第五章 風、一陣


 皓が鳥居に着くともう高林恭一の姿があった。
 声をかけようとして、恭一が社の方を見て、立ちつくしているのに気づく。
 その表情を見咎めて、皓は聞いた。
「誰か、知った人でも」
「家内が、お宮参りに来ていた」
「奥様が?」
 言葉を濁し誤魔化すと思ったのに、意外な反応に皓は戸惑い、自分の来た道を振り返る。
 途中、お宮の前を横切ったのだが、高林由麗香と思われる人影に気づかなかったし、今顧みてもそれらしい人影はない。なにぶん広大な境内だ、今日の参拝客はそう多い方ではないが、柱や木立ちの影にでも紛れたらわからない。
「……いや、見間違いだろう」
「行きましょうか」
 そう言い、皓はもう一度振り返る。
 由麗香は代書屋の場所を知っている。それに、ここから代書屋まではそう遠くはない。その道すがら、ふと立ち寄っても不思議はない。まして、あれだけ夫の身を案じていたのだから、むしろ当然の行動だ。
「天星堂さん?」
「天野皓です。皓と呼んでください」
 少年らしい元気な物言いに、恭一は口許をほころばせた。
「……皓君。その代書屋だが、色町に近いんだろう」
「ええ」
 神社仏閣の清らかな聖域のちょうど門前町の格好で、歓楽街が形成されている。
 ――昔、薄の原っぱだったので、今では薄ヶ原と呼ばれて、都一の色町を形成している。
「君でも行くのかい。そういった場所に」
「代書は文盲の娘を相手に行うもの。そういう娘達の集まる場所でこそ成り立つ商売です。我々はだからそこに向かっているだけのことですけど」
 皓の声に言い訳めいた疚しい響きはない。
 皓は男の目から見ても綺麗な少年である。いつも黒を基調とした落ち着いた身なりで、大人びた口を叩くが、その実、面差しには幼さが残る。
 綿密に整えられた造作で、人形に似てるなと、恭一は思った。
 皓は均整の取れた体付きで誤魔化されがちだが、男にしては華奢な気がする。黒服のせいで強調されるのか、白すぎる肌も、壊れそうという印象に一役買ってるのだろう。今日の皓は屋外のせいか、清らかな空気を身にまとってるのが、わかる気がした。
 まだ、神宮の敷地内を出ていないせいだろうか。
「高林さん?」
 少年に特有の早足で神宮前の参道を抜けようとした皓が恭一を振り返る。
「大丈夫です。僕さっき、高林さんの分もおまじないしてもらいましたから。何があっても平気ですよ。参道を抜けたら、右です」
「ああ」
 どうも、俺はぼうっとしているようだ。それにしても、大袈裟な。
 多少気にしながら、恭一は確かな足取りで向かって右に曲がる皓の後に従った。
 着いた場所は、一見古道具屋のような雰囲気を漂わせる構えの商家だった。
「昔、色町に来る客目当ての時計屋だったそうです。そこを買い取って、趣味の骨董を売る傍ら、主に遊女相手の代書を始めたとか」
 飾り窓の中に陳列してあるのは、その説明で骨董と知れた。
「鈴は、奥かな。呼んできますから」
 中に入るのをためらうような頑なさがないせいで、つい皓に続いて店に入った恭一は、その台詞に戸惑うように少年を見つめた。
「その前に、これ。上着の懐にでも入れて下さい。御守りです」
「俺は、人形を引き取りにきただけだ」
 皓は「わかってます」と笑顔で頷き、恭一を待たせて、奥に入って行った。
 恭一の溜息だけがそれを追いかけた。


 時は少しだけ溯る。
 擦り硝子の引き戸を開ける音に気づき、鈴は立ち上がった。
 女の影が、ひっそりと薄暗い店先に佇んでいる。
「先日は失礼いたしました」
 そういって頭を下げる女に、鈴は優しく頷き返した。
「高林の御内議でしたね。お待ちしておりました」
 由麗香は綺麗すぎる男を見上げ、息が詰まりそうになるような圧迫感を感じた。
「ここはあなたのように綺麗な御婦人には似合わない。奥に上がってお待ちなさい」
 諭すような魔術に似た言葉。
 高すぎず、低すぎず、柔らかで静かな声。
 その癖、逃げられない、断われない、何かを感じさせる声。
 人がこんなに綺麗なはずはない。
 由麗香の心の奥で声がした。
 長めの黒髪をうるさそうに肩の後ろにおいやる、そんな仕草さえまるで能楽者が舞台で舞っているように、優美だ。洗練されている、そんな言葉じゃ追いつかないほどの動き。
「さあ、どうぞ」
 鈴が、招くようにその白い指先を差し出す。
 どうして、こんな綺麗な人が、こんな煤けた店にいるの。
 褪せた写真のような影が射しているみたいなこの店に。
 呪文に掛けられたように、ふらふらとした足取りで、由麗香は店の奥に足を踏み入れた。
 途端に世界が変わる。
 規模はそうでもないが、どこかのお屋敷に迷い込んだような錯覚を感じさせる。
 代書屋は和室の続き間の奥の方へ、由麗香を案内した。
 日当たりのよい畳敷きの座敷だ。
 由麗香がいる座敷は、襖でより日当たりのよい縁側の部屋と遮られるが、西向きの壁に明かり取りの丸い障子窓がある。秋にそこから名月を眺めたら、さぞかし風流だろうと思われる。
 鈴は待つほどもなくお茶を用意してきて、客に勧めた。
 ふかふかの座布団に正座して由麗香はそれを受けた。
 日の光のせいだろうか、圧迫感は減っている。
「いいお部屋ですね」
「気に入っていただけて重畳、庭木も梅から桃に花が移りました。自慢できるほどの庭でもありませんが、お客が揃うまでどうぞ。お目汚しでしょうが」
「そんなことは」
 言葉少なに由麗香は答える。
「どうか、おかまいなく」
 一礼して、鈴が去って行くのを、由麗香は茫然と見送った。
 優雅な立ち振舞は一朝一夕に身に付くものではない。若くして両親を失くした青年が遺産を守りながら、代書や骨董の商いで身を立てている。
 常識で考えればそうなのだろうが、それで言い尽くせない事情もありそうだ。
 由麗香はそこまで考え、そっと思いを途切らせる。
 自分が何をしにきたのか忘れた訳ではない。今日は箱入り娘に育ったお嬢様である自分の正念場だ。
 あの綺麗な骨董屋の少年は、牡丹灯籠はただの話だと笑い飛ばした。生きている御職の千草花魁ならまだしも、幽霊如きに夫を取られる訳には行かない。
 たとえ夫がその気になっても、自分の顔に泥を塗られておめおめ帰るなんてできない。
 決意を胸に秘めて外を見ると、なるほど店主がいうだけあって立派な日本庭園だ。
 由麗香は縁側にそっと置かれた女物の下駄を履いて、庭に出てみた。
 うららかな春の陽射しに目を細める。
 幽霊やお化けがでるのは、夕刻ないしは夜と相場が決まっている。昼間の幽霊なんて、冷めて気の抜けた燗酒みたいな物。だいたいが、今はまだ春、幽霊は夏の出し物だ。
 咲き始めた桃の下に立つと、由麗香に一陣の風が舞った。
 甘い香りとともに、風に負けた花片が髪に降る。軽く髪に手をやると、あっけなく落ちるそれを、手のひらで受け止める。
「失礼」
 背中からそっと呼びかけられ、由麗香はびくりと振り返った。
「驚かせて申し訳ない。御内議は、護符をお持ちですか」
「いえ」
 絵のように綺麗な青年は顔を困らせる。
「天星堂は何と」
「鈴、奥様の護符はここです」
 縁側で皓が白い札を手にこちらを見ていた。
 由麗香は奥の座敷に戻り護符を受け取った。
「もっと早くお渡しするんでしたね。これを胸元に忍ばせておいて下さい」
「主人は」
「お連れしました。何かあったら大声で呼んで下さい。なるべく、この襖は開けずに」
 全部閉めるのかと思いきや、片方だけ開けている。
 由麗香が閉じた襖の影に身を沈めるように座ると、皓は落ち着かせるように笑顔を向け、縁側へと消えた。


「お待たせしました。奥で代書屋が待っています」
 皓は恭一が待ち切れなくなくなる前には、戻ってきた。
「随分、親しそうだね」
 皓は一見おとなしそうな印象を受ける少年だ。
 物怖じはしないが、一、二度来ただけの店の奥に勝手に上がり込むようには見えない。
 それに「レイ」というのはおそらく代書屋の名前だろう。。
「ええ、まあ」
 皓は言葉を濁し、どうぞと一礼した。
 恭一は奥へ上がる形で靴を脱ぎ、板張りの廊下を少年の後に従った。
 表とは打って変わった明るい色彩に戸惑いながらも、それほどの違和感を感じない。
 書院造りの和室には、そこに似合いの和服の人物が待っていた。
「高林様をお連れしました」
 下座に控えていた黒い紬の青年が、深々と頭を下げた。
「田上鈴です」
「高林です。今回はいろいろとお手数をかけまして」
 そこまで言って恭一は言葉を止めた。
 圧倒される美しさ。
 そういえば皓が何かの男について言っていたような気がする。
 これは人だろうか。本当に人だろうか。
 名匠の手で作られた人形でさえ、これほど綺麗に仕上げられぬのに。
「鈴、内裏雛は?」
 皓の言葉に鈴は一つ頷いて、脇に置いてある桐箱を引き寄せ、恭一の前に置いた。
「これが、お探しの内裏雛だというお話でした。どうぞ、お確かめ下さい。護符はお持ちですね」
 落ち着いた魅力的な声。謡の心得でもあるのか、そんな息づかいをする。
 恭一は大きく息を吸い、道々感じていた疑問をぶつけた。
「この人形に何か。皓君も、さっきから不思議な事を言ってましたが」
「何もなければ、それに越したことはないんです」
 皓が脇から言った。
 不審感を顔に浮かべながらも、恭一は桐箱の紐を解いた。
 まず出てきたのは男雛の方。こうしてみると、誰の人形かがよくわかる。
「僕もその内裏雛を拝見しました。ほんと、見事な出来ですね」
「お戯れを」
「それは自信の現われと受け取ってよろしいですか」
「鈴」
 鈴の台詞にも皓の制止の声にも頓着せず、恭一は作業を続けた。
 桐の蓋を取り、藁半紙に包まれた人形を取り出す。
「千草」
 低い声がその名を告げた。呟きに似た響き。
 それに呼応するように、女の声がした。
(恭さま?)
「ち…ぐさ?」
 恭一の声が、震える。
(恭さま)
「迷ったのか? 俺がこんなもの作ったから、成仏できずにいるのか」
 冷たい言葉なのか、それとも優しいと言えるのか。
 知らぬ顔をしないだけ、優しいのかも知れない。
「俺を恨んでいるのか?」
「高林様」
 思わず声をかけた皓の肩を鈴が叩いた。
「皓。行くぞ」
「行くって?」
 皓が聞き返すのにも構わず、鈴は恭一に尋ねる。
「高林様、御確認は済みましたね。千草と」
「どこへ行くんだ」
 恐慌状態に陥りながら、恭一は鈴に縋った。
「俺とこれを二人きりにして、どこへ行く」
(恭さま?)
「あなたの蒔いた種だ。男らしくないとは思いませんか」
「どうしてあんたたちは、そんなに平然としている」
 皓の澄んだ声がそれに答えた。
「人が作ったものには気が宿るんです。全てではありませんが、思いが残る。そう言えばわかるでしょう。古い骨董にはまれにあるんです。僕は、骨董屋の孫だからか、そういう素質があるようで、たまにこういう場面に遭遇する。それに相手を人だと思えば、それなりの対応が出来るでしょう。千草花魁はあなたに思いを残した。それだけです」
「恋人との久しぶりの逢瀬を邪魔立てはせぬ」
 止めの一言を叩き込み、鈴は皓を従えて、店に戻った。


 鈴が自信満々だから、そうとは聞けずにここまで来てしまった皓が、まるで後ろ髪を引かれでもしたように何度も気がかりそうに振り向く。
「あの三人なら、大丈夫だ」
 うんざりと鈴が言った。
「あなたを信用してない訳じゃないですよ。でも」
「出歯亀はいけないと、お祖父様に習わなかったのか」
「でも」
 鈴は、骨董品の古い鏡に軽く手を当てた。
「これでいいな」
 鏡は別に魔法の鏡でも何でもなかったはずだ。
 鈴が手を触れるまでは、骨董品としての価値しかなかった。そう皓は記憶してる。
 でも、今は。
 鏡は映し出していた。本来なら皓の秀麗な顔が写るはずのその場所に、座敷の様子を。
 女雛を前に動転し尽くしている高林恭一と、それを見つめる千草人形と、その様子を物陰から見つめる由麗香が。
「私は仕事をするから、何か異変が起こったら声をかけてくれ」
 いつ淹れたのか、洋酒の香りがする紅茶茶碗を落ちないように皓の右手に持たせながら鈴は言った。
「異変って」
 常識の範疇で照らし合わせるのならば、異変はもう起こってる。
 人形に死んだ花魁の霊が乗り移って話し出す。十分すぎるほどの異変だ。
 とはいえ、その程度の出来事なら皓にとっても、ましてやこの妙に仕事熱心な代書屋にとっては、異変のうちには入らない。
 鈴は硯で墨を刷りながら答えた。
「千草が、あの男に言い寄るだけじゃ飽き足らず、癇癪を起こしたら。それと夫人があの愁嘆場に加わったら教えてくれ。三人で解決できればよいが。そうでなければ多少の手は打たねばな」
「はい」
 皓の素直な返事に鈴は満足そうに笑った。
「それと、紅茶のお代りは後ろにある。すまないが自分で注いでくれ」
「もしかして、忙しかったりするんですか」
 得体の知れない男であるが、代書の仕事はきちんとこなしてる。
「夕べ急ぎの仕事が入ってね」
 でなければこと客の接待に関してはまめなこの男が、そんな手抜きをするはずはない。
「時に皓。神沢雅幸に魔除けの術でもかけてもらったか」
 驚いて皓が鏡の前から振り向いた。
「神沢様を知ってるんですか」
 少しの沈黙の後、鈴は頷いた。
「親しいようだな」
「そう言えば神沢様にあなたとのことを聞かれました。別に大したことじゃないですけど」
 再び千草人形と高林恭一の愁嘆場を鏡越しに見つめながら、皓がいう。
「すごく綺麗な人ですよって言ったら、あの人何か対抗意識もやしてたけど」
 下書きを読んでいた鈴が、皓を凝視する。
 相変わらず、血の気の多いとかなんとか、囁きが聞こえた気がしたが、皓は聞き流した。
「神沢は何かと因縁のある相手だからな」
 そう告げて、鈴は仕事に戻った。