小熊哲哉 略歴
大正9年(1920)8月28日、小熊豊三・フジの長男として柏崎市に生まれる。
昭和13(1938)年、旧制長岡工業学校応用化学課卒業、横浜市の日産自動車を経て日本石油(株)に入り、柏崎製油所、尼崎製油所等に勤務したが、昭和20(1945)年同社を退社。戦後いち早く演劇活動に入り、「柏崎演劇研究会」を創設、とともに、西本町の自宅で貸本《あざみ書房》を開く。
昭和27(1952)年、柏崎日報社に勤務、昭和38(1963)年同社を退社した後、6月「柏崎週報」を創刊、主幹として昭和61(1986)年新春特別号まで1101号を発刊。
昭和61(1986)年1月1日午前10時58分、大動脈瘤破裂のため急逝。六十五才であった。
昭和35(1960)年、柏崎芸術協会の前身、柏崎労音の発足に尽力、委員長、以後運営委員、幹事として常に同会の中枢で活躍。
昭和57(1982)年、財団法人柏崎市文化協会初代理事長、昭和58(1983)年中央公民館館長並びに勤労青少年ホーム館長に就任、その他柏崎市史編纂審議委員、柏崎郵趣会会長を歴任する等柏崎の芸術、文化、社会活動推進の中心的役割をはたしてきた。
柏崎演劇研究会の会長として、包容力のある人柄と、恵まれた資質才能で、脚本家、演出家として優れた手腕を発揮、全国青年大会において、昭和35(1960)年「ダムサイト」、同37(1962)年「A・B・O」、同46(1971)年「荒浜砂丘地」で最優秀賞を獲得。また全国アマチュア演劇研究大会でも演出、脚本、アンサンブルなどの各賞を数々受賞。
昭和52(1977)年モナコでの国際アマチュア演劇フェスティバル、同58(1983)年カナダでの国際オリンピアード’83と2回にわたる海外公演も実施。
このほか学校や職場の演劇指導、市内巡回、演劇講座等、演劇を通した学校、社会教育の展開に多大の功績があったことにより、昭和50(1975)年柏崎市政功労者表彰、同52(1977)年新潟日報文化賞を受賞。
昭和60(1985)年10月27日、柏崎演劇研究会40周年記念公演「にしん場」の演出が最後の芝居となった。この芝居の脚本を書いた中江良夫氏がやはり昭和61(1986)年1月世を去った。
50周年記念公演「にしん場」へ
故小熊哲哉13回忌記念公演「喪服の女」