いつから、ここにいるのだろう。
 どうして、ここにいるのだろう。
 傍らに眠る少女を見つめながら、《彼》は思った。
 なぜ、そんなことをふいに思ったか《彼》自身わからない。
 自分の名前はおろか、自分が何であったかも、思い出せない。
 それを忘れてしまったのか、それとも元々こうだったのかもわからない。
 もう、ずっと長いことこうしていたのはわかる。
 桜が咲き、蝉が鳴き、とんぼが飛び、そして雪が降る。
 いくつもの季節が、《彼》の前を通り過ぎていった。
 季節だけではない。幾人もの人が《彼》の傍らから消えていった。
 遠くに嫁いだものもいる。目の前で割腹したものもいる。
 無論、病に伏し逝ってしまったものは数知れない。
 《彼》はただ彼らをここで見つめていた。
 何も語らず、穏やかとも悲しげともとれる微笑みだけを浮かべて、闇より深い瞳で見つめ続けるだけだ。
 《彼》はそれを悲しく思っていたのではない。
 時さえも《彼》を残して過ぎ去ることが辛かった訳ではない。
 《彼》にとってただあるがままここにいて、そうしていることが当たり前なのだから。
 それ故、《彼》がふいにそう思い立った自体、不可思議なのだ。
 多分、《彼》は突然知らされたのだ。
 もうすぐ、自分が死ぬと。
 それが神のお告げか、悪魔の囁きかは知らないし、どうでも良かった。
 ただ、《彼》はその前に決断しなければならないことがあった。
 悪夢にでも魘されているだろう、目の前で眠る少女を、どうするかを。
 これまで永遠に近いくらいあった時間が、もう僅かしか残されていない。
 そう気がついた時、彼は初めて心から微笑みを浮かべた。
 もうずっと長いこと《彼》が待ちわびていた時が、ようやく訪れるのだと。


 話を聞き終えた田上鈴は、うんざりとした顔で骨董屋の孫を見た。
「お前は私の商売が何かまだわかってないようだな」
「代書屋でしょう。良くわかっていますよ」
 微笑みすら浮かべた少年に、鈴はがっくりと肩を落とした。
 先程も娼妓が里への手紙を頼みにきた。
 最も、ここにやってくる色里の女達の大半は代書屋の顔を見るのが目的で、手紙は口実なのだ。
 と言うのもこの男、絶対女にはしたくないと、売れっ子芸者が口を揃えて言うほどの美形なのだ。
 身にまとう雰囲気から三十前と思われているが、単に外見だけを言うならば二十歳前にも見える。
 本人に訊いても答えはしまいが、実のところ人間かどうかも怪しいものだ。
「ならば、お引き取り願おうか。子供は家に帰って寝る時間だろう」
 店の中にいるとわからないが、もうとっぷりと陽は暮れている。
「僕が子供なら、初めからここには来ませんよ。店主の顔目当ての客、しかも娼妓が来るような店には」
 口をとがらせて言い返す皓に店の主は皮肉な笑みを浮かべた。
「というわりには平然としていたな。ここに来る客の中には可愛い骨董屋の孫を贔屓にしているものもいるが、今の台詞を聞いたらさぞかしがっかりしよう。職業に貴賤はないとは言うものの、余り褒められた商売でもないから、お前の言うのも尤もだが」
「とにかく、一度、鎌倉様のお屋敷に御一緒出来ませんか。あそこはうちの古くからのお得意様で、下手な方を御紹介する訳にはいかないのです」
 微かな溜息を落とした後で皓は、頑固にそう言った。
「遊女相手の代書屋風情には、敷居が高くて跨げぬ。新参者の私を口説く暇があるなら、古くから懇意にしている絵師を頼むんだな」
 こうしていても世を忍ぶ華族の若君で立派に通る代書屋に、骨董屋の孫は悪意の破片もない笑顔を向けた。
「一度引き受けた仕事はちゃんとやって下さるのは実証済みですし、何より僕はあなたを気に入ってるんです」
 こんな頃合に引き上げるようになるだろうと用意してきた提灯に火を灯し、皓は駄目押しをした。
「それにこれはあなた向きの仕事だ。屏風も姫君もあなた好みだと保証します」
 丁寧にお辞儀をすると皓は代書屋を出た。
 薄暗い店に取り残された鈴はふいに襲ってきた寂寥感に戸惑う風に外に出た。
 雷雨でも立ちこめそうな重い雲が月明かりさえ射さない町を覆っていた。


 三日後。
 気に入らなければ断わってくれて構わないからと念を押され、田上鈴は皓に引きずられるように鎌倉邸の門をくぐった。
 維新前は親王派の旗本だったとかいう鎌倉家だが、今ではかっての隆盛はどこへやら、この屋敷も抵当に入っているなどともっともらしい噂が流れている。
 確かに広い屋敷のわりに使用人の数は少ないが、庭もちゃんと手入れがゆき届いている。
 だから噂はでたらめだろう。
 事業に手を出したならともかく、鎌倉家は代々官僚を出してきた家柄と聞く。
 当主は公爵に叙されており、曲がったことが大嫌いな性分で、先の役人任官試験の際も金で息子に役職を買おうとした成金を、けんもほろろに追い返したとか。
 これは鎌倉邸に来る道すがら皓から聞いた。
 奥座敷に通された二人が、中庭で咲き誇っている見事な萩を愛でていると、まもなく鎌倉家の姫君が現れた。
「噂通りの素敵なお方ですね」
 夕顔の花をあしらった絞を身にまとった御年一八になられる姫君は、今日は大和絵の画家としてやってきた田上鈴を見て、恥ずかしそうに頬を染めた。
「今回は我儘を言いました。私はこの家の娘でほたると申します」
 丁寧に頭を下げるほたるに、薫風のような笑みで返礼した鈴は問題の屏風に目を移した。
「ずいぶんと由緒あるお品なのですね」
 ほたるは困ったように小首をかしげたが、すぐにはきはきと答えた。
「由来はよくわからないのですが、おそらく鎌倉家伝来の品の中では一番古いものだと存じます。将軍家から拝領になったとか、皇から下賜されたとか、そう言った話は聞きますけど、証拠になるような文書が残ってませんから、案外、流行の絵師にでも描かせたのかもしれません」
 それは、縦三尺、横は一間半の三枚からなる屏風で、公家らしき男が庭を眺めている様子が描かれている。
「鎌倉家は古くは武家の出とか。ならば御先祖のどなたかということはないでしょうが、昔は武士も宮中ではこのようななりをしていましたし」
 鈴の言葉にほたるは微笑んだ。
「源氏の君か業平か、それはわかりませんが、絵巻に出てくるような殿方でしたらよろしいのです。けれど今となっては誰を描いたのかもわかりません」
 金箔をあしらってはいるが、けして華美になりすぎはせず、落ち着いた感じになっている。
 顔料は何かわからないが、間違っても版画ではない。
 つまり、これは一点物である。
 習作でもあれば手掛かりになるが、何分年代ものだ、あったとしても捜すだけでひと苦労だし、それが見つかる見込みもほとんどないに等しい。
 花押がないので誰の作かもわからないが、まず一流と言われる職人の手による品であるのは間違いなかろう。
 無論、名が高いという意味ではなく、腕は超一流だが無名の人間の作という可能性もあるのだ。
 そう、可能性だけならば何だってあげられるのだ。
 しかしながら。
 どこからきたのかも、誰の筆で描かれたのかも、誰を描いたのかも今となっては知るものはいない。
 皓から見れば、素姓の知れない代書屋も同じように思えるのだろう。
 けれど、屏風の中の都人はそんな自分を哀れみもせず、端然と静かな笑みを口許に浮かべているだけだ。
 姫君はともかく、屏風も気に入るはずだと自信たっぷりに言い切った皓に視線を向け、鈴は軽く苦笑を浮かべた。
「ずっとこの場所に? それとも、蔵か何かにしまってあったのですか」
 いいえ、とほたるは首を振った。
「これは我が家の守り神みたいなものです。それでこの家の主ないしは、跡取りの寝所に置かれています。今日は先生がお越しになられると言うので座敷に運ばせましたが、いつもは私の部屋にあります」
 鈴も皓も感心したように屏風をしげしげと見つめた。
 まさか直射日光に曝しはしまいが、それでも茶色に色褪せていても、何を描いているかがちゃんとわかる。
 屏風自体の骨組みもしっかりとしている。
 いくら何でも全く修繕をしていないという訳はないだろうが、目に見える限りその形跡はない。
「ほたる様はこのお公家様を何と呼んでいるのですか」
 悪戯を仕掛ける子供にも似た表情で問いかけた鈴に、ほたるは戸惑うように皓を見た。
「ほたる様の夢にまで現れるお方なら、何かお名前があるんじゃないかと僕も思うのです。人形に名をつけるのは女の子の常ですから。屏風の中の若君に名を付けても不思議はないでしょう」
 年を尋ねた覚えもないが、ほたるよりは年少に見える骨董屋の孫も、大人びた口調で重ねる。
「私は特に名を付けていませんわ。ただ若様とだけ」
 縁談が持ち上がる年頃の娘が、幼女のような振舞をするのを恥とでも思ったのか、ほたるの声は消え入るように細かった。
「守り神に名を付けるのは少しも恥じるものではないですよ」
 大人びた微笑みで諭すように鈴が言った。
「それにしてもどこの若様なのか」
「どことなく田上様に似ていませんか」
 画家になるより象主になる方が似合いそうな鈴を見て、皓がかろやかに笑う。
 鈴はそれには答えず、ほたるに向き直った。
「ご存じでなければ困るので申し上げますが、私の本職は代書です。ですから、こちらに伺って作業をしろというのならお断わりします」
 ほたるは驚き顔で、大和絵師のはずの青年と紹介者の少年を見比べたが、すぐに表情を改めて深々と頭を下げた。
「お任せします。よろしくお願いいたします」
「これは鎌倉家の家宝ですね。失礼だが、公爵直筆の承諾証をいただきたい」
 あなたでは話にならない、と言われたも同然なのだが、ほたるはあっさりと頷いた。
「ならば屏風と一緒にお届けいたしますわ」
 肩の荷が下りたのか、ほたるはほっとした顔で微笑んだ。
「ところで、まだ夢は続いてるのですか」
 皓が鈴をわざわざ連れてきたのは、むしろそれが気がかりだったからだ。
 ほたるは皓を軽く睨んだが、すぐに鈴の方が頼りになると踏んだらしい。
 珍しく話のわかる兄のような顔をしている絵師に顔を向けて頷いた。
「ええ同じです。屋敷が燃えて、何者かが炎の中から私を連れ出す。それが、若様だった」
「確かにいい夢ではないが、普通に考えれば助けられたと思うのではないかな。何しろ、鎌倉家の守り神なのだから」
 鈴の言葉に、ほたるは悲しげな顔をした。
「火事になれば屏風は燃えてしまうでしょう。それに、私を助け出すというよりは、連れ去ると言った方が正しいようなお顔をなさっているのです」
「その夢は縁談が本決まりになってからでしたよね」
 皓がそう問いかける。
「私がその縁談に乗り気ではないとでも」
 ほたるが切り返すのを皓はためらいがちに頷いた。
 ほたるは、皓を真っ直ぐに見て告げた。
「もちろんお会いしてみなければわかりませんけれど、初めから断わる気なら、お二人の手をわずわらせたりいしませんわ。幼い頃病弱だった私にとって、この方は守り神ですもの。私が嫁ぐ前に何とかしたかったんです」


 翌日、田上鈴の元に屏風と鎌倉公爵からの添え状が届けられた。
 屋敷からの帰り道に皓から聞いたのだが、ほたるは鎌倉家の末娘で公爵に一番可愛がられたようだ。
 また、病弱だったのも本当で何度か死にかけたらしい。
 それ故、本来、当主か跡取りの寝所にしか置かれないはずの屏風が、ほたるの部屋にあったのだ。
「そこまで大事にされたのに悪夢を呼びこむとは、恩を仇で返すとはこのことをいうのだ」
 人々が寝静まった夜更け、独りきりのはずの鈴の画室に主以外の声が響く。
(貴公、何者だ?)
 鈴は驚くよりも感心した顔で屏風の中の貴人を見た。
「病人の癖に口が聞けるのか。だろうな、夢枕に立つのだし」
 一方、都人の方は驚愕している。
 描いた本人ならまだしも、夢枕に立った訳でもない、絵の修復を頼まれただけの絵師に、それも対等の口を聞かれたのだから、当然の驚きだろう。
(答えよ)
 命令し馴れたもの特有の傲慢な口調に、鈴は皮肉な笑みを浮かべた。
「見た通りの絵師だ。もっとも物の怪を描くのは初めてだが」
(物の怪だと私は……)
 言いかけて貴族は口をつぐんだ。
 言うべき言葉はとうの昔に失われていた。
 素姓も由来も絵師の名さえ、屋敷の人々にすっかり忘れられた《彼》は名乗る名さえ無くしていた。
「その方の余命幾漠もないと知って直させた姫君に悪夢を与えたのだ。物の怪でなくて何だというのか」
 悪口を叩きながらも鈴は筆を休めようとはしなかった。
 挑発に乗って向こうから出てきてくれた象主のお蔭で、貴人が何を着ていたかがよくわかったのだ。
(放っておいてくれれば、或いは連れていこうとまでは思わなかったろうに)
 ずっと待っていたのに。
 何を待っていたのか、それすらも忘れてしまったのに。
 ただただ待ち侘びて。
 言葉にならぬ想いが、鈴の心に影を落とす。
「誰かを連れていきたかったのか」
 鈴の問いかけに、貴人は首を横に振った。
(忘れてしまった)
 鈴は溜息を吐いた。
 自分が誰かを忘れてしまえた《彼》を羨んだけれども、或いは自分は幸せなのかもしれない。
 幽霊が死んだ事実を忘れてしまっても、体が朽ちてしまったのなら生き返ることは叶わないのだから。
 体が朽ちてしまったどころか骨さえも土に帰ったのに、この世に留まるのは辛いと思う。
 それでも、鎌倉家の守り神として、屏風に宿り留まり続けていた。
 移ろい過ぎる永遠に近い時の中で、守った人々が逝くのを幾度見送ったのか。
 かつては人でしかなかったろうに。
 自分を守る術も知らなかった、愚かな若者でしかなかったはずなのに。
「……私にわかるのは、そなたが幸せな死に方をしなかったことだけだ。だからこそ、なぜ死ななければならなかったか、それさえ忘れてしまっても、こうして心だけが絵に留まっているのだろう」
 貴人は皮肉な微笑みを浮かべる。
(それをおせっかいな絵師が横合いから助けてくれたお蔭で、また再びこうして留まってしまうのか)
 それでも、心から想ってくれる人がいる限り、まだ幸せなのだろう。
 自ら、それを捨ててしまった者には叶わぬ想いだ。
「世の中には既に死んでしまった想い人の絵を描いてくれという者もいる。いらぬ世話でも、その方の身を案じて頼んだ姫君の方が、まだましだと思うが」
 冷たい鈴の声に貴人は苦笑した。
「案じずともよい。本人よりも麗しい都人に描いてやる」
 やはりこの世のしがらみから解き放たれた《彼》に、心のどこかで腹を立てていたのだろう。
 鈴は尊大に言ってのけた。
 骨董屋の孫が、鈴に似ていると笑っていた。
 自らの容姿を鼻にかける性格ではけしてないが、この象主にははなはだ身勝手な敵愾心を抱いている。
 自尊心に賭けても美形に描かなければ気がすまない。
 思えば我儘な絵師ではある。
(勝手にせい。ただし礼は言わぬぞ)
 憮然とした顔の象主に、ここぞとばかりに口煩く注文をつけ、こんな絵師にかかるくらいならば、贋作師の方がまだましではないかと貴人が思いかけた頃、ようやく屏風は仕上がった。
(言うだけあって、私を最初に描いた絵師に勝るとも劣らぬ腕の持ち主だな。名を聞いておこうぞ)
 本気で感心した様子の貴人に勝ったとばかりに笑みを浮かべ鈴は名乗った。
「田上鈴だ」
 それが生まれ落ちた時に与えられた名ではないと気づいたかどうか、大きく頷く貴人に絵師は続けた。
「では私からも、一つ。夢の中で火をつけたのはその方か」
 貴人は怒りに燃えた目を鈴に向けた。
(ほたるを連れ去ろうとしたの認める。だが、屋敷に火を掛けたのは断じて私ではない)
「しかし夢を見せたのはそなたであろう」
 あくまで冷厳した態度で問いつめる鈴に、貴人も昂然と言い返す。
(あれはほたるの夢だ。私はその夢に分け入っただけ。くり返して見せたのも確かに私だが、大恩ある鎌倉家に火を掛けるなど、私はしてはいない)
 では何故、ほたるはあのような夢を見たのか。
 あれがお告げだと思うなら、わざわざ焼けるのに絵を直せとは言わぬはず。
 わかるのは他家に嫁げば《若君》と別れなければならなくなる事だけ。
 一緒に死ねばよいと考えるのなら、連れ去れられる意味はない。
 ほたるが心の底で《若君》に連れ去られたいと願っていると考えるのは、莫迦な男の夢想だろうか。
「今一つ訊ねる。もしも本当に火事が起こったら、その方はどうする」
(ほたるに見せた夢が答えだ)
 即答した貴人に鈴は微笑んだ。
「ほたるが心からそれを望んだなら、その庭にほたるの絵を描いてしんぜよう。もっとも、そなたが焼け死ななかったならばだが」
 双方が望んでも叶わない夢もある。
 身をもってそれがわかってる鈴にしてみれば、それが叶うなら叶えてやりたいと本気で思ったのだ。
 東の空から最初の光が射し込むと同時に、貴人は絵の中に戻った。
「ほたるがどんな娘だったか、よく想い出してみるのだな」
 おそらく、鎌倉家歴代の持ち主の中でも抜きん出るほど、貴人を大切に扱ったはずだ。
 それを想い出してもなお連れて行けるものならば。
 そんな想いもあっていい。
 夜明けの光に照らされ生きているかのように、屏風の中でたたずむ《彼》を、鈴はかって同じ想いを抱いたことのある男として見つめた。


(ほたる起きよ。ほたる! おい、ほたる!)
 耳元で怒鳴りつけられ目覚めた時、ほたるはまだ夢を見ているのだと思った。
 火のはぜる音。
 巻き起こる熱風。
 襲いかかってくる炎。
 当たり一面、火の海だ。
 そして、ほっとしたようにほたるを見つめる男の顔。
“若様”
 夜ごと見るいつもの夢。
(何をしている。死にたいのか)
 頬を叩かれ、ほたるははっとした。
 本気で怒っている男は、屏風の影においてあった桶の水を頭から被った。
 田上鈴が屏風を届けにきた際、気休めでも汲み置いた水が傍にあれば火事の夢は見ないのでは、というのに従ったのだ。
 暗示は利かなかったが、万が一の時の場合もある。
 縁起でもないと言う者もいたのだが。
(目が覚めたか)
 厳しい声が飛んで、ほたるは“若様”を見上げた。
 いまだ、夢現の気がする。
 屏風に描かれた絵の中から男が抜け出てきただけではなく、あまつさえ話しかけたのだ。
   にわかに信じられないのも無理はない。
 そんなほたるを抱きかかえるように“若様”は外に出て行こうした。
「屏風が燃えるわ」
 思いもかけないことが起こった時、人は往々にして日常に戻ろうとするものだが、ほたるの場合は違った。
(焼け死ぬのは悲惨だぞ。行くぞ、私はこの屋敷の間取りを知らぬ。死にたくなくば案内せよ)
 ほたるは泣き顔で“若様”を見つめる。
 襲いかかる炎から身を守るよりも、目の前の人が大事だった。
「せっかく綺麗に元気になったのに。屏風がなければ死んでしまうわ」
 貴人はまじまじとほたるを見つめ、そして苦笑する。
(何を言い出すのだ。私はもう死んでいるのだ。もうずっと前に、ほたるが生まれるよりも遥か昔に)
「あ……」
 思いもかけない事実を突きつけられて表情を失くしたほたるを抱え、貴人は飛びすさる。
 炎に包まれた柱が、ほたるの布団の上に落ちた。
 その拍子に屏風が倒れ、飛び火する。
「屏風が!」
 悲鳴をあげて手を伸ばすほたるを背中から抱き止め、貴人は告げた。
(ほたるのお蔭で、屏風が燃えてもそなたを助け出せる。行くぞ)
「いや!」
 聞き分けのない子供のごとく泣きじゃくる姫君を、貴人は本気でひっぱたいた。
(時がないのだ。ほたるを死なせる訳にはゆかぬ)
「では、連れていって」
 ほたるが貴人の目を見つめる。
 双方が望んでも叶わぬ夢もある。
 言葉には出さなかった鈴の想いが貴人の心に蘇える。
 屏風が燃えてしまった以上、残された道は二つだけ。
 共に炎に焼かれるか、ほたるだけでも助け出すか。
「若様の行くところへほたるも行きます」
 連れていくつもりだった。
 色褪せて朽ち果てていく自分と一緒に。
 たとえ、ほたるが望まずとも。
 だが、いざとなっては。
――誰かを連れてゆきたかったのか――
 田上鈴はそう尋ねた。
 あの絵師は誰を連れてゆきたかったのだろうか。
(私は幽霊だ。幽霊が連れていく場所はあの世しかない。だからほたるを連れて行く訳にはゆかぬ。私はこの家の、そなたの守り神なのだから)
 だから、後悔はしない。
 鈴もきっとそうだったのだろう。
 心は決まった。
 貴人は晴れやかに微笑むと、ほたるのみぞおちを強く打った。
 気を失い、ゆっくりと崩れ落ちるほたるを抱きかかえたのは黒服の男だった。
「とんだ守り神だな。ぐずぐずしてる暇はない。じきに屋敷は焼け落ちるぞ」
 冷たく言い放ち、田上鈴は続けた。
「この娘は私が外に連れ出す。そなたは、火付けを追え」
 貴人はほたるの髪を愛おしそうに撫ぜると、懐から取り出した櫛をその髪に差した。
(待っている、とほたるに伝えてくれ。ほたるが天寿を全うし、私の元へ来る時を心待ちにしている。もう長いことずっと待っていたのだ。もう百年待つくらいたやすいぞ。……私にとってはな)
 そう告げると、貴人は炎の中に消えた。
 鈴はそれを喜びと悲しみがないまざった微笑み見送った。
 愛する少女を連れていけなかった男を悲しんだのか、想いに縛られて留まり続ける己を悲しんだのか、その微笑みの意味を知るものはない。


「これは、ほたる様。わざわざ、このようなところまでお運び下さるとは」
 代書屋の店先に現れた鎌倉家の姫君を見つけ、鈴は微笑んだ。
「田上様、僕の言った通りでしょう。屏風も姫君も気に入るはずだって」
 ほたるを連れてきた皓がからかい顔で楽しそうに笑う。
「何しろ、命がけでほたる様を助けたんですからね」
 鈴がほたるを連れて屋敷から出て来た途端、鎌倉邸は焼け落ちたのだ。
 幸い屋敷の者に拘らず、焼死はもちろん、大きな怪我や火傷をしたものもいなかった。
「公爵に金を贈って息子を役人にしようとしたが叶わず、恨みが嵩じて放火とは。新聞がやかましく書き立てたお蔭で、全額賠償するそうですよ」
 それを聞いた鈴はほっとした顔で微笑んだ。
 守り神だと言い張るだけあり、役目はちゃんと果たしたようだ。
「今は月村の別邸の方に?」
 ほたるは鈴が初めて見る晴れやかな笑みを浮かべた。
「ええ。本当に、田上様、その節はありがとうございました」
「礼なら“若様”に言うのですね。“若様”がいなければ、私が飛びこんだ時にはほたる様はとっくに焼け死んでいましたよ」
 総絞りの紅の振袖によく映える朱塗りの櫛に手を当てて、ほたるは頷いた。
「その櫛を大切になさい。ほたる様が幸せな一生を終えて、“若様”に逢う時がきたら、今度はあなたの娘や孫に。鎌倉家の守り神はこれからもずっと守ってくれますよ」
 嬉しそうに微笑んでほたるは一礼した。
「燃えてしまったけれど、屏風のお礼はきちんといたします」
「それはもう“若様”からいただいています」
 悪戯な笑みを浮かべ、鈴は店先においてある小間物や小さな浮世絵を指さした。
 そのどれにも屏風の中にいた“若様”が描かれていた。
 皓が呆れたように代書が本業であるはずの男を見た。
「代書を頼みにくる芸者さんに、評判なんですよ」
 ほたるはくすっと笑い、手鏡を手に取った。
「私もこれをいただくわ」
「毎度ありがとうございます」
 商人の顔で頭を下げる鈴に皓も笑いだす。
 陽だまりで鳩が遊んでいる、実に平和な昼下がりである。


終わり