■宵の月 - 2-

誰も居なくなった部室。
ただ静かに窓の外が燃えている。
1人だけの空間には、さっきまでの喧騒は影も形も無く、自分の出す衣擦れの音だけが響いていた。
「遅くなるて…一体どんだけかかるんや、跡部。」
すっかり帰る支度が整ってしまった。しかし、一向に跡部が帰ってくる気配は無い。
こうして彼を待っている時間、鞄には読みかけの本、いつも聞いている音楽、時間を潰す方法はいくらか入っているというのに、何もせずただ待っていた。方法は浮かんでも、手に取ることが出来なかった。そうしているしか出来なかった。ただ、時計の秒針が進む音の中に、彼の足音を待ちわびていた。
ガチャリ…

どれくらい経っただろうか。窓から差し込む光が作る自分の影は、俺が彼を待ち始めてからほんの少し伸びているような気がする。

「忍足。1人か?」

いつもと変わらぬ声で跡部が話しかける。
さっきまで沈黙と静寂が漂い、時間が止まっていたこの空間にやっと時の流れが追いついたような気がした。

「おう、遅かったやないか。待ちくたびれて眠ってしまうところやった。」

まさか、そんなはずは無い。眠りたくても眠れなかった。お前が一体どこにいるのか、何をしているのか、気になって、気になって…。

「そうか、悪い。他のやつらが居るうちには戻ってこられると思ったんだが、思った以上に長引いた。ま、誰かが待ってるとは思いも寄らなかったけどな。」
「アホ言い。部室空けたままで帰れるか。ここにはラケット置いてる奴もおる。それが無くなったら…それこそ責任問題や。お前が帰ってくるまで待っとれんかったんは誰やぁ言われたら、俺が槍玉に挙げられる。」
軽く「どう責任を取ってくれるんだ」と含めながら、帰れなかった原因を彼に投げつける。
「悪かったな。やっぱ、先に荷物だけ取って出て行くんだった。そうすりゃぁお前に恩を着せられることも無かったのにな。」
コートで見せるより数段柔らかい顔で笑いながら、ロッカーを開ける。窓から差し込む夕日の残光はこんな会話の間にもゆっくりと影を大きくさせ、跡部のシルエットを美しく描き出した。恩を着せられたなんて、欠片も思って無いくせに。
『何してたんや』…荷物の整理をしているその後姿に聞きたくなった。でも、聞けるわけが無いのだ。自分と彼との間にはそんな干渉を許されるようなものは無いのだから。
「忍足。もういいぞ、帰っても。鍵は俺が持ってるんだからな。」
彼の背中のシルエットを睨んで悶々と考えていた俺を振り返って跡部が言う。
「何だ、そんなに睨むなよ。悪かったとは思っているぜ?だから、早く帰ればいい。それとも、貰った恩はすぐ返せとでも言うつもりか?」
「まさか、そんなせこいことは言わへん。そうやな、あえて言うなら…絵になるちゅうんはこういう場面のこと言うんかなと思て、見てただけや」
ふと窓の方を見てから再び俺を見る。その目にはほんの少しの微笑みが含まれている気がした。
「……ふん、なかなか詩人じゃないか。」
「なかなか、は余計や。俺かてたまには詩人になるときもある」
「ふぅん」
ふっと笑ってロッカーに向き直る。
「で、そんな絵を堪能した詩人はまだ帰らないのか。」
ウェアに手を掛けながら再び聞く。
「なんや、そんなに俺がおったらまずいことでもあるんか?」
邪険にされているのか。ここにいたらいけないのか。お前を見ているだけでも、同じ空間で同じ時の流れを味わっていることさえも許してくれないのか。そんな思いが瞬間、沸き起こった。
これだ、俺の中に溜まっていたのはこの「思い」だ。

掴みきれない跡部の姿を、いつの間にか追いかけるようになっていたんだ。出所の分からない噂話や、漏れ聞こえる作り話の中からでも、こいつの本当の姿はどんなものかと、探すようになっていた。お前を知りたい。もっと同じ時間の中で、お前を見ていたい。そう思ったんだ。
「そんなに見られてて、困らないと思うか?」
苦笑いをしながら、跡部が抗議の言葉を呟く。そんなに見つめるな、そう言いたいんだな、お前は。見つめているくらいなら帰れと。
「そうやな、俺やったら、困らなんな」
「本気か?」
さっきと変わらぬ苦笑混じりの声が返る。
「あぁ、本気や。一向にかまわん。…お前にやったらな」
一瞬、振り向いた跡部の眉根に見えた困惑は、次の瞬間冷たいものに変わった。
「お前、一体何言ってるんだ。俺がお前を見る?馬鹿なこと抜かしてんじゃねーぞ。」
紡ぎ出される言葉も、声も、コートに立っているときよりも一層きつく、冷たいトーンをしていた。

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