その日、あたしは、彼のアルバムを久しぶりに取り出した。
 TVのワイドショーが、今更のように彼の死を告げている。
 とっくに想い出の中の人なのが、TVに映る彼が、ただ懐かしいだけの人なのが、哀しくて泣けてきた。
 でも、半分は嬉しかった。
 これであの人はようやく自由になれたのだ。
 あたしは何で自分が泣いているのかよくわからないまま、彼のナンバーの中で一番お気に入りの曲をかけた。
 もうこの世にいない人の声が、がらんとした部屋に流れる。
 話し声そのままに甘くてほんの少しだけセクシーな彼の歌声を聴いているうちに、あたしはようやくたった一つの真実に気がついた。
 やっと彼は、誰にも憚ることなく、彼だけの天使に逢えたのだ。


 その頃彼は、ようやくソロシンガーとして名前が売れてきたミュージシャンだった。
 ミュージシャン?
 違うな。彼はむしろ、役者と言った方が良かったかもしれない。
 シティポップスを奏で、横文字のサビがこよなく似合っていて、いつでも自分が歌うラブソングの主役が地でいける、そういうアーティストだった。
 洒落たスーツと、ボサノバの少しメロウなピアノの響きと、深紅の薔薇の花。
 彼に似合うのは、そんな雰囲気だった。
 あたしといえば、彼が歌うラヴソングのような恋が、街角にはいくらでも転がっていて、ちょっとした弾みで自分も、ガラスの都会のラヴストーリーのヒロインになれると信じていた愚かな女の子だった。
 でも現実にあたしに似合うのは、すり切れたジーンズとスニーカーと、化粧気のない顔で、紅いハイヒールはおろか、ちゃんとしたスカートさえ持っていなかった。
 そんなあたしが、トレンディドラマに出てくる気障な男そのものである彼に出逢えたのだから、世の中は案外捨てたものじゃなかった。
 その日、あたしはバイトで、ある作家のチャリティパーティの裏方を手伝っていた。
 片付けが済んでこれで帰れると思った矢先に、バイト代を入れた封筒を手渡しながら、お嬢さま作家が仰ったのだ。
 ――今晩、暇かしら?
 あたしは残業の話だと信じ込み、素直に頷いた。
 ところがそうではなく、これから内輪で打ち上げがあるから良かったら来ませんか、というお誘いだった。何でも、費用は全部向こう持ちで、バイトさんの慰労も兼ねているから、遠慮しないできてくれていい、ということ。
 正直言って、あたしは戸惑った。
 主催者のお嬢さま作家の本も読んだことがなければ、ゲストとしてやってきたミュージシャンの曲さえまともに聴いたことがなかったから。
 でも彼女はとっても優しそうに見えたし、ミュージシャンの彼はとてもハンサムだった。
 それに土曜日の夜をたった一人で過すよりは、只酒呑める方を選ぶ方が、遥かに建設的で賢い選択に思えた。
 そう……、今から考えれば、あの時、丁重に辞退しとけば良かった。
 これはホント正直な気持ちだ。
 あの日、彼に逢わなければ、あんな辛い夏を過さなくて済んだ。そうじゃなかったらあたしはきっと、その前の年やその後の年のように、彼氏の一人もいないつまんない夏を過ごしただろうけれど。
 でも、タイムマシーンがあってあの夏に戻っても、やっぱり彼女の笑顔に釣られて頷いただろうし、彼に恋しただろう。
 そしてやっぱり後悔するんだろう。
 彼は今でもあたしにとって、最低の彼氏で、そして最高の恋人なのだ。


 結論から言ってしまえば、彼は最悪のプレイボーイだった。
 けして本気にならない、けして本気になってはいけない恋人。それ故に、遊びで付き合う分じゃ、最高の恋人だった。
 大体今時、恋愛真っ最中の恋人だって、抱かれたくない晩に、ベッドの脇で寝物語だけ聞かせてくれるなどと、信じている女はいない。
 実際、そういう意味でも彼は自分の歌の主人公を地でいってた。
 泣きたい夜に電話をかければ、落ち着くまで甘い声で囁いてくれる。
 ある意味、これ以上ないほど残酷な男。
 君が好きだって何度もくり返す癖に、愛しているとはけして口にしない。
 あたしにとって彼は、何だったんだろう?
 わかっているのは一つ。
 あたしは彼が可哀相だった。
 あたしが、どこにも行く場所がなかったように、彼にも帰る場所がなかったのだ。
 だから、あたしは出来るだけ、彼のためになるようにそれだけを考えていた。
 たくさんのファンレターと花束、歓声とプレゼント。
 ステージの上の彼はライトを浴びて、きらめいて見えた。
 幸せそうに見えた。
 好きな音楽で食べられて、人々の憧れの的になって、幸せなはずなのに。
 どうしてなのか、あたしの前では、傷ついた子供にしか見えなかった。
 それとも、何もかも諦めてしまった老人のように。
 ――君が好きだよ。
 言葉とは裏腹に、瞳はいつでもそこにいない誰かを捜してた。
 あるいは誰も見ていなかったのかもね。
 ――君は僕が好きだね? 今は僕しか見てないね? ここにいる僕を見てるね? ステージの上じゃなくて……。
 何度もくり返し何かを確かめるように、彼は訊いた。
 だから、あたしは何度も答えた。
 ――あなたが好きよ。どこにも行かない。あなたが望む限り、ここにいてあげる。愛しているわ……。
 信じなかったね。だけど、彼は最後まで。
 あたしは本気だったのに。
 それとも?


 ――あたしはあの人の代わりなの?
 あたしが彼と知り合う切っ掛けになったパーティの、主催者であるお嬢さん作家。
 結婚しているとは思えないほど、少女めいた雰囲気を持つ人。
 彼は彼女の旦那様とも親友で、だから、身代わり。
 寝言で呼んだ名前。
 ――違うよ。彼女は関係ない。
 彼の言葉は正しかった。
 信じなかったのは、あたしの方。
 まるで、悪いことをしているような顔で、引き寄せる腕も、歌声と同じに甘くてセクシーな口唇も、あたしだけのものだったのに。
 少なくともその瞬間は。
 他の誰が好きでも、遊びだけで女を抱ける人じゃない。あたしのこともちゃんと好きでいてくれたんだ。そう、今ならわかる。
 彼にとっての一番になれなくても。
 たとえそれが愛と呼べる感情でなくても。
 つまらない嫉妬心にかられたのは、あたし。
 気づいても遅いけど。
 なのに、あたしは彼女に逢いに行った。
 彼女はあたしが来たことを全く驚いていなかった。
 彼がもしかしたら、あたしが怒鳴り込むかもしれない、と電話をかけてきた、と彼女は言った。
 嫌になるくらい、暑い日だった。
 彼があたしを抱く時にかく汗にどこか似たような、熱を帯びた空気が、彼女とあたしの間に漂っていた。
 彼女は窓を開けた。でも、風も入ってこない。
 冷たいくらいに見える雲一つない青い空。暑い夏なんてほんとはないのかもしれない。
 窓越しの空を見上げながら、あたしはほんの一瞬そう思う。
 ふと彼女に目を移すと、まるで鏡を見てるみたいに同じような格好をしてた。
 涼しげな、麻の長袖の白いシャツの袖をまくりあげた、細身のジーンズ姿。
 なのにやっぱり彼女はお嬢さまに見えた。
 ――クーラーを入れた方がいいかしら?
 あたしは首を横に振った。
 そんなことどっちでも良かった。
 あたしは、彼女にくってかかった。
 ――彼があなたのこと好きだって知っているのに、こうして怒鳴り込んだ女に気を使えるなら、どうして気持ちを受けてやらないの?
 ――私も身代わりなの。あの人が愛しているのは私じゃないわ。いっそ、愛してくれたらいいのに。
 ――じゃあ、彼があなたを愛したら、あなたは旦那さんと別れられるの?
 ――それは出来ないわ。けれど、彼と向かい合うことは出来る。だって私は生きているんだもの。答えをあげられるわ。好きでも嫌いでも。
 今にも泣き出しそうな目で、あたしを見据えながら、彼女は続けた。
 ――あの人は、抱くことも出来なかった誰かと、私を重ねているだけよ。彼にとって、あの娘も私も夢の中の恋人なの。私にとっての彼が、そうである以上に。
 ならば、あたしは彼にとって現実だとでもいうの?
 それはどういう意味なんだろう?


 一度だけ、彼が愛した少女の写真を見たことがある。
 彼女の元から帰ってきたあたしに、彼が見せてくれたのだ。
 愛しげに手のひらで写真を抱くその仕草で、彼の言葉が本当だってわかった。
 今はもういないその少女は、確かにあたしが喧嘩をふっかけたお嬢さま作家に似ていた。
 顔立ちもそうだけど、同じタイプの人間だと一目でわかる。
 手に触れただけで壊しそうな気さえする、ガラスケースに収められた陶人形。
 ――こういう人が好きなら、どうしてあたしなの? セックスフレンドなら、そういう場所で見つければいいじゃない。人気アーティストの肩書きだけで、金を払ってでも寝たがる女はいくらだっているわ。
 彼が女をセックスの対象としてだけでは見てないとわかってても、あたしはそんな憎まれ口を叩いてしまう。
 ――君は僕に似ているんだ。寂しがり屋の甘えん坊で、だけど、不器用でそれを表に出せない。
 お嬢さま作家が帰り際に言った。
 ――彼はあなたの前ではどんな顔を見せるの? どんな風にあなたを抱くのかしら?
 清純な無垢な乙女に見えても、この人も女なんだ。
 そう思い知らされる一言だった。
 きっと、彼女も彼が好きなのだ。
 一番目じゃなくても、多分、友人以上の感情で……一人の女として。
 ――私じゃ何もしてあげれないから。彼をお願いします。
 そう、彼女は深々と頭を下げた。
 ある意味、それが一つの切っ掛けかもしれない。
 それとも、彼が本当に愛する少女のことを知ったせい?
 あたしは確かに彼に恋してた。愛していたと今でも思う。
 でも、そんな想い、彼にとってはきっと負担にしかならないと、あたしは思い込んでしまった。
 だって、彼はあたしを愛してはいないのだから。
 だった一人しか愛せない、不器用な男。
 それでも彼はあたしと別れるとは言わなかった。
 今ならわかる。彼はあたしを手離すつもりなどなかったのだ。
 少なくとも、あたしが彼から離れたいと口に出すまでは。
 なのに、あたしは疲れていった。
 愛している。彼のためなら何でもしてあげたい。傍にいてあげたい。心ごと抱いてあげたい。
 でも、彼とあたしが同じ種類の人間なら、あたしにも何も考えずにただ甘えられる存在が必要なのだ。
 彼にとってあたしは本当の自分を出せる場所だった。
 愛でも、恋でもなく。同胞として。共犯者として。
 あるいはもう一人の自分として。
 愛する男のためなら、女は天使にさえなれる。
 でも、それは自分が愛されている場合だけだ。
 見返りを求めずに、ただ愛し続けられるほど、あたしは強くなかった。
 自分のことだけで精一杯なのに、ひと一人抱えて生きられるなんて、出来るわけもなかった。
 だから、あたしは逃げ出した。
 彼がそんな想いに気づく前に。
 彼の口から別れようと言われる前に。
 なのに、彼は言った。
 ――振り回してごめんね。本当は僕から切り出さなきゃならなかったね。
 あたし、そう言って微笑んだ彼の顔を一生忘れないだろう。
 これほどまで彼が傷つくなんて、その時まで、あたしは全くわからなかった。
 誰よりも彼をわかっていたつもりなのに。
 言い出したのはあたしなのに、結局振られたのはあたしの方なのに、でも振られた顔していたのは、彼の方だった。
 もう一度と言って、キスをせがんだあたしに、彼がくれたキスは、あの日見た青空のように冷たかった。
 それが、唯一、彼があたしからもらった勲章だった。


 彼の死後、バンド時代の彼の伝記が出版された。
 著者は、天野優。あたしも知ってるお嬢さま作家だ。
 それには、優子という、彼女の本名と同じ名前の、彼が愛した少女のとのいきさつについて記してあった。
 少しだけためらって、あたしがその本をレジに持っていった時、会社帰りに待ち合わせた夫が現れた。
 ――神沢俊広なんてファンだったけ?
 ――昔、ちょっとね。
 軽く笑い、あたしは本を抱えてない腕を夫の腕にからめた。
 今年の夏はまだ始まったばかりだ。
 でも、暑くなりそうな予感がする。
FIN



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