中学生になってからもラジオの趣味は続き、クラブも「物理部」に入部しました。
ラジオの製作も真空管からトランジスターを使った物が多くなってきました。
まず最初に作ったのが「1石レフレックスラジオ」で、レフレックスラジオとは一つのトランジスターで
まず高周波増幅をしそれをダイオードで検波してから、再び先ほどのトランジスターで低周波増幅をする、
つまり一つのトランジスターを二度使う方式で、キットとしても売り出されていました。
写真はそのころのトランジスターです。
特に左側のは貴重品で現在の2SA・・・と命名される以前の物で、[ST−16A」NEC製の
低周波用の石で2SBタイプです。
真ん中は2SA157、レフレックスラジオに使いました。
右は2SB222低周波出力用でプッシュプルで使われました。
当時使っていた部品です。
オイルコンデンサー0.01μF400Vと電解コンデンサー30MFD 10WV、5MF 10WVで日本ケミコン製です
この頃の容量は10や30で今のように3.3、4.7といった単位ではありませんでした。
この頃の電解コンは今のような立形よりもチューブラ形が主流でした。
各種シリコンダイオードです、真空管式のセットでも整流管に代わりよく使用されてきました。
シリコンダイオードが出回る前、低圧の100ボルト以下ではセレン整流器を使用していました。
話題が横道に逸れてしまいましたが、1石レフレックスラジオの後は27MHz帯の超再生式のトランシーバーに凝り、50メートルほど離れて通話出来た時たいへん感激した思い出があります。
その後もっと距離を飛ばそうと電池管3A5を使った50MHz帯のトランシーバーを作ろうとしましたが
計画倒れに終わってしまいました。
技術家庭の授業で5球スーパーも取り上げられており、まずオールST管で製作し構成は
6WC5−6D6−6ZDH3A−42−80でした。
友人宅から頂いた古い5球スーパーを改造して作りました。
後にMT管、部品はすべて新品でこれの構成は
6BE6−6BA6−6AV6−6AR5−6X4でした。
写真はST管の6ZP1とMT管6AR5の比較で、かなり小型化されてきました。
この受信機に改造を重ね、後のJA3PLB開局の時の受信機へと発展させました。
中学の頃からアマチュア無線に興味を持っており、高校生になったら従事者免許を取得しアマチュア無線局を開局しようと考えていたからでした。
まず受信機の改造から手を着けました、短波を受信出来るようにTRIOのコイルパックを購入し、
IFTも東光のメカニカルフィルターに交換、モールス通信や当時始まりかけていたSSBを受信できるようにBFOも増設しました。
そして電話級の免許を取得するため勉強もしました、当時の試験は電話級でも記述式で高校生にとってはかなり難しかった記憶があります。
昭和42年の10月期の国家試験に無事合格し従事者免許を取得しJA3YCTで通信出来るようになりました。
当時のYCTでは送信機が八重洲のFL100B、受信機がスターSR600でSSBで運用しておりました。
そのころ和歌山の高校の無線クラブは活況で我が桐蔭のJA3YCTをはじめ、星林JA3YAJ、向陽JA3YEU、和工JA3YALが開局しており、昼休みや放課後にQSOしたり互いに訪問し会ったりしていました。
YCTでは夏のフィールドデーコンテストに参加するためキャップをしており42年には白崎海岸に移動しました、この伝統は現在でも継続され生石山に毎年移動しているようです。
従事者免許を取得したのと同時に無線局の開局申請も行いました、その時のリグは父の仕事関係から頂いた拡声アンプを元に自作しました。
とりあえず費用を安くあげるため3.5Mのシングルバンド機とし、アンプのケースと付いていた電圧、電流計を流用し電源トランスは東芝のテレビのジャンクを流用、最終段の球もTVの水平出力管6GB6Aを使用し音声出力管も変調トランスを利用せずアンプのチョークコイルを流用するハイシンク変調とし6CA7シングルとし、励振段にもTV球12BY7Aを使用し組み上げましたが、VFO部分は別シャーシーとしました。
写真が開局当時のシャックです。
最上段が送信機で古い丸形にメーターが2個目立っていました、送受とVFOキャリブレーションの切り替えは上送信、下VFO、中立受信のシーメンスキースイッチでした。
中段左が受信機でSメーターが無理やり仮設されていました、マジックアイも付いていました。
中段右の黒い箱が外付けのVFOです。
こんなセットで昭和43年2月2日付けJA3PLBは何とか無事に開局できました、私が高校1年の時でした。
左 憧れの送信管2B46−6146と右GT管 左の6X5はセンターの脚が破損しています