目の前には五線紙の束。スタジオの定位置、つまりはキーボードの城の前に陣取りながら、ジョニーはため息を吐いた。
 完璧なアレンジが終えられている。
 最初から莉奈の為に作られた曲のようだ。
 そんなことありえないのは、わかってる。
 何故なら、この曲は[リリック]の為に、彼自身が書いた曲なのだから。



 あの夜の出来事を、まるで昨日のようにジョニーはまざまざと思い出せる。
 莉奈と初めて逢ったあの夜のことを。
 マンションの十四階、その一室の玄関のドアを開けると、いつものようにピアノの音がした。てっきり一人で弾いているんだと思い、迷いもせずにリビングのドアを開ける。フローリングの中央に我が物顔のグランドピアノ。弾いているのはこの部屋の主である神沢俊広、そこまでは変わらない。
「やあ、早かったね。紹介するよ。優子さん、若き天才ピアノ弾き、ジョニー・芳田だ」
 まるで銀幕から抜け出してきたような気障な振る舞いが全く嫌味にならない紳士が、ソファーに腰かける女性にそう告げた。
「お噂はかねがね。初めまして、天野優です」
 告げられた名は間違いなく仕事用のものだったけれど、こんな夜中に二人きりでいるなんて、今の今まで信じていなかった噂を信じてしまいそうになる。
 時計の針はシンデレラの魔法が解ける時間をとっくに過ぎている。
 でも、柔らかく微笑む作詞家兼小説家には、魔法が解けた気配はない。
 突然の乱入者に驚く様子さえない。
 もっとも、最初から魔法など必要ないのだろう。彼女は写真で見るよりも数倍は可愛らしい。年下の少年を魅了するほどに。
「いま、ジョニーの話をしていたんだ。あの曲いいね。[LOVE’S A JOURNEY] 日本語で出す気ないのかい」
「あれはハルの詞で、日本語詞は用意してないんです」
 ジョニーはようやく彼女から目を放すと、気まぐれにそんな台詞を吐くプロデューサーを見た。
 神沢俊広は少し酔っていたのかもしれない。グランドピアノの上には、ワインのボトルがあって半分くらい空になっている。
「なら、僕が日本語詞をつけよう。訳詩じゃなくて勝手にやってもいいね。うん、決めた。ねえ、優子さん、いい案じゃないか」
「シュン。そんな勝手に決めちゃっていいの。作った本人が呆気に取られてるわ。ねえ」
 優子がそう訊いた。天野優は本名を北原優子といい、れっきとした人妻だ。だからこそ、スキャンダラスな噂が巷に跋扈している。
「いいですよ。シュンは俺らのプロデューサーだし、それにこんなにストレートに褒められたの初めてで」
 ジョニーは心から言った。
 ジョニーとしてもこの曲のメロディーラインは気に入っている。
「じゃあ、決まりだ。莉奈にまた一曲、プレゼントできる」
「莉奈って」
 またアイドルにでも曲を頼まれたんだろうか。
 そう考えたジョニーは、ソファーの上の人形が身動きしたのをびっくりした目で見た。
 さしもの俊広も、人形を部屋に飾る趣味ははない。
 だから優子が持ち込んだのだとジョニー思い込んでいた。少女と言うには薹が立っていたが、それでも十八の自分と五つ以上離れているようには見えない。
「莉奈、起きたの」
 母親の顔で優子は赤ん坊の顔を覗き込んだ。まだ一つになったかならないかの女の子だ。
「ジョニーお兄ちゃんよ」
 ジョニーは恐る恐る近づいて顔を覗き込んだ。泣き出したらどうしようかと思ったのだが、莉奈は眠そうな目できょとんと見つめ返す。
「そうだ。せっかく来たんだから、[ピアノ・ブルー]を弾いてくれないか」
 いつのまにかジョニーの後ろに来ていた俊広が馴れた手つきで、莉奈を抱き上げる。
「すごい。今日来てよかったわ。[ピアノ・ブルー]が生で聞ける」
 優子が手を叩いて喜んだ。少女めいた仕草だ。
「って、俺、歌えませんよ。シュン、歌って下さいね」
 ピアノ・ブルーはジョニーをイメージして作った英詞に、リードボーカルの竹本由之が曲をつけたものだ。ステージでも由之が歌っているために、自分に捧げられた歌にもかかわらず、歌詞が咄嗟に出てこない。その代わり、メロディーはしっかり頭に叩き込んでいる。
「うん、いいよ」
 まるで我が子のように、莉奈を抱いて俊広はソファーに腰を下ろしてる。
 これじゃ、週刊誌の記事を否定することも出来やしない。もっとも、隠さなくていい間柄だからこそ、この二人は平然としているのだろうけれど。
「莉奈、良かったね。リリックの曲、すごく気に入ってるんですよ。いつもは偲ちゃんのお兄ちゃんが歌ってるんだけど、今日はシュンちゃんとジョニーお兄ちゃんが二人で演奏してくれるんだって」
「優子さん、由之を知ってるんですか」
 優子は驚いた表情で、ジョニーを見つめた。
 偲は竹本由之の姪の名前だ。
「だって、由之君が仕事してる間、うちで偲ちゃん預かってるのよ。一人も二人も同じだから」
「でも優子さん、こないだも本出てたでしょう。自分の子だけじゃなくて偲の面倒まで見る暇」
 今度はジョニーが驚く番だ。天野優は、神沢俊広と組んで作詞もするが、本職は小説家だ。自宅でできる仕事とはいえ、赤ん坊二人の面倒見ながら書けるものなんだろうか。
「それは心配ないんだ。今にわかるよ」
 意味あり気な台詞を吐いた俊広が莉奈をあやしながら催促した。
「余計なことは考えなくていいから、さっさと弾く。莉奈が待ってる」
 窓の下には都会のイルミネーション。勝手に拝借したワイングラスに、グランドピアノの上のワインを注いでジョニーはピアノに触れる。
 ジャジーなメロディーに乗せて、俊広が歌い始めた。


 その神沢俊広が四十の若さで亡くなってからもう八年たつ。知らぬうちにジョニーはあの頃の俊広の年齢を越えていた。第一、あの時に彼が、我が子同然にあやしていた赤ん坊が十四になったのだ。
 先日、八年ぶりに顔を合わせた莉奈は、思った以上に美人になっていた。アイドルとしてデビューさせようと、冗談みたいに言ってた俊広の願いは着々と叶えられている。本人が生きていないのが不思議なくらいだ。
 どうして乳飲み子二人の世話を優子が出来たかも、今ではわかっている。
 北原家にはボディガード集団が常駐していて、子守をしていたのだ。
 未だに莉奈にはボディガードが張り付いている。
 そしてジョニーはキーを叩く。十五年前の思い出を振り返りながら。
 誰よりもピアノを愛したミュージシャンを懐かしみながら。
 [ピアノ・ブルー]はジョニーをイメージして書かれた詩だと、ライナーノートにも記載されているが、まだ未成年だった自分が夕暮れ時のバーでピアノを弾けるわけがないのだ。そんな姿が似合うだろうなどと、作詞のトマス・ウィルソンこと相澤拓哉は言ってのけたが、あの男も神沢俊広の親友だ。
 ネタはとっくにばれているし、神沢俊広の方が何といっても様になる。
 夕暮れ時のピアノバー。そして一輪挿しの赤い薔薇。
 ちょっとジャジーなラブソング。
 ジョニーはそんな大人になりたかった。
 けれど、未来はちゃんと来る。
 ピアノが子守歌にしかならなかった赤子が、歌を覚えて、人前で歌うのだ。
 せめてそれにふさわしい演奏をしてあげたい。十五年前の古びた曲なんて誰にも言わせない。
 スタジオのドアを開けてリリックのメンバーが入ってくる。
 ジョニーは五線紙をそれぞれに振り分け始めた。