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発責 大館市東台6-5-83 鷲谷豊
北羽歴史研究会 会報 NO.232 2011(H23)年4月1日
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■ 4月19日 通例学習会を開催します。
通例学習会を開催 4月19日(火)13:10〜15:30於大舘市中央公民館
記
テーマ1、『比内町史資料編』等に見る
近世期の鉱山用語とその周辺 …… 丸屋 悧
2、津軽の比内浅利攻めについて …… 鷲谷豊
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■ 3月18日古文書学習会終了。 『御高調帳』『黒印御定書』にみる
秋田藩百姓の年貢高。千葉講師。 …佐竹石見殿家禄高一万三千石とは…当高とは、
免六ツ成とは… 上田一反当り生産量を籾六石とす…清和天皇西暦八六九年十月
十三日陸奥地震のため同国の租税免除… 秋田郡八木橋村物成并諸役相定条々…
◆当会会員の田中實さんから参考書の提供紹介…1、『年貢―佐竹氏秋田
藩の台所事情』渡部景一著・無明舎出版・285p 2、『秋田藩の検地と黒印御定書
考』永田芳蔵著・無明舎刊247P 3、『近世田租法の研究・秋田藩渋江田法の実態』
菊池仁著・岩田書院刊・349p …以上三冊鷲谷預り・調べてみたい方に貸出ます。
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■ 5月実地研修会の予定を7月に延期します。
「常陸国佐竹氏の史跡探訪と袋田の滝紀行」のテーマで5月実施予定でしたが、
この度の東北関東大地震大津波による状況により、実施を7月まで延期することと
します。常陸大宮市の予約旅館は無事で問題なしとのことでありましたが、世事地
域状況の事もあり延期とします。5月頃以降に改めて状況により、参加募集、予定
内容等を周知する事とします。よって5月6月は講座古文書学習会等となります。
◆ 秋田歴研協第17回大会 5月29日。於秋田市・あきた文学資料館、午前
10時〜総会。午後1〜4時・春の歴史フオーラム、テーマ・久保田城下のくらし文
化(パートV)、・パネリスト1菅江真澄の『久保田風俗文文書』を軸に、田口昌樹氏(菅
江真澄研究会会長)、パネリスト2「角館城下のくらし・文化」高橋雄七氏(元角館町長)、
コーデネーター・半田和彦(歴研協副会長)。資料代300円、どなたも参加できます。
◆会費を二五九(ニゴキュウ)店から振込みされた方にお願い。ゆうちょ銀行廻りで
入金になりましたが、送金者の名前は通知されてきません。どなたの送金かの通知
なしシステムで不明です。お手数ながら42-5656鷲谷へ氏名通知をお願致します。w
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◆史話 雄勝郡明治村の人と「八人塚祭」 丸 屋 悧
明治の後期、県議として船川築港に政治生命をかけ、私財をなげ打つたことで
られる大物政治家大日向作太郎は、雄勝郡下でも有名な明治村の旧家の第32代当
主で、故畠沢恭一県議の母フミは作太郎の姪であり、畠沢氏は明治村でうまれてい
る。大日向家のルーツについて進藤康雄(元毎日新聞記者)はその著書で次のよう
に記している。
「一族の言い伝えによると大日向家の歴史は、今から約7百年前の鎌倉時代にさか
上る。初代当主は日向国(宮崎県)延岡城主堀内和泉守。戦いに敗れ羽後国雄勝郡
にまで落ち延びると、その地を掘内と名付け帰農したという。和泉守が羽後に落ち
延びてから間もないころ、延岡時代の家来8人が後を慕って追いかけてきた。8人
は口々に「お家再興」を唱え、かっての殿様に再び武器を取るよう懇願したが和泉
守は応じようとしなかった。「戦いはむなしい。余は百姓になった」。8人はあきら
め引き下がったが、今さら日向に帰るわけにもいかぬ。そこで殿の耕す堀内の田ん
ぼの見える山にのぼり、塚を築くと主の弥栄を祈りつつ自刃した。 この日がちょ
うど5月5日、自刃した場所が石碑の立てられている位置で、一族は「八人塚」と
呼ぶ。小さな石碑には、文政5年(1822)建立とある。一族は「八人塚祭」とし
て毎年、先祖の家来の命日に集まっては冥福を祈っている。昭和に入って一時中断
したが、戦後の21年になって、新たな石碑を建立。それからは毎年欠かさず祭り
が行われているという」(『破邪顕正』)。畠沢氏も何度か参加している。
旧明治村は、明治22年に施行された市町村制度により、水沢、林崎、払体、堀
内、新町、大沢の6カ村が合併して新しい村となった。明治時代に誕生した村とい
うことで「明治」が村名となった。さらに昭和30年に西馬音内町と明治、三輪、
元西馬音内、新成、田代、仙道の6カ村が合併して羽後町が成立し、明治の村名は
羽後町の地区名として残る。
堀内村の名について「ホリノウチ」は墾(ホリ)の内で開墾地であるとか、「戦
国時代日向国延岡の城主祝子氏(はふりうじ)が落人となって当地にきた」「祝子
氏によって開かれた村だから〔はふりうじ村〕それで〔堀内村〕になった」と、祝
子氏に地名の由来を求める説が地名辞典に見える。
作太郎は、政治活動などで田畑山林180ヘクタール、堀をめぐらせた広壮な邸
宅まで人手に渡し、精根を傾注した船川港の完成を見ぬまま生涯を閉じたが、その
意志は引き継がれのちに船川港は立派に完成する。世俗的にはかまど返しだが、「名
誉ある没落」と一族にはこれがまた誇りのタネだという。
【参考図書】木村和一編『畠沢恭一の生涯』、進藤康雄著『破邪顕正』、
羽後町教育委員会発行『明治の地域誌』、秋田魁新報社発行『秋田人名大辞典』、
角川書店『日本地名大辞典』、その他。
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