君は天使じゃない



 白い部屋だった。
 真新しい壁と南向きの大きな窓。そしてベッドがひとつ。音楽好きの彼女のためにミニコンポも運んだ。
 もうすぐここに彼女がやってくるだろう。
 ここは二人だけの場所。
 ここには都会の喧噪も監視の目もない。
 二人きりの安住の地。
 彼女との出逢いはアイスバーンの路上だ。
 雪道にハンドルをとられた僕は、道路を渡ろうとした彼女を避け切れなかった。
 それは不幸な事故だった。
 幸いなことに彼女の怪我はたいしたことはなく、二、三度会えばそれきりで済ませられた間柄でしかなかった。
 だが、僕はその時、恋に落ちたのだ。
 恋は、冴えない中年男の僕に魔法をかけた。
 妻と結婚した頃の気持ちで、いや、それ以上の行動力を発揮して、僕は彼女に近づいた。
 彼女ははじめ、僕の誘いに怪訝な顔を向けていたが、やがて警戒心を解き、僕に対して少なからずの好意を持つようになった。
 初めから僕に悪意は抱いてなかったらしい。
 だとすればなんて素敵な出逢いだったろう。
 ただ僕が四十過ぎの男で、彼女は二十歳前の少女だったことが問題と言えば問題だが。
 だが恋の魔法に掛かった僕には、そんなこと些細な問題に過ぎなかった。
 いや、自分が彼女に恋してるとさえ、想ってなかったのだ。
 僕は妻の醜い諍いに、飽き飽きしていた。
 妻との結婚が紛れもない恋愛結婚であった故に、僕は恋や愛に幻想など描けなくなっていたのだ。
 彼女は僕に妻がいると思いこんでいる。
 いや、それは嘘ではない。しかし、過去形の言葉で語られるべき事実だ。
 あの事故の数日前に正式に離婚が成立している。だが僕はあえてそれを話さなかった。
 僕は彼女との仲に、醜い恋愛感情を持ちこみたくなかったのだ。
 それに愛だとか恋だとかの御託を並べるには僕はもう若くはない。
 彼女は僕にとって天使の如き存在だった。
 そして束の間の時間、彼女を独占できればそれで良かった。
 その短い間を、誰にも邪魔されたくないが故に、僕は部屋を借りたのだ。
 それは、年時代、廃屋に秘密基地を作り、自分達だけの空間で遊んだ気持ちによく似ていた。


 夕暮れの時が近づいている。
 この部屋を、彼が借りて二人が逢うようになったのは、もう一ヶ月も前のこと。
 こうして逢うのが不自然だとは思ったけれど、彼の立場もあるし、私みたいな女の子とあったのがばれたら大事になるのかもしれない。
 この部屋でするのは、他愛のないおしゃべり。
 彼の叶わなかった夢の話や、私の学校でのこと。
 トランプを並べて二人の未来を占ったり。
 彼とは交通事故の加害者と被害者の関係なの。
 でも私の怪我は軽いもので、すぐに治ってしまうもの。
 それで逢えなくなるのは寂しかった。
 彼は余り自分のこと話してくれない。ここでは普段の自分を忘れたいんだ、そう言って。
 私の話はちゃんと聞いてくれるし、彼に話すとそれだけで悩みが消える気がする。
 彼が具体的に何か行動してくれる訳じゃないけど、話し相手がいるってそれだけで安らぐじゃない。
 私、お兄ちゃんができたみたいで嬉しいと言ったら、彼は苦笑いして、父親ほども年が離れているんだよ、と言うの。
 自分で想ってるほど、オジさんじゃないわ。
 子供の頃の話をする時、彼の瞳は少年の瞳をしていた。
 この部屋にベッドがあるけど、それは彼が一人で眠るためみたい。
 彼は私にキスもしないわ。
 愛人になるのはいやだけど、恋人にもなれないかしら。
 これを恋とは呼べないのかな。
 私のこと、妹ぐらいにしか思っていないのかしら。
 好きなのにね。
 私、今親元から離れて一人暮らししてるの。
 泊まっていっていい?、そう訊ねたら、彼はだめだと冷たい声で言う。
 ごめんなさい。冗談よ。
 ふざけたふりして、部屋を出たけど、地下鉄に通じる階段を降りる途中、何故か悲しくて涙が出たの。


 ドアが閉まり彼女が帰って行った。
 単にふざけて言ってる訳ではないのは、木石じゃない身、わからないでもない。
 彼女はもうじき二十歳を迎える。つまり、家に帰りたくないと駄々をこねる年ではない。
 楽しい時間がずっと続けばいいとも、とれる言葉の裏に、大人への階段を昇り始めた少女の冒険心が隠されてるはずだ。
 でも僕は、拒否してしまった。
 彼女を女と見てる自分に気づき、狼狽したからだ。
 そんな風に傷つけるつもりはなかった。
 嫌いな訳じゃない。
 抱いたら、彼女を愛してしまうだろう。
 恋はいつか消え、美しい思い出になる。
 愛して傷つけたら、彼女はいつか僕を憎むだろう。
 そして、そんな愛の傷は中々癒えないものだ。
 気まぐれな恋を仕掛けたキューピットがくれた、たった一ヶ月のアバンチュール。
 少しだけ大人の恋を覚えたなら、君にふさわしい素敵な恋人を探すんだよ。
 これ以上続けたら、君を離せなくなる。
 僕はとても我儘な男だから。
 独りきりの沈黙に耐え切れなくなって、カセットをかけてみる。
 僕の知らない男の名前。流れる曲は甘いバラード。
 別れ話が切り出せない男の気持ちを歌う。
 小説のように甘く恋は語れない。
 愛しすぎた自分を慰める僕がいる。
 遊びの恋なら、慣れた女なら、こんなに苦しくないのに。
 けれど、これほど愛せもしない。
 明日になったらこの部屋を引き払おう。
 君にさよならの言葉を残して。
 君はいつまでも少女でいてはくれないのか。
 時よ、永遠にその営みを止めておくれ。
 さよなら。恋に酔った自分。
 冴えない中年男が愚かな夢を見たのさ。
 天使に愛される夢を。
 そう想って忘れよう。
 もう、二度と君の前に姿を現さない。


 涙があふれて止まらないわ。
 あなたが好きよ。
 あなたに恋した時から、少女じゃなくなったの。
 天使じゃないのよ。子供扱いしないで。
 地下鉄のホーム、人が振り向いてる。
 あなたに知り合う前も寂しかったけど、今はもっと人恋しいの。
 あなたは私を聖女か天使のように扱うけど、普通の女の子だわ。
 あなたに恋したら、あなたに似合う女になりたいわ。
 お化粧も、大人びた服もあなたは嫌った。
 いつか似合う時がきたら買ってくれると。
 等身大の君が素敵さ。
 大人になんてならないで。
 ねえ、だけど。時を止められないわ。
 私はどんどん大人になる。
 あなたの嫌いな化粧もいつか覚えるわ。
 別人みたく装った私を、あなたは綺麗と言ってくれるかしら。それとも見知らぬ人を見たように、不機嫌な顔で私を見つめるの?
 誰のために装ったかも訊かずに。
 あなたの左手に、指環の跡を見つけたの。
 誰かのものだった痕跡。
 あなたが家に帰る時は、変わらぬ誓いの印を身に付けて奥様のところへ戻るの。
 ねえ、恋愛感情が本当にないのなら、指環など外さないで。
 違う自分を見せないで。
 気がついたら、私は再びあなたの部屋の前に立っていたわ。
 チャイムを押したら、あなたはドア越しに名を尋ねるでしょう。
 私と知ったら中に入れてくれるかしら。
 時計の針はもう十二時を過ぎてる。
 このままじゃ私、帰れないわ。


 チャイムの音は、何かに脅えるように響いた。
 その音だけで僕はドアの前に立つ相手を知った。
 それでも確かめるように名を尋ねる。
 少女は泣き出す寸前のか細い声で答えた。
 僕はためらいながらもドアを開けた。
 今は一年で一番寒い季節だ。一番大事な人を冬の寒空に立たせておく訳にいかない。
 ドアを開けると泣き顔の少女は、安堵と悲しみを湛えた瞳を僕に向けた。
 そのまま、僕の方へ倒れ込む。
 辺りに人影はなかったが、僕は慌ててドアを閉めた。
 うら若き女性が真夜中に男の部屋に入った。この事実が知れ渡れば、そして、女性の名がばれれば、彼女にいい影響は与えない。
 相手が彼女の恋人にふさわしい年格好なら、世間も納得するだろう。
 だが、僕は離婚暦さえある四十過ぎの男だ。
 僕は腕の中の少女に自分がふさわしくないと改めて気づき、反射的に抱いていた腕を緩めた。
 けれど、君は僕の背中に回した腕を更にきつくした。
 大きく首を横に振る。
 僕に抱いて欲しいとも、泣き顔を見られたくないともとれる。
 どちらにしても、これは大変な行為だ。
 好きだと口にする、その何倍もの想いが僕のシャツを濡らす涙と、震える肩に現れているから。
 僕は宥めるように、できるだけ優しく君の名を呼ぶ。
 でも、その後に続く言葉がなかった。
 君が僕に何を言って欲しいかはわかる。
 自分の本当の気持ちを告げればいいのだ。
 僕等は恋人にふさわしい夜を過ごし、明日の朝、僕の少女は大人になって部屋を出て行くだろう。
 君は泣いていた。自分の気持ちと自分の行動に戸惑ってしまい、収拾が付かないのか。
 落ち着かせなきゃならない。
 泣き顔に途方に暮れた僕の脳裏に、ようやく、そのことが浮かんだ。
 戸棚の中から、自分用のブランディとグラスを二つ取り出す。
 いつもは君がこの部屋を出た後で、その日の出来事をなぞる時ひとりグラスを傾けてたのだが。
 むせるかも知れないけど飲んでごらん。
 少し気を沈めて。
 今日は、もう帰れなんて言わないから。
 こんな状態の君を放っておけないよ。
 君は素直にうなずいて白い手でグラスを抱えるように持つ。僕の瞳を探るように見つめ、それから琥珀色の液体を喉に流しこんだ。
 軽くむせて咳き込む。
 背中を軽く叩いてやると、甘えるように腕にもたれた。そのまま瞳を閉じる。
 あなたの傍が一番暖かいわ。
 このままずっとこうしていたい。
 それから、目を開けて僕の瞳をじっと見て言う。
 私のこと嫌い。ここにいると迷惑?
 そう思うなら正直に答えて。
 君の瞳にまた涙があふれる。
 それでもそらさないで僕を見つめたね。
 君の髪、甘い香りがした。
 そういえば、手が触れるほどの距離にいながら、口唇はおろか、髪を撫でたこともなかったかもしれない。
 でも今夜はこれ以上気持ちを偽れないよ。
 あなたの気持ちを正直に口にして。
 お願いだから嘘は言わないで。
 濡れた瞳に引きこまれるように、僕は君の口唇に自分のそれを落としていた。


 あなたのキスは煙草の匂いがした。
 あっけないものね。少し触れて、そして離れた。
 でも、あなたが少し私に近づいたようで、すごく嬉しかった。
 ブランディの酔いが静かに私を蝕むけれど、酔いのせいで誤魔化さないでね。
 このまま私を抱いていて。誰にも渡さないと誓って。今夜は誰の元へも帰らないで。
 明日になったら、ここを引き払うよ。
 これ以上君を悲しくできない。
 もしも僕を愛したなら、悪い男と恨んでもいい。
 もっと素敵な男が君の前に現れるよ。
 奥様の方が好き? 
 君を愛してるさ。信じられないほど深く。
 だからだめだ。
 これ以上、君を深入りさせたくない。
 あなたを好きになったことが間違いならば、他のすべてが正しくなくていいわ。
 忘れなきゃならないなら、最初からこんなことしなきゃ良かったのよ。
 私、あなたと結婚したいわ。
 それも子供だましの、甘い夢なの。
 他の人を愛せても、あなたが一番よ。
 そんな状態で誰かと暮らしても、私は幸せになれない。
 それともこうしているのが、あなたにとって不幸なの。
 恋がすべて素敵なものだと思わないし、叶うものだとも思っていない。
 でも、自分に嘘をついて誰かを偽るなんて、それが大人の恋ならばこのまま子供のままでいたいわ。
 でも、今日はこんな話は嫌。
 私を愛してるなら、もう一度キスをして。
 このまま時間を止めてみせて。


 二人は、答えを見つけられないまま、朝を迎えた。
 会社へと向かうため、ネクタイを身に付けた男は、この部屋の鍵を渡してこういう。
 君の気持ちが真実なら、僕は鍵を持たずにここを出る。
 夕方、僕が来なかったら、この恋は終わり。
 君は、鍵をマンションの管理人に預けて家にお帰り。
 君が夕方まで待てないというのなら、この部屋の鍵を下ろして、管理人に預けた後で、新しい恋を見つけにいくんだ。
 二度とここには戻らないで。
 少女は言った。
 あなたが帰ってくるまで、ここで待つわ。
 男は言う。時間を決めよう。
 十二時まで。
 お城の大時計がなり終える時刻までだ。いいね。
 少女は、真剣な男の言葉に素直に頷いた。
 男が会社へ向かった後、ぼんやり一人で待つのが怖くて、一旦家に戻り、一番いい服を着て、いつか男に買ってもらったペンダントをした。
 それから都会に出る。
 ショウウィンドウに映る私はきっと誰よりも幸せなはずよ。
 少女は想う。
 あの人はきっと私を選ぶ。あの夜だって、自分の車よりも私の怪我を本気で心配してくれた。嘘つけるような人じゃないの。そんなところが好きだから。
 少女は愛する彼に、手料理を作ろうと考え、抱え切れないほどの材料を手に部屋へ戻った。
 一方、男は会社がいつも通りにに終わったにも拘らず、まだ決心が付きかねていた。
 相手はこれから輝いていく少女だ。それに比べて自分は人生も半ばを過ぎていて、しかも妻に逃げられた男だ。
 そんな男があの娘と結婚して幸せにしてやれるかと考えた場合、答えは自ずと出てしまう。
 それなら、彼女の幸せを願い潔く身を引くか。
 でも夕べの彼女の泣き顔を考えると、愛しさが胸に積もる。
 行き付けのバーでグラスを重ねて、気がつくと、十一時を回っていた。
 その時、彼は何故か、硝子の靴を手にして迷子の子供のように途方に暮れた少女の顔が浮かんだ。
 もう諦めて帰ってしまったとは、微塵も考えなかった。
 彼はカウンターの上に飲み代を置くと、コートを手にしたまま、外に出た。
 ようやくタクシーを捕まえ、行き先を告げた時は、時計の長針は文字盤の左にきていた。
 ドライバーを急かしながら、彼は時間が止まればいいと本気で願う。
 間に合わなかったら自分は一生後悔するだろう。
 彼女を抱きしめる前に、身勝手な答えを出したらだめだ。
 車を降りて、階段を三段跳び位で駆け上がり、部屋の前へとたどり着く。
 ドアの鍵は開いていた。
 真っ暗な部屋の中に立ち、諦めかけた時、彼は人影が動くのを見た。
 何も言わずにただ抱きしめる。
 あとは耳元で囁いて。
 永遠に解けない愛の言葉を。


Fin