
Introduction
〜彼が呼ばれたこちらの事情〜
「駄目だよ。いくら名のあるピアノだからって、メンテナンスを怠ったら」
グランドピアノを前にして少女はふくれたままだ。
神沢俊広の形見のグランドピアノだ。彼が亡くなって、既に八年が過ぎようとしている。その間、現在の持ち主によって本格的な調律はすべて拒否されてきた。
その理由もわかっている。
神沢俊広の音楽の素と言っていいこのピアノは、当然彼の気に入りの音色で調律されているのだが。
「でもね、莉奈。このままにしとくってわけにはいかない」
相澤拓哉はそう諭した。
「莉奈だって、わかってるはずだよ」
少女は横を向いたまま俯いた。
「つまりは、奴の残したこのピアノの音を損なわずに、ちゃんと調律できればいいわけだ」
「そんなこと」
出来ないから、そう続いたはずの言葉を強引に遮って拓哉は言った。
「莉奈。俺は確かにいいかげんな人間だけど、《仕事》については別だよ。まったく見通しを立てないでこんなことを言い出しはしないさ」
「本当?」
蛍光灯の光の加減か、いつとどこか違って見える、実の父親よりも年上の男を、少女は見上げた。
「俺は《北原莉奈》のプロデューサーだよ。このピアノを無調整のままで、レコーディングをするわけにはいかないよ」
少女はこっくりと頷いた。
「だから、莉奈。土曜はちゃんと空けとくんだよ」
「土曜日って今週の?」
「調律が終わり次第、ここで一緒に録ってしまうから」
「莉奈がピアノを弾いて?」
本気で慌てた顔をする少女を見て、拓哉はそれが癖の人を食ったような笑みを浮かべて告げた。
「さあね。少なくとも俺は弾かないよ」
しばし茫然自失の状態でいた少女は、はたと気がつき、この手に負えない性悪のプロデューサーを見た。
「……拓ちゃん。何か企んでいる?」
「だとしても、いつものことだろ?」
ある意味あまりといえばあまりな台詞ではある。けれど、なにせ生まれたときから傍にいる大人の一人だ。現時点において、肉親でもないこの男と少女と過ごす時間が、周囲の男達の中ではおそらく一番長いかもしれない。
この男の企みに振り回されることは多いが、それでも少女にとって悪い結果になった例はほとんどない。
だから少女――北原莉奈はようやく安心したように笑った。
「ともかく天に任せる以上、最大の努力は必要だ。俊広だって教え甲斐のない生徒じゃがっかりだろうし」
故人が莉奈に教えたのは歌だけではない。ポップス系のミュージシャンにしてはわりに珍しく、幼少からクラシックピアノのレッスンをきちんと受けていた神沢は、ピアノを基礎からこの少女に叩き込んだ。もっとも歌より夢中にならなかったが、神沢の死後もとりあえず週一のペースでクラシックピアノを習っている。
音感もあるし、そこそこ弾きこなせるのだが、歌と違い、ピアノで自分の世界を描くまでには達していない。
そのせいか、莉奈は自分のピアノでレコーディングするを嫌がっている。
相澤拓哉は打って変わって真面目な表情で少女を見た。
「これはお前のピアノなんだから。弾いてやらなきゃ可哀想だ」
間接照明のせいで余計に黒々と光るSTEINWAYSを見つめて、少女はこっくりと頷いた。