第二章 早春の庭



 何度も振り返っては心配そうに礼をくり返す高林夫人が、激しく降り出したなごりの雪に消えてゆくのを、皓は複雑な思いで見送った。
「そろそろ中に入った方がいいと思うが」
 この成り行きを完全に楽しんでると言った感じで、気まぐれな代書屋が背後から少年に声をかける。
「灯台下暗しっていいますけれど」
 考えてみればありうる可能性である。
 千草御職と高林恭一どんな別れ方をしたのかまでは皓は聞き及んではいない。
 しかし、御職は倖せとはいえない死に方をしているらしい。
 死ぬ間際に、御職が恋敵である高林夫人にその亭主との恋の形見を送り付けて溜飲を下げたいと思っても無理はない。
 皓が、自分なりに考えを巡らせながら、代書屋の店先に立ち戻ると、こんな声が飛んできた。
「子供は家に帰る時間だ。送って行くから、これを飲んだらお帰り」
 皓が今日ここで供された紅茶はこれで四杯目である。
 今度のは生姜の香りのする乳白色の紅茶だ。
「これは……生姜湯の紅茶版?」
「牛乳紅茶。生姜をちょっとあしらってみた。気分が落ち着くそうだ」
 素直に口につけると、皓を鈴は微笑みで見つめている。
「何か、いいことでもあったんですか」
「どうして」
 素朴な疑問と言うのは、時たま相手とって意味不明の質問になる。
「僕はいつも疎ましがられているでしょう」
「そうわかっていて、用もないのに来るから、性格が良くないと思われる」
 巧妙に答えを誤魔化し、鈴は自分の分の牛乳紅茶を飲み干す。
 こちらは琥珀色の洋酒が落としてあり、言うなれば大人の味に仕上がっている。
「性格のよろしくない子供を、わざわざ送ってくれるなんて言うから、季節外れの大雪になったんですね」
「この時節の『どか雪』は予定にたがわぬ天候だ。それに、用のついでだ」
 皓は一瞬、躊躇いはしたが、折角の申し出に頷くことにした。
 別に頼みもある。
「ならば遠慮せずに、お言葉に甘えさせていただきます。それともう一つ」
「内裏雛ならしばらくこちらで預かろう」
 頼み事一つ聞かぬうちに、鈴はにこやかに請け合った。
 おそらく人形が気に入ったのだろう。
 鈴が好きそうな女雛であると、皓は先程夫人が桐箱から取り出した時から気づいていた。
 猫舌の皓が紅茶を飲んでる間に鈴はとっくに身仕度を整え、店仕舞を初めている。とはいえ、木戸を立てるだけなのだが。
「帰りたくなくなるような風向きになってきましたね。そう遠くもないから、無理しなくてもいいですよ」
 時折強さを増す北風が春の重い雪を叩きつけている。
「帰らないなどと言い出されぬうちに、帰すと決めた」
 皓は一度とてそんなわがままを口にした覚えはない。
 ――田上鈴は魅力的な男である。
 女が放っておかない美貌、とは代書の客として常連の芸者達の台詞だが、そんな一般的な形容以上の凄みを感じる美しさだ。
 その上、秘密を香水代わりに身に纏っているような男でもある。
 けれども、皓は自分の立場を熟知している。鈴にすれば、厄介事を持ちこみがちな骨董屋の孫しかないのだ。それに、必要以上に近づきすぎたら、二度と逢えなくなる、そんな気がする。
 抱えている秘密を暴いたために、愛しい人間が忽然と姿を消す。
 昔話によくある喩だ。
 皓は田上鈴を兄のように慕ってる。
 鈴が自分をどう思っていようと、皓は鈴を失いたくはなかった。ずっと傍にいたかった。
 ずっと、このままで。
「じゃあ、行きましょうか」
 遠い昔にこうして傍にいた気がするのは、どうしてだろう。
 吹雪から少年をそのからだで守りながら歩みを進める、黒いコートの後に続きながら、皓は答えのない問いを思い浮かべていた。
「わざわざどうもありがとうございました」
 天星堂から一丁手前の角で、皓は歩みを止め、優しい代書屋に深々と礼をした。
「気を付けて」
 天星堂の店先まで鈴が足を延ばしたことはない。
 今は黙認しているが、店主である祖父が鈴にいい感情を持っていないことも、皓はちゃんとわかっている。
 鈴も店まで送ろうともせず、大きく一つ頷いただけで、踵を帰した。
 瞬きした間にその細い影が視界から消えているのを見ても、皓は息を一つついただけで済ませる。
 こんなことにいちいち驚いていたら、あの男と付き合ってはいられないのだ。
 そんなことより、遅くなった言い訳を雪のせいにできると気づいた方が皓にとっては重要だ。
 先程の吹雪が嘘のように静かに降ってくる雪を手のひらで解かし、皓は深呼吸をした。


 黎明が山裾に零れるにはまだ間がある頃。
「誰?」
 雪明かりを背に、こちらを見下ろす人影に気がついて、芸妓は床から身を下ろした。
 影にも綺麗なものとそうでないものがあるのだと、女はぼんやり思った。
 その横では変事も知らずに、馴染の客が眠りについている。
 嫌なことがあったらしく、普段は優しい男が妙に荒れていた。
 こうして共に眠るまで芸妓は多少の苦労を強いられたのだ。
 客の多くは浮世の憂さを晴らしにくるもの。この男はましな部類だ。苦労と思っては罰が当たろう。
 影は静かにこちらを見ている。
 影でさえこんなに綺麗ならば、光を当てたら、さぞかし美しかろう。
 手元の行灯でその顔を照らそうと思い、女はつとそれを思い止まった。
 灯火をつけたら客が起きてしまう。
 客が自分達以外の人影に気がついたら。
 ……それに、これは夢だから。
 夜更けの闖入者に対して、警戒心を持たぬ自分を不審に思わない理由を思いつき、女は淡い笑みを浮かべる。
 灯火をつけたら、夢から醒めてしまう。
 傍らに眠る客に、こんなに綺麗なひとときの夢を邪魔されたくなかった。
 彼が嫌いな訳ではない。そうじゃないけど、客は客でしかない。
 ……夢も夢でしかないと、わからないんじゃないけど――だからこそ。
 夢枕に立った綺麗すぎる人影に、見惚れていたかった。
 ――早朝、慌ただしく帰路に付く客は、起こされた芸妓の機嫌が悪いのは、夕べの己れの仕打ちのせいだと、心中、首をすくめる。
 それ以外の理由が思いつけないのだから、気のいい男なのだろう。
 最も、それ以外の理由を知っても、気のいい振りを続けられるかは別だ。
 女がそれを口にしなかったので、男は酒の飲み過ぎを反省するに留まった。
 よもや、夢枕に立った気まぐれな美影身のためだとは思いつかないだろう。
 しかしながら、その芸妓も気がつかなかったことがある。
 その夜、美貌の人影に夢枕に立たれた娼妓は彼女一人だけではなかったのだ。
 吉野屋に忍びこんだ罪な影の名は、記すまでもないだろう。


(ここは、何処。あなたは、誰)
 眠りから揺り起こされた人形が、綺麗な瞳を向けて、そう問いかける。
 それから、人形は辺りを見渡して、愛しい男がいないと気づく。
(恭さま、いないの?)
「お前の恋人なら、桐箱の中で眠っている。寂しいなら、連れてきてやろう」
 優しい口調だが、その内容はかなり冷たい。
 人形が望んでいるのが、そうではないとわかっているからだ。
(あの女があの人を隠したの)
 女雛は童女の口調で詰問する。
 雛飾りはお嫁入りを象ったもの、女雛はそれにふさわしい年頃のはず。
 が、綺麗に作られている故に、人形遊びをする年の女童の声色が似合いすぎている。
「隠されたのはそなたの方だ」
 高林夫人は自分の元にこの内裏雛がある経緯を全くと言っていいほど語らなかった。
 皓も余計な詮索をしなかった。
 何も問わなかったからこそ、彼女はこうしてここにいる。
 皓は御職が高林夫人へと内裏雛を送ったと思ったようだが、御職が送った相手は『恭さま』だった。
 死んでゆく自分の形見として、持っていて欲しいと願ったのだろう。
 おそらく夫人は、自分が嫉妬に狂って夫宛に届けられた包みの中身を確かめてしまい、それを夫の目から隠してしまったのを後悔したのだろう。
 夫が内裏雛を探していると知って、自分の行為に脅えたのか。
 夫人はただ渡してくれといっただけだ。
 皓は夫人の訪問を内聞にすると請け合ったが、彼女が願ったのはちゃんと渡して欲しいと、それだけだ。
 それから、ひとことぽつりと。
 ――人形に罪はありませんから――
(あの女さえいなければ、恭さまだって)
 本当だろうか。
 人形は人の身代わり、人としての分別があれば、けして口にしない言葉も、無邪気に言葉にしてしまう。
 それは罪ではないのか。
「だから、懲らしめたのか」
 口さがない客の噂話を、娼妓の中には無責任に楽しむものもいる。
 鈴はそんな女の一人から、高林夫人が近頃悪い夢に魘されると聞き出していた。
「悪い娘はお仕置きをしなければならぬ」
 鈴の声は厳しい。
 高林夫人に肩入れするつもりもないが、人形の《気》は良いものではない。
 詳しい事情を何も知らない禿でさえ意味もなく怖がり、泣き出すのだから、人形に御職の怨念が籠もっていると思われても仕方ない。
(あなた、誰? どうして、そんな意地悪言うの)
 鈴は薄い笑みを面に表した。
 千草人形の顔に戦慄が走る。
「そうだな。どんな答えなら、気に入ってもらえようかな」
 酷薄な微笑をその口許に零した男はその表情故に、冴え渡る夜の三日月にも似た綺羅なる光を放つような錯覚を覚える。
 口を閉ざした女雛をその白い手がそっと持ち上げる。
 愛らしい顔を能面のように強張らせた千草人形は、もう何も話そうとしない。
 鈴は軽い吐息とともにこう呟いた。
「少々脅したくらいで気配を隠すとは、臆病なことよ」
 答えはない。
 元より人形とは口を聞かぬもの。これが平常なのだろう。
 鈴は無口になった女雛を桐箱に納め、風呂敷に包んだ。
 事を決めるのは当事者に任せるべきだろう。頼まれもしないのにしゃしゃりでるのは、このくらいでよしておくべきだ。
 障子戸の向こうから雪明かりが透けていた。
 それに手をかけ、思い止まる。
 骨董屋の孫息子の存在を思い出したのだ。
 ――彼なら自分のように人形を怖がらせはしまい。


「内裏雛は何か話しましたか」
 このような問いをごく普通の口調でこの男に訊くのだから、天野皓という少年の度胸は大した物だ。
「どうやら怖がらせてしまったようで、嫌われたよ」
 答える方の度胸は、言うまでもない。
「そんなことはないでしょう。鈴を嫌うなどとは」
「……!」
 真顔でそう言われた鈴が本気で驚いたので、皓は吃驚した。
「……鈴が無理ならば、僕じゃだめでしょうね」
「それは、どうかわからない」
 やってみろと言われ、皓は戸惑った。
「元々は皓に託された品だ。お前が人形の意向を聞くのが筋だろう」
「それはそういう理屈でしょうが…」
 皓は逡巡を瞳に表し、彼より頭半分だけ背の高い代書屋を見つめた。
「あなたも一緒にお願いできますか」
 それは甘えだったかも知れない、と後で皓は思った。
 自信がなかったのも本当だ。
 話したくてしょうがないモノを相手にするならまだしも、そっぽを向いた人形に口を聞かすなんて至難の技だ。
「そうと判れば、白酒でも用意してくるんでした」
「白酒ならある」
 言いながら鈴は、意表を付かれた顔をしている。
「……僕は単純ですから、女の子を釣るなら、綺麗な物か、美味しい物としか思いつかないし、生前の御職の好物も知りません」
「千草御職は桃が好物だったそうだ」
 極めてさり気ない鈴の台詞に皓は眉をしかめた。
「鈴。知ってることをわざと言わないのを、嫌な男と世間では言うそうですよ」
 皓が拗ねると鈴は悪戯な笑みを零す。
「そんなに遊女屋に行きたかったとは知らなかったな」
「用事というのは、それだったんですか」
 傍観者の振りを続けていながら、影で聞き込みをしてきて、優位に立とうとする、そんなところが、皓を苛立たせる。
 そういう人間だと、わからないわけじゃないが。
「皓が行きたければ遠慮せずに行けばいい。それとも連れ立って行くか」
「僕はああいった場所は好きじゃない。一生近づかずとも結構です」
 鈴はふと悪戯な笑みを消した。
「……変わらぬな。そういうところは」
「あなたもお嫌いだと思っていました」
「どうして?」
 会話を楽しむように鈴が言葉をつなぐ。
「私はそう女好きなわけではないよ」
「そうですか」
 皓の口調は辛辣だ。
 本気で拗ねている。
「ひとつ誤解のないように言っておくが、私は客として行ったのではない」
 そうだった、と皓は思い出し、深い溜息をついた。
 知らなくて良かったのだ。
 その行動は泥棒と同列に扱われても仕方がないし、一時的とは言え娼妓達の心を奪う――それもこの男としては非常に珍しく意図的に――のだから、危険度は更に上だ。
「……彼女達に同情したくなってきました」
 皓は拗ねるのをやめた。
 そんな仲間に引きこまれるのはごめんだと思った。
 まだ、『人』でいたいから。
「……内裏雛は何処です」
「奥で休んでもらっている」
 鈴は奥の座敷に皓を案内した。
 雪解けの水が筧を渡って獅子おどしを鳴らしている。椿の花がその水面を流れ出て小さな池に沈み切らずに浮かんでいる。そこから縁側までまで石畳が続いている。庭石や石灯籠の影などには、白いままの残雪が解け残っている。
「初めてだったかな」
 皓が中庭の日本庭園に目を見張るとそんな言葉が飛んできた。
「いつも店先にお邪魔するだけですから」
 この部屋は骨董の売買にでも利用するのか。或いは、絵の象主でも通すのか。
 それとも、誰か特別の人間のために設えたのか。
 ――誰のために、彼は庭の手入れをするのだろう。
「そうだったかな。……そういえば、皓はお茶の心得があったね」
 皓の心を読んだ訳ではないだろうが、鈴はこの部屋の使用目的の一つを答えてくれた。
「桜が咲いたら、茶会でも開こうか」
「僕を誘ってくれてるんですか」
 皓が確認すると、鈴は軽い溜息をついた。
「私は人付き合いがそう得意な方じゃないが、それでもいいという酔狂な客なら、歓迎する」
 皓は満面の笑顔で鈴を見つめた。