神沢俊広の訃報を知らされたのはライブの最中だった。運悪く通夜の夜もライブの日程が組まれていて、俺の個人的な理由でキャンセルをする訳にはいかなかった。違約金を払うのが面倒だというのも勿論ある。
だが、結局ライブを選んだのは、あいつが同業者だからだ。
通夜をすっぽかした代わりに、ステージであいつの曲を1曲歌った。俺にはおよそ似合わないシティポップスなのに、何故かファンから熱い拍手が沸き起こった。
ライブが跳ねたあとで、俺はバーのカウンターに陣取り、二つのグラスを触れ合わせた。
あいつのためのグラスには混ぜただけのドライマティーニ。どこまでも気障な男だった。
☆
その白木の扉を開いたのは、いったい何年ぶりだろう。
自分の代になってすぐに改装したとかで、あの当時はまだ真っ白だったけれど、数年の時を経て、それなりに汚れている。けれどそれはけして不快ではない。むしろ街並みに調和したと言うべきだろう。
扉の内側に括り付けてあるドアベルが昔と変わらない音色を響かせた。次いで聴こえてきたのは、あいつの歌声だった。
《クリスティ》には一人の客もいなかった。もうすぐ日付が変わろうという時刻。営業時間が変わっていない限り、ライブがない時は確か夜十時で店じまいになるはずだ。
俺は勝手にカウンターに腰を落ち着けた。カウンターの向こう側にこの店の主人が戻ってきたのは、俺が二本目の煙草に火をつけた時だった。
「ずいぶんと、久しぶりだね」
「あんなことがあったんで、どうも敷居が高くてね」
「あれは、卓馬だけのせいじゃない」
栗林貴志はそう言うと、サイフォンにコーヒーをセットした。
注文を訊きもしないで豆を選ぶ。
栗林の従妹と結婚直前まで行って別れて以来、俺はこの店に足を運んでいない。夜にはライブハウスにもなるこの店で俺は昔歌っていた。この喫茶店兼ライブハウス《クリスティ》の経営だけではなく、栗林は音楽事務所の社長でもあった。俺はその事務所に籍があったから、婚約破棄と同時に事務所も辞めた。栗林はかなり引き止めたのだが、そうも行かなかった。
俺はギターを抱いて歌える場所さえあれば、どこでも生きていける。
過去の恋を引きずるなんて柄じゃない。そうあいつでもあるまいし。
けれど、どこにいたって俺が彼女を忘れられないことに変わりはなかった。俺が心ごと、体ごと愛した女は生きている。あいつが最高に愛した女は、思いを告げることもままならないまま、先にあの世にいっちまった。どちらが幸福なのか、そんなことは知らない。今頃はあいつも愛しい女の腕の中だろう。あの世へ行ってまで禁断の愛だのと責められはしまい。神様だって実の妹と契っていたのに、何故人間には許されない?
「まだ独身か?」
「人のことは言えないだろう?」
当てずっぽうだったが、栗林は苦笑いを浮かべて、ブルマンの香りのする黒い液体をカップに注いだ。
あの当時から喫茶店の経営が本業だと、事あるごとに言い放っていた。なるほど数年ぶりにやってきた客に、好みのコーヒーをすっと出すのだから、そういうだけのことはある。
「結婚なんかしてみろ。俺に惚れてる女達が何人嘆き悲しむことか」
「言ってろよ。まさか、あんなことがあったから結婚に懲りたんじゃないだろうな」
結婚は個人だけの問題じゃないと嫌というほどあの時ほど思い知らされたことはない。彼女の両親や栗林貴志ほか数人の親類を除く、親類縁者がこぞって反対した。年齢差や仕事が不安定だって言うこともあっただろう。俺は親に勘当された不良だったし、彼女は両親に守られて育ったお嬢さまだった。
本気で彼女を愛していた故に俺は二人で生きることを断念せざるを得なかった。彼女より十歳、年を食っていた俺は駆け落ちという結論を選べなかった。それほど世間が甘くないことを知っていた。或いは俺は彼女を愛しすぎていたのだろう。確実に不幸になるとわかっていて、それでも彼女を奪い去ることができなかったのだから。
「さあな。晶子が懲りてなかったんだからそれでいいだろう?」
別れて三年後、彼女自身から結婚するという報告を受けた。多分、栗林が教えたのだろう。ライブ前の楽屋に突然訪ねてきた。それきり逢っていない。
「そうだね」
「ところでここに来れば、あいつの愛した『天使』に逢えるって聞いたんだが」
栗林は悲しげに微笑んだ。
「莉奈は僕にとっても『天使』だよ。でも、今は……」
「逢わせてはもらえないのか?」
「卓馬は、何故莉奈に逢いたいんだ?」
「ただ逢いたいだけじゃ、理由にならないのか? 俺はあいつの『天使』に逢いたいんだ」
俺はそう言って栗林を見つめた。
「お前はそう物見高い方じゃないだろう」
「いつもならな。だが、あいつが一人の娘にのめり込むなんて」
栗林は、らしくない目付きで俺に訊いた。
「お前は噂を信じていないのか」
「あいつの娘かもしれないって? そんなガセネタ信じるかよ。生きてる女を愛したなら、今度はそれがどんな相手だって手に入れるだろう。ましてや、子供ができるってことは、女だってあいつに身を任せたってことだ。娘より母親が先だろうが」
「世間はそうは思わないようだよ」
「北原敬一がcocuの汚名を甘んじて受けるとも思えないな」
神沢俊広が愛した天使は、北原莉奈。その七歳の娘は世間の噂がどうであれ、戸籍上は北原敬一とその妻を両親としている。
「シュンが強引に彼女をモノにしたとは思わないのか」
「心底惚れた女にそんなことをする男なら、あいつはもっと楽に生きていただろうさ」
俺は冷め切ったコーヒーを飲み干した。
「ずいぶん絡むじゃないか。それともお前は彼女とあいつがそういう関係だったらいいと思うのか」
「いけないか。強引にでも彼女を奪った方が良かっただなんて、そうまでいう気はないよ。けれど、敬には悪いけど、優ちゃんがシュンを選んでいたら、もしかしたらシュンはこんなに死に急がずに済んだんじゃないかって」
「そうね」
女の声がそう答えた。俺たちは弾かれたように入口を見た。
北原優子が泣き出す寸前の笑顔で白木の扉を背に立っていた。
☆
茫然と口をつぐむ男たちをよそに、彼女はカウンターまで歩き、俺の隣のスツールに腰を下ろした。白い肌に黒いブラウスが良く映える。普段でさえ年齢を感じさせない美貌がさらに凄みを出している。俺はこんな女をただの友人として接し通したあいつの男としての本能を一瞬本気で疑った。もっともここまで綺麗だと、ただの男には恐れ多くて手を出せないとすぐに思い直したが。
「シュンが本気で私だけを愛してくれたら、私達の関係も違ってたかもしれない。そうね、仕事にかまけて私を放っておくなんてことをしないだけでも、シュンを選ぶ理由はあったわね」
「優ちゃん」
「だからマスター、悪いのは私じゃないわ。私を女として愛さなかったシュンが莫迦だったのよ」
「悪かったよ」
「優子さんは高嶺の花だもの。あの北原敬一だって、高校時代から数えて十年以上かかってやっと口説き落としたんだろう」
「それは敬がトロかっただけよ。なんで私がずっと一人でいたか考えればわかりそうなもんじゃない」
「優ちゃん、酔ってる?」
「どうして? それをいうならマスターだってそうじゃない」
彼女は拗ねた目でそう言い放った。
確かにみんな神沢俊広が死んでしまったという現実に悪酔いしていた。
「日下君、元気だった?」
「まあ、それなりに」
彼女は心底ほっとしたように笑った。
確か彼女と最後に逢ったのは栗林の事務所を辞めた直後だった。有志がこの店で俺のために送別会と銘打ったライブパーティをしてくれた。敬が単身NYに行き、それと入れ替わるようにあいつがソロで再び歌い出した頃。自分でもわかるほど、憔悴しきっていた。きっと酷い顔をしていただろう。
「実はね、去年一度ライブに行ってるのよ」
そう言ってカウンターの向こうの栗林と目を交わす。
「まさか、二人できたとか」
「チケットの手配をしたのは僕だけどね。優ちゃんとデートしたのはシュンさ」
「人のライブをデートに選ぶなよ」
「あら、いけない? 私ライブに一人で行くの嫌いなんだもの。それに日下君のライブよ。女が一人で行くにはちょっとね」
「……それ、優子さんの誤解」
「みたいね」
「楽屋に来てくれたら良かったのに」
「今度ね」
あっさりと彼女はいなして、そしていきなりこう訊いた。
「『天使』を一晩さらう気があるかしら」
☆
どういう魔法を使えば、こういうことが現実に起こるのだろう。
一時間後、俺は車の助手席に『天使』を乗せて車を走らせていた。
『天使』は少々眠そうではあるけれど、脅えもせずにおとなしく座っている。
母親譲りの黒い真っ直ぐな髪を肩を過ぎた辺りで切り揃え、膝が隠れる位の丈のデニムのスカートに木綿の白いブラウスと白いハイソックスにスニーカー。膝の上に、スカートと同じ生地のジャケットをきちんと畳んで置いている。
どこから見ても、躾がしっかりしている良家のお嬢ちゃんだ。常識で考えたら、初対面の男が真夜中に車で連れ回していい相手じゃない。俺と言えば黒い麻のパンツに赤いシャツそして黒革のジャケット。あご髭を伸ばし、咥え煙草。信号待ちで隣り合わせた車から、携帯で通報されても文句は言えないだろう。ちゃんと母親の許しは得ていると告げて信用されるかなんて、考えるだけ無駄だ。
そんなお嬢ちゃんを、あいつは仕事先にまで連れ歩いていたらしい。ミュージシャンだなんてヤクザな商売をしているのに、俺はパトカーのサイレンに脅えなきゃならない。見てくれが悪いと人生を棒に振ると俺はあの時学んだはずだ。だが、髭を剃りスーツに着替えても、結果は全く変わらなかった。俺という人間を見かけでなく理解してくれた人間もいる。それだけで済む話ではないけれど。
ともかく上品なスーツがこよなく似合っていたあいつが、幼い少女を連れ回したため、世間はその少女をあいつと北原優子の間にできた娘だと結論づけた。
真実なんか連中には必要ない。
だが俺は、さっき《クリスティ》で栗林に話したように、世間の噂を一笑に付した。だからこそ俺は、何故あいつがこの娘にそれほど入れ込んだのか、純粋に興味を抱いた。栗林に告げた通り、俺はあいつの『天使』に逢いたかった。逢って自分でその理由を確かめたかった。
俺の願いは叶えられるのだろうか?
「日下さんも歌う人だよね」
ずっと黙り込んでいた少女が、不意にそう訊いた。
少女を車に乗せる前に、自己紹介は済ませていた。日下卓馬。職業はミュージシャン。年は四十一歳。しかし、そんなプロフィールが、この少女にどれほどの意味があるのだろう。実際、少女の表情が動いたのは、最後にあいつの友達と告げた時だけだった。
「そうだよ」
「歌うこと好き?」
少女は真っ直ぐに俺を見つめた。誤魔化しが効かない強い視線。
「好きだからこの年までミュージシャンをしている」
「シュンちゃんも?」
「俺はあいつのことはわからない。けどね、お嬢ちゃん。あいつが一度やめたこの商売をもう一度始めたのは、きっと歌うのが好きだからだと、俺はそう思うよ」
「だけどシュンちゃん、歌よりも莉奈よりもあの人が好きだったの」
「あの人?」
俺はそう静かに問い返した。
少女の言うところの『あの人』が誰かなんて、わざわざ訊かなくともわかる。あいつが最初に歌をやめた原因となった少女。血は繋がっていないが、法律上でもそして世間の目から言っても、紛れもなくあいつの妹となる少女。病身で二十歳まで生きられないという医者の宣告の通り、あっけなく死んでしまった少女だ。
「ママと同じ名前の妹がいたってシュンちゃん話してくれたことがあるわ。大人になる前に死んじゃったって。だから」
「莉奈って呼んでいいかい」
俺はハンドルを右に切った後、そう訊いた。
少女はこっくりと頷いた。
「どうして『あの人』より莉奈が好きじゃないって思うんだ? 神沢がそう言ったのか?」
たとえそれが真実だとしても、あいつがそんなことを口にするはずはなかった。それならばある意味、この少女だって納得するだろう。
ただ怖いのは、女の直感って奴だ。こんなに小さくても、女は女だ。母親が気づいたことが、この少女にわからないはずはない。
「――言わなくてもわかるわ」
「そうかもしれないな」
そう答えると、少女は驚いたように俺を見た。
北原優子は、それが直接自分が愛されなかった理由と短絡はしなかった。
人には大事なものがいくつもある。俺が結婚を断念したのは、愛した女に家族と俺の二者選択を強いたくなかったからだ。
婚約破棄を最終的に決めた時、彼女は俺に言った。
――私があなたを愛してるって、あなたがわかっているって信じていいのね。
自分の愛が俺に届いていないと思ってしまったのが、もしかすると彼女の最大の不幸だったかもしれない。
――彼は私がこんなに愛しているのを、ちっともわからないのよ。
陳腐な台詞だが、プレイボーイでならしたあいつと別れた女の口からこの台詞を聞いたのは一人や二人じゃない。
けれど、この少女は別のはずだ。あいつと関係があったと女という女が、本気で嫉妬したほどの溺愛ぶりだったのだから。
誰の目から見ても、この少女はあいつにとって特別だった。
「莉奈はその人になりたかった?」
「わからない」
「いい子だ」
少女の頭を撫でると、俺は川原に車を停めた。
「莉奈はパパが好きかい?」
少女はためらいもなしに頷いた。
「ママも好きだね?」
少女は今度は頷かなかった。嫌いという意味じゃない。何が言いたいのかと俺の横顔をじっと見た。
「もしも神様が現れて、神沢を生き返らせる代わりにパパを連れていってもいいかと訊いたら、莉奈はそれでも生き返らせてくれって言うかい?」
かって俺は愛した女に似たような質問をしたことがある。
――俺とお前の親父が大事故にあって、どっちも重症で、輸血用の血液が一人分しかなかったとする。お前はどちらを助けるんだ――
――あなたと答えたら?――
「莉奈が代わりにならないかって、神様にお願いする」
フラッシュバックの彼女の台詞に『天使』の声が重なる。
あいつがこの少女を溺愛した理由を知った。そして――。
「莫迦だな。敬も神沢もそんなことは望まないよ」
「それでも」
少女はきっぱりと言い切った。
「神沢にとって死んだ義妹が特別だったのは確かだよ。だけど、莉奈だってあいつにとっては同じくらい特別だったんだ。じゃなかったら、俺はこんなところに莉奈を連れてこない」
「どういうこと?」
「万が一僕が死んだら、莉奈を慰めてくれって、そう頼まれた」
思えば北原優子があいつと連れ立って俺のライブを見たすぐ後だったのだろう。どこで調べたのか俺の行きつけのバーに不意に現れ、いきなりそんな遺言を託していった。どうして俺なのか何度も訊いたが、あいつはいつものポーカフェイスで煙に巻いた。幼いお嬢ちゃんのお守りなんて、俺にはできないと突っ撥ねたがまるで取り合わなかった。後から栗林にあいつが病院を抜け出してきたと聞かされて、茫然としたのを今でも覚えている。
もっとも俺がここにいるのは、あいつが愛した『天使』に一目逢いたかったからだ。あいつの遺言なんて知ったこっちゃない。
「俺には無理だってきっぱり言ったんだがな。だいたい柄じゃないし」
少女は俺の言葉をあっさり無視し、こう訊いた。
「ここ、どこ?」
「真駒内川のかなり上の方」
俺はそう告げて、車を降りた。
「それ、着た方がいい。風邪でも引かれたらあいつに化けて出てこられるからな」
「莉奈のところには出てくれないの?」
「さあな。その辺にいるんじゃないか」
俺は半ば本気で言った。トランクに入れていたギターケースから、ギターを取り出し、ストラップを取りつける。そしてギターを抱え、チューニングを確かめるため掻き鳴らしてみる。
少女がびっくりした顔で俺を見た。
「さっき俺に歌うのが好きかと訊いたな」
驚いた顔のまま、少女は頷く。
「莉奈はどうなんだ?」
あいつが連れ歩いている『天使』はいつでも歌っていると聞いた。プロの歌手でもあれほど歌が好きなのはいないと誰もが言った。なのに。
「好きだったけど、でも、もうシュンちゃん聴いてくれないもの」
「俺はそうは思わない。俺の歌があいつに届かない訳がないってな」
「日下さんだからじゃなくて?」
「さあな」
そして俺は歌い出す。あいつの通夜の晩に歌った、神沢俊広の曲を。
★
MANHATTAN IN THE RAIN
哀しみ色の雨が 音もなく
MANHATTAN IN THE PAIN
優しさなくした街に降る
My Lonely Girl
PASSPORT PORTRAIT RAINCOAT
嘘つきの君の笑顔 破り捨て
ILLUSION ILLUMINATION IMITATION
風に散った言い訳 「優しすぎたわ」
忘れやしないさ 莫迦な男と 街角に消えた影
SERENADE RHAPSODY REQUIEM
嘘つきの俺の優しさ 嗄れる声
SPOTLIGHT STANDMIKE KEYBOARD
歓声の中の叫んでも 届かない
霧雨の中浮かびあがる 幻の街が 今も俺を呼ぶ
MANHATTAN IN THE RAIN
哀しみ色の雨が(rain in my heart)
MANHATTAN IN THE PAIN
音もなく降る(pain in my soul)
Oh My Lonely Girl
MANHATTAN IN THE RAIN
哀しみ色の雨が(rain in my heart)
MANHATTAN IN THE PAIN
君の消えた都市(まち)に降る
Oh My Lonely Girl
★
ラストのコーラスで少女が加わった。細いが綺麗な歌声だった。
歌い終わった俺は、少女にピックを放り投げた。
「日下さんはどんな歌をうたうの?」
初めて少女は俺自身に興味を抱いたようだ。
俺は不思議な感動を覚えた。
車に戻りクラクションを鳴らした後で、俺は少女にこう告げた。
「ママがいいって言ったら、俺のライブに来るといい。そのピックがチケット代わりだ。『日下卓馬』の歌を聴かせてやるよ」
俺がギターをケースにしまい終える前に数人の男たちが現れた。北原家の私設ボディガード、ブラックアイズの面々だ。彼らが大事なお嬢さまを無事に保護するのを見届けて、俺はアクセルを踏み込む。
けして俺のものにはならない『天使』が、バックミラーの中で闇に消えた。
☆
その半月後、俺はライブツアーの最終日を迎えていた。
開場後、楽屋でギターのチェックをしていた俺の元にスタッフが飛んできた。
「小学生くらいの女の子が、母親らしき女性に連れられて受付に来ているんです。その女の子がこれがあればライブをみれるって日下さんに言われたって。確かに日下さんのオリジナルのピックなんで、一応確認に来たんですけど」
スタッフはそう言ってピックを見せた。
「チケットは……完売だったっけ」
「子供を入れるつもりですか」
「別に十二歳以下は入るなって規則はなかっただろう?」
六歳以下は保護者連れでも入場禁止にしてあるのは、なんとなく頭にあった。
「日下さんの隠し子じゃないですよね?」
スタッフは真顔で訊いた。
「さあな」
「日下さん!」
「俺が預かってたことにして、二枚用意してくれ。責任は取るよ」
そうきっぱり言った時、問題の二人連れが楽屋に現れた。
俺は莉奈を連れてきた女性を見つめ、言葉をなくした。
「ミュージシャンって意外に記憶力がいいのね」
彼女はここまで案内を買って出たらしい昔馴染みのギタリストに軽く手を振ると、俺に向き直った。
「……晶子。どうして君が?」
「優子さんに言って強引に変わってもらったの。貴志兄さんから今日のチケットはソールドアウトだって聞いたから、さすがのあなたでも二人分の席しか確保できないと思ったし」
結婚寸前まで行って手放した彼女が、俺の目の前に立っていた。
「俺が訊きたいのはそういうことじゃない」
「あなたに逢いたかった。それじゃいけないのかしら?」
昔と変わらない真っ直ぐな物言いに、俺は何も言えないまま、ただ彼女を見つめた。
「お互いに生きている限り、やり直せないことはそうはない。神沢さんにそう言われたの」
そう彼女は微笑んだ。
「日下さん、チケット用意できました」
「あのね。莉奈、日下さんにお礼をしたかったの。それでマスターに相談して、そうしたら……」
ブラックアイズは莉奈に近づく人物の徹底的な調査も仕事のうちだ。まして俺がいまも独身だと、栗林に直接話していた。
「俺は、莉奈に逢えただけで十分だったんだが」
俺はあいつの愛した『天使』にそう告げた。
そして俺の愛する『天使』を抱きしめた。
☆
俺は、あのライブの一週間後から二人で暮らし始めた。
遠いあの日、俺は二十歳の娘を誑かしたと一方的に責められたが、相手が離婚歴のある三十女ならば、多少話は変わってくる。根気よく説得を続けた。時間がすべてを解決するとは俺は思わない。死んだものは生き返らないし、少女が負った傷が完全に癒えることはない。
ミュージシャンで二十年生活してきた実績を楯に、俺は今度は絶対に投げ出さない覚悟で、彼女の両親を説得した。
そして――。
八年が過ぎたある日、二枚のピックが入った封書が俺のポストに舞い込んだ。どこから入手したのか、俺のオリジナルのピックだ。
それは北原莉奈のデビューコンサートの特別チケットだった。
Fin