上野発の夜行列車で、青森に着いたのが、夜の10時であった。そして、良い席(場所)を取るために、駅のホームを先を争って、駆足しして乗ったのが、懐かしい青函連絡船である。そして殆ど寝る間もなく、朝の5時には小雨降る函館に着いた。やっと、北海道にやってきたという感じであった。その後、何回か北海道に来たことがあるが、すべて飛行機であった
函館港
函館港は、渡島(おしま)半島先端の松前半島と亀田半島に挟まれた津軽海峡に開口する函館湾の奥にある。函館湾は、その形から巴(ともえ)湾とも呼ばれている。湾の海底が砂質で、投錨に適していることから、昔から天然の良港として利用されてきた。
下船すると、すぐ、この函館湾と函館市を見下ろす、函館山(334m)に登ったが、生憎の霧雨で景観は得られなかった。函館は北海道の玄関であるから、また来ることもあろうと思っていたが、その後青函連絡船も無くなり、飛行機で一気に札幌へ直行する事が当たり前になってしまい、この時以来一度も訪れていない。
函館より、大沼国道を大沼(に向かった。大沼は駒ヶ岳の噴火で、折戸川が堰き止められて出来た沼で、周囲20km、最大深度13.6m、水面標高130mで、大小126の島がある。しかし、生憎の雨で何も見えなかった。目の前に大きく見えるはずの、駒ヶ岳(1131m)も霧雨の中であった。
翌朝、大沼よりまっすぐ札幌には向かわず、大沼国道、そして胆降国道を洞爺湖へ向かった。昭和新山(402m)に登ってみたかった(頂上付近は登山禁止、今でも噴煙を上げている)。昭和18年12月、突然の地震ともに、地割れが起き、麦畑や松林が隆起し、その後の約2年間で今の山容が出来たとのこと。自然のすごさを目の当たりに見て驚いたことがある。いま、その側の有珠山(732m)が爆発して避難騒ぎとなっているが、もともと、この辺は火山活動の激しい所で、その研究資料が豊富なことでも世界的にも有名であった。
地獄谷
洞爺湖よりオロフレ峠を越え、登別に向かった。登別温泉は、カルデラ湖である倶多楽湖の西側にあり、日本有数の温泉地である。湯量も1日、1万リットルに及ぶと言うから凄い(東洋一と書いてあった)。地獄谷は、6億年前倶多楽火山噴出した噴火口痕(あと)で、直径450mもあり、今でも至る所から、熱泉を吹き出している。
大湯谷
大湯谷は地獄谷の北方300mの所にある湯の沼で、周囲約1km、深さ22m、表面の湯温は40−50度(深いところでは130度もある)と文字通りの大湯谷である。
倶多楽湖
登別温泉で汗を流した翌朝、白老町にあるカルデラ湖、倶多楽(クッタラ)湖へ行く。倶多楽湖は倶多楽山(534m)を最高点とする直径約3kmのほぼ完全な円形をしたカルデラ湖で、湖面標高258m、周囲9km、最深148mである。ここで、のんびりした後、海岸沿いの室蘭街道を苫小牧に行く。苫小牧より支笏湖へ向かった。支笏湖は、カルデラ湖で、サロマ湖、屈斜路湖に次ぎ、北海道3番目に大きい湖である。周囲40km、最大深度360mは田沢湖に次ぎ国内第2位の深さである。
札幌市街
支笏湖を半周して、恵庭岳(1320m)の右を通り、樽前国道を通って札幌に入ったのは、函館より4日目の事である。今思うと、大分遠回りした、のんびりしたものであった。札幌では、大学の級友のS氏が実家の車で市内を案内してくれた。まず、藻岩山に案内してもらった。山頂よりは、市街が一望できる。中央を流れている川は豊平川である。高速道路もなく、今とは大分感じが違う光景である。この時は大通り公園のテレビ塔(147m)のみが高さで目立った。大通り公園の側で車を停め、芝生の上で、特産の焼きトウモロコシを食ったが、これは旨かった。
中島公園
中島(なかじま)公園は、豊平川の水を引いて作られた池を中心に出来ている。すすき野の南約1kmの所にある。札幌は、人工176万人の大都市である。豊平川の扇状地上展開された町で、その市域面積は、1121kuで、日本で一番広い市とのことであった。歴史の浅い都市(明治2年、北海道開拓使の札幌本府が建設され、道内初の屯田兵村が設置された)のためか、却って道幅は広く、整然と碁盤目状の区画がされている。当時の面影を残す建物の一つが下の写真である。
豊平館
中島公園の北端にある豊平(ほうへい)館は、明治13年に洋風ホテルとして、開拓使が建設したものである。当時は天皇や貴賓を接待するホテルとして使われた。いまは、結婚式場として使われている。
札幌で1泊したあと、次は旭川に向かった。キャラバンシューズにリュックを背負って、主にユースホステルを利用した北海道巡りのスタートであった。いわゆるカニ族(横長のリュックのため、すれ違うとき横を向いて歩いた)の走りであった。
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