第一章 恋の形見
「雛人形ですか」
天野皓は素直な驚きを言葉と顔に表してまじまじと客を見つめ、失礼に気づき目を伏せて、すみませんと呟いた。
付き合っている人間の影響か生来の気質か、大抵の事柄には平然としてるのだが、時折こうした何でもないことに新鮮な驚きを示したりする。
二月も半ばで三寒四温とはよく言ったもので、今年は水の緩みも例年に比べ幾分早いようだ。
本日は陽だまりに猫が遊ぶに丁度いい日和だ。
「贈り物ですか」
時期的にはまさにこれしかないという贈答品になるだろう。ピンからキリまであるが、少し根の張る、それだけの価値のあるものだ。
雛人形に幸せな一つの将来を願った娘が、その未来に夢見ても無理はないと誰もが思うであろう器量の青年は、しかし骨董屋の孫の問いかけにゆっくりと首を振った。
「骨董屋さんでも男が人形を愛でるのは可笑しいとお思いですか」
「そうではないんですが。お客様のような方でしたら、人形を愛でる娘さんを見つめる方が絵になるんじゃないかと」
言って、皓は客の顔色が冴えないのに気がついた。
自分の台詞のせいだとすぐに気づくが、その理由がよくわからない。
「こちらの雛飾りは、少々古いものですが、ものはいいですよ」
「そうだね。綺麗な顔をしている。この他は」
窓硝子から差しこむ早春の柔らかな光の中で、まどろむような表情を浮かべる江戸物の御殿飾りの内裏雛に目を向けたまま、客が問いかけた。
「蔵の中にもういくつか。こういう商売をしておりますと知らぬうちに集まってきてしまいますので、可哀相ですが全部外に出してやれずじまいになっております」
「全部見せてくれないか」
そう言われて皓はようやく合点が入った。
客が自分で言うように、人形の好きな男がいない訳じゃなし、そういう人物に偏見を持つ気もない。しかし、何か訳があって手放した雛人形を捜していると考えた方が納得できる。
「どんな雛をお探しかおっしゃって下されば、助かるのですが」
「俺にもうまく説明できる自信がないんだ。すまないが蔵の分も自分の目で確かめさせてくれないか」
「僕の言い方が悪かったのですね。質問のし方を変えましょう」
「いや」
客は皓の台詞を片手で押し止めた。
「俺が捜しているのは、内裏雛だ。しかし、あれからもう随分たっているし、質で流れた雛は型が揃わなくとも、無理やり組み揃えてしまうとも聞く」
「わかりました。雛飾りは今の時期でしか用のないもの。いい機会です、せめて空気に当ててやりましょう」
にこやかに笑う骨董屋の孫に、客はお願いしますと深々と頭を足れた。
残念ながら、男が捜している内裏雛は蔵の中にはなかった。
皓が他の店を当たってみましょうか、と言ったら、男はしばしの逡巡の後、よろしくお願いします、と一礼した。それなのに、見つかったらこちらから御連絡しますの言葉には、何故かきっぱりと首を横に振る。
「実は家人に内緒にしているので」
「ならば、お勤め先にでも」
「家が仕事場なのです」
皓は頭の片隅で記憶をさらった。
聞き覚えのある名だと思ってはいたが。
「高林様、とおっしゃいましたね。もしや、人形師の高林恭一様では」
「……ええ」
とまどいがちに男は頷いた。
「もしや、お探しの内裏雛は高林さんの作ですか」
高林は皓を静かに見つめた。
「天星堂さんはよい跡取りをお持ちだ。初めからきちんとお話すべきだった。さぞ不審がられたでしょう。申し訳なかった」
丁寧すぎる謝罪に「いえ」と皓は言葉を濁した。
別に、不審を感じた訳ではない。年相応の好奇心を感じただけだ。
皓は大人びて見られがちだが、まだ十代だ。でも、それを面に出さないだけの思慮深さを持ち合わせている。
「かって馴染の花魁にせがまれ拵えた内裏雛を捜しているのです。個人的に作ったものですから銘は入っていませんが、見る人が見れば俺の手によるものと気づきます。若気の至りとは言え、そんなものが世間の目に触れれば、いらぬ詮索をされる。無論、無銘の品ですから偽物と突っ撥ねることもできますが、それではあんまりでしょう」
「その花魁と、今は行き来はないのですね」
高林は首を縦に振り降ろした。
「ならば、その方が手放したという証はない。もし高林さんにそう話されていても、大事にとって置くということもあるでしょう」
「別れた男の品を後生大事に取って置くほど女が純情だと信じる年でも、あ、いや。あんたはまだ若いから。それに……」
「世の中には様々な女性がいると知るほどには年を取っていますよ、僕も。だた……」
そうつないで、皓はいい澱む。
「何だい」
「高林さんが相手なさるほどの花魁でしたら、思い出の品を忍ぶ縁になさる、そんな方のような気がしたもので。……ごめんなさい。余計なことを」
「いや」
高林はそう答え、半分残ったまま冷めた玉露を口に運んだ。
それに気づいた皓がお茶を淹れ直すために席を立つ。
「彼女なら、大事に持ってくれていたと思うよ。こんな薄情な男との恋の形見でもね」
急須に白湯を注ごうとしていた皓の手が止まった。
少年が口を開く前に
「千草は死んだよ。私と別れて間もなく、血を吐いてね」
淡々と言葉が綴られた。
ことりと音が立ち、高林は顔をあげた。
柔らかな湯気が甘露にも似た茶葉の香りを運ぶ。
その向こうで少年が静かな瞳をこちらに向けている。
「ありがとう」
皓は首をゆっくり振ることで返事に変えた。
下手な慰めが役に立たない場面があるともわかる年だった。
「火はすべてを浄化するというが、人形も焼かれると熱いと感じるものだろうか」
「人形を見つけて、供養をされるおつもりなんですね」
物は古いが温かな品のある備前焼きの湯飲みを両の手のひらを暖めるように持ち、高林は自虐的な笑みを零す。
「そんな気の利いたものじゃない。証拠湮滅ってよく言うだろう。灰燼に帰してしまえば、世間が何を言おうと突っ撥ねられる」
「そうと判れば、心当たりを当たってみますよ。無論、高林さんの名は出さずにね。ところで、その花魁の絵姿があれば」
「どうして、その女雛が千草に似ていると」
「そのくらいは僕みたいな子供にもわかりますよ」
年相応の笑みを皓が浮かべるのを高林は苦笑で受け流した。
それから、眼差しを曇らせこう言った。
「妻を娶った時に全て処分した。知っての通り俺の妻は高林家の娘。しがない人形師が名人と言われた先代の気に入られるためには、そんな汚点は消すに限る。つまり、その人形が最後の染みっていう訳だ」
高林がわざと偽悪的な物言いをしているのはすぐにわかる。
そうして自分を堕としめることで、罪の意識から遠ざかろうとしているように、皓には思える。
「あなたがそのように冷たい方とも思えませんが」
「それは買い被りだ」
言い捨て、高林は立ち上がった。
ブナ細工の外套掛けから柔らかな天鵞絨の和装外套を取り、肩から羽織り、手編みの毛糸の襟巻を首に巻きつける。
上手に編んではいるが所々目が飛んでいるのが温もりを醸し出してる。
それが妻の手製ならば――。
確かに冷たい男だろう。
自分の愛した女の形見を捜し求める男の格好が、花魁にとっては。
「俥を呼びましょうか」
「いや、表通りで辻馬車を拾うよ。雪が酷くならないうちに着けるだろう」
皓は深く頷き、こう問いかける。
「二三日、お時間をいただけますか」
「それは構わないが」
「けして、噂になるようなことは」
皓の言葉を片手で止め、彼は言葉を紡ぐ。
「そうじゃない。手伝いの身とは言え、君も忙しいだろう。無理をしないでいい。俺も八方捜し回ったが出てこない。もし事情を詮索するなんて考えもしない、善良な家に貰われていったのなら、その方が人形のためだ。俺もあれを焼かずに済む」
「僕もそうであればと願っています。でも、行方不明のままでは、高林さんも花魁も可哀相です。そして内裏雛も」
「焼かれるのにか」
皓は透明な微笑みを浮かべた。
「高林さんは人形師で、まして御自分の作じゃ思い入れもおありでしょう。でも、人形は形代。人の身代わりになるため生まれてきたもの。身代わりをするはずの人間が亡くなられているのでしたら、それに準ずるのがいいと思いますよ。想いが残っていると思われているのなら尚更です」
高林は皓の言葉に送り出されて、小雪が舞う通りへと歩み出た。
☆
「千草、……ああ聞いたことがある。吉野屋の御職だったと思うけれど。皓ちゃんまさか、あんた馴染みだなんて」
餅は餅屋、花魁のことは芸者に訊くのが一番だ。
とは言え、噂が立つのを極端に嫌う高林に、店の名を問いただす訳にはいかないし、詮索していると疑われるのもなんである。
――高林じゃなく、訊きに行った相手に。
「僕にそんな器量がないのは、田上さんがよく知ってますよ、ねえ」
「ほんと、あんたたちは女がほっとかない綺麗な見目してる割に遊ばないというのか……」
一緒くたにされた代書屋の店主は、素知らぬ顔で常連の芸者に紅茶を淹れてくる。
代書屋の店内で売り物の円卓に腰を落ちつけ、ついでという雰囲気で差し出された紅茶茶碗を片手に皓は話を進めた。
「僕が馴染みになりたいのは、御職が持ってる内裏雛です。御職が客の一人に贈られた人形が、とても良いものだって聞いて」
雛人形に、それもはにかんだ笑みが似合う男雛に仕立てたくなるほど綺麗な皓の顔を覗き込み、芸者は息を落とした。
「嫌だね。骨董屋は死人の物でも価値があるとなると目の色変えて。さぞかし安値で叩き買って、好事家に売るんだろうさ。でも千草花魁の品じゃ儲けにならない。何でも血を吐いて死んだって言うじゃないか。きっと労咳に決まってる」
「死人の着物でさえ剥いで着る強盗も、サナトリウムは避けて通る。死んでは金も使えぬからな。蔓延を防ぐには亡くなった人間と一緒に燃やしてしまうしかない。神経質な人間なら、その灰が来ないよう風下にさえ立たないと聞く」
「御職の場合もそうだったのでしょうか。焼かずとも日に晒せば、結核菌も死ぬでしょう。馴染に医者がいればそのくらいの知恵は回りますよね」
話し好きは噂好き、芸者の目が興味の光で輝くのを認め、皓は素知らぬ顔で紅茶を飲む。
先日、迷子の西洋人形を売り主に届けて以来、代書屋は紅茶に凝っている。何でもそこで出された紅茶がとても美味であったとか。
「僕は内裏雛を見たいんですよ。それに、もし、労咳持ちの人形だってやっかまれていたら、可哀相でしょう。着物は焼けても、人形を焼くのは抵抗があるもの。真っ暗い蔵の隅にいるなら出してあげたいと思いませんか。持ち主が悪い病に掛かったのはその人形のせいだなんて、余計な噂が立っていたら、御職も浮かばれませんものね」
「皓ちゃんには敵わないわね。その代わり、約束だよ。あんたの最初の客はあたしにしておきなよ」
それには頷かず、皓は満面の笑顔で芸者を見た。
「人の悪さは似るって言うけど、旦那のせいですよ。純朴な子供をたぶらかしちゃ」
口は悪いが、機嫌は満更悪い訳じゃないようだ。
帰りがけに鈴に流し目をくれて、芸者は戸口を開けた。
☆
「何か言いたげですね」
女っ気が消えたとは言え、代書屋の店先には女にしたいくらいの美貌が二人も揃っている。
黒い支那服に細い身を包んだ皓が優雅な仕草で紅茶を飲み干した。
「その人形ならここにある、なんて言わないでくださいよ」
「私はそれほど人は悪くない」
田上鈴は本来なら自分とさほど年の変わらないはずの少年の横顔を見つめる。
その眼差しに、かってあった冷たさはない。
むしろ、誰かを重ねるように優しげである。
皓から視線を外すと、鈴は表へと顔を向け、良く通る声をそちらに投げた。
「どうぞ、中へ御入りください」
客か、と皓もそちらに目を向ける。
「あの、こちらに天星堂さんはいらっしゃるでしょうか」
「僕ですが」
妙齢の女性が、雪よけの傘を閉じたまま、戸口に立っていた。
皓は椅子から立ち上がり、彼女の元へ歩み寄った。
彼女は片手に大きな重そうな包みを下げていた。
一尺升大の桐の箱が二つほど入っているくらいの大きさだ。
その中身を思い浮かべ、皓は息を落とす。
皓を見つめたきり、彼女は身じろぎもしない。
皓を見て驚いたのか、それとも、別の何かにか。
「戸を閉めて、中に御入りになってください。暖まらないと、風邪をお引きになられますよ」
田上鈴が優しい声を女性にかけた。
元より、こんな美女を雪の中に追い出す代書屋ではない。
遊女屋に行かぬとからといって、女嫌いだなんて誤解もはなはだしい。
とは言え、ここまで優しい声を出すのも珍しい。
おまけに、紅茶にブランディを落として、特製のティ・ロワヰアルにして、洒落た瑠璃の紅茶茶碗で勧めるとは、余程この御婦人が気に入ったらしい。
「雪の中を随分歩かれたのでしょう」
ここに来て皓が口にした三杯目の紅茶は、二十歳前にもかかわらず主が入れてくれたティ・ロワヰアルだ。
つまりはこの上品な和服の婦人の御相伴に預かった訳だが、鈴は代書屋なんかよりカフェでも経営した方が似合いそうだと、皓は思う。
「僕がここにいると祖父にお聞きになったんですか」
「主人が物を頼んだのは、天星堂さんの御主人だと思いこんでおりましたので」
「こんな若い孫が頼みことを引き受けたと知って、驚かれたのですね。無理はありません。僕は孫の皓と言います。こちらはここの主人で、田上鈴さん。親しくさせてもらってます」
「申し遅れました。私、高林と申します」
皓は会釈を返し、高林夫人の言葉を待った。
「ここに来たのを主人は存じておりません」
「御主人には内聞にいたしましょう」
皓は即答で請け合った。
元より夫婦間の問題である。
余計な口をはさむ気はない。
「お願いがございます」
決意を胸に秘めた凛とした表情で切り出されて、皓は思わず助けを求めて鈴の方を見た。
が、代書屋の主人は素知らぬ顔でティ・ロワヰアルを口に運んでいる。
たおやかとしか言いようのない白い指先が、ゆっくりと瑠璃の茶碗を優佳良織の卓布に置くのを見つめながら、皓は高林夫人の言葉を待った。
夫人は自分の紅茶茶碗を脇によけると持ってきた風呂敷包みを、そっと円卓に置く。
皓はその時になって、自分の想像が確信をついていると知った。
「これを主人に渡していただきたいんです」
二つの桐箱にはそれぞれ男雛と女雛が納まっていた。
正しくは、高林が探している内裏雛だ。
皓は、これからの騒動を思いやって、そっと肩をすくめた。