那須・茶臼岳 奥州道を下り、途中の黒磯より、先ず那須・茶臼岳(1915m)に登った。途中までロープウェイが出来ているので楽ではあるが、頂上までの山道は火山礫で、歩きにくかった。おまけに、風が強く、目に砂が飛んでくる状態であった。 この後、白河に戻った。そこから会津に向かうのには、古来、白河街道(茨城街道)を通り、勢至堂峠(650m)、黒森峠(630m)を越え、猪苗代湖の南西側を抜けて会津に入るのが普通であった。なお、参勤交代の時は会津西街道が利用されていた。 |
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五色沼 今回は、戊辰(ぼしん)戦争の時、新政府軍(官軍)が侵攻した郡山からの会津街道(越後街道)を利用してみた。現在はこの街道が会津入りの主街道となっている。 磐梯熱海温泉を通り中山峠(530m)を越えると直ぐ猪苗代湖畔に着く。官軍が進軍したのも夏の暑い盛りであった(1868年8月)。我々が湖畔に到着し,ほっとした以上に、彼らの感激は一入では無かったかと思う。 |
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猪苗代湖(翁島マリーナ) 風が強いため、海のように大きく波打っていた。時間があったので、磐梯山(1819m)を一周してみた。 湖畔より堅田の交差点を右折し、五色沼、桧原湖、そしてゴールドラインを通り、稲荷原、白河街道との合流点である強清水より再び湖畔に出て、戸ノ口にある今夜の宿「国民宿舎・翁島荘」に入った。 磐梯山は猪苗代湖側からみるのと、反対側から見るのでは全く感じが違った。北側は噴火の後が生々しく残っており、山の頂上の形も違い、別の山のようであった。 |
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飯盛山・さざえ堂 戊辰戦争の時、奥羽越列藩同盟を結んでいた各藩が次々と開城する中、会津藩は孤立しながら最後まで、何故新政府軍に抵抗したのか不思議なくらいであった。 老若男子はもとより婦女子を巻き込んでの徹底抗戦となり、飯盛山(372m)の白虎隊を例に出すまでも無く多くの悲劇を生んだ。 この旧正宗寺・さざえ堂(1796年建立)は白虎隊自刃のすぐ近くの山麓に今も残っている。さざえ堂というのは、江戸時代に建てられた観音像を祀る為の仏堂で、内部の階段が螺旋状に造られているもの。螺旋状の通路に沿って歩くと、観音零場を巡礼したと同じ霊験が得られるようになっている由。 悲劇と言えば、この藩祖保科氏がルーツであると、いえない事も無い。会津は、最初(鎌倉時代、1384年)奥州目付けの芦名氏が築城統治していたが、伊達正宗に滅ぼされた後、蒲生氏郷が入り大修築を行っている。その後、上杉景勝、再度蒲生氏、そして加藤嘉明、加藤明成と続き、1643年保科正之が城主となった。後(1695年)に松平姓を賜り、幕末まで続いた23万石の藩であった。 |
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会津若松城(鶴ヶ城) 保科正之は、ご存知のように徳川秀忠の妾の子(家光の義弟)であった。秀忠の正室お江の方(淀君、茶々の姉)は所謂姉さん女房で、嫉妬深く秀忠は全く頭が上がらなかった。 従って、自分の子であることを隠し、保科氏の養子としたが、家光の代になって、やっと認められ、その後(50年後)松平姓を名乗ることを許されたのであるから、会津藩は伝統的に幕府に心底忠誠を誓っていた。そんな背景が、幕末まで影響していた様に思える。 この後会津西街道を経て、帰京した。 |
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ルート 東京〜黒磯〜那須岳〜白河 〜郡山〜猪苗代湖〜五色沼 〜桧原湖〜磐梯山一周 〜猪苗代湖翁島(泊) 〜飯盛山〜会津若松〜田島 五十里湖〜日光〜栃木〜東京 走行距離 600km |
会津街道 奥州道・白河宿〜会津若松 佐渡への3道の一つとして、奥州街道の白河宿から会津若松、新潟の道が会津街道と呼ばれた。今は郡山から会津若松までを言う(別称越後街道)。その先は若松街道と呼ばれている。ほぼ平行して、高速道路、磐越自動車道が作られている。 |
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