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                   発責 大館市東台6-5-83  鷲谷豊

   北羽歴史研究会 会報 NO.202 2008(H20)年7月1日

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 7月、学習会を開催します。  

7月17日(木)、通例学習会開催、13:10〜15:30 於・大舘市中央公民館

                  

テーマ 1、足尾銅山時代の可児義雄    …  丸屋 悧

 

    2、中世末の阿仁嘉成氏をさぐる  …   鷲谷 豊 

3、その他(戊辰戦関連)                   以上

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■ 8月、実地研修会を開催します。参加募集

 8月20日   テーマ・明利又と阿仁地方探訪

行程  大館中公発8:30―扇田街経由国道285  --七日市経由 ・・・・・

1・明利又―明利又城・浅利供養碑…2、阿仁前田―前田館跡(八幡神社)…

3、五味堀村−可児義雄墓碑・可児義雄慰霊碑 ・・・4、阿仁町−法華寺・専念寺

・郷土伝承館 ・・・105戻り・・・前田→県道214→上小阿仁・道の駅(昼食)食堂あり

5、上小阿仁村・五反沢の板碑・宝篋印塔・・・・ 6、下小阿仁・鎌ノ沢正法院(丈

六延命地蔵)・・・7、森吉町本城―八幡神社(阿仁城趾)・浄福寺(畠山重村墓碑)

…8、米内沢・龍淵寺(嘉成氏創建安昌寺)(米内沢城址)…

9、合川町川井・延慶二年板碑。…以上終了。16:00予定、

帰途、県道24→同324→小森・国道285→扇田経由→大館中公17:00予定。

○ 参加費 2,500円(但し昼食は各自による)

○ 参加募集人員24名、申込先着締切り、事務局金沢42−3929へ

今回は比内歴史愛好会を含めて開催となります。含めて先着締切りとなります。為念。

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催事情報  1) 秋田歴研協・歴史フオーラム・7月6日(日)13:00…15:30 

          会場 あきた文学資料館(中通6-6、秋田駅前市民市場駐車場の向側)

 テーマ 院内銀山遺跡に光をあてる〜秋田の鉱山遺跡の保存と活用をめざして〜

基調報告「院内銀山の遺跡と文化財」渡辺和男氏、特別報告

「金山神社修復事業の現状と課題」高岡正氏、司会・茶屋十六氏。

資料代\500 後援秋田教育委員会・湯沢市教育委員会。

) あきた文学資料館・文学講座、7月17日(木)演題…青柳有美と『文学嘖々』…講師

伊多波英夫氏。 8月6日(木)演題…石坂洋次郎と秋田…講師梁瀬均氏。

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■    ・・・・・  長岡藩の場合・・・恭順派を排斥した河井継之助

応四年「1月23日、領内の庄屋たちを集め、長岡藩は必ず新政府に立ち向かう

であろうから、村々も非常の準備をせよ、と通達したほどであった。藩庁は勅使

を奉じた新政府軍が越後に入るという知らせに、二月七日藩士を城中に召集し、

強硬派の山本帯力・花輪求馬らが、我が藩がたとえ孤立しても徳川氏のために忠

誠を尽すと告げ、武装して新政府軍の来攻に備えさせた。 一方このような事態

を憂慮した藩校崇徳館の教授らは、自重を促す意見書を藩庁に提出した。」「その

意見書には徳川慶喜が恭順の意を表しているのであるから、長岡藩が徳川氏に忠

誠を誓うのであれば、新政府軍と兵端を開くべきでない、と記されていた。」 

 

「三月六日にも崇徳館教授たちは、恭順の方針に変更するよう重ねて意見書を提出し、廿

二日には重臣の安田鉚蔵らが藩主の牧野忠訓と前藩主の忠順に会い、戦争の防止を訴えて

いる。さらに廿三日教授たちは藩庁に赴き、重臣たちと論争したが藩の方針は変わらなか

った。」 「旧幕府方への忠誠を主張していたのは、家老の河井継之助・山本帯刀・牧野市右

衛門・稲垣主税・奉行格の花輪求馬・三間市之進らであった。 それに対し、新政府に帰順を

主張したのは、元家老稲垣平助・安田杢・安田鉚蔵らと藩校崇徳館の教授たちであった。

三月末に家老の河井継之助が江戸から帰り、翌々日の四月一日藩士に総登城を命じた。本

丸の大広間には藩主の忠訓と前藩主の忠恭が臨席し、その側に河井が着席した。 河井は

藩主に代わって、長岡藩は小藩であるが、たとえ一藩孤立しても、徳川氏から受けた恩に

報い、義理を果たす考えである、と述べた。 これに対し、恭順を主張する藩士たちの抗

議は続いた。 四月十日、安田鉚蔵が城中で河井と激論し、隠居させられた。廿三日には、

重臣本富寛居などが忠恭の邸を訪ねて諌め、恭順説を唱えたが、これも退けられた。」

■ 米百俵・小林虎三郎 …  ・治三年6月長岡藩の困窮ぶりをみて支藩三根山藩

が米百表を贈った。その米を学問振興にふり向けたという史話。「当事者小林虎三郎は新長

岡藩大参事の一人、百石取の中士であった小林は、青年期に佐久間象山の塾で学び、長州

の吉田松陰と共に象門の二虎と称される英才であった。戊辰の際は新政府への恭順を主張

して、河井(継之助)と対立した。」 明治二年五月長岡藩は国韓学校を開校、明治三年校

舎新築、洋学局と和学局も新設。 「年たちの前途と考えるとき、学問は一日もゆるが

せにできないとする小林虎三郎の主張が貫かれた。 この米の代金およそ270両は、書籍

代や用具代などとして(6月)22日、国韓学校・兵学校・演舞場・医学局・洋学局へ、夫々廿両

ずつ配分された。 さらに知事の牧野鋭橘(忠毅)からもこれに100両の補助が加えられ、

ほかにも200両ほどが、書籍や演舞場の道具を購入するために支出された。『長岡市史』

     明治三年10月19日長岡藩知事牧野忠毅が政府に辞表を提出し、長岡藩は廃藩、柏崎

     県に合併となる。明治四年7月の廃藩置県の詔書に先立つ廃藩であった。 … 以上

「戊辰戦争140年明治維新変革の歴史評価の学習を」北羽歴研今年度の課題。誰が歴史

を前に進め、誰が変革の妨害する役割となり、誰が無用な惨劇を拡大したのか。敗北を承

知で家臣領民を戦いに駆立て、その誤りは認識されているのか。しかと考えてみよう。Wa

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