られたことで、瞳子ちゃんがあなたの前から去ってしまうかもしれない。それでも、あなたは知りたいと願うのかしら」
「それは…」

考えていなかった。
やっぱりわたしって迂闊。
瞳子ちゃんのことを何も知らないままですっかりお友達のつもりでいたかと思えば、今度はネガティブな可能性を考えもせずに先走ろうとして。

「でも」

可南子ちゃんとのことを思い出す。
可南子ちゃんはわたしに怒りと非難をぶつけてきた。
わたしはそれは不愉快で理不尽だと感じ、受け入れなかった。
それは楽しくない、後味の悪い経験だったし、結果は可南子ちゃんにとってもわたしにとっても、全然プラスではなかったと思うけど。
あの出来事で、可南子ちゃんという女の子のことを、少しだけではあるけど、わかることができた。
一度決裂して、すべてご破算になった後から、もう一度繋がりを作り直そうと思うこともできた。
それは、決してマイナスではない。
だから。

「それでもわたしは、瞳子ちゃんのことを知りたいです。瞳子ちゃんが何を考え、何を感じて、何を求めているのか、知りたいんです。たとえそれで後悔したり、痛みを感じることになっても」

知りたいと思いながら、知ることができずに、もやもやとした気持ちを抱えたままでいるのは、なんだか切ないのだ。
それに。

「一歩踏み込むことをためらったばかりに、相手を見失うのは、もういやですから」

降りしきる雨の中、取り残されて泣いた。
あんな思いはもういやだから。
お姉さまも、わかっているという顔でうなずいた。

「あなたはそう言うだろうと思っていたわ。それなら、あなたの思うようにしてごらんなさい。それがどんな結果になろうとも、わたくしがあなたと一緒に受け止めてあげるから」
「ありがとうございます、お姉さま…」
「でも、残念だけど、わたくしも優さんと同じ立場を取るわよ。瞳子ちゃんが自分で語らないことを、先回りしてあなたに教えてあげることはできないわ」

え、そんな。

「ね、祐巳、考えてみて。わたくしがあなたのことをもっとよく知りたいと思ったとして、あなたを通り越して、祐麒さんのところに行っていろいろ聞き出そうとしていたら、あなたはどう思うかしら」
「………」
「わかるでしょう。あなたが瞳子ちゃんのことを本当に知りたいと思うのなら、瞳子ちゃんに求めるしかないの。他の誰も、その手助けはできないのよ」
「はい…」

結局、近道はなし、ということか。
まっすぐぶつかっていくしかないんだ。

「焦る必要はないわ。あなたが納得がいくまで、じっくり時間をかけて、瞳子ちゃんと向き合ってごらんなさい。妹だとか、そんなものは、その後ろについてくるものなのだから」
「はい、お姉さま」

うん、そうしよう。
だいじょうぶ、当たって砕けても、お姉さまがちゃんと拾ってくれるから。
可南子ちゃんの時のように。

「…でも、紅薔薇のつぼみとしては、こんな風なのは、やっぱりみっともないですよね」
「あら、そんなことはないわよ」

お姉さまはにっこりと笑って。

「わたくしも1年前には、わたくしのロザリオを受け取らなかった両お下げの1年生のことが知りたくて知りたくて、頭がおかしくなりそうだったもの」

…そんな晴れやかな顔で言われちゃうと、こっちが恥ずかしいです、お姉さま。











わたしたちは誰も、瞳子ちゃんという女の子のことを知らない。

「ああ、ありがとう、もうこのくらいでいいわ」

講堂の裏。
銀杏も桜もすっかり葉を落として、裸の樹皮を秋の風に寒そうに晒している。
それを寂しい光景だと言う人もいるけれど、わたしは嫌いじゃない。
次の春に新しい芽を吹き、葉を広げ、花を咲かせる、そのための力をじっと蓄えている木々の姿は、春や夏とは違う美しさがあると思うから。

「やっぱり、茶碗蒸しで召し上がるんですの?」
「それもいいけど、お魚やお野菜といっしょに煮付けにしても美味しいのよ」

銀杏拾いを手伝ってくれたその子は、なんとも言えないという感じの顔で曖昧に笑った。
祐巳さんも乃梨子も同じような顔をしたわね、そう言えば。
なんとなくおかしくなって、くすくすと笑った。

「…何か?」
「ううん、ごめんなさい。わたしが銀杏が大好きだって話をすると、みんな同じような顔をするなあと思って」
「はあ」

釈然としない様子で、小首をかしげるのに合わせて、巻かれた髪が可愛らしく揺れる。

「あなたは、銀杏、好きじゃないかしら」
「特には…と言うか、銀杏そのものを意識して味わったことって、あまりないですわね」

ふしぎそうな顔をした彼女。

「それにしても、白薔薇さまの食べ物のお好みがそんな純和風だなんて、やっぱり意外ですわ」
「でも、寺の娘ですもの」

それはかつて、わたしが自分で引いた線のこちら側に置いて、誰にも見られないようにと必死になっていた事実。
なぜ、そんなことにこだわっていたのか、今となっては自分でもよくわからなくなりつつあるけれど、やっぱりあの頃のわたしにとっては重大だった事実。
今では、こんなに気軽に言葉にできるようになった。
そのきっかけを作ったのは、目の前の女の子。

「本当にありがとう、瞳子ちゃん。乃梨子が来られないのに、この時間の内にひとりで拾うのはちょっと大変だったから」

午後の授業が済んだあとのわずかな休憩時間。
掃除が始まったら、銀杏は落ち葉と一緒に掃き集められ、捨てられてしまうから。

「いいえ。お掃除の時間まで、瞳子、暇でしたから。こうして白薔薇さまとふたりきりでお話しできるのは嬉しいですし」

優しいのね、瞳子ちゃん。
乃梨子は、クラスの委員会の用事でつかまっているらしい。
きっと乃梨子の渋っている様子を見て、察して足を運んでくれたんだろう。
この子は一見無邪気なようでいて、いつでも周りのことに注意深く気を回している。

「今だから言っちゃいますけど、瞳子、高等部に上がった頃には白薔薇さまの妹になれたらなあって思っていたんですよ。乃梨子さんに取られちゃいましたけど」

こうして軽薄を装うのも、この子なりの気配りだ。



もう随分長いこと薔薇の館でいっしょなのに、わたしと瞳子ちゃんの間には接点がほとんどなかった。
乃梨子や祐巳さん経由でさまざまな情報は入ってくるけれど。
でも、よく聞いてみると、彼女たちも外から見える以上のことはほとんど知らないようで、それがちょっと不思議だった。
なぜか、薔薇の館に出入りするようになったばかりの頃の自分をなんとなく思い出した。

「…瞳子ちゃんは、どうして最初はわたしの妹になりたかったのかしら。わたしなら、あなたの事情や内面に余計な干渉をしなさそうだったから?」
「えっ」

そんな風に返されるとは思っていなかったのだろう。
瞳子ちゃんは答えに詰まった。

「………」

そのまま黙り込んでしまう瞳子ちゃん。

「いいのよ。つぼみだった頃、わたしがお姉さまに求めたのも、そういう関係だったから」
「…佐藤聖さま、ですか」

懐かしい名前。
なんだか、もうはるか遠くに離れてしまったような、でも、今でも隣にいるような、不思議な感覚。

「今は、どうなのかしら」
「え?」
「今でも、あなたはわたしの妹になりたいと思うのかしら。もし、乃梨子が存在しないとしたら」
「それは…」

瞳子ちゃんはすっかり困惑してしまっている。

「…志摩子さまが、こんなことを言い出される方とは思いませんでした」

少し不機嫌そうな顔になって抗議する瞳子ちゃん。
その様子がなんだか可愛らしい。
祐巳さんをかまっていたお姉さまはこんな気分だったのかしら。

「そうね、以前のわたしは、確かに他人に対してこんな不躾な問いかけをするような人間ではなかったと思うわ。でも、わたしは変わってしまったのよ。…そう、“マリア祭の宗教裁判”でね」

瞳子ちゃんがばつの悪そうな顔になる。
ごめんなさい、責めているわけじゃないのだけど。
むしろ瞳子ちゃんには感謝しているのだ。
あのおかげで、わたしは人との距離を気にして過ごす必要も、自分の居場所に悩むこともなくなったし、乃梨子と姉妹の契りを結ぶこともできた。
もしあれがなかったら、わたしは今も相変わらず臆病なままで、乃梨子にロザリオを渡すのも未だにぐずぐず迷っていたと思う。

「…もし、あなたの気持ちが今でも同じだったとしても、今のわたしではあなたの望むような関係は作ってあげられないかもしれないわね。きっと、柄にもないお節介をたくさんしてしまって、あなたに嫌われてしまうんじゃないかしら」
「そんなこと…」

言いよどむ瞳子ちゃん。

「ない? そうね。わたしが変わったように、あなたが人に求めるものも変わったかもしれないものね。今のあなたにとっては、もっと積極的にあなたの内側に踏み込んでくれる人の方がいいのかもしれないわ」
「…何を言われているのか、わかりません」

拗ねたような顔で、ぷい、と横を向く。
素直じゃないのね。
それとも、本当にわかっていないのかしら。
でもね、瞳子ちゃん。

「…追い詰められないと、正直になれないのは、悲しいことよ。それとも、…あなたもマリア様の前で、裁きを受けたいのかしら」
「えっ…?」

瞳子ちゃんが、はっと顔を上げた。
ほんの一瞬、視線がまっすぐにぶつかる。

「…志摩子さまは、わたしのことを、どこまでご存知なんですか」
「瞳子ちゃんが周りに対して与えたいと思っているイメージ以上のことは何も。ただ、かつてわたしが自分と他者との間に引いていたのと同じ線が、あなたにもあるんじゃないかな、と感じているだけ。違っていたなら、ごめんなさいね」

微笑みながら、わたしの方から視線をそらした。
これ以上は、きっと出すぎた真似。
その線を越えるのは、あなたの姉になる人の役目だから。

「行きましょう。もうすぐお掃除が始まるし、手も洗わないと、匂いが残ってしまうわ」

瞳子ちゃんを促しながら、わたしは、普段は祐巳さんしかさせることのできない表情を、自分がこの子から引き出せたことに、ほんの少しだけ満足していた。











だけど、わたしは瞳子ちゃんについて、知ることができるのだろうか。

「う〜ん…」

目の前にあったのに、見過ごしてきたことはいくつもある。
夏休み、お姉さまに連れられて行った小笠原家の別荘に、カナダへ家族旅行に行ったはずの瞳子ちゃんが現れた。
あの時わたしは、瞳子ちゃんは祥子お姉さまを追いかけるために、急遽旅行を取りやめてこっちに来たんだろうと思ってた。
でも、確かめてはいない。
わたしが勝手にそう思っただけだ。
だけど、よく考えたら、お姉さまが毎年あの時期にあの別荘で過ごされるの、昔からお姉さまと親戚付き合いのある瞳子ちゃんなら知っていたはず。
そしたら、祥子お姉さまといっしょにいたいなら、旅行の予定なんか、最初から入れないんじゃないだろうか。
わたしが別荘に同行すると聞いて、気が変わったんだろうか?
でもそうだとしたら、そこまでした割に、「略してOK大作戦」には全然首を突っ込んでこようとしなかったのはなぜだろう?
お姉さまにわたしが何かを仕掛けようとしていること、柏木さんのお家でわたしに会った時に勘付いていただろうに。
それに、志摩子さんと乃梨子ちゃんをターゲットにした「マリア祭の宗教裁判」ではあんなにノリノリだったくらいだから、そういう小芝居みたいなのは大好きなはずなのに。
自分も一枚噛ませろとも、そんなことはやめろとも、言ってこなかった。

(わかんないよ、瞳子ちゃん…)

ミルクホールで、わたしを「見損なった」と一喝した瞳子ちゃん。

避暑地で、お嬢さま方の噂の恐ろしさをわたしに警告した瞳子ちゃん。

体育祭で、わたしのことをおめでたいとばかにした瞳子ちゃん。

学園祭の前、わたしの言うことはきれいごとだと怒った瞳子ちゃん。

今まで深く考えずに通り過ぎてきたあれやこれやが、いちいちすべて謎に見えてくる。
知りたい。
瞳子ちゃんの、あれも、これも、いろんなこと全部。
その欲求が、この、ほんの数日の間にものすごい大きさのクエスチョンマークになって、祐巳の頭上にずっしりとのしかかっている、そんな気分。
もう、どうしたって知らずにはすませられない、そんな気持ちだけがはるかかなたをどんどん突っ走っていく。

とは言え、そのためだけに1年椿組に押しかけるのはさすがに憚られる。
会いたいと思う時に限って、なかなか校内で出会う機会はないし。
また仮に出会えたところで、衆目の中立ち話で根掘り葉掘りってわけにもいかないし。
教えて欲しいのはこっちなのに、相手をどこかに呼びつける、というのもどうかと思うし、そんなことをしたら、瞳子ちゃんは警戒して何も喋ろうとしなくなるに決まってる。

だから、待ち伏せすることにした。
薔薇の館で。

由乃さんから、瞳子ちゃんが部活の後でたまに顔を出すという話は聞いている。
由乃さんと令さまが剣道部の練習の後の待ち合わせ場所にしているのは知ってたから、わたしもいてもいいかな、って聞いたら、由乃さんはひとりで勝手に何かに納得して、「じゃあ令ちゃんとわたしはしばらくは他で待ち合わせることにするね」と言って、こっちの答えも聞かずにいなくなり。
だから、祐巳は薔薇の館でひとりきり。
だけど、またそういう時に限って、待ち人は来ないのだ。
約束したわけでもなんでもないんだから当たり前だけど。
そんなこんなで、放課後に来る当てのない相手を待ち続けて、もう3日目。

「はあ…」

手持ちぶさたで、図書館から借りてきた本を読んでみたりするけれど、気持ちが全然内容に向かず、ただ文字の列を目で追うだけで終わってしまって、さっぱり頭に入ってこない。
お茶も飲みすぎて飽きてしまった。
誰もいない部屋の中で、日差しが傾いていくのを眺めて過ごすだけの、無為な時間。

(何やってるんだ、わたしは…)

もしかして、避けられているのだろうか。
瞳子ちゃんは結構、いや、かなり勘がいいから、わたしが瞳子ちゃんのことをあれこれ聞き出したがっているということにどこからか感づいて、近寄らないようにしているのかも。
でも、だとしたら、そうまで知られたくないことってのはなんなんだ、と、余計に知りたい欲求が刺激されてしまう。
いやいや早合点はいけない、そもそも避けられているかどうかも定かではないんだし。

それにしても、どうしてこれほどまでに瞳子ちゃんのことが知りたいのだろう。
由乃さんや志摩子さんも大切な友達だけど、いまだに知らない部分や見えない部分はたくさんある。
でも、それをこんな風に自分から積極的に掘り下げようとしたことはない。
可南子ちゃんには何か家庭に事情がありそうだとは思ったけど、それをあえて知りたいとは思わなかったし、知らない方がいいのではないかとさえ思った。
誰よりも大切なお姉さまのことでさえ、まだ知らないことがたくさんあるけれど、それをどうしても明らかにしたいと思ったことはない。
どうして、瞳子ちゃんに対してだけ、知りたいという気持ちが汲めども尽きぬほどに湧いてきてしまうのだろう。

「あー、もー、わかんないよー」

机に突っ伏して足をばたばたさせてみる。
そんなことをしても何の足しにもならないんだけど。
どうせ誰も見てないんだ、かまやしない。

「……何やってるんですか」
「ひゃっ!」

前触れなく背後から降ってきた声に仰天して振り返ると、そこには呆れ顔のツインロール。
待ち人来たれり。

「とっ、瞳子ちゃん。音を立てずに上がってくるのは良くないよ、びっくりするじゃない」

祐巳の照れ隠し半分の抗議を、瞳子ちゃんは冷たく切り捨てる。

「大きなお世話です。真後ろでドアが開くのにも気づかないほど、ひとりでどたばたしている人が悪いんです」
「う…」

そう言われるとぐうの音も出ない。
まあいい、とにかくこうして待ち続けた、その相手がようやく現れたのだから。

「こんな時間までおひとりで何をなさってたんです?部活も入ってらっしゃらない方が。暇つぶしならご自宅でなさった方がよろしいんじゃないですか」

相変わらずの容赦ない物言いも、これだけ待ち焦がれた後だといっそいとおしいくらいだ。
さあて、どう話を切り出したものか。

「ちょっと、ね。静かな場所で読書でもしようかなと思って。うちじゃあ意外と落ち着かないし」
「…その割には、一向に進んでいらっしゃらないようですわね」

開いたままの本のページがまだ一桁なのは目ざとくチェックされていて、当たり障りのない話で繋ごうとする努力はあえなく潰えた。
やっぱり瞳子ちゃん相手に適当にごまかそうってのは無理だな。
こうなれば正攻法だ。

「んーとね。実は、待ってたの。瞳子ちゃんを」
「は?」

怪訝そうな顔になる瞳子ちゃん。

「最近会えなかったしさ。お話したくって」

その言葉に、瞳子ちゃんは不機嫌なような、落ち着かないような、微妙な表情になる。

「…別にわたしの方はお話ししたいことなどありません」
「……だめかな」

そういう答えは予想はしていたけれど、はっきり言われるとやっぱりちょっと悲しい。
そんな気持ちを込めつつ、ちょっと上目遣いに見つめていると、瞳子ちゃんがだんだん赤くなって。

「……わかりました。わかりましたよ。お話すればいいんでしょう、まったくもう」
「ほんと?じゃあじゃあ、座って。お茶入れるねっ」

すかさず瞳子ちゃんをつかまえて、たった今まで自分が座っていた椅子に押し付けると、うきうきと流しに向かう。
…最近、瞳子ちゃんにお願いをする時のコツみたいなものがわかってきたような気がする。
ごめんね、悪い上級生だね。



「…それで、わたしにお聞きになりたいことは何なんですの?」

出されたお茶を悠然と味わいながら、瞳子ちゃんは横目で祐巳をじろりと睨む。

「…柏木さんから、何か聞いたの?」
「なぜそこで優お兄さまの名前が」
「あ、違うんだ…」
「…ああ、そう言えば2・3日前に車でデートなさったとか噂が流れていましたわね。大方、優お兄さまに何か教えてもらおうとしてはぐらかされた」

しまった、初手から語るに落ちている。

「わたしと世間話をしたくてわざわざ待ち伏せしていらしたわけじゃないでしょう。たいていの話題なら、祐巳さまは平気で1年の教室まで押しかけていらっしゃるから、そうなさらないということは、余人がいては話しづらいこと。その上で、こうしてふたりきりになって、祐巳さまの方にわたしに聞かせたい話がおありなら、わたしが促さなくとも勝手に喋り始めるはず。そうでないということは、わたしに何か聞きたいんだということです」

素晴らしい。
名推理だよホームズ。

「……何か、今ものすごいくだらない台詞が頭に浮かんでいらっしゃるでしょう」
「…なんでわかるの?」

瞳子ちゃんのジト目が痛い。

「一度、ご自分の姿をビデオにでも録ってしばらくご覧になってみるとよろしいですわ。どれほど考えていることがお顔に表れているか」
「…いい。立ち直れなくなりそうだから」

こうしてふたりでいると、瞳子ちゃんの方がずっと大人に思えてくる。
落ち着いてて、はっきりしてて、頭の回転が速くて、冷静で。
それに比べると、自分は年上のくせにてんで幼稚で愚かに思えて、ちょっと自己嫌悪に陥ってしまう。
1年生の頃、前の薔薇さま方を見ながら、自分も3年生になればあんな風になれるのかな、なんて少し思ってみたりしたけれど、現実にあと半年足らずで3年生になる時点まで来たら、もうそれは絶対無理だと思い知らされつつある。
それはきっと生まれながらの素養とか、性質とかによるものなのだ。
それでも、こんな自分でも、来年になったら「紅薔薇さま」として全校生徒を導かないといけない立場になってしまう。
いや、一応選挙はあるのだけれど、事実上信任投票のようなものだし、次期薔薇候補のつぼみがよほどのへまでもしない限り、不信任を食らうこともない。

(まあ、自分の場合はしないとも言い切れないけど)

それに対立候補が出てこなければ、票の多少に関わらず、結局はつぼみがそのままスライドというのが慣例だ。
ぶっちゃけた話をしてしまうと、生徒会幹部のような負担の大きいポジションを敢えて引き受けたいという生徒もあまりいないし、生徒会特有の煩雑な作業を受験を控えた3年生になってから初めてやるというのもかなり大変だから、つぼみ以外から候補が立つことは稀。
実際、去年の選挙に蟹名静さまが立候補なさったのは異例の事態だったし。
“薔薇のつぼみ”というシステムは、なり手が少なく、かつ慣れるのに時間や労力を要する生徒会の幹部候補を早めに確保・養成するためのものでもあるのだ。
あとの例外はつぼみ自身がその役を辞退することだけど、お姉さまが自分を信頼してくれている以上、自分にはそんな選択肢はないし。
そうなるともう、来年にはほぼ自動的に「次期紅薔薇さま・福沢祐巳」のできあがり。
由乃さんのような行動力も、志摩子さんのようなカリスマ性もなく、いつもただおろおろと人の助けを求めて右往左往するだけの自分に、そんな大役が果たして務まるのだろうか。

いつか、瞳子ちゃんにお姉さまの妹の座を奪われる、なんて脅かされて、真に受けて不安になったりしたこともあった。
お姉さまに、自分より瞳子ちゃんを選ぶのかと詰め寄ってしまったこともあった。
今は妹の座を取られるとはさすがに思っていないけれど、それでも時折思うことはある。
自分が瞳子ちゃんのようだったらよかった、と。
落ち着いていて、賢くて、自信に満ちた、瞳子ちゃんのような女の子であれば。
そうしたら、お姉さまももっと安心して後を任せることができるだろうし、由乃さんや志摩子さんにとってもきっと頼れる仲間だっただろう。
演劇部仕込みの堂々たる立ち居振舞いは、まさに薔薇さまにこそふさわしい、と人々から惜しみない賞賛を捧げられるに違いない。
それに比べて自分は。

(誰がなってくれるとしても、わたしの妹になる子は、きっと苦労するんだろうなあ…)

自分の考えにはまり込んでしまった祐巳の沈黙をどう解釈したのか、瞳子ちゃんは呆れた風で尋ねてくる。

「それで、何がお聞きになりたいんですの。また、祥子お姉さまのことですか」
「あっ、ううん、聞きたいのは、瞳子ちゃんのことなの」

その言葉に、瞳子ちゃんはちょっと大げさなんじゃないかと思うくらい、派手にぎょっとした顔になった。

「わたし?」
「うん。ほら、わたしたち、知り合ってからもう半年以上経つじゃない?だけど、思い返してみると、わたしは瞳子ちゃんのことを全然知らないって気がついたんだよね。だから、改めて瞳子ちゃんのことをもっとたくさん知りたいな、と思って。学園祭もすんで落ち着いたし、そういうことゆっくりお話してみたくなったの」

瞳子ちゃんはいつにも増して不機嫌な顔になっていく。
でも、今はあえてそれに気づかない振りで、強引に話を続ける。

「覚えてる?初めて会ったの、この部屋だったよね。…あの時、お姉さまと親しげな瞳子ちゃんを見て、いきなり出てきて馴れ馴れしい、とか思ってたんだ、わたしってば」

瞳子ちゃんはうつむき加減で黙っている。

「おかしいよね。瞳子ちゃんから見たら、わたしの方が高等部でいきなり現れて、お姉さまの妹に割り込んできたのに」

そう、思えば真面目に考えてみたこともない。
瞳子ちゃんから見た福沢祐巳とは、どんな人間なのか。

「瞳子ちゃん、わたしのこと怒ったよね。お姉さまにふさわしくないって。その時はなんでそこまで言われなきゃいけないんだろうって思ったけど、後から考えると怒られて当然だった。妹なら、お姉さまのこと誰よりも信じてないと…」
「違います、それは、そういう意味じゃ…」

それまで黙っていた瞳子ちゃんに、突然話を遮られた。

「…あの時は、わたしも誤解されるような行動をしていたし…祐巳さまだけが悪いんじゃありませんから…」
「…ありがとう。気を遣ってくれるんだね」
「だから、それは違うんですって…いいですわ、もう」

ぷいと横を向く。

「…わたし、いつも瞳子ちゃんに気を遣ってもらってばかり。わたしって鈍いから、いつも後にならないと気づいてあげられなくて」
「自惚れが強すぎるんじゃありませんか。わたしは別に祐巳さまに気を遣ってさしあげているわけじゃありませんことよ。ただ、紅薔薇のつぼみがあまりみっともないと、姉である紅薔薇さまがご迷惑なさいますし、山百合会の威厳にも傷がつきますから、それを心配しているだけです」

そう言ってわざとらしく鼻で笑ってみせる。
まったく、素直じゃないな、この子は。

「じゃあ、夏休みに小笠原の別荘で注意してくれたのも、わたしのせいでお姉さまに迷惑がかかるといけないから?」
「もちろん、そうですとも」

瞳子ちゃんはすげなく言い捨てると、残りのお茶を口に運ぶ。

「そう言えば瞳子ちゃん、夏休みってカナダに家族旅行に行く予定だったんだよね」
「…ええ、まあ」
「どうしてやめちゃったの?」
「まあ、…いろいろと都合がありまして」

一転してなんだか歯切れの悪い答えで、そういうのは瞳子ちゃんには珍しい。

「ふうん。わたしは瞳子ちゃんはお姉さまに会いたくなって予定を変えたのかなと思ったんだけど」

瞳子ちゃんは複雑な顔をしたまま、答えない。

「別荘にはお祖父さまがごいっしょだったんでしょ?わたしもお会いしてみたかったなあ、瞳子ちゃんのお祖父さまと。お姉さまは、瞳子ちゃんちの別荘に行かれた時のことは、わたしには何も話してくださらなかったし」
「どうでもいいじゃありませんか、そんなこと。コシヒカリ姫の噂話で盛り上がっただけですわ」
「瞳子ちゃん、あの時、その場にいない人の噂話をするのは嫌いだとかなんとか言ってなかったっけ」

瞳子ちゃん、変なものを飲み込んだような顔で、ぐっと詰まる。

「…忘れましたわ、そんなこと」
「そうそう、瞳子ちゃんのバイオリン、とっても素敵だった。いつから習ってるの?学校では…」
「もう、いいかげんにしてくださいっ!」

突如、瞳子ちゃんが爆発した。

(うわ、しまった)

不機嫌が今やはっきりと苛立ちに変わって、瞳の光が完全に攻撃色になっている。

「そんなことどうだっていいじゃありませんか。どうしていちいち詮索するんですか。わたしのことなんか知ってどうするって言うんですか」
「どうしてって、だって」

ええい、もどかしい。

「だって、知りたいんだもの。瞳子ちゃんのこと。こんなに近くにいるんだから、もっと知りたいんだもの」
「他人のことをそんな風に掘り返そうとするの、趣味が悪いと思いますっ」

舞台で鍛えた見事な発声に圧倒されそうになる。
でも、今、聞き捨てならない台詞を聞いてしまったから、退くわけにはいかなくなった。

「他人!?わたしは、瞳子ちゃんにとって、他人なの!?」

瞳子ちゃんにつられて、つい自分も大声になってしまう。

「わたしにとっては瞳子ちゃんは他人じゃないよ。そりゃあわたしは尊敬してもらえるような先輩じゃないけれど、でも瞳子ちゃんのことは大切な友達だと思ってる。友達のことを知りたいって思うのはそんなにいけないことなの?」

そんな風に逆襲されると思っていなかっただろう瞳子ちゃんは、面食らって二の句を継ぐのを忘れている。

「瞳子ちゃんにとってわたしは、そのへんの道ですれ違う知らない人と同じような、“他人”なの?だったらはっきりそう言って。そしたらもうこれ以上聞くのはやめる。でも、そう言われたら、わたし、ものすごく悲しいし、苦しいし、悔しいよ」

つかみかからんばかりの勢いでまくし立てる。
もうほとんど逆切れ。

「わ、わかりました、わかりましたからっ。ちょっと落ち着いて」

普段は勢いで人に負けることなんかない瞳子ちゃんが、意表を突かれて押されていた。
どうどう、といった雰囲気で必死で祐巳をなだめて、なんとかおさまった。

「…もう、祐巳さまってどうしてこう簡単に暴走なさるんですか。子供みたいです」

困り果てた顔で力なく抗議する瞳子ちゃん。
落ち着いてしまうと、自分でも必要以上にヒートアップしすぎたと感じて、恥ずかしくなってきた。

「…ごめん…わたし、どうかしてるね。やっぱりよそう、この話は」

でも、自己嫌悪で落ち込む祐巳を、真剣な眼差しでしばらく見つめていた瞳子ちゃんは、諦めたような、決心したような、何とも表現しがたい顔で言った。

「いいですわ、もう。今やめても、どうせいずれまた同じように聞かれるんでしょうから、それなら今ここですべて明らかにしてしまいましょう。さ、なんでも聞いてくださいませ」

どうぞ、と祐巳の方に向き直って背筋を伸ばす。

「え、え?あ、えっと…」

改めてそんな風にされると、かえってやりづらい気がするけど、せっかくその気になってくれたんだから、気が変わらない内に。

「…じゃあ、その、どうして旅行をやめて別荘に来たのか、聞いていい?」

質問の意味を噛みしめるように大きく一息ついた後で、瞳子ちゃんは話し始めた。

「避暑地に祥子お姉さまを追いかけていったというのは、間違いではないです。少なくとも、両親にはそう言って行きました」

ああ、やっぱりそうなんだ。

「祥子お姉さまが祐巳さまを別荘にお連れになったって話を聞いて、ちょうどいい口実になると思ったので」
「口実?」
「ええ。わたしが祥子お姉さまに昔から懐いていたのを両親も知ってますから、祥子お姉さまが他の子といっしょだなんて我慢できない、って言えば、旅行をキャンセルさせてもらえると思ったんです」
「…よくわかんないな。それはつまり、ご両親と旅行に行きたくなかったってこと?」
「まあ、そういうことになりますわね」

瞳子ちゃんは、少し姿勢を崩すと、はふ、と軽くため息をついた。

「もともと、旅行は気乗りがしませんでしたの。両親とは、あまりいっしょにいたくないんです。つらくなるから」

それって。
この歳になると、親といっしょというのはなんだか気恥ずかしくて、っていうのならわからなくもないけど、つらくなってしまうっていうのはどんなんだろう。
瞳子ちゃんのおうちの雰囲気って良くないのだろうか。
可南子ちゃんのところのように、夫婦仲が悪いのだろうか。
ああ、でもそんなところまでわたしがほじくるのもなんだしなあ。

「…別に、夫婦仲に問題はありませんよ。割といい方だと思いますけど」

うっ。
…また、考えていることが顔に出てしまっていたらしい。

「あ、はは…でも、それじゃあなんで、いっしょだとつらいの?すごく厳しいとか?」
「別に。世間の基準から言えば、むしろ甘すぎるくらいじゃないかしら」

はあ。
それでどうしていっしょだとつらいのだろう。

「…ただ、わたし、継子ですからね。どうしても気疲れしちゃって」

ああ、そうか、ままこなんだ。
じゃあしょうがないね。



(え゛っ)



い、今、なんかすごい単語が出たぞ。
ままこ、って、継いだ子、って書くあれか?
ええと、それは、つまり、でも、ということは、瞳子ちゃんて、えっ、えっ、えっ。

予想外の展開に固まってしまった祐巳を置き去りにして、瞳子ちゃんは頬づえをつきながら、気だるげに喋り続けた。

「今の両親はとても良くしてくれるし、そのことに感謝はしているんですけれどね。でも、そうやってわたしを可愛がる動機は、“実の親に見捨てられたかわいそうな子”に対する憐れみだけなんじゃないかって思うと、素直に喜んでばかりもいられなくて」

(見捨てられた、って)

「わたしの本当の母親は、女ひとりでわたしを産んで、苦労した挙句、それに耐え切れなくなって、ひとりでいってしまいました。たぶん、弱い人だったんだと思います。…わたし自身は死にたくなんかないし、心中なんてごめんですけど、その時はやっぱり思いましたわ。自分は捨てられたんだ、って」

まるで、食べたかったパンが購買部で売り切れだったから残念だわ、みたいな、どうでもいい世間話のような調子で、恐ろしい話をどんどん続ける瞳子ちゃん。
冷たい汗が服の下を這い回る。
当たり障りのなさそうなところから近づいていこうと思ってたのに、いきなり核心を掘り当ててしまった。
しかも出てきたのは極めつけの爆弾。
聞くんじゃなかった。
お姉さまや柏木さんの警告に素直に従っておけばよかった。
だけど、もう引き返せない。
聞きたいって駄々をこねたのは自分なんだから、今さら逃げるなんて許されない。

「どこの誰とも知れぬ男の子供を産んだ母は実家からは勘当も同然で、わたしの引き取り手もなくて、気にかけてくださったのは遠縁の大叔父さまだけでした。その大叔父さまには子宝に恵まれないご子息がいらして、結局それが縁でわたしは松平の娘になったんですけど…その大叔父さま、今のお祖父さまのところに入院中に初めて今の両親と引き合わされた日、なんて言うか…憐れんでる、っていう態度がすごく見えてしまって。今でも、あのふたりのわたしに対する姿勢の根本的なところは、あの日からあんまり変わっていないのを感じるんです」

なぜ入院していたのか、なんて尋ねられる勇気はもはやなかった。
どうしてこう、自分の近くにいる人たちの人生はことごとく波乱に満ちているのだろう。
生涯最大の波乱が「紅薔薇のつぼみの妹に選ばれたこと」なんていう、呑気で平和な人生しか送ってこなかった自分がなんだか申しわけなくなってしまう。
こんな話を聞かされて、自分ごときがどんな顔をして何を言えばいいというのか。
気持ちがみるみる暗く沈んでいく。

「そんな顔をなさるの、やめてくれませんか、祐巳さま」

でも、勝手に落ち込んだ祐巳の顔色に気づいた瞳子ちゃんは。

「わたしは、自分のことを不運だったとは思っても、不幸だとは思ってませんから」

きっぱりと言い切った。

「確かに生みの親とは良くない結果になりましたけど、子供が親を選んで生まれてこられるわけじゃない以上、それはどうにもならないことだし、過ぎてしまったことだから、いつまでも嘆いていたって仕方のないことです」

…すごい、瞳子ちゃん。
強い。
わたしがそんな境遇だったら、きっと一生引きずって、めそめそしながら過ごしてしまうに違いない。

「それに、松平の娘であるということは普通よりも相当に幸福なことだと思ってますし」

…まあ、確かに福沢家のような庶民よりは裕福ではあるだろうけど。

「だから、憐んでもらったり同情されたりする必要はないし、“かわいそう”っていう枠に勝手に押し込まれるのは大っ嫌いなんです」

心底いやそうな顔で吐き捨てる。

「わたしが何をやっても、どんな人間でも、“あの子はかわいそうな子だから”で終わりにされてしまう。そんなのはいやなんです。わたしは、今ここにいる、ありのままのわたしを、わたしそのものを見て、わたしという人間を判断してほしいのに」

強いだけじゃない、瞳子ちゃんは、誇り高いのだ。
でも、その気持ちは自分にも少しわかるような気はする。
自分は大丈夫だと、自分の足で立てると思ってがんばっているのに、必要以上に気を遣われたり、求めもしないのに助けを出そうとされても、あまり嬉しくはない。
なんだか、侮られているような、信用されていないような、そんな気分になるだろう。
ただ、それでも祐巳だったら、それも好意から出たことならばと甘んじて受け入れたり、調子よくすがったりしてしまいそうだけど。
でも、敏感で繊細な瞳子ちゃんにはそれはきっと我慢できないのだ。

「だから、両親といるより、お祖父さまといっしょにいた方が気が楽なんです。お祖父さまはわたしのことを憐れんだりしない。腫れ物か何かみたいに扱ったりしないもの」

(“おじいちゃん子”って、そういうことか)

きっと瞳子ちゃんのお祖父さまは本当の意味で優しい人なんだ。
ただ無闇に気を遣うことだけが相手にとって良いことだとは限らないのを知っているんだろう。
お医者さまだから、なのかもしれない。

「それに、憐れみや同情は、時にはその裏に蔑みや嘲りが隠れていたりしますから」

祐巳から視線を外し、夕日に染まる窓の外を見つめながらそう語った瞳子ちゃんの目には、炎の色が宿っている。

「松平の娘として連れてこられたわたしを、上流社会の人々は表面では同情したように振る舞いながら、散々わたしをつつき回しては嘲笑ってくださいましたわ」

上流、という部分を皮肉たっぷりに強調する。

「ああいう人たちが面白半分にどんなひどいことをするか、祐巳さまはご存知でしょう?」

そう言って浮かべた笑みは、ぞっとするほどの冷たさだった。
確かに祐巳にも覚えがある。
小笠原祥子さまと姉妹になった、と言っても所詮は高校の先輩後輩の関係でしかないのに、それを理由に悪意に満ちた噂の的にされ、しまいには陥れられて恥をかかされるところだった。
まあ、恥をかくのが自分だけなら毎度のことだからさほど気にしないけれど、お姉さままで巻き込もうというのは今でも腹立たしいし、そういう企てをして恥じない人々の心根というものは一体どうなっているのだろうと空恐ろしくもなる。

「小笠原ほどでないにせよ、松平もそれなりにいい家ですからね。やっかみも半分で、散々いじめられたものです。それも、松平の両親にはそうとは気取られないような巧妙なやり方で。あの頃のわたしは本当に子供だったから、言い返すことも出来ずに悔しい思いをするだけだった」

夏休みのひと時に紛れ込んだだけの祐巳ですらあんな目に遭わされるのなら、その中で生活していかなければならない場合は、果たしてどんなことになってしまうのだろう。
想像したくもなかった。
祐巳はもう16歳で一応それなりには大人だから、ある程度そういうものを受け流したり耐えたりすることもできたけれど(支えてくれるお姉さまもそばにいたし)、ずっと幼いうちにそんな中に放り込まれたら、どれほど心に傷を負うことだろうか。

「それでもそのうちに優お兄さまや祥子お姉さまがわたしの傍についていてくださるようになって、表立ってわたしをいじめようとする人はいなくなりましたけど、そうなったら今度は裏で陰口を言われるんです。お金や力を持っている相手を選んで取り入るのが上手な卑しい子だ、とかなんとか」

なんて勝手な言いぐさだろうか。
自分のことでもないのに、むかっ腹が立ってきた。

「それで、わたし思ったんです。守ってもらっているだけの自分ではだめだって。弱いままでは傷つけられるだけだって。自分が強くならないと、自分を守れないって」

幼い日の決意を語る瞳子ちゃんの目は、もう今目の前にあるものを見てはいなかった。

「でも、どうすれば強くなれるのかわからない。だから、優お兄さまの真似をしてみたの。外向きの仮の自分を作って、本当の自分を見えないようにして、そうして微笑みながら他人を冷静に観察して、必要な時には鋭い言葉をためらわずに揮うことのできる、そういう強い人間の振りをしてみたんです。そうしたら」

ふふ、と乾いた笑いを漏らす。

「それまでわたしを侮っていた人たちが、恐れをなして逃げていくんです。痛快でしたわ。だんだんそれが楽しくなってきて、強い自分を演じることに夢中になりました。そうして自分が優位に立てるとわかったら、もう陰口を叩かれても気にならなくなりましたの」

小笠原の別荘を瞳子ちゃんが訪れた時のことを思い出す。
瞳子ちゃんは西園寺、京極、綾小路のお嬢さま方といっしょだったけれど、思い返せば瞳子ちゃんと他の3人との間には明らかな温度差があった。
瞳子ちゃんに噂話を強引に打ち切られたお嬢さま方の表情。
悪口を言われることになど慣れていると言わんばかりだった瞳子ちゃんの態度。
あの時は気づかなかった違和感が、はっきりと形になって祐巳の脳裡に現れてくる。

「そうしている内に、相手に合わせて都合のいい自分を演じることができるようになって、いろいろと楽になりましたわ。同情なんかされないですむような振る舞い方も覚えました。どう接していいかわからなくてなかなか馴染めずにいた両親とも、上手に合わせていけるようになりました」

楽になった。
そんなものなのだろうか。

「ただ、両親は他人と違っていっしょに暮らす家族ですから、面倒くさければ会わないようにするというわけにもいきませんので…いつでも“いい娘”でいるために気を張っていなければいけないのは、くたびれてしまうんです。それでも、自宅にいれば自分の部屋もありますし、優お兄さまのお宅に逃げることもできますけど、旅行となると、1日中観光地やホテルのスイートで“親子水入らず”、ということになってしまうでしょう?ちょっと、たまらないなと思って」

親子水入らずがたまらないって、それはちょっと、どうなんだろう。

「だから、旅行はできれば行かずに済ませたかったんです。祐巳さまのおかげでうまく逃げることができて、助かりましたわ」

さも、清々した、という口調で語り終えると、瞳子ちゃんは再び祐巳の方に視線を向けて。

「これで、ご希望に沿えましたでしょうか」
「………」

確かに、祐巳の希望はかなえられた。
今まで知らなかった瞳子ちゃんの一面を知ることはできた。
でも、それでよかったのだろうか。
やっぱり自分は知るべきではなかったではないのだろうか。

「祐巳さまも、やっぱり、わたしを“かわいそうな子”だと憐れみますか」
「それは」

瞳子ちゃんはまっすぐに祐巳を見つめている。
責めるでも、甘えるでもない、真摯な顔をして。
どう答えればいいのだろう。
同情や憐憫を嫌う瞳子ちゃんの気持ちを尊重するなら、そんなことは関係ない、瞳子ちゃんは瞳子ちゃんだ、と言ってあげるべきなのかもしれない。
でも。

「……そういう話を聞いちゃうと、何にも感じないってわけにはいかないよ。やっぱり、そんなの気の毒だって思ってしまう。瞳子ちゃんがそういうの嫌いだってわかってても。…ごめんなさい」

でも、その言葉を聞いた瞳子ちゃんは意外にも安心したような表情で。

「…祐巳さまはそうおっしゃると思ってました」
「怒らないの?」
「祐巳さまはこういう時、嘘がつけない人だから。他人にもご自分にも。だから」
「ごめん…」
「いいの。祐巳さまに、何とも思ってないって振りをされる方が、きっと腹が立ちます。嘘なのが見え見えすぎて」

瞳子ちゃんはそう言って笑う。
それだけの経験を重ねて、それでもなおそうやって笑って見せることができるなんて、なんて強いのだろう。
祐巳の気持ちは同情を通り越して、感動に近くなっていた。

でも。

なにか、ひっかかる。

瞳子ちゃんが自分の境遇に負けずに、強い気持ちで立ち向かって、乗り越えてきたのはわかるけれど、どこか釈然としない。
ただ単にかわいそうだとか、そんな言葉で片付けてはよくないことがあるような気がする。

なんだろう。

漠然とした思いに突き動かされて、祐巳は疑問を口にした。

「…もうひとつ、聞いてもいいかな」
「なんでしょう」
「瞳子ちゃんは、…今のご両親のことが、嫌いなの?」

その問いに、瞳子ちゃんの笑みが凍りついた。

「瞳子ちゃんは、同情だけしてありのままの自分を見てくれない人たちや、自分を貶めようとする人たちに負けないために、強い自分を演じたんだよね。でも、ご両親はどうなの?ご両親も、他の人たちと同じように、瞳子ちゃんにとって疎ましい、いやな存在なの」

再び、瞳子ちゃんは不機嫌な表情に変わっていく。

「……………そんなわけ…ないじゃないですか」

そう、そんなわけはない。
両親が嫌いなんだったら、旅行を避けるのに言い訳をする必然はない。
もっともらしい口実を用意しなければならないのは、相手を傷つけたくないからだ。

「じゃあ、…どうして、同情だけじゃ不満だと思うのなら、どうしてその気持ちを正直にぶつけないの。どうしてご両親の前でまで、自分を演じていないといけないの。どうして、そうしないと楽になれないの」
「それは」

瞳子ちゃんはうつむいて唇を噛んだ。

「だって」

続く言葉はなかなか紡がれない。
それでも祐巳は無言で瞳子ちゃんを見つめながら、答えを待った。

「だって…………わたしは、何も演じないそのままのわたしは、…………」

食いしばった歯の間から、やっと聞こえるくらいの小さな声。

「………母親に置いていかれてしまうような子供だから………!」

(…ああ)

なんてことだ。
瞳子ちゃんは自分のことを不幸だとは思わないと言った、その言葉は嘘ではないだろう。
でも、その経験はやはり深い傷を瞳子ちゃんに残してしまったのだ。
そして、その傷を残した相手は、憎むにせよ赦すにせよ、もうこの世にいない。
瞳子ちゃんは、たったひとりで、その傷の痛みに耐えなくてはならない。
「ありのままの自分」は母親に置いていかれてしまうような子供だから。
新しい両親にとって望まれるような娘でないと、また置いていかれてしまうかもしれないから。
だから、自分の思いは隠したまま、「理想の子供」を演じ続けて。

(そんなのって…)

瞳子ちゃんだって頭ではわかっているはずなのだ。
今のご両親が瞳子ちゃんを見放したり捨てたりするはずがないことは。
瞳子ちゃんの全身から香りたつような「育ちのよさ」は、愛情のない親の下では決して育まれない類のものだ。
ご両親が惜しみない愛情を瞳子ちゃんに注いでいるだろうことは、端から見ているだけでも疑いようがない。
でも、わかっているからと言って納得したかと言えばそうではなくて、理性と感情は別なのであって。
たとえば飛んできたボールに当たって怪我をしてしまったら、その後で避けずに受け止めようと思っていても体が勝手に逃げてしまうように、心が深く傷ついたら、わかっていても心が避けてしまうのだ。
二度と傷つかないために。

「…………どうしてですか」
「は?」

投げかけられた言葉の意味がわからなくて、つい間抜けな応答をしてしまう。

「どうしてですか。どうしていつもそんな風に、わたしの気づきたくないことや考えたくないことを簡単に見つけてしまうんですか」
「あ、いや、その」

そんなこと言われたって。

「…だから祐巳さまはいやなんです。祐巳さまといるとこんな気持ちになってばかり。きれいごとばかり言って、おひとよしで、能天気で、人の言うことをすぐ真に受けて。いらいらするんです。腹が立つんです」

いちいち本当のことではあるけれど、それで腹を立てられても。
それが福沢祐巳という人間なんだから、しょうがない。

「ほんとうにいやになる。……………ほんとうは、…わたしが祐巳さまみたいな女の子になりたかったのに」

(えっ)

今日は驚いてばかりだけど、今の言葉には本気で耳を疑った。

「正直で、素直で、人の言葉をまっすぐに受け止めて、自分自身をまっすぐに返していける。大らかで、開放的で、いつでもありのままでいられる。わたしがなりたかったのは、そういう人間だったのに」

何を言ってるんだ。
誉め殺しでもしようっていうのか、と一瞬身構えたけれど、床を見つめて喋り続ける瞳子ちゃんの顔は真剣だった。

「あなたのそばにいると、どうしようもなく惨めな気持ちになるんです。外面を気にしてばかりいる自分が、ものすごくちっぽけで、くだらない、愚かな人間に思えて、自分がいやでいやでどうしようもなくなるんです」
「そんな…それは、わたしの」

口を挟もうとした祐巳に向かって、瞳子ちゃんはきっと顔を上げた。

「覚えてらっしゃいますか、西園寺の曾お祖母さまのお誕生パーティ。あなたはあれだけの悪意に取り囲まれていながら、易々とそれに打ち勝ってしまった」

いや、易々とでは全然なかったと思うけど。
どっちかと言うといっぱいいっぱいだったような。

「わたしが仮面を被らなければ乗り越えられなかったものを、あなたはただ、あなたであるということを示しただけで、簡単に飛び越えてしまった。わたしがあれほど苦しんだことは、あなたにとっては何の問題でもなかった」
「違う、それは違うよ、瞳子ちゃん。あの時わたしが乗り切れたのはお姉さまがついていてくれたからで、わたしがひとりでどうにかできたわけじゃないよ」

でも、瞳子ちゃんにはもう祐巳の言葉など届いていない。

「わたしが、あなたのようだったらいいのに。わたしが、あなたになれたらいいのに。そうしたら、ほんとうに両親が望む通りの娘にもなれたのに」

スカートの端を握り締めて。

「親が望んでいる通りの人間の振りをして、勧められるままにバイオリンなんか習って。そうすれば両親は喜んでくれるけれど、わたしはちっとも嬉しくない。だって、そのわたしは、仮面なんだもの。嘘なんだもの。偽りなんだもの。両親がわたしを慈しんでくれるほど、わたしのあの人たちへの裏切りが重なっていくだけなんだもの」

瞳子ちゃんの中では、愛されたい気持ちと、自分を偽っている後ろめたさとは、交わることのないまませめぎ合い続けているのだろうか。
愛されるために努力して、でも努力すればするほど良心の呵責に苛まれて。
なんて理不尽な。

「そんなの、おかしいよ。ご両親のことが好きなんでしょう。好きだから、気に入ってもらいたいんでしょう。そのために頑張るのが、それのどこが偽りだって言うの。子供が親の愛情を受けたいと思うことの何が裏切りになるって言うの」
「祐巳さまにはわたしの気持ちなんかわかりません。あなたは、そこにいる、それだけで福沢祐巳でいられる。わたしは違うんです。わたしはいつだって、松平瞳子を演じ続けなくちゃ、わたしでいられないんです」

言ってることが支離滅裂だ。
いつも理性的な瞳子ちゃんのこんな姿、誰が想像しただろうか。

「だから祐巳さまはいや。わたしにできないことを、まるで呼吸でもするみたいに、当たり前のような顔でして見せて。わたしはそんなあなたを見ながら、あなたを羨んで、あなたに憧れて、あなたのようでない自分を恥じて、あなたに猛烈に嫉妬して…そして、そんな醜い自分がますます嫌いになるんです」

嫉妬。
わたしに、瞳子ちゃんが。
何の冗談だ。

「…もういいよ、瞳子ちゃん、やめようよ」

もう聞きたくない。
こんな瞳子ちゃんは見ていられない。

「本当はこんな自分になりたかったんじゃないのに。こんな自分は大嫌いなのに」
「やめてよ瞳子ちゃん、もう、やめてってば」

でも、瞳子ちゃんは祐巳の制止も聞かず、暗い歪んだ笑みすら浮かべながら。

「…なんのことはない、昔言われた通り。わたしは人の顔色をうかがいながら、人を妬むような性根の卑しい娘になってしま…」
「瞳子っ!!」

両肩を強くつかんで、無理矢理遮った。
祐巳の剣幕に、瞳子ちゃんは驚いて口を閉ざす。

「…それ以上言うのは許さないわ。瞳子のことをそんな風に蔑むことは、たとえあなた自身であっても、わたしが許さない」

年上ぶって嵩にかかった物言いをするのは自分には似合わないけど、このまま放っておいたらこの子は暗いところにどんどん沈んでいってしまう。

「…祐巳…さま…」

瞳子ちゃんは、まるで祐巳がここにいることに初めて気づいたような顔をしていた。

「どうしたっていうの。あなたはいつだって自分にプライドと自信を持っていたはずじゃないの。あなたを貶めようとする悪意をはね返したかったんじゃないの?それなのに、あなた自身が自分を貶めて、どうするの」
「でも、…」

えい、まだ言うか。
思い切って瞳子ちゃんを引き寄せて、胸に抱きしめる。
瞳子ちゃんは驚いて抗おうとするけれど、離さない。

「ゆ、祐巳さま…」

逃げようとする瞳子ちゃんと逃がすまいとする祐巳の間で、わずかな時間無言の戦いがどたばたと繰り広げられ、そしてついに瞳子ちゃんが先に諦めて、祐巳の腕の中でおとなしくなった。

「祐巳さま、あの…っ」
「うるさいわ、黙りなさい」

耳元で小さく一喝して黙らせると、そのまましばらくは何も言わずに、ただしっかりと抱きしめてやる。
腕の中で、瞳子ちゃんの緊張が少しずつ解けていく。

「…ごめんね」

自分はきっと、瞳子ちゃんが自分でも触れたくなかった傷跡をべたべたとつつき回して、せっかくできたかさぶたを剥がすような真似をしてしまったんだ。
それも、好意を言い訳にして。
なんてひどいやつだろうか。

「祐巳さまのせいじゃありません。わたしが臆病なだけ」

それでも、瞳子ちゃんはそれを責めようとはしなかった。

「ありのままの自分を見て欲しいなんて言ってるくせに、その実わたしはいつだって自分が立てた壁の陰に隠れているんです。人の心を恐れて。嘘つきもいいところ」

拗ねたような声でつぶやく瞳子ちゃんが今どんな表情をしているのか、その顔は祐巳の肩に埋められているのでわからない。

「…祐巳さまのようになりたい。自分の弱さを認めて、恐れずに人の前にさらけ出せる、そうしても挫けないでいられる、本当に強い人になりたい」

実際のところは、賢くもなければ意思が強くもないから、手の内を晒してひとさまにすがる他にどうしようもないってだけなのだけれど。
挫けないと言うよりかは、挫けすぎて鈍くなってしまっただけのような気もするし。
自分にしてみれば、そんなの「なりたい」なんて言われるようないいことだなんて、ちっとも思えない。
むしろ、嘘でもいいから“あるべき自分”“望まれる自分”に近づくための努力をもっとしなければいけないんじゃないだろうか。

「でも、わたしは祐巳さまにはなれない。わたしはもうこういう自分になってしまったから。今から松平瞳子をやめて、別の誰かになることなんてできない」

それは自分だって同じ。
どんくさい福沢祐巳なんかやめてしまって、もっと素敵な別の人間にもしなれたなら、どんなにかいいだろうと何度思ったことか。
でも、自分に与えられたのはこの自分だけなのだから、情けなくてもこれでどうにかするしかない。
山百合会の中で超人のような人々に囲まれて、そんな気分に苛まれているのは自分だけだと思っていた。
それなのに、自分にないもの、自分が欲しいものをことごとく持ち合わせているような瞳子ちゃんが、自分にとっては欠点のようにしか思えない部分を求めて思い悩んでいるなんて、夢にも考えたことがない。
瞳子ちゃんのような女の子でも、隣の芝が青く見えてしまうものなんだろうか。
祐巳からは長所や美点にしか思えないことが、瞳子ちゃん本人にとっては疎ましくて捨ててしまいたいようなものだったりするのだろうか。

欲しいものは手に入る見込みがないのに、いらないと思うものは人から羨しがられる。

(うまくいかないもんだなあ)

「…何がおかしいんですか」

思わずもらした苦笑いを、瞳子ちゃんは聞き逃さない。
ほんと、敏感だよね。

「…だって、ねえ。そばにいると惨めな気分になるとか、嫉妬して自分がいやになるとか、それってまるっきりわたしが考えていることと同じなんだもの」
「え…」
「え、じゃないよ。瞳子ちゃんに嫉妬したわたしが、お姉さまの気持ちすら信じられなくなって、どれほど無様で醜かったか、そばで全部見ていたくせに。忘れたなんて言わせないよ」

脳裏に蘇る恥ずかしさと情けなさをごまかしたくなって、腕の中の瞳子ちゃんをきゅっと抱きしめる。

「おかしいね。わたしたちお互いに、鏡に映った自分とあべこべの姿を見て、あっちの方がいいのにって気後れしたり羨んだりしているんだわ。自分が決してそうはなれないとわかっているのに」

苛立ちを感じたり、時には反発したりしながら、それでも互いを気にしないではいられないし、無視することも嫌うこともできなくて、遠く離れてしまうこともできない。

「でも、本物の鏡の向こうには手が届かないけれど、わたしたちはこうしてお互いに触れることができる。いっしょにいることができる」

祥子さまとのように、隣り合ったパズルのピースみたいにぴったり寄り添うことはたぶんできないけれど。

「だったら、それでいいことにしない?」
「はあ?」

突然飛躍した祐巳の論理に、瞳子ちゃんが呆れた顔で祐巳を見上げる。

「ふたりでいっしょにいれば、わたしの、なんだ、能天気でへこたれないところは瞳子ちゃんのものだし、瞳子ちゃんの強くて賢いところはわたしのものになる。そう思わない?」
「…意味がわかりません」
「だからさ。瞳子ちゃんが素の自分のままで人に接するのが不安なら、わたしが壁の代わりになる。そして瞳子ちゃんはわたしを相手にもっと自分を出す練習をする。そのかわり、わたしは瞳子ちゃんに、自分の立場にふさわしい振舞いをするやり方を教えてもらって、わたしがばかなことをしそうになったら手綱を引いてもらう。どう?」
「なんですか、それ」
「だめかな。いい考えだと思ったんだけど」
「……ばかみたい」

お馴染みの罵倒を口にしながら、でも、顔を隠すように祐巳の胸に顔をうずめた瞳子ちゃんの腕が、おずおずとぎこちない動きで祐巳の背中に回ってくる。

「ばかみたい…」

その様子はふたり椅子に座ったまま、抱き合うというよりはお互いにしがみついているような格好で、横で見ている人がいたならきっと不細工に感じたことだろう。
でも、それがありのままの自分たちなら、たぶんそれでいいのだ。

「瞳子ちゃんは、温室にあるロサ・キネンシスの木を見たことはある?」
「…はい?」

また急に飛んだ話題に、瞳子ちゃんが戸惑いの声をあげる。

「わたしが瞳子ちゃんに嫉妬したのはね、ただ瞳子ちゃんがお姉さまと親しいからって、それだけじゃないんだ」

細いけれど、力強くしっかりと地面に根を張って、可憐だけれど華やかな紅の薔薇。

「あの花のつぼみになぞらえるのに、わたしなんかよりもずっとふさわしい女の子が現れたって、そう思っちゃったから」

ああ、こんな言葉じゃなくて、この気持ちを伝えるもっと確かな方法がないだろうか。
自分はそれを知っている気がする。

「今度、見に行こう。いっしょに。そして…」

そんな祐巳の予感が伝わったのかどうか、瞳子ちゃんは祐巳の胸でため息を大きくついて。

「………ほんと、祐巳さまって………」










くすくす。

(ん?)

くすくすくす。

誰かが笑っている。
驚いて周りを見回してみたけど、誰もいない。
ドアも窓も閉まったままだ。

くすくすくすくす。

こらえきれない、という感じの笑い声がだんだん大きくなる。
それが、自分の胸元から聞こえてくることに気がついた。
笑い声の主は。

「…と、瞳子ちゃん?」
「……ふ、ふふっ、ふふふふ」

瞳子ちゃんが、祐巳に抱きついたまま、笑っている。

「ご、ごめんなさい、でも、でも…」

とうとう、こらえていたのが堰を切って、瞳子ちゃんが笑いを破裂させた。

「あ、あはは、ははっ、あはははは」

もう大爆笑といった感じで、すっごい楽しそうに。
何が起こっているのかわからなくて、祐巳はしばらくの間きょとんとした顔で置き去りにされてしまう。
祐巳にしがみついたまま、おなかを押さえて笑い続ける瞳子ちゃんを見ながら、ようやくその笑いの意味が頭の中に降りてきた。



(――――やられた!)



そうだ。

こいつは女優なのだった。

「…瞳子ちゃんっ!!」

自分でも驚くほどの大声。
でも、目の前で、楽しくってしょうがないという顔で笑う少女は、悪びれる風もなく。

「ごめんなさい、でも、でも、こおんな簡単に、全部真に受けちゃうなんて、思わなかったから、あは、あはははっ…」

笑いが止まらない、という感じ。

「…騙したのね、このぉ!」

祐巳にくっついたまま笑い転げる瞳子ちゃんを引き剥がして、背もたれに押し返す。
瞳子ちゃんは白い喉をそらして、引き続きの大爆笑。
涙まで流して。
なによ、なによ、なによ。
それじゃあ、あのつらい生い立ちも、悔しい思い出も、苦しい悩みも全部、口からでまかせだったって言うの。
あの、自分を見失って取り乱していた様子は、全部振りだったって言うの。

本気で、瞳子ちゃんのことをどうやって受け止めたらいいのか、必死で考えたのに。
本気で、瞳子ちゃんと支え合えたらって、真剣に思ったのに。
この仕打ちはちょっとひどいんじゃないの。

すっごい、むかつく。

でも。

「あはっ、あっ、あは、く、苦しい…」

こんな風に思いきり笑っている瞳子ちゃんを見るのも、考えてみれば初めてだから。
元はと言えば、祐巳が瞳子ちゃんについて詮索したがったせいで始まったことだから。
あのつらそうな顔がたとえ嘘や冗談だとしても、そんな瞳子ちゃんなんか見ているくらいなら、笑っていてくれた方が全然いいから。
しつこく笑い転げる瞳子ちゃんをいまいましく睨みながらも思う。



…………………まあ、いいことにするか。



わたしって、やっぱりおひとよしかなあ。










「…ねえ、もうそんなにむくれないでくださいよ、祐巳さまってば」
「ふんだ。当分許さないんだから」

黄昏の降りる銀杏並木。
もう他に生徒も見当たらない中を、ふくれっ面の祐巳がまだ笑っている瞳子ちゃんを引き連れて歩いていく。

「もお…謝ったじゃないですか」
「あんな口先で謝ったくらいじゃだめっ。わたしは騙されて深〜く傷ついたんだから」

もちろん半分以上は振りだけど。

「いいじゃないですか。ここのところ、わたしの方ばかり祐巳さまに振り回されてたんですから、たまには仕返しさせてくださっても」
「わたしがいつ瞳子ちゃんを振り回したっていうのよぉ」

瞳子ちゃんはまたわざとらしい呆れ顔をして。

「…これですもの。祥子お姉さまもこの天然っぷりに篭絡されたのかしら」
「誰が天然だ、こらっ」
「やあん、やめてくださいぃ」

首根っこに抱きついて揺さぶってやると、瞳子ちゃんが全然苦しそうでない悲鳴をあげる。

まあ、一杯食わされたのは癪に障るけど、やっぱり瞳子ちゃんとこうしているのは楽しい。
知らないことはいっぱいあるけれど、一番大切なのは、いっしょにいて喜びを感じられることだ。
だから、とりあえず、今はそれでいいことにしよう。
何もわからなくても、わたしがこの子を好きだということだけは間違いないんだから。
こうしてそばにいれば、わたしの知りたいことは、いずれわかる時がくるだろう。

「でも、誰にでもこんな真似していると、その内本気で大目玉を食らうんだからね」
「わかってますよ。由乃さまなんか相手に同じことをやったりしたら、きっとその場でぶん殴られちゃいます。だから、祐巳さまにしかしません」
「なによそれ。わたしはいいカモだってわけ?」

ほんとに失礼なやつだ。
むくれてそっぽを向くわたしを、瞳子ちゃんが下から覗き込む。

「違いますよぉ。親愛の情の表れだと思っていただけないかしら」

親愛の情でかつがれたんじゃたまらないよ、と思いつつ、実はそれほどいやな気もしてないんだから、ほんと、我ながらおめでたいことではある。

「…でも、ほんとに、祐巳さまにだけだから。こんなことが話せるの。祐巳さま、いつもわたしの言うことを真剣に聞いてくれるから」

はいはい、どうせわたくしはおひとよしでさぞかし騙しやすいことでしょうよ。
そんなフォローしたって、ごまかされないんだからね。
まったくもう。

「だから、聞いてもらえてよかったです。今まで、誰にも話したことなかったから。すごく苦しかったの。ずっと」


(えっ…?)


「今日、祐巳さまに聞いてもらえて、心がとても軽くなりました」


何言ってるの、瞳子ちゃん。

あれっ?

えっ?

「…だって、さっき…」

立ち止まってしまったわたしに、くるり、と全身で振り返った瞳子ちゃんは。
いつものいたずらっぽい、それでいて見たことのないような晴れ晴れとした笑顔で。





「…うそですよ」





うそ。

うそって。

なにが。

どっちが。



「それじゃあ、祐巳さま、ごきげんよう。また明日」

そう言って身を翻すと、瞳子ちゃんは小走りに、校門の外へ去っていく。

(あっ…)

遠ざかるその姿を目で追いかけながら、わたしは呆然と立ち尽くす。



うそって。



薔薇の館での話が?



あの大笑いが?



今の言葉が?



それじゃあ、ほんとうのことは、一体どれ?



わけがわからない。



頭の中がぐちゃぐちゃ。



ああ、もう、もう、もう。





「瞳子ちゃんて…!!」











…そして、結局、瞳子ちゃんという女の子のことは、何もわからないまま。



「なんなのよ、もう…」



後に残されたのは、ひとまわり大きくなった、頭の上のクエスチョンマークだけなのだった。











End...?











賞味期限は20巻目が出るくらいまで。
あだち充のパクリなのは見逃してください(笑)

March 7th, 2005

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