終章 雛の宵


 一体、何が起きたのだろう。
 高林由麗香は、その声を聞いた時、そう感じた。
 最愛の夫が自作の人形を前に、茫然としている。
 その気持ちならよくわかる、つもりだ。 たとえ、人形にその女の髪や着物が使われていようと、作った人間が一流と世間で噂されるほどの腕であろうと、あってはならないことが起きたのだから。
 雛人形が話すとは。
 からくり人形でもない。腹話術でもない。
 ここにいる女は私一人。
 女とみまごう麗しい美しさの男なら二人ほどいるが、これは女が出した声。
 幽霊の?
 悪い夢ならば、それなりの説明もつく。目覚めれば消える。気のせいと我が身を慰めもできる。
「千草?」
 夫の口から声が漏れる。
 その名が。
 噂話なら、耳にした。おそらくは噂は事実だとも思う。
 その証拠の品である内裏雛は、先日まで由麗香の手元にあった。
 でも、それを夫に問いただしたことはない。
 閨で、一度だけ、夫が由麗香とその女を呼び違えた事はあったが、その時でさえ、尋ねたりはしなかった。
 怖かったから。
 夫がそれを隠しても、認めても、その話をしたら、お互いに傷ついてしまう。
 だから知らぬ振りをした。自分が傷ついても、夫が傷つくのは許せなかった。
 いや、怖かった。それを真実あった出来事と認めるのが。
 本気で恋をした初めての相手だった。
 恋に身を焼く辛さも、倖せも、すべて夫がくれた。どうしていいかわからない想い。
 でも、守りたかった。好きだから。大事な人だから。
 そばにいたいから。
 女雛が再び、夫を呼ぶ。
 恋する女にしか出せない、甘くせつない声で呼ぶ。
 それだけで、わかってしまう。想いの深さ。
 まだ我を失ったままの夫が、その人形に向かい、咄嗟についてでたであろう、言葉は、千草を案じるもの。
 こんな姿の相手にさえ夫は優しい。
 わかっていた。
 女遊びは男の甲斐性。
 そんな口さがない噂に打たれる度、そんな人じゃないと、心で繰り返してきた。
 遊びで恋なんてできやしない人。きっと遊女相手でさえ、本気になったはず。
 だからこそ、脅え驚きながらも、錯乱しながらも、いたわりの言葉をかける。
 けして、やましさなどではなく。きっとまだその花魁に心を残しているから。
 混乱している由麗香とそして高林恭一を残し、綺麗な骨董屋の少年と、人とは思えない美しさの代書屋は席を立つ。
 それが正しい処遇だと、心の片隅で理解しながらも、由麗香は二人の行動を恨んだ。
 あの少年は、夫を守ってくれると約束したのに。
 どうして、こんなことになったのだろう。
 私はどうすればいい。どうしたらいいの。
 青い玻璃の杯が、ひび割れて壊れてゆく。綺麗すぎる故に耳に障る、透明な音がする。
 それは、きっと今まで大事にしていた夫との時間。
 まるで、布で包んで、小箱にしまっておいたお気に入りの絵皿が、知らぬうちに割れていたように、無理を重ねていたのかも知れない。
 だって、知らない人みたい。
 自分に見せる姿が夫のすべてだと、信じこんでたのかもしれない。
 もう見たくない、と目を覆いたいのに、手がいうことを聞かない。
 風が雲を運び、陽を翳らす。木々が庭に影を落とす。
 でも肌寒く感じるのは、そのせいではない。
 そして、夫は言った。


「何が望みだ。どうして欲しいんだ」
 一目散に逃げてしまいたい衝動にかられながらも、高林恭一は言った。
 力を失っていつか手から転げ落ちた女雛は、座り込むように畳の上にある。
 姿勢は作ったままの姿、その筈だ。
 手があっても自由に伸ばせず、足があっても歩けはしない。
(また、通ってきてくださいな)
 歌うように誘うように媚びるように千草人形は言う。
 生きていた時と同じ口調で?
 いや違う。そうじゃない。
 これは俺の知っている、千草ではない。
「何処へ?」
 恭一は反射的に問い返す。
 千草は何処へ帰るというのだ。
(決まっているじゃないですか)
「吉野屋にか?」
 人形の首が縦に下りた。いや、錯覚だ。
 この人形は俺が作った中では一番の出来だ。だからそんな風に見えるだけだ。
 それに、千草とはもう。
(恭さま)
 好きだった甘い声。優しい声。溺れるように過ごした毎日。
 逢いたくて金をかき集めて、吉野屋に通いつめた。
 そして、一方的に断ち切られた。
 一方的に?
 いや、俺だって別れるつもりでいた。切り出したのが千草だっただけだ。
 どんなに身勝手と言われても。死に逝く女についていくほど愛せはしなかった。
 不実な男と詰られても、人形師としての未来を選んだ。
 自分の夢を選んでしまった。
 けれど、それは千草の望みでもあったはず。
「本当に千草なのか?」
(他の誰に見えます?)
 千草の声だ。
 それ以外の何物でもない。
 けれど、違う。
 何か違う。
(恭さま?)
 千草人形が問い返す。
 生きているような眼差しで。
 もう終わったはずの、恋なのに。
 過去に捨てた恋なのに。
(恭さま?)
 千草人形がその名を呼ぶ。
 別れを告げたその同じ声で。
「千草は死んだよ」
 高林恭一はそう言った。
「千草は死んだんだ」
 千草人形は首を振り続けている。
 高林恭一の言葉は千草には冷たすぎるものだろう。
「俺は別に事実の確認をしたいんじゃない。俺の心の中で、もうお前は死んだんだ。お前が、別れを告げたあの時に」
 俺は冷たい男だ。
 初めこそ、懐かしさと忘れていた愛しさで、千草の想いに引きずられそうになった。
 この千草人形は、今まで何一つねだったことのなかった千草御職が初めて望んだ品だ。
 日に日に痩せ劣ってゆく自らの姿を嘆く女心が、せめてその美しさを人形に残したいと思ったのか、それはわからない。
 今更、問いかけるつもりもない。
 千草の手元を離れた理由さえ、もうどうでもいい。
 ただ、精根込めて作ったその人形が、よもや千草の新しい器になるとは思わなかった。
 これは良くないことだ。
 いや、そんな善悪で言い尽くせはしないが。
「冷たい男となじるならなじってくれていい。恨むなら恨んでくれ。でも、俺はお前のためにもう何もしてやれない」
 血を吐く言葉。
 けれど、きちんと言わなければならない。
 人は綺麗事だけでは生きてはゆけない。
(恭さまが、そんな言葉を吐くはずはない。あの女に何を言われた)
「由麗香は関係ない」
 恭一は即座に言った。
 今の彼にとって守るべき女が誰か、恭一はわかっていた。
 口さがない者達の噂がどんなものか、知らなくはない。
 病気の千草を捨てて、高林に婿入りした男。
 どんな経緯があろうと、納得ずくの別れだった。
 少なくとも、恭一はそう信じていた。
 信じたかった。
 気持ちは割り切れるものじゃない。
 あの日、別れの言葉を言い出せずにいた山辺恭一に、二度とここに来るなと諭したのは千草の方だ。
 そして今、高林恭一として彼は言葉を綴る。
「由麗香は何も知らない。何一つ。俺がこの内裏雛を作ったことさえ知らない。知らせるつもりもない。罪も罰も、俺だけが背負えばいい。わかってくれ。お前の居場所はここじゃない。千草、どうせ、俺だってそのうち逝く。それまで待っていてくれ。俺はどんな汚名を背負っても生きることを選んだ。今、お前に取り殺される訳にはいかない」
 床に落ちた千草人形から、歪んだ気が立ちのぼる気配がした。
(一人で逝け、と言うのですか。どうしても)
 今の千草にならば、取り殺すのもたやすいだろう。
 本気で望めば。千草が本気で望むなら。
「恭一さんは渡さない。取り殺させやしない」
「…由麗香」
 恭一をその身で庇うかのように、飛び出してきた人影に、彼は茫然とその名を呟いた。


「何故、ここに」
「黙ってここにきたのは悪かったわ。でも、全てを知らぬ振りにはできなかった。この内裏雛は私が持っていたんだもの。あなたがこれを捜しているのを知って、届けるように天星堂を訪ねたの」
 傷つくだけ傷ついても、それでもまだ目の前の夫を愛してる。
 不思議と静かな心で、由麗香は夫を見つめていた。
 誰も何も知らないままの子供ではいられない。
 女として一人の男の心を本気で欲しいと思ったのなら。
「だって、私はあなたの妻ですもの。あなたが選んだあなたの妻ですもの。そうでしょう」
 高林の娘だから。初めはそれだけが理由だったかも知れない。
 だけど、今は。今の気持ちは?
「答えて、私はあなたに作られた人形ではないの。人形のように飾られるだけの妻でしかないのなら。私は静かに身を引きます」
 恋を知れは女は欲ばりになる。
 愛されたいと望む。
「答えて。あなたを慕ってるのは、この哀れな花魁だけじゃないのよ」
 高林恭一は初めて見る妻の表情をじっと見つめた。
 そして、答えた。
 今度は間違えずに。
「お前は俺の妻だ。だから、もう何も言うな。お前は俺が守るから。これは俺の不始末だ。お前と出逢う前の、だから」
 由麗香をその身で後ろに庇い、恭一は見つめる。
「千草、成仏してくれ。もう心を残さずに」
「お願い。恭一さんを連れていかないで。思い出して。本当のあなたを。思い出して。どうして、あなたから別れたの? あなただって、私と同じ想いで、恭一さんを見つめていたはずよ」
「それほど、一人で逝くのが嫌なら。お前だけの『恭さま』を連れて逝けばいい」
 ふいに、座敷にもう一人の影が現れた。


 田上鈴は、畳の上に転がったままの千草を拾いあげ、そっとその髪を撫ぜた。
 人形ではなく女を慈しむ仕種で。
「もう、何も心配はいらぬ。そなたは優しい心根の女。愛しい男を困らせてはならぬ。幸せな『恭さま』に逢うのがそなたのだったはず。この男、十分すぎるほど果報ものだ」
 千草人形から立ちのぼるまがまがしい気配が、すっと消えた。
 残されたのは、美しい千草御職の人形。
 そして、もう一体。
 対になるべく作られた、恭一人形。
 鈴の白い手が千草人形を男雛の傍らに置く。
「女雛には、男雛がいる。千草人形には恭一人形。お前の『恭さま』だ。もう誰も邪魔はせぬ。やすらかに眠るが良い」
 千草人形の首が静かに降ろされた気がした。
 いや、それは幻。
 人形は物を言わないもの。
 人の形を形どっただけの――。


 夢の終わりはあっけないもの。
 何事もなかったように、骨董屋の少年が、人形を桐箱に納めるのを、高林恭一は静かに見つめていた。
 代書屋が自らお茶を淹れて、勧めてくれる。
「これで、良かったんでしょうか。千草は俺を連れていきたかったんでしょう」
 鈴は春の陽射しに似た笑みを零す。
「高林さん。千草はちゃんと『恭さま』を連れていきましたよ」
「でも、あれは」
 恭一が言うのを、眼差しで止めて、鈴は言葉を繋ぐ。
「その人形を焼くようには、人の心は割り切れない。でも、それでも生きていくと決めたのでしょう。それとも、牡丹灯籠のように、一緒に逝った方が良かったとでも」
 恭一は大きく首を横に振る。
「伊摩南寺に知り合いがいます。そこで焼いてもらいましょう」
 内裏雛を桐箱に納め終えた皓の言葉に、由麗香が訊いた。
「やはり焼くのですか」
「ええ。千草の手元に返してやりましょう。今度生まれてくる時は、きっと幸せな花嫁になれますよ」
 皓の言葉に恭一はようやく微笑みを落とす。
「では、お願いします」
 高林夫妻は、深々と頭を下げた。


 仲良く遠ざかってゆく、二つの影を見送りながら皓は一つ息を落とす。
「高林を冷たい男と思うのか?」
 夕闇に消えた人影を見つめる少年に、代書屋が声をかけた。
「いえ、千草を哀れに思うだけです」
 皓はそう答え、代書屋の瞳を覗き込む。
 鈴は、少し笑ったようだった。
「鈴もそう思ったから、この件に関わったのでしょう。頼まれもしないのに」
「出過ぎた真似をしたかな」
 澄まし顔で答える代書屋に、皓は苦笑した。
 けれど、皓の目はすぐに翳る。
「桃を一枝、持ってゆくといい。千草への手向けだ」
 店の戸締まりを終えた、代書屋の主が声を投げる。
 皓は頷き返し、夕闇の空を今一度仰ぐ。
「白酒、ありましたよね。いただいていいですか」
「男二人で、雛の宵を過ごすのもまた一興かな」
 皓の瞳にようやく笑みが戻った。
 代書屋の後に従いながら、皓はふと高林夫妻はどんな宵を過ごすのか思い浮かべてみた。
「誰も悪くないのに」
 皓の呟きが、夕闇に消えた。