Ending
〜彼をとりまくこっちの事情〜


 自動ドアを空けて、私服で入ってきた少女は、店内のBGMがいつもと違うことに気づいた。日本で有数の音楽教室チェーン店のひとつで、普段は練習用のピアノ曲が邪魔にならない程度の音量で流れている。
 けれど今日流れているのは、歌だ。しかも声楽の楽曲ではない。どう聴いても《アイドル》の歌声だ。
「こんにちは、夏菜ちゃん。あれ? 制服じゃなんだ」
 いつもながら目ざとく夏菜の服装に気がついた店長がそう声をかける。
「うん、今日から夏休みだから」
「だっけ?」
「この店も夏休みなの?」
「なんで?」
 素直にそう訊いて来る店長に、夏菜は言った。
「だって、この曲」
「ああ、みんなに聴かそうと思ったらこれが一番早いので」
 そう答えたのは、内山。店の事務員であるスーツ姿の好青年だ。
「夏菜ちゃん、五嶋さんが北海道に行ったのって、いつでしたっけ」
「五月の連休の後。お土産にラベンダーのポプリくれた。先生が選んだにしてはなんか可愛すぎたけど。なんでも千歳空港限定品なんだって」
「でも、気に入ったんでしょう?」
 急に北海道の出張が決まったからと、遊園地へ連れていってくれるはずの『先生』が思い出したように空港から電話一つ寄越しただけで、週末の予定を見事に潰した。それだって待ち合わせがたまたまこの店だったせいで、別件で職場に連絡を入れてきた五嶋からの電話を、気を利かせた内山が夏菜に代わってくれたのだ。
「それはそうだけど、でもそんなことで誤魔化されないんだから」
 当時の気持ちを思い出したのか、ふくれた夏菜が、はっとしたように耳を澄ました。
「ああ、やっぱり夏菜ちゃんにも、わかるんですね」
「じゃあ、これ先生の演奏なの? でも、どうして?」
「どうやらこの曲だけのようですけど」
 と内山は上司を振り返った。
「五嶋ちゃんも、こんな仕事したって教えてくれたらいいのに」
 店長はCDアルバムを掲げ、拗ねている。
「ですが、どこにも五嶋さんの名前はないですが。もっとも聴く人が聴けばすぐにわかりますよ。最高級のスタインウェイをこんな風に弾くのはそうそう」
 言いかけて、内山は何かに気づいたようだ。
「あの人、ピアノの調律に出かけたんですよ、確か。このピアノだったんですね」
 発売されたばかりの《北原莉奈》の新譜は店長の私物だという。
 早速聴いたのだが、ラストの曲で耳を疑い、職場に持ち込んだ。
 昼行灯といわれてもここの店長だ。耳には自信がある。複数の承認も得た。
 問題は、当の五嶋幸祐本人が素直にこの仕事をしたと認めないだろうこと。
 ただ、それは些細な問題だ。
「この曲を聴いた人間はこのピアノを弾いたのが誰か知りたいでしょうね」
「内山さん。楽しそう」
「だって、クレジットに載らずとも、僕らはこれが誰のピアノか知っているんですよ。それって、楽しくないですか?」
 そんなことより、白い夏服を着て無邪気に笑うアイドル歌手と恋人が、一緒にひとつの曲を演奏したと知って、真夏の太陽に負けないくらい気持ちがヒートアップしそうな夏菜だった。
 そうとは知らない五嶋が、『ペーパームーンにおやすみ』がエンドレスで流れる店のドアを開けた。

Fin