国指定重要文化財(建造物) 
 旧 五 輪 教 会 堂 

旧五輪教会内部
   旧五輪教会は、下五島久賀島の東部、奈留瀬戸に面した海岸の低地にあります。1931年(昭和6年)頃、現在の浜脇教会堂を新築する際に、旧浜脇教会堂を解体して五輪の地に移設して教会堂としたものです。旧浜脇教会堂は、1881年(明治14年)に建設されたとの記録があります。
 1985年(昭和60年)にカトリック長崎大司教区から福江市に寄贈されました。
 教会堂の屋根は単層構成で、桟瓦葺きで、鐘塔はなく、屋根の先端に小さな十字架が置かれています。壁は漆喰仕上げと下見板張りとなっています。窓が教会特有のポインテッド・アーチであることを除けば、外見は民家風です。
 会堂部は3廊式平面で、各廊に対応して3つの出入り口があります。堂内は板張り、リブ・ヴォールト天井となっています。内部の意匠は純教会様式を用いたものの、建築本体は地元工匠による和風建築です。
 この旧教会は長かった禁教が解け、各地に教会堂が建築され始めた明治初期に建てられた木造教会堂として、貴重な建造物といえます。
旧五輪教会内部(主廊部)
旧五輪教会内部(左廊部) 旧五輪教会内部(右廊部)
 旧五輪教会堂 主廊部 
左側廊部右側廊部
用 語 解 説
桟瓦葺 瓦屋根の一種。主として桟瓦(断面が波型の瓦)を用いて葺いたもの。
下見板張 板の長辺を横方向にして、板が互いに少しずつ重なり合うように張った板壁。
ポインテッド・アーチ ポインテッド・アーチ
尖りアーチ。長さの等しい半径を持つ二つの円弧を頂上で接触させて尖頭形にしたアーチ。
リブ・ヴォールト リブ・ヴォールト ヴォールトとは、アーチをもととした曲面天井の総称。同形の2つの半円筒型ヴォールトが直角に交差した交差ヴォールトの稜線の下側に太いアーチを掛け渡して補強したヴォールト。
所在地福江市蕨町993番地11
1999年3月19日、国指定重要文化財(建造物)に指定答申

         資料提供:長崎県教育庁文化課
五島のキリスト教
 1566年(永禄9年)、五島の第18代領主、宇久純定の希望でポルトガル人の医師で修道士のルイス・デ・アルメイダが日本人の通訳とともに五島に渡りました。2人は福江の城下町や奥浦で説教を行い、約150人が受洗し、教会が建てられました。翌年、純定の子、純堯(すみたか)がアルメイダの後任のモンチ神父より洗礼を受けました。純堯は熱心に布教を行い、上五島にまで布教を行いました。1576年(天正4年)純堯が第19代領主となり、領内には2,000人の教徒を数えるまでになりました。
 しかし、秀吉のバテレン(伴天連)追放令は五島にも及び、キリシタンの苦難の時代が始まりました。さらに、1612年第22代領主となった盛利は、1614年2月1日(慶長18年12月23日)に出された江戸幕府の禁教令に従って1626年(寛永3年)、キリシタン入島禁制の高札を立て弾圧を強化しました。
 長い鎖国が終わった1865年(元治2年)、長崎には大浦天主堂が落成しました。長崎の宣教師と交流を持った五島久賀島のキリシタンは、1868年(明治元年)仏寺や神社との縁を切り、自らの信仰を守りたいと申し出て検挙されました。幼児から老人までの200人のキリシタンたちは久賀島松ヶ浦のわずか6坪(約20平方メートル)の仮牢(牢屋の窄)に押し込められ、8か月にわたり責めを受け42人の殉教者を出しました。このような弾圧は、1873年(明治6年)信教の自由が認められるまで3年間、五島の各地におよびました。
 1877年(明治10年)フランス人宣教師が来島し、1879(明治12年)にマルマン神父により福江市奥浦堂崎に仮聖堂が建てられ、キリスト教が復活していきました。


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