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2010年09月02日

若乃花もノスタルジーの1つ

中学生の頃の話。 中2のころテープレコーダに熱中した。 放送部技術グループでは、小型のアンペックス製(輸入品)と当時ベンチャー企業の東京通信工業(通称東通工で現ソニー)製の2つを使っていた。 自宅では、ラジオやアンプ(ハイファイ)の製作に飽きてきたので、「テープレコーダを作ろう」と思い立ったのである。 

ゼロからの開発だし、小遣いでつくろうというので、困難なことが沢山あった。 まず、メカをどうやってつくるか? ヘッドは中古品を大阪(日本橋)で手に入れた。 パーマロイのカバーのある立派なものだけど、ジャンク屋なので1千円程度。 試しに古いSPレコード用のモーターでテープを引っ張ってみたが、キャプスタンとピンチローラがきちんと動かないとムリ。 もう1人同調して始めたO君は、非常に器用でここから始めたけど、途中で断念した。 

そうこうしてるうちに、赤井電機がメカだけをキットで発売した。 1万3千円程度だったが、現在でいえば10万円以上の感覚で、中学生が小遣いで簡単に買える額ではない。 電気屋通いは定期的にしてたので、赤井が改良品を販売したとき、初代の製品の展示品をかなり安く売る店があった。 6千円程度だったが、すぐこれを購入した。 メカ以外は自作したが、大したことはなかった。

こうして中2でテープレコーダをつくったとき、録音の対象として選んだのが「相撲の実況放送」だった。 そして、若乃花が大関から昇り調子で横綱へ向かっていく頃。 毎日、若乃花の取り組みを録音したのである。 逝去を知り、思い出を書いた次第。


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技術的なことは追記で。

「交流バイアス」について

テープに音声のようなアナログ信号を記録する場合、磁性体にバイアスをかける必要がある。 テープのまえのワイヤー・レコーダは直流バイアス。 ワイヤーが磁性体としてはお粗末だったこともあるが、直流バイアスでは、ノイズが多く、また音も歪んで「記録する」という以上のことはムリだった。

赤井の第1号機も直流バイアスだったので、やってみたけど、とても使えない。 学校ではマトモなものを使っていたから、差は歴然としていた。 なぜ、赤井は交流バイアスを使わなかったか? それは交流バイアスの特許(発明者は永井東北大教授)を東通工(現ソニー)がそれを持っていたから。 東通工は他社の特許利用を認めず、テープレコーダを官公庁、学校などに一手販売し、経営の基礎を築いた。

赤井の2号機は、東通工の特許を逃れる方式を「新交流バイアス」として採用した。 交流バイアスの特許範囲が、50KHz-200KHzぐらい、そこでこの倍くらいの周波数を使うというのが新交流バイアスだった。 もちろん、新交流バイアスの性能は(直流バイアスよりはぐっとよくなるが)イマイチだった。

しかし、完成品でなくキット販売なので、購入したユーザは「コンデンサを替えれば」東通工なみの製品にできた。 そこで、1号機にはなかった交流バイアス用の鉄芯入りボビンのコイルを手に入れた。 特許逃れのなんともいえない方法だけど、他のユーザと同じように、特性のいい東通工の方式を使って満足していた。

投稿者 tadashi : 2010年09月02日 08:04

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