僕が見つけた少女


僕が見つけた少女


「レイくん」
 幼い声が耳元でするのと同時に、身体を揺すられた。
 僕は微睡みから目覚める。
「レイくん、おはよ」
 夢の中の少女と同じ黒い瞳が無邪気に微笑んだ。
 母親譲りの面差しをそのまま受け継いでいる当家の愛娘、莉奈に僕はにっこりと笑いかけた。
「おはよう」
 莉奈は満足気に頷くと、くるっと振り返り、大声を張り上げた。
「ママ! ママ! レイくんおきた!」
 バタバタと元気に駆け回る莉奈の手を、脇からぬっと出てきた同じ年頃の幼女の手が掴んだ。
 保護者がツアーに出かけたために、いつものごとく、昨日からこの家で預かっている竹本偲だ。
「バスがくるよ」
 生まれたのが一ヶ月も違わないのに、その僅かな時間が成長の差に繋がったのか、偲の方が大人びている。ミュージシャンという仕事のために、留守がちの保護者に、この家に預けられるのが多いために、大人になってしまったんだろう。僕を含めた周りの大人たちは分け隔てなどしていないのだが、やはりここが『よそのお家』である事実は変えられないようだ。
 甲斐甲斐しく鞄を持たせ、黄色い帽子を被せると、偲は改めて莉奈の手を繋ぎ直した。
 そのまま二人仲良く玄関へと向う。
 執事の坂田さんが二人をバスに乗せるべく一緒に出て行く気配がした。
 僕は立ち上がって窓辺に向った。黄色い幼稚園バスがマンションの前に停まった。
「玲、紅茶でいいかしら」
 背中で優の声がした。子供達がバスに乗り込むのを見守りながら、僕はふとこんな言葉を零していた。
「もし、僕らが幼馴染だったら、同じように手を繋いで幼稚園バスに乗っていたかな?」
「玲に帽子を被せてもらってね」
 優が微笑みながら、僕に紅茶入りのマグカップを差し出した。
「でも、もしかしたら、もっと以前に逢っていたかもしれないわ」
 今朝見た夢のように?
 言葉に出さずに、僕はそう問い掛ける。
 だが、僕らが実際に初めて出逢ったのは、大学の入学式の時だ――


 初めて見つけた時、優は迷子の子供の目をしていた。
 今でも時々そんな目をすることがある。
 商売柄、意外と繊細であるせいなのだが、当時の僕にはわかるはずない。
 道に迷った訳じゃない。彼女は教室にちゃんとたどり着いていたし、学籍番号順に座った席も誤りではなかった。
 名前は後で知ったのだが、彼女は天野優子と言い、水原玲と言う名の僕の近くの席にいた訳ではない。
 彼女は僕に気づいてもいなかったはずだ。彼女は僕から見て斜め前方の席にいた。だから僕にはすぐにわかったのだ。
 そして、不可思議な感覚。
 僕は彼女を知っていた。
 高校が違う彼女とは面識はもちろん無い。
 初対面のはずだ。
 彼女なのだろうか? まさか?
 夢をそのまま信じるほど、僕は神秘主義者でもロマンティストでもない。
 でも知っている。何故だ。
 彼女は、道ですれ違った時に思わず振り返りたくなるほどの、際立った美貌の持ち主ではない。
 どちらかと言えば、可愛いと形容される美しさだ。
 あれで髪が長ければ、また違った見方もできただろう。だが、痛々しいとさえ思えるショートカットが、まだなじんでいない状態に思えた。
 僕はじっと彼女を見つめた。視線を感じて彼女が振り返っても、僕は構わなかった。
 実はそれを少し期待してたのだが、期待が報われることもなく終了のチャイムが鳴り響いた。
 各クラスでの説明が終われば、後は個人行動のオリエーンテーションだ。
 彼女に連れはいるのだろうか?
 いないとしたら、声をかけるチャンスも増える。
 そして、彼女に連れがいないことを僕は確信していた。
 もし連れがいるならば、あそこまで神経質にならないだろう。
 教授が教室を出ると、さっきまでの静けさが嘘のように、教室内が騒がしくなった。
 彼女は、そのままぼんやりと、窓の外に目を向けた。
 彼女が微かに目を見張ったので、僕は窓を見た。彼女と同じ表情が自分の顔に広がるのがわかった。
 教室に残った学生が窓を指さし「雪だ」と騒ぎはじめた。
 四月の初めだ。そう珍しいことでもない。
 僕が驚いたのは、あの夢の桜吹雪が、こうして眺めている雪によく似ていたからだ。
 確かに、僕と彼女は桜吹雪の中にいた。
 彼女が僕を知らないことも忘れて、僕は彼女を振り向いた。同意を求めようとしたのだ。
 だが、教室の中に彼女はいなかった。
 目を放した隙に消えてしまっていた。
 僕は彼女の姿を探して窓から外を見た。学校での全員参加の行事は終わっていたし、帰ったと思ったのだ。
 明らかに彼女と思われる人影が、校門の方へ歩いて行く。
 校門には僕が一生乗ることのないだろう黒塗の車が停まっていて、彼女はその助手席にためらいもなく滑りこんだ。
 僕が唖然としている間に、リムジンは彼女を乗せたまま走り去った。
 雪はとうにやんでいた。
 
 
「で、何。僕に頼みなんて」
 待ち合わせてた喫茶店で、僕は叔父にそう訊いた。
「実は守って欲しい女の子がいるんだ」
 僕は一瞬、何を言われたかわからなかった。
「僕は普通の大学生だ。いくら、体術に自信があるといっても」
「そんなことははなから期待しちゃいないさ。先方が望むのは精神的なガードだ。つまり話し相手になって欲しい、と言うことだな」
「ちょっと待って。叔父さんは一介の編集者だろう。何でまた」
「これも仕事のうちさ。その子は今度うちからデビューする大型新人でね、年はお前と同じ、ついでに言うなら学校も同じだ」
 僕は呆れて物も言えなかった。
「大学の一年と言えば立派な大人だ。まして小説家としてデビューするならそれなりの考えを持ってるはずだ。彼女に対して失礼だろう?」
 叔父は溜息をついてコーヒーを飲んだ。
 僕はスパゲティを口に運ぶ。もちろん、叔父の奢りだ。
「俺もそう思う。だがそれも、彼女をデビューさせる上での条件の一つでね」
「条件の一つって、まだあるの?」
「条件は彼女の素姓を明かさないこと。そして、彼女の精神的な支えとなる人間を傍につけること」
 僕は呆れて言った。
「まさか、彼女自身がそう言ってきたんじゃないよね?」
 叔父は大きく首を横に振った。
「彼女は素直でいい子だよ。確かに守ってあげたくなるタイプの子ではあるけどね。それにデビューについても、ちゃんとうちでの新人賞に入選した結果だ。二世タレントじゃないんだ。親の七光が通用する世界じゃない。手放すには惜しい存在だ。俺が言うんだから間違いはない」
 僕は適当に相槌を打ちながら叔父の主張に耳を傾けた。
 叔父の自信過剰は当てにはならない。
「複雑そうだね。で、彼女のお名前は」
 叔父は、鞄から茶封筒を取り出した。
「引き受けてくれるのか?」
「彼女の素性を聞いてからね。別段知ったからと言って命が狙われることもないだろうけど」
「ゼロとはいえないさ。十年前、彼自身も命を狙われ優秀な側近が死んでるからね。その時、死んだ男の妻が子連れで彼と再婚して、今、後継者問題で揺れている。彼女がいなくなれば確かにその女の息子が後を継ぐ訳だ」
「……まさか。天野コンチェルンの会長令嬢?」
 死んだのは、彼の首席秘書で、咄嗟に会長をかばったらしい。
 銃では撃たれた上に、バランスを崩してコンクリートに頭をぶつけて即死した。
 今時、珍しい忠義者と当時、新聞や週刊誌でずいぶん騒がれた話だ。
「そうだ」
 短く言うと叔父は、茶封筒の中から一冊の本を差し出す。
『夢幻舞踏会 天野優』
 表はそうシンプルに記されてるだけだった。
 裏の著者近影を見て、僕は本を取り落としそうになる。
 彼女だった。
 僕が見つけた少女が著者近影で、ぎこちなく微笑んでいた。
 

 結局、僕は叔父の依頼を受けた。
 とはいえ、その場で即答したわけではないし、叔父もある意味、考える余裕を与えてくれた。
 二日後、担当作家の自宅に詰めている叔父から連絡があった。
「でも、どうやって声かければいいのかな」
 携帯の液晶画面の中で叔父は苦笑いした。
 実を言うと、写真を見た途端、僕は十分その気になっていたのだが、天野会長の許可が降りていない。
 彼女のボディーガードがあの喫茶店で僕を観察し、天野会長のお眼鏡にかなって初めて僕に役が与えられることになっていた。
「天野会長はお前を気に入っていたよ。でも、本当にいいのか。俺だって天野会長の警戒ぶりに不審を感じているんだ。それに、俺はお前にこれ以上負い目を感じたくない」
「叔父さんのせいじゃないよ」
 僕はそう叔父に笑いかけた。
「それにここまでくればもう趣味だから、他人にとやかく言われたくない。天野会長だって、単に愛娘を溺愛してるだけだろう。ここまで優秀なボディーガードがついているなら、僕だって平気さ。ただ問題は」
「そんなもん、彼女にお友達になりましょうって言えばいい。別に不自然でもなんでもないだろう」
 今度は、僕が苦笑いする番だった。
「簡単すぎてうまく行かないこともあるさ」
 僕はそう言って携帯を切った。


 チャンスは思っていたよりも早く現れた。
 別に人見知りするたちじゃないが、叔父の言うようにナンパする気になれないでいた。
 そんな僕に、タナボタ型式で幸運が舞いこんできたのだ。
「ねえ、君、噂に聞いたんだけど天野家の御令嬢って本当?」
 見るからに軽薄そうな男が、彼女の傍で話しかけていた。
「知らないわ。人違いでしょう」
 意外に勝ち気な口を、彼女はきいた。
「君がリムジンに乗るのを見たんだよ」
「助手席でしょう? 深窓の御令嬢なら後部座席に乗るものよ」
 僕は面白がって様子を見ていた。
 確かにそれはそうだ。ならば何故、彼女は助手席に乗るのだろう?
「それならそれでいいさ。お茶でもどう?」
 僕は二人に近づいてこう声をかけた。
「優、こいつ誰だ?」
「知らない人」
 彼女は平然とそう言った。
「ふーん。僕の彼女に何か用?」
 一睨みすると、男はそそくさと逃げ出した。
 彼女はそっと息を付くと僕に微笑みかけた。
「ありがとう。助かったわ。でも、女の子がすることじゃないわ。助けてもらってこういうのも何だけど」
 僕は、咄嗟に何て言ったらいいかわからなかった。
 自分でいうのも違和感があるが、彼女の言葉通り僕は女だ。
 しかしながら、短い髪とおとこっぽい顔立ちに加えて、身につけるものはメンズファッションだし、知っての通り言葉使いも男のものだ。
 叔父に言った趣味というのはこれである。今では大抵の人が僕を男と思う。
「初めましてかな。天野優子です。あなた、水原玲さんでしょう?」
「どうして、僕の名を?」
「坂田さんから聞いたの。坂田さんって、私のボディガードのリーダー。さっき話に出てたリムジンの運転手さんをしてるわ」
 優はけろっとした顔で言った。
 僕は何て答えていいかわからなかった。
 それで、こう訊ねた。
「君はどうしてリムジンの助手席に乗るの?」
「なら私も訊くわ。どうして女の子なのに僕というの?」
 僕は彼女になら話していい気がした。
 どうしてかわからない。
 やはりあの夢のせいだろうか。
「場所を移そう」
 僕等は人気のない教室に入り、窓辺の席に座った。
「君の編集者の立川さん。僕の叔母の旦那さんなんだ。つまり叔父さんな訳。でも、昔は近所のお兄ちゃんだった。ところが、彼はうちに遊びにきていた母の妹に恋をし、彼女と結婚した。ここまではよくある話。でも、彼女を紹介したのは僕なんだ。一緒に買い物行くって言う約束を忘れていて、近所で遊んでいたところを捜しにきた叔母さんにね。ところで、お兄ちゃんは僕に、玲が男の子みたいじゃなくなって女の子らしくなったなら、お嫁さんにしてやるといってた。結婚式で無理やりワンピースを着せられた僕は、男の子がふざけて女の子の服を着てるようにしか見えなかった。それで、やけになったんだよね。お兄ちゃんとの約束は破棄されちゃったし、男の子なら男に恋することもない」
 彼女は茶々を入れることもせず、僕の話をじっと聞いていた。
「で、そのままなのね。立川さん、知ってるの?」
「知ってる。でも」
 僕は真っ直ぐ天野優子を見た。
 今の優の瞳には、警戒心の破片もなかった。
「君が、迷子の目をし続ける限り、僕はこうしているよ。女の子が女の子を守るなんて変だけど、そうするのが自然な気がする」
 優は安心したように微笑んだ。
「不思議ね。あなたが私を優と呼んでくれたとき、この人は信頼出来るって思った。だから大丈夫って。私達いいコンビになると思う」
 僕はその時、いつか彼女に夢の話をしようと思った。
 彼女なら笑わずに聞いてくれるような、そんな気がした。