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ピアノ弾きと少女
カウンターに腰を落ち着けるなり五嶋は煙草に火をつけた。それから徐にこう切り出した。
「出来るだけのことはやったつもりです。けど」
「神沢が弾いたこの音と寸分同じというわけにはいかない」
神沢のピアノ曲がエンドレスで流れている中、相澤拓哉はそう言った。
「莉奈はピアニストではない。ある意味、歌声の方がピアノの音階よりも正確かもな」
「ドは誰が弾いてもドですけど。そうじゃなければ僕の商売は成り立ちませんし」
五嶋の言葉は正しい。そう、少なくともあの和音を耳にしなければそう思ったろう。
だが、誰が弾いても同じ音が出るなら、何故ピアノは弾く人によってあれだけ違う響きになるのだろう。
「ピアノ講師だったな。どちらかというとピアノの調律より、弾く方が得意か?」
「僕は人に弾かせるのが仕事ですよ」
相澤の意図をどこまで読んだのか、五嶋はそういってコーヒーを口に運ぶ。
「期待以上の出来栄えだ。おかげでスケジュール通り仕事が出来る。挨拶が遅れて申しわけない。俺は相澤拓哉。北原莉奈の音楽プロデューサーだ」
「五嶋と申します」
五嶋はどこか冷めた目で、癖のある笑みを口許に浮かべた。
「ところで、今回の件ですがが確かに依頼をしたのは、あの娘です。でもまだ中学の三年生なので、到底まともな額は出せないわけで」
穏やかな顔でそんな台詞を言い出した栗林を、五嶋は無言で見つめた。
「かといって、こんなところまでやってきてただ働きって言うわけにもいかないでしょう。今回の報酬については……北原敬一、つまりはあの子の父親が君の言い値で払うと言ってます」
そういって栗林はカウンターに一枚の紙切れを置いた。誰でも知っている大銀行発行の小切手だ。署名欄には北原敬一のサインと捺印。金額欄は空欄だ。
「あとは莉奈に何でも好きな歌をリクエストするんだな。とはいってもアイドルなんて興味もないって顔だが」
相澤がからかい顔でそう言う。
「かといって、こんな機会を無にするほど莫迦でもない」
五嶋はそう答えると、窓辺のボックス席で案外真剣な顔で譜面を見ている少女の横顔を見た。
「けど、僕が昔好きだった佐伯舞ってアイドルの、しかもアルバムの1曲だからあの子にわかるかな」
「舞姉さまの曲なら全部莉奈歌えるよ。お兄さん何がいいの?」
カウンターの五嶋に莉奈は訊いた。
五嶋がどんなつもりで、この曲を挙げたかはわからない。
「なら『ペーパームーンにおやすみ』という歌を聴かせてくれないか」
曲名を聞いた莉奈が一瞬軽く目を瞠る。
それから、ボックス席から腰を上げると、立ったまま調整の済んだスタインウェイを軽く鳴らした。
弾き語りのピアノ伴奏なら軽くこなす莉奈が、何故そうしたのかはわからない。
最初のキーだけ合わせてそのまま無伴奏で歌いだす。
世界が月の光に染まる――。
★
大都会では月の光が届かない
君の顔も 照らしてくれない
ねえ だから
街中の灯り消して
二人きり そぞろ歩きしないか
ペーパームーンの光を浴びて
僕の声に振り向く 君がふいに 紙人形に見えて
戸惑い立ちすくむ 紙細工の街で
誰一人、彼がカウンターのスツールから立ち上がり、スタインウェイに向かったことに気づかず――。
間奏のピアノソロはアドリブ。
真夜中にはただの貯水池になる噴水に映る月。わずかな風に揺れる水の月。
すべてが作り物の街で、いくつもの虚実が夜の泉に浮かんでは消える。
静かに鍵盤に滑らせた指が魔法のように風景を描く。
そしてピアニストが不意に歌い手を見た。
少女は瞬きひとつで、ピアノの調べに自分の歌声を乗せる。
青みかかった月は欠けることのない満月。
どこか紙みたいに薄っぺらな。
だけど、紛れもない本物のムーンライト。
ビルの谷間 切れかけた外灯じゃ
君の顔さえ 違って見せるよ
そう だから
街中の灯り消して
二人きり そぞろ歩きしないか
ペーパームーンの光を浴びて
僕の声に振り向く 君がふいに 紙人形に見えて
戸惑い立ちすくむ 紙細工の街で
しっかり手をつないでも
どこか不安さ
朝が来るまでもう少しだけ
歩き疲れたなら ほら 空を見上げて
ペーパームーンに おやすみを言おう
僕の声に振り向く 君がふいに 紙人形に見えて
戸惑い立ちすくむ 紙細工の街で
★
いつか少女の歌声に引き込まれるように、五嶋は自分が調律したスタインウェイで伴奏をしていた。
カウンター席から拍手を浴び、不意に正気つく。
「正直ここまでピアノが弾けるとは思わなかった」
感嘆の表情で相澤が言った。
「それはどうも」
あくまでポーカーフェイスで答える五嶋に、完全に音楽プロデューサーの顔になった相澤拓哉がこう切り出した。
「ここは、神沢と北原敬一が共同で製作したレコーディング機材が、喫茶店の外観を変えずに設置されている。もう一度、莉奈の歌に合わせてピアノを弾く気はないか」
突然の依頼に、表情を変えずに、五嶋は答えた。
「ギャラなしでは弾かない主義ですが」
「調律の報酬に演奏した分をこっそり上乗せしても、奴は気にしない」
こんな状況でもポーカーフェイスを崩さないあたり、この青年はやはり只者じゃない。
だが、魑魅魍魎が跋扈する音楽業界を生き抜いてきた相澤も負けてはいなかった。
「言い値で敬に払わせる以上、それだけの仕事はしてもらうよ」
「じゃあ、拓ちゃん。このお兄さんのピアノでこのままレコーディングしてしまうのね」
一応次の展開は読んでいるようだが、どこか上の空で莉奈が訊いた。
「ああ。莉奈、五嶋君に譜面を見せて。……かえって邪魔になるかな」
「僕はまだ引き受けるとは」
五嶋の今更の台詞に、仕掛けた罠に落ちた獲物を見る目付きの大人達だ。
顔立ちはまんざら悪くはないが、普通の人という外見を崩さないまま、栗林は温和な笑顔で告げる。
「そっちの所属事務所を通してないイレギュラーのオファーだから、アルバムに五嶋君の名前は載らないようにします」
五嶋はそれには答えず、窓辺のボックス席で事の成り行きを見守っている少女を省みた。
「莉奈と歌うの嫌……じゃないよね」
《北原莉奈》ともあろうものが、やけに自信のない台詞を吐く。五嶋はそんな少女の顔を見て、ふっと笑った。癖のある笑顔は変わらないが、目の色はどこか穏やかだ。
「こんな機会はそうそうないな」
莉奈はやっと安心したように笑った。
「交渉成立だな」
相澤がほっとため息をついた。
結局、裏工作よりも莉奈の歌声が五嶋をその気にさせたようだ。
「譜面はこれ?」
窓辺のボックス席に置き去りにされた五線紙をピアノの譜面台に置いて、五嶋は少女を見た。
「とりあえずワンフレーズ軽く弾いてくれません? PAの様子を見るんで」
カウンターの向こうで音声調整をしている栗林の声が飛ぶ。
戸惑いも見せずに五嶋は鍵盤にその指を乗せた。
☆
《北原莉奈》のレコーディングが終わったのは、昼過ぎだった。すっかり喫茶店のマスターに戻った栗林が手早く作ったミートソーススパゲッティを平らげた五嶋が、ふと腕時計に目を落とす。
「折角来たのに、日帰りなんてつまらない」
莉奈が咎めるようにそう呟いた。
「でも、ホテルの予約も取ってないし」
「うちに泊まればいいじゃない」
事も無げにいう少女にさすがに驚き顔をする五嶋を見て、栗林は苦笑した。
「変な心配はいらないよ。正確には莉奈が住んでるマンションの一室に泊まるんだから。ゲストルームとしていつも数室は空きがある。下手なビジネスホテルより落ち着くよ」
「折角ですが」
「大方、彼女でも待っているんだろう」
相澤が悪戯な表情で笑う。
それには答えず、五嶋は栗林を見た。
「もう五嶋君の仕事は終わったし、無理に引き止めないよ。飛行機は何時?」
「夕方のANAを押さえていますが、この分じゃ、もう一便早い飛行機で戻れそうです」
軽く頷くと、栗林はカウンターに備え付けの受話器を取った。
「今から千歳に向かって一番早い羽田行きは?」
五嶋は啣え煙草でその様子を見つめた。
「莉奈、お土産選ぶの手伝ってあげるね」
「莉奈、空港まで行くのか?」
軽く驚いた顔で、相澤が訊く。
「だって、莉奈の仕事も今日はもうないんでしょう?」
「そりゃそうだけれど」
別に五嶋に懐いたというわけじゃない。だが母親ほど人見知りをする性分でもない。
多分、五嶋のピアノの音色に浮かされているのだろう。
そう相澤拓哉は判断した。
相澤自身も同じだ。ただこの年になると、いいも悪いも矜持というものができる。歌も歌うし詩も書く。だが神沢俊広がそうだったように、彼の音楽の原点はピアノだ。もっとも完全に我流で、神沢のようにクラシックピアノの勉強をしたことともないが。それでも四半世紀以上この業界で生き残ってきたプライドがある。
五嶋は稀有といっていいピアノの腕を持っている。それは確かだ。だがそれを貪欲に生かすつもりが今のところはないともわかってしまった。
才能があることが、必ずしも幸福を約束するとは限らない。
逆に生半可に才能があることが、人生を不幸のどん底に突き落とすことさえある。
だからこそ相澤をはじめ莉奈の周りの大人たちは、莉奈の歌声を自分達の利益に直接結び付けようとは考えなった。派手なプロモーションもせず、父親である北原敬一の影響力を出来うる限り排除している。(とはいえ、今日の場合は特別だが。)一応メジャーレーベルでのデビューなのだが、ほとんどインディーズアーティストに近い状態での歌手活動になったのはそのせいだ。
莉奈が自分の意思で音楽を楽しめる環境を作ること。それが第一である。
それでも才能が才能を惹きつけるのまで止められはしない。
「可哀想に、西野君、今日は完全に運転手か」
そう呟きつつ、栗林は更にもう一本連絡を入れた。
「葬儀の手伝いに行くよりましだろう」
相澤の返事に、五嶋がライターの火を点け損ねる。
「葬儀って」
「西野君は莉奈の付き人もしてるけど、所属はまだ北原セレモニーサービスの葬祭部のままだから」
栗林の説明に五嶋が我知らず顔色を変えるのを見て、この男でも表情を崩すことがあるのかと、逆に相澤は驚いた。
「何でも高校時代に友人が亡くなったのがきっかけで、葬祭士になったと聞いてるよ」
思い当たることがあるのか五嶋は軽く頷いた。
「それにしても折角調律したあのスタインウェイが、単に莉奈の遊び相手になるのが可哀想だな」
「なら拓ちゃんが弾けば」
莉奈が本気でふくれる。
「悔しかったら練習するんだな」
その声に重なるように、莉奈のPHSが[ピアノブルー]を奏でる。
「匠君、着いたって」
言うなり、ボックス席に置き去りにしていたリュックを背に莉奈が店を飛び出してゆく。
五嶋もアタッシュケースを手に立ち上がった。
「ところで五嶋君」
カウンターで行儀悪く肩肘をついた相澤が呼び止めた。
「ピアノを忘れた相手に、再度ピアノを弾かせる方法を知らないか?」
五嶋は冷めた目で音楽プロデューサーを一瞥した。
「弾く気のない生徒ほどピアノ講師にとってやっかいな相手はいない。そんな方法があったら、僕も知りたいですね」
「だろうな」
「それに、それはそちらの仕事だ」
「わかってるけどね。……今日はありがとう、五嶋君」
カウンターの二人に軽く一礼して、五嶋は出口に向かった。
クリスティというその店を出ると、リラの香りがした。
☆
「かなり気に入られたようだな」
当然のように助手席に乗り込む少女を軽く睨んで西野は言った。
「俺だけが目当てだと思うほど自惚れていない」
五嶋はそう告げると、バックシートで目を閉じた。
莉奈はカーステレオのスイッチを何気なく入れて、自分の歌声が聴こえてきて驚く。空港に向かう時、五嶋に聴かせるためにセットしたままになっていたのだ。事前に歌声を聴かせて、莉奈が弾いて歌いやすいよう調律させようと試みたのだ。もっとも、すぐに五嶋が寝てしまったのであまり意味はなかったが。
「何で、匠君の車にこんなものがあるの?」
当然のように匠の答えはない。
そもそも莉奈の付き人を引き受けた理由が、少女の歌声に囚われたためなどと口を割るような男ではない。
莉奈もそのあたり馴れているのか、問いただすことはない。
さすがの莉奈も、千歳までの三十分弱、自分の歌声を聴く気がないと見え、他のMDを適当に選んで入れた。
「五嶋さんは、本当は舞姉さんの歌声が聴きたかったじゃないのかな」
莉奈の呟きに、五嶋は目を開けた。
「何故」
答えなど返ってこないと思っていた莉奈がびっくりして振り返る。
「あの曲、元々は舞姉さんの曲だし」
「俺は《北原莉奈》に歌って欲しい曲としてあの歌を選んだ」
「莉奈、うまく歌えてた?」
普段なら絶対に口にしない問いを少女は口に乗せた。
「じゃなかったら、ピアノで参加しない」
「でも、もっとちゃんと歌わなきゃ。五嶋さんのピアノに負けないように」
それが、本日少女が出した結論だったのだが――。
「莉奈。お前はそんなことを考える必要はない」
運転席から西野が口を出した。
「莉奈が歌いたいように、ただ無心に歌っていればいい」
莉奈は愕然とした顔で西野を見た。
フロントシートでの一幕をよそに、五嶋は煙草を啣えて、リアウィンドウを少し開ける。
そしてぽつりと言った。
「あんなにいいピアノを弾ける機会はそうそうないな。大事にしてるピアノなんだろうけど」
「うん、普段はクリスティの地下に仕舞ってる。店には同じスタインウェイのアップライトがあるし」
莉奈の言葉に、五嶋は栗林が自分を信用している本当の理由を思い当たった。
「そのピアノも父が調律していたものだ。依頼人の名前が確か栗林貴志といったから、マスターだね」
「五嶋、引き返してやるから、もう一仕事していけよ」
「いや。栗林さんがその気なら、店にいるときに言っただろう。彼は弾かないようだし」
「本当はあのグランドピアノ、五嶋さんのように上手な人が弾くために作られたんだよね」
「さあ」
五嶋は手を伸ばし、車窓から煙草を飛ばした。高速道路を吹く風に流されて吸い殻はすぐに見えなくなる。
そしてリアウィンドウを閉めると五嶋は淡々と言った。
「莉奈とセッションするのは楽しかった」
「じゃあ、また莉奈にピアノを弾いてくれる?」
五嶋は助手席から、勢い込んで告げるアイドル歌手ではなく、高速を降りるべくウインカーをあげる運転手の背中に告げた。
「仕事として依頼があれば」
☆
「カナさんに、これ。五嶋さんからって言って渡してね」
五嶋が職場への北海道土産として、すっかり定番商品となった生チョコレートを買っていると、いつのまにか姿を消していた莉奈がそう言って小さな紙包を差し出した。
「何故、その名を」
詰問したつもりだが、少女はふわっと笑って答えた。
「だって、寝ぼけて莉奈と間違えたでしょ?」
五嶋は絶句した。茫然しているうちに受け取るつもりのなかったその紙包を、買ったばかりのロイズの紙袋に入れられる。
返す間もなく、東京行きのANAの搭乗開始を告げるアナウンスが流れた。
西野はいつものポーカーフェイスのまま、二人から少し離れて立っている。
それを横目で見ながら、五嶋は言った。
「あのスタインウェイを歌わせることが出来るのは、なにも俺だけじゃない」
「莉奈は自分が歌うしか出来ないよ」
「なら、捜すんだな」
そう言って、五嶋は搭乗口へと去っていった。