佐賀県と長崎県境の自然、多良山系 経ヶ岳、多良岳、五家原岳 |
多良山系は佐賀県と長崎県の県境にあり、南の雲仙岳より早い時期から長期にわたる火山活動でできた山地のため、
植物の種類がが多く、植物の宝庫といわれています。代表的なものとして、マンサク、ツクシシャクナゲ、オオキツネノカミソリ、センダイソウなどが見られます。また緑のダムとして両県の水資源に大切な役割を果たしています。
この山系の最高峰である経ヶ岳(1,076m)は、佐賀県内の山としては背振山(1055m)、天山(1046m)を抜いて一番高く急峻な山で、 多良山系の主峰の貫禄を示しています。修行僧が経本を山頂に納めたことから、この名がついたと伝えられています。 頂上は狭いが低い潅木に覆われており、佐賀県から長崎県にいたる360度の景色が楽しめます。また頂上直下の南壁はロッククライミングの岩場として有名です。 その南東にある多良岳(983m)は、僧行基が多良嶽三社大権現を開創したといわれ、弘法大師が神宮寺として創建した金泉寺があります。多良岳が古くから信仰の山として親しまれていた関係で、標高は低いがこの山系がこの名前で呼ばれるようになったものです。現在は、山頂に多良嶽神社上宮が、麓の太良町には多良嶽神社が祭られています。 最南部にある五家原岳(1,058m)は多良山系では2番目に高く、諫早湾の向こうに雲仙岳を、そして有明海を越えて遠くに九州山地の山々を眺ることができます。北側の急斜面から多良岳に向かう山道には、コミネカエデ、ヤマボウシ、ベニドウダン、マンサクなどの広葉樹があり、ツクシシャクナゲの群落もあります。 1999(平成11)年3月16日に岩屋越しの下に平谷黒木トンネル(総延長1889m:佐賀県側1160m,長崎県側729m)が開通して国道444号線が完成し、佐賀県鹿島市と長崎県大村市が最短距離で結ばれました。 この山系は一峰登山、縦走登山、ロッククライミングなど色々な山行きが楽しめます。 大村市側からの登山口、黒木にはキャンプ場、民宿がととのっています。 また、平谷黒木トンネルの鹿島市側入り口近くには平谷温泉があります。 |
多良山系の自然と植物 |
「水源の森百選」に選定された 多良岳の水源の森 多良山系は麓から700m前後までは、クス科、ブナ科などの常緑広葉樹が多く、標高700mを越すと、 カバノキ科、カエデ科などの落葉樹が多い温帯植物帯となっています。 南方系、北方系、大陸系などの植物を交えた複雑な植物相となっています。 山系のあちこちに清冽な清水が湧き出しています。 |
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ツクシシャクナゲ (↑撮影:'02,04,22 晴れ) (↑撮影:'03,04,27 晴れ)
伸びても3〜4mほどの常緑低木。ツツジの仲間で、多良山系の平地では4月中下旬、山地では5月上旬に開花します。 葉は長さ15cmほどの長円形の厚い革質で、裏面に茶色の綿毛が密生しているため、全体が茶色に見えます。 花は漏斗形で7裂、おしべ14本、花径数cm。枝先に10数個集まって咲きます。咲きかけのつぼみのうちは濃い鮮紅色で、咲くにしたがって紅色と薄くなり、満開のころは乳白色に変わります。太良地方では「しゃくなんぞう」といわれています。 |
オオキツネノカミソリ (↑撮影:'03,07,28、曇。西野越下にて↑)
ヒガンバナの仲間で、7〜8月にヒガンバナに似た橙赤色の花をつけます。 花が終わると、秋から冬にかけて葉を伸ばし、晩春には枯れてしまって、花が咲くまで休眠する変わった性質をもっています。多良山系のはキツネノカミソリより大きいといい、オオキツネノカミソリと呼ばれます。 |
マンサク
マンサク科に属する日本特産の落葉低木。多良山系では3月頃、葉の出る前に前年枝の節に数個の花を開きます。花弁は4裂の線形で黄色です。春一番に開花することから、「先ず咲く」が名前の起こりといわれています。 |
アオモジ (↑撮影:'03,03,09 午前中曇り、経ヶ岳積雪あり。午後晴れ)
クスノキ科の仲間。樹皮は青みを帯び、香気がある。同じ科に属するクロモジ(黒文字)と共に楊子の材料にされる。多良山系の中腹から海岸近くの雑木林まで広く分布している。林が伐採されると最初に発芽してくる緑のパイオニア。ショウガノキ、トウゴシュ、仏さんバナ、卒業バナともよばれます。花芽を揉むとショウガの臭いがします。 |
経ヶ岳の霧氷 (↑撮影:'06,01,23 晴れたり曇ったり一時雪)
霧氷は気温が氷点以下に下がったとき、湿った気流が木の枝等に当たり、氷となって付くものです。 多良山系でも冬季に経ヶ岳や笹岳、多良岳などに見ることができます。 |
多良岳民謡「ざんざ節(岳の新太郎さん)」 |
金泉寺の寺侍・原口新太郎は文化・文政(1804〜1829)頃、高来町神津倉(注1)の生まれといわれ、美男の誉れが高かった。里の乙女たちは女人禁制の山を恨みながら、麓の金泉寺別院(医王寺)に里下りをする新太郎を一目見ようと思い焦がれたという歌。
岳の新太郎さんの下らす道にゃ ザンザザンザ 金(かね)の千灯籠ないとん明かれかし イロシャノスイシャデキハザンザ (注2) アラヨーイヨイヨイ ヨイヨイヨイ 岳の新太郎さんな高木の熟柿(じゅくし) ザンザザンザ 竿じゃとどかぬ登りゃえぬ イロシャノスイシャデキハザンザ アラヨーイヨイヨイ ヨイヨイヨイ 岳の新太郎さんの下らす宵は ザンザザンザ 紅を濃ゆめにつけて出る イロシャノスイシャデキハザンザ アラヨーイヨイヨイ ヨイヨイヨイ 岳の新太郎さんの上らす道にゃ ザンザザンザ 道にゃ水かけ滑めらかせ イロシャノスイシャデキハザンザ アラヨーイヨイヨイ ヨイヨイヨイ 岳の新太郎さんな山芋の古根 ザンザザンザ 今年や(ことしゃ)去年より若こござる イロシャノスイシャデキハザンザ アラヨーイヨイヨイ ヨイヨイヨイ 傘を忘れた山茶花の茶屋に ザンザザンザ 空が曇れば思い出す イロシャノスイシャデキハザンザ アラヨーイヨイヨイ ヨイヨイヨイ (注1) 医王寺があるあたり。出生地については、多良町他の説があります。 (注2) 「色者の粋者で気はザンザ」ともいわれています。 ・歌詞は諸説あるので、もっともわかりやすいように選びました。 3番目の歌詞は橋本野酔の作によるものといわれています。 |
登山コース |
・経ヶ岳コース 鹿島バスセンター−柿原−奥平谷キャンプ場−馬の背峠 −平谷越−経ヶ岳頂上(柿原から頂上まで約3時間半) 復路:往路に同じ (縦走の場合) 経ヶ岳頂上−平谷越−(右折して中山越への道を取る)−中山越 −(十字路で左折して林道)−中山キャンプ場−中山バス停=太良町 大村駅前=黒木バス停−八丁谷−中山越−経ヶ岳頂上(黒木から頂上まで約2時間半) 復路: 経ヶ岳頂上−つげ尾−黒木バス停=大村駅前(頂上から黒木まで約2時間半) ・多良岳コース 多良駅=中山バス停−中山キャンプ場−金泉寺分岐−多良岳頂上 (中山バス停から2時間半) 復路:往路に同じ [付記] ・コースの時間は、バスを降りてから歩く時間。このコースはバスの便が少ないのでバスの確認が必要です。 ・大村駅前=黒木間のバス所要時間は約40分。一日約7往復。 (登山、山に関する説明は大村市山岳会会長池野和義氏に協力して頂きました。) |
多良嶽神社上宮 | 多良嶽山金泉寺 |
多良嶽神社と多良嶽山金泉寺
709(和銅2)年、僧行基が釈迦、弥陀、観音を祀り多良嶽三社大権現を開創したと伝えられています。 平安時代初期に弘法大師(空海)(774〜835年)が修行し、 自ら不動明王を刻んで本尊として金泉寺を創建し、多良嶽神社の神宮寺としました。 ルイス・デ・アルメイダから洗礼を受けた領主大村純忠の庇護を受けた大村キリシタンによって、 1574(天正2)年(注1)に焼き討ちにあい神殿、仏殿などをことごとく焼失しました。 舜恵法印は本尊を背負って麓の高木町神津倉に逃れ、真言宗金泉寺別院(後の医王寺→)を建てて移しました。 禁教令が徹底し、キリシタンの勢力が衰えた1663(寛文3)年、覧海法印によって金泉寺が再興されました。 真言密教の霊山として栄え30余りの僧坊を抱えていましたが、1868(慶応4)年の神仏分離令を経て明治時代以降、 次第に衰退しました。 1951(昭和26)年に庫裏が台風で倒れ、その後に長崎県営の山小屋が建てられました。本堂も朽ちて倒壊寸前になったので、1967(昭和42)年に建て直されました。 多良嶽神社上宮は大山祇神を祀ってあり、かつては木造銅板葺でしたが暴風雨で倒れたため、1922(大正11)年に石祠に立て替えられました。 (注1)天正弐甲戌年領内耶蘇徒蜂起焼滅神社仏閣且殺害居住之僧徒比時本宮太羅嶽里坊仙乗院下宮富松宮亦罹其災悉為焦土・・・。 和銅寺縁起、多良嶽縁起では、天正11癸未年。 |
役の行者(えんのぎょうじゃ)座像
多良嶽神社の石鳥居の側にある、白髭に下駄を履いた石像。修験道の祖といわれ、奈良時代の初期(7〜8世紀)大和国葛城山で修行して、吉野の金峯山(きんぶせん)をなどを開いたとされ、また道を開き、堤を造り、橋を架けながら山岳仏教を布教したといわれています。役小角(えんのおづの、えんのしょうかく)ともいわれます。 像の前には行者が一本足の下駄をはいて諸国を巡ったという足腰の強さにあやかり、腰痛、関節炎、神経痛の平癒祈願をし、願成就のお礼に下駄をお供えしてあります。石像は江戸時代中期の名石仏師といわれた小城市牛津町砥川谷の平川与四右衛門が正徳2(1712)年に彫ったもの。 |
平谷温泉(佐賀県鹿島市) |
150年という古い歴史を持つ温泉。当時から湯治場として地元のひとびとに親しまれてきました。鹿島市内から国道444号を多良岳方向へ約20分、平谷黒木トンネル入り口近くの経ヶ岳登山口に、多良岳県立自然公園の豊かな自然に囲まれて、ごく普通の民家のような小さい宿が一軒あります。家族風呂、共同浴場も併設されています。
温泉は温度32度の無色無臭の単純温泉で、神経痛、リュウマチ、皮膚病などに効果があるとされています。 |
たら竹崎温泉(佐賀県藤津郡太良町) |
太良町竹崎海岸に湧くナトリウム炭酸水素塩泉で、泉源の温度は約45度です。 神経痛、皮膚病などに効果があるとされています。海岸沿いの泉源(写真)から各旅館などにに引かれています。 |
嬉野温泉(佐賀県嬉野市) |
嬉野温泉が初めて温泉として紹介されたのは、和銅6年(712年)に編纂された肥前国風土記の塩田の条に「東の辺に湯の泉ありて能く人の病を癒す」とある時からです。しかし、嬉野川沿いの温泉湧出地で旧石器時代の遺跡が発見されたことから、この時代以前から温泉が利用されていたことが推測されます。
江戸時代には、彼杵と塚崎(武雄)に挟まれた小さな宿場であって、湯に入るために途中で宿泊する旅人や近隣の湯治客が宿泊する小さな宿場でした。しかし、藩営の浴場があり、阿蘭陀商館のシーボルトなども入った記録があります。宿場の境界には構口(かまえぐち)が設けられていました。(写真は大正屋の泉源と大正屋の脇にある構口西口の案内表示) 明治時代になってから、嬉野温泉は急激な発展をしました。 現在、旅館約60軒、寮保養所約10軒が並ぶ温泉郷です。泉源は17か所で湯量も豊富で、汲み上げ時の温度は約100度です。泉質は無色透明な食塩含有炭酸アルカリ泉で、リュウマチ、神経痛、皮膚病、婦人病、胃腸病、貧血症、切り傷、呼吸器疾患に効果があるとされています。 |
武雄温泉(佐賀県武雄市) |
楼門 | 新館 | |
神宮皇后が新羅を征するためにこの地を通った折りに湯浴みをした、との伝承がある古い温泉。また、天平年間(729〜749年)に編纂された肥前風土記には、「郡の西方に温泉の出るところがあるが、岩が非常に険しいので人があまり行かない」と、記されています。江戸時代には長崎街道塚崎の湯として栄えました。アルカリ性単純温泉(低張性、アルカリ性、高温泉)で、泉源の温度は約48.5度(第5,第6泉源混合)です。
神経痛、筋肉痛、関節痛、うちみ、くじき、疲労回復などに効果があるといわれています。
江戸時代は鍋島氏の所有でしたが明治時代に入り国有となりました。1875(明治8)年に塚崎温泉組に払い下げられ、翌1876年に浴場を全て増改築して、現在の本館(元湯)となりました。武雄温泉を象徴する楼門および新館は、明治、大正時代を代表する唐津出身の建築家辰野金吾博士(辰野・葛西建築事務所)が設計し清水組(現在の清水建設)が施工して、1914(大正3)年に着工、翌年に完成しました。2005(平成17)年7月22日、国指定重要文化財になりました。 温泉の要件は、泉源の温度が25℃以上あるか、または、総硫黄、鉄、重炭酸ソーダ等の19種類の物質のうち、何れか一つでも一定以上含まれていなければなりません。 | ||
このほかに家老湯、塚崎亭などの家族湯、元湯、蓬莱湯、鷺乃湯などの大衆浴場があります。 |
祐徳稲荷神社(佐賀県鹿島市) |
日本3大稲荷神社の一つに数えられ、極彩色の華麗な偉容は「鎮西日光」と称されています。衣食住の神として県内外から年間280万人の参拝者が訪れます。
1687(貞享4)年、肥前鹿島3代藩主鍋島直朝(なおとも)公夫人花山(かざん)院萬子媛が輿入れの時、庭にあった稲荷神社の分霊を勧請して建立しました。 |
うまいもの、お土産 |
竹崎かに | 藤津郡太良町 | 学名をガザミといいます。酢じょうゆに浸し、手づかみで食べると最もおいしい。 |
タイラギ | 藤津郡太良町 | 有明海に天然に繁殖する「タイラギ貝」。二枚貝の貝柱を食べます。 |
民芸品 一本歯の下駄 | 藤津郡太良町 | 多良嶽神社の役の行者がもっていた脚力の霊力にあやかり、行者の座像に腰痛、関節炎、神経痛の平癒祈願をし、願成就のお礼一本歯の下駄をお供えをします。その下駄を一刀彫で民芸化したもの。 |
民芸品 のごみ人形 | 鹿島市 | 「からから」と素朴な音をたてるのごみ人形の土鈴。戦後すさみがちだった世の中に潤いと楽しさを求めて作りだされた郷土玩具。昭和38年、うさぎ鈴が年賀切手の図案に採用されました。 |
嬉野茶 | 藤津郡嬉野町 | 永享12年(1440年)平戸に渡ってきた唐人が、不動山皿屋谷に移住して陶器を焼くかたわら、自家用にお茶を栽培したのが始まりとされています。中国(明の時代)の製法といわれる「釜炒り茶」は、茶葉の一枚一枚が丸く、緑のつやがあり、日本茶としては大変珍しい、特徴のある茶です。 |
轟名水 水まんじゅう | 北高来郡高木町 | 轟峡が名水100選に選ばれたのに因み、轟狭の名水を使用した水まんじゅう。1990年頃、2、3年の年月をかけて地元の菓子舗で試行錯誤の末開発されました。 |
大村寿司 | 大村市 | 1480年(文明12年)大村藩主・大村純伊が念願の領地を奪回したので、領主、領民は大喜びで食事の用意をしたが、急なことでもろぶたにご飯を広げ、その上に魚の切り身、野菜の味付けしたものを乗せて供したことが始まりという。将兵たちは脇差しで角切りにし、手づかみで食べたので別名「角ずし」ともいいます。 |