僕は高校教師で、君は生徒だ。
 男は夕べ見たドラマの台詞を真似てそう告げ、少女は首を大きく横に振った。
 それも3月10日までよ。卒業したらあなたの生徒じゃないわ。
 そこは独身教師の部屋で、お決まりのように、バレンタインディだった。
 男は、女子生徒から憧れの視線を、男子生徒と一部の男性教師から嫉妬混じりの羨望の眼差しを受け取りながら、紙袋いっぱいに集まったチョコレート、否、女子高生の想いを溜息混じりに運んできたところだった。
 そんな彼の心情など知らん気に、彼の部屋の中で待っていたのがこの少女だ。
 部屋の鍵はかけて出かけた筈だ。だが、どうせ実の妹だとか言って、強引に管理人にから部屋の鍵を借り出したのだろう。それとも、学校の職員室から彼の鍵を持ち出して、合鍵を作ったのだろうか?
 一と月前に職員室で部屋の鍵をつけたキーホルダーが半日ほど見えなくなっていたことを、男はぼんやりと思い出していた。
 少女は彼に夢中で、彼は少女に振り回されていた。
 そう、まるで夕べのドラマのように。
 一つだけ違うのは現実という壁が案外高くて、自分の意志とは関わりなくドラマティックな展開に巻き込まれていくなんてことがなかったことだ。
 ほんの気まぐれで交わしたkiss。
 男は今の職を失いたくないが故に、少女は大人になる恐れから、それより先に進めなかった。
 とにかく身体が暖まったら、帰るんだ。
 男はお決まりの台詞を吐き、それでも少女のためにコーヒーを入れてやる。
 彼は少女を嫌っているわけではなかった。
 自分を慕ってくれる可愛い娘を無碍に嫌える男はそうはいない。
 少なくとも高校教師という生活基盤に惹かれて近づいてくる大学時代のガールフレンド達より、少女は純粋だ。
 そう、怖いくらいに。
 先生の言いたいことはわかるわ。
 君は大人の恋に憧れているだけだ。それとも恋と憧れを取り違えているか。
 子供っぽい仕草で、マグカップからコーヒーを飲みながら、少女は言った。
 私は他の娘のように魅力的じゃないし、市販のチョコレートで済ませてしまうくらい料理だって得意じゃないわ。
 だけど自分の気持ちくらいちゃんとちゃんとわかってる。
 先生も知ってるけど、ここに来たのがばれたら短大の推薦合格だって取り消しになるわ。
 でも、それを引き換えにしていいくらい、あなたが好きよ。
 僕が教師の職を失ってもいいのか?
 あなたが教師だから好きになったわけじゃないわ。
 そりゃ、先生がこの学校に教師として赴任してこなかったら、出逢えなかったでしょうけど。
 男は深い溜息をついた。
 で、今日は帰りたくないっていうんだね。
 少女は震える顔で頷いた。
 僕はこの娘のために将来を無くしてもいいほどに、彼女が好きなんだろうか?
 少なくとも、単なる生理的欲求で少女を抱かないくらいには、彼は目の前の生徒を大事に思っていた。
 本当に? 単なる保身じゃないのか?
 目の前の少女の真剣さに対して自分が不真面目であると気づき、彼は苦く笑った。
 その苦さのまま、彼は手を伸ばし少女を引き寄せた。
 暖かな重み。瞳を合わせ、そしてkiss。
 その勢いのまま少女を床に押し倒す。
 セーラー服のスカーフを解き、剥き出しになった胸元に唇を寄せる。
 制服の中に手を入れ、背中の金具を外そうとした時、少女は軽い悲鳴をあげ、身を硬くした。
 覚悟を決めたように目を閉じて震える瞼に口付けると、男は少女を解放した。
 先生、私。
 五年だ。
 男は泣き出しそうになる少女に、そう言った。
 震えるまましがみついてくる身体を優しく引き離し、瞳を見つめる。
 五年たって、まだ僕のこと好きだったら。
 そうしたら二十歳を過ぎてるから、誰にも咎められずに、君を抱けるよ。
 その時は泣いたって許してなんかやらないから。
 先生。
 少女は泣き出して男に飛びついた。
 でも、五年後が来るとは誰にもわからないわ。後悔しない?
 今ここで君を抱いて後悔するよりましさ。
 私、誓うわ。五年後も五十年たっても、あなたが好きよ。
 そう告げて、少女は部屋を出て行った。
 彼は少女が残していった市販のチョコレートの包装紙を開きながら、初めて彼女の右手に火傷があったことに気が付いた。
 急に愛しさがこみ上げてきた。
 けれど、そのチョコレートを、少女が残した精一杯の想いを食べることが、今の彼に出来る唯一の行動だった。


 五年後。
 彼は約束通り、恋人をホテルの一室で待っていた。
 ただし、恋人はあの時の少女じゃない。
 少女は卒業式の前日に交通事故で亡くなった。
 最後まで彼の生徒のままで少女が死んだ時、男はようやく彼女を、あの晩家に帰した ことを後悔した。
 しかし、大事なことは失った後にいつも気づく、と誰かの陳腐な台詞を心の中で数十回繰り返し、彼は後悔するのをやめた。
 あの夜、彼は自分に出来る精一杯の気持ちで少女を受け止めたし、あの夜の台詞を嘘にしたくない、と翌日の少女の笑顔を見て、誓ったのだから。
 やがて恋人が部屋にやってくる。
 St.Valentine's Day!
 差し出されたチョコレートを受け取って、彼はふと恋人に尋ねる。
 君は五十年たっても、僕が好きかい?
 どうしたの? 昔のテレビドラマのビデオでも見てたの?
 いいや。真面目に答えて。
 恋人は素敵に微笑んで頷いた。
 あなたがよぼよぼのおじいちゃんになっても、大好きよ。
 僕が高校教師を辞めても?
 専業主夫っていうのも悪くないわね。
 本当だね?
 ええ、神にでも悪魔にでも誓うわ。
 彼が誓って欲しいのは、五年前に死んだ少女であって、他の誰でもなかった。
 じゃあ、結婚して女の子が生まれたらこういう名前を付けてもいいかい?
 そう告げて、彼は少女の名前を口にした。
 それって、プロポーズ? 
 頷きながら、男は心の中で首を横に