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少女とピアノ
空港に降り立っただけで空気が違うのを肌で感じた。確かに気温も少しは違うが、風に含んだ湿度が格段に違う。職業柄、湿度には敏感だが、それにしてもこうまで変わるのか。どこでもそう変わらない空港施設を見回し、五嶋は軽く息をつく。
飛行機で1時間足らずの距離だが、まるで別世界に来た感覚に一瞬襲われた。
まあ、ある意味海を越えて別の島へやってきたわけだから当然なのだろうが、一応ここも日本の一部だ。
土曜日の予定(デート)がつぶれたのは残念だった。
連れてこれれば良かったのだけど。
恋人として付き合いだしてまだ間もない相手は十六歳。常識から言っても泊りがけの旅行になど連れて行けるわけがない。
もっとも今時の高校生ならそのくらいはしてのけるのだろう。そう高校同士ならば。
だが、彼と彼女の関係は傍目から見れば、ピアノ講師と生徒でしかない。七つの年の差に戸惑っているのは、何も彼女の方ばかりではない。
急な仕事とだけ告げただけで向こうを出てきたから、帰ったら宥めるのに一苦労だ。
北海道は初めてだと言ったら、先方から空港まで迎えを遣すとあっさり答えが返ってきた。いくら相手が北原莉奈――世界企業KITAHARAの令嬢とはいえ、思いもよらないVIP待遇だ。アイドル歌手北原莉奈は珍しく親の力を利用しないで活動していると聞いていたが、やはりデマだったのか?
「五嶋幸祐(ごとうゆきまさ)様?」
名を呼ばれて、振り向く。
「……西野匠?」
現れた自分と同年代の男の顔をまじまじと見て、五嶋は思わず声を発した。
「……やっぱりあんただったのか。世の中狭いな」
西野はそういって内ポケットから名刺入れを出した。五嶋もそれに倣う。互いの名刺を交換すると、自己紹介済んだとばかりに、西野は五嶋のアタッシュケースを持って歩き出した。
渡された名刺に記された西野の肩書きは《オフィス栗林所属 北原莉奈付》である。単に付き人と解釈するのが正しいのだろう。肝心のアイドル歌手の姿はどこにもなかったが、それもまた当然だ。五嶋にも噂の深窓の令嬢がこんなところまでやってくる期待など微塵も持ち合わせていない。
「昨今の付き人は、ピアノ調律師の鞄持ちまでするのか」
「莉奈はまだ寝てる。今日の俺の仕事は、あんたをあいつのところまで連れて行くことだ」
千歳行きの始発便で来た。ともかく現場にいる時間を最大限にとりたいというのが、先方の条件だった。いくら最高級のスタインウェイとはいえ、今回請け負った仕事はピアノの調律だけだ。もっとも現物を見てみないと、どのくらいで終わる仕事かはわからない。
「それにしても」
「一介のピアノ講師が調律を請け負うより、不自然じゃないだろう」
確か一学年上だったはずのピアノコンクール常連者はそう告げて、空港ビルを出ると一番近い駐車場を目指して歩き出した。無用心にもエンジンも切らずに停めてあった車の後部座席に五嶋を乗せると、何も言わずに発進させる。
札幌に向かうハイウェイに乗ったところで、ふと西野が言った。
「俺はあんたがピアノをやめたとばかり思っていたよ」
それには答えず、五嶋は返した。
「俺はあんたがピアノを続けていると思ったんだがな」
「そんなに広い業界じゃない。俺の名前を聞かなくなってから久しいだろう」
「それでも、さ」
それぞれの事情がある。西野が口を濁したので、それ以上問い詰める気になれず、五嶋は目を閉じた。カーステレオから聴こえる少女の歌声に誘われるように、すぐに睡魔が襲ってきた。
☆
西野が駐車場に車を停めると同時に、店から少女が飛び出してきた。
待ちきれない様子で少女は後部座席のドアを開け、客の顔を覗き込む。
「ねえ、起きて。着いたよ」
その声に反応したのか、薄目をあけ、五嶋は少女の頬にその手を伸ばした。
どう考えても寝ぼけ眼で無意識の行為だったが、少女の後ろにいた西野に、咄嗟にその腕をひねられた。
顔をしかめて五嶋は目をひらいた。前方の少女とそして、後ろで睨み付けている男を見比べる。
事態がわかってない五嶋に、西野は淡々と告げた。
「目が覚めたようだな。こいつが北原莉奈。今回の依頼人だ。初対面にしてはずいぶんな挨拶だったな」
「いいの、莉奈、気にしてないし。だって人違いしたんでしょう?」
噂に聞いた深窓の御令嬢とやらは、スヌーピーのTシャツにジャンバースカートというラフな身なりで、にっこりと笑った。
どこか、自分の恋人に似ているその容姿に、西野と少女の関係を推察しつつ、五嶋は車から降り、空を仰いだ。
幽かに花の甘い香りがした。公園脇の喫茶店は駐車場を取り囲むように背の低い木々が植えられている。その枝には札幌の初夏を告げる花、ライラックが咲き誇っていた。
☆
問題のグランドピアノは、喫茶店の壁際に鎮座していた。年代物ではあるが最高級のスタインウェイだ。神沢俊広の遺品で、今は《北原莉奈》に譲られている。今回はそのアイドル歌手の依頼だ。漠然と、北原家に行くのだろうと五嶋は思っていた。
正直、こんな変哲のない普通の喫茶店にあっていいようなモノじゃない。単なる待ち合わせ場所のつもりで店のドアを開けた途端に、現物を目にするとは思いもしなかった。そもそも何故ここにピアノがあるかをまるで理解が出来ずに、五嶋はカウンターの向こうに立つマスターを不審気に見た。
「はるばる来ていただいて、申し訳ない。とりあえずコーヒーでもいかがですか?」
どこといって特徴のない容貌の中年男性だ。しいていえば銀縁の眼鏡越しにこちらを見る目が人懐こいが、客商売なのだから当たり前とも言える。
五嶋は勧められるままにカウンターのスツールに腰を降ろした。
「じゃあ、俺はこれで」
それを見届けるまでが自分の仕事だとでもいうように、西野が踵を返す。五嶋を数に入れなければ、今いるメンバーの中で、おそらくはただ一人あのピアノを弾きこなすことが出来た男は、そのまますたすたと出口に向かった。
「えっ? 匠君、コーヒーくらい飲んでいけばいいのに」
莉奈がつまらなそうに言った。
それに構わず、西野は店を出てった。
軽くため息をついて、莉奈もカウンターにやってきた。五嶋のすぐ隣に座り、初対面の若い男をじっと見る。
「莉奈は何にする」
「クリームソーダ。ストロベリーで」
メニューどころか、マスターの顔も見ずに莉奈は答えた。軽く咎めるように少女を見たあとで、マスターは、カウンターの下から名刺を取り出した。
「初めまして、栗林です」
差し出された名刺を見て、五嶋のポーカーフェイスがはじめて崩れた。そこには《オフィス栗林 代表取締役社長 栗林貴志》と記されていた。
「驚かれたでしょう。僕はこの店の経営が本職なんですが」
「普通は逆でしょう?」
「いや、莉奈以外の所属アーティストはみんな自分で仕事をとって来ますし。ただこの業界、一応どこかの事務所に入っていた方がいろいろと便利なので」
「そんなものなんですか?」
「だって五嶋さんもそうでしょう。籍はヤマハのピアノ講師だけど、今は調律師としてここにいる」
五嶋はガラスの灰皿を引き寄せ、煙草を啣えた。
「僕はプロの調律師ではない。でも、これは父が遣り残した仕事だったんでどうしてもやりたかったんです」
「そういってくれると助かります」
ほっとしたように笑顔を浮かべた栗林は五嶋の前にコーヒーカップを置き、サーバーから注ぎいれた。こちらが本職というだけあり、かなりの腕前だ。久しぶりに本格的なコーヒーが楽しめそうだ。
莉奈の前にも注文通りの品が置かれた。大人二人の会話に口こそ挟まなかったが、五嶋から一度も視線を外さなかった少女は、ようやく所属事務所の社長に目を向けて言った。
「このお兄さんが、本当にシュンちゃんのピアノを直してくれるの?」
「大丈夫だよ、莉奈。この人はピアノのことは何でもわかるから」
五嶋とは初対面にも拘らず、穏やかな笑顔を浮かべ、やけに自信を持って栗林は答えた。
莉奈はそれでも安心できないのか、再び真剣な目で五嶋を見た。
「莉奈の一番の宝物なの。だから、お願いね」
金銭価値から言ってもかなりのものだが、この少女が言う意味はまったく違う。神沢俊広の隠し子だと公然と言われている娘だ。他人のスキャンダルなどどうでもいいし、噂の真偽など興味もないが、少女が神沢に対してかなりの思い入れをしているのは確かだ。
それを裏付けるように栗林は言った。
「実は、この子に首を縦に振らせるまでが一苦労でした。拓哉がレコーディングにかこつけて事を急がせなかったら……」
そう我儘には見えないが、意志の強い目をしている少女を横目で見て、栗林はため息を落とす。
「コーヒーを飲みながらでいい、まずはこれを聴いてくれませんか」と、栗林は店内BGMをピアノ曲に変えた。
「僕の友人が残したものはたくさんあります。ある意味この子自身が神沢俊広の形見みたいなものですし。このピアノ曲は全部莉奈のために神沢があのピアノで弾いたものです」
ポップス系の歌い手としてはかなりうまいピアノ演奏が、恐ろしくクリアーな音で聴こえてきた。間違いなくちゃんとした設備で録音された音だ。だが、神沢俊広が死んだのは、七、八年前だ。
確かなことはわからないが、この最高級のスタインウェイがこの店にある理由の一端を五嶋は理解した気がした。
「この音を出せるピアノに戻せと?」
「ええ、そのためにあなたを呼んだんです」
五嶋は無言でコーヒーを口に運んだ。上質のブルーマウンテンだとすぐわかったが、少し苦いのはコーヒーのせいだけじゃなかった。
☆
ポーカーフェイスのまま、五嶋は灰皿に煙草を押し付けた。立ち上がり足元に置いておいた、アタッシュケースを持つ。ピンクのグラスを片手に、莉奈が心配そうにその背を見つめた。それでも、グラスを持ったままその後を追いかけないだけの分別はあったようだ。
「ところで拓哉はどうした?」
ピアノを開け、中を覗き込む長身から目を離さず、莉奈は答えた。
「さあ、土曜日は朝からスケジュール空けとけって言われたけど」
「莉奈のスケジュールじゃないさ」
事務所の社長として栗林は本日《北原莉奈》のスケジュールは入れていない。それを承知している拓哉があえて言ったのは、少女が私用を入れないようにだ。
スタインウェイの調律が終わりしだい、相澤拓哉がここでそのままレコーディングに入るつもりでいるのは確かだ。KITAHARAの音響部門が試作したさまざまな機材が一見わからないように配置されているこの店は、下手すると一般のレコーディングスタジオよりも設備が良かったりする。レコーディングする曲は、神沢俊広が好んで弾いていたピアノバラード。莉奈のためにアレンジまで変えて残している。
今店内に流れているこのピアノ曲は、神沢俊広が生前自宅のマンションで録ったものだ。分譲とはいえマンションの部屋で本格レコーディングが出来るまでの設備を入れたのは、神沢と北原敬一の友情の賜物だろう。それがミュージシャンとしての神沢俊広とKITAHARA社長である敬一の利害が一致したためであったとしても。
彼がさまざまなものを置き去りにして一人でさっさとあの世とやらに行ってしまった当時、まだ莉奈は七つ。将来歌手になるつもりは当人にもあったし、周りの大人もそのつもりではいた。一応反対してみせたものの、父親である北原敬一も心の底ではこうなることをわかっていたはずだ。
だけど、希望と現実は違う。ともかくもアイドル歌手としてデビューまでこぎつけたのは、強引に運を引き寄せた少女の力量だろう。
莉奈のためにこのピアノを含めた全財産を残した神沢俊広でさえ、遺言としてこう残している。
――莉奈が幸せになれるなら、別にプロの歌手になる必要はない。単に歌を歌うのに、誰も資格などいらない。ただ歌いたい、それだけでいい――
壁際のグランドピアノを調律しているあの青年も、自分で告げたようにプロの調律師ではない。元々生前の神沢が懇意にしていたのは、彼の父親である。死ぬ直前に神沢自身が調律の依頼をしていたが、乗っていた飛行機が墜落して事故死。
その後、癌で神沢も亡くなり、この件はそのままになっていた。かなり腕のいい調律師だった父親の血は引いているのか、肩書きはピアノ講師だが、一介のピアノ教師に納まる器ではないというのが、ブラックアイズの調査報告だ。本人も父親の遺志を引き継ぎたいと思ったのか、他の予定を返上してわざわざこの北の地までやってきた。
学生時代に父親の助手をしていたというだけあり、ピアノを見る様子に迷いはない。
「どうやら心配はいらないようだ」
莉奈もようやく安心したのか、すっかり解けたクリームソーダを行儀悪くそのままグラスに口をつけて飲み干す。
「足りないものがあれば、遠慮せずに言ってください。一応ピアノ線は取り寄せ済みです」
カウンターから栗林が呼びかけると、五嶋は片手を上げた。多分承諾の意味なのだろう。
「あの人、匠君の知り合いなの?」
莉奈は西野匠にピアノを勉強していた過去があることをまだ知らない。実は西野が出場したピアノコンクールに、神沢が幼い莉奈を伴って行ったことがあるのだが、そんなのを覚えていなくて当然だろう。
「どうして?」
さっき西野は五嶋と言葉を交わさずに店を出た。ブラックアイズの報告書にもそのようなことは載ってはいなかった。ただ年もほぼ同じで、ともにピアノコンクール常連者だったはずの五嶋と西野が顔見知りでもおかしな話ではない。
「だっていくら匠君でも、まったく知らない人にあんな乱暴な口は利かないから。それともあの人があんなことしようとしたから? でもそんなことで匠君が自分を失うほど本気で怒るわけもないし」
要領の得ない莉奈の言葉に、栗林は首をひねった。
「……莉奈、わかるように説明できないかな?」
「あのお兄さんが、寝ぼけて莉奈の頬に手を伸ばしたの。カナって呟いて」
「それで西野君が」
道理で、いつもならコーヒーくらいは飲んで行く西野が、さっさと帰ったはずだ。
莉奈はそうは思わなかったらしいし、西野本人もそれが当然としての職分だと思ったかもしれないが、多分本気で怒ったのだろう。いくら顔見知りでも西野なら、莉奈の前で仕事相手としての礼儀は払う。
それに――。
ドアベルの音とともに扉が開かれた。
「ああ、やってるな。何だ、社長、西野に逃げられたのか」
本音を言えば、調律を終えたこのピアノを西野に弾かせたかったらしい相澤拓哉の言いように栗林は苦笑した。
「僕のせいじゃない。ある意味不測の事態だ」
「どういうこと?」
「つまり西野とあのピアノ講師が顔見知りだったってことさ」
「……しゃーないな。そううまくもいかないか」
そもそもいくら才能があったにしても、七年近くピアノに手も触れていないはずの西野だ。そんなに簡単に事が運ぶなどと、この男が本気で思っていたとは栗林も考えない。
ただ、どんな些細なことでもいい。西野にピアノを弾かせるきっかけを二人とも探していた。だからこそ、北原莉奈個人の私物であるこのスタインウェイの調律にやってきたあの青年の迎えに、わざわざ西野を行かせたのだ。
「莉奈、自分で弾くか? どうせライブじゃ弾かなきゃならないし」
いつのまにかカウンター席から、窓際のボックス席に移動した莉奈に拓哉は呼びかけた。
「拓ちゃん、やっぱり弾かないの?」
ピアノから目を離さずに莉奈が訊いてくる。
「奥の手を使うか。社長、予算が出ない以上、敬の名を借りてでも何とかできるか?」
「腕はいいの? あのピアノ講師」
年は確か二十四歳。ジャンルはいろいろあるが音楽業界で名をあげるには遅いくらいの年頃だ。
「俺も噂だけは聞いている。ピアノ講師やバーのピアノ弾きにしておくには惜しい腕だそうだ」
そんな密談がカウンターで行われているのも知らず、五嶋はふと窓辺の少女を手招いた。
「どれでもいいから鍵盤を叩いて」
莉奈は素直にピアノまで歩いて行き、ピアノに触れる。
澄んだ夏の風のような音がした。夜のイメージが強い神沢だが、ピアノの音はどこか陽射しの暖かさを感じさせた。それでいて深い水の清らかさも孕んでいる。
「もう少しかかる?」
「そうだな」
五嶋は軽く頷くと、今度は自分で和音を鳴らした。ピアノ講師らしい正確なドレミの和音だが、それだけでは収まらない響き。
そう、水の止まった深夜の噴水にコインを一枚落としたような――。
それから五嶋は、カウンターでこちらの様子を見ている二人の男に視線を向ける。
栗林が頷くの待って五嶋はアタッシュケースに道具をしまい始めた。
「莉奈、これを持って行ってあげて」
「いえ、どうやら僕に話があるようですし」
ノーフレームの眼鏡を外し、シャツの内ポケットに収めて五嶋はカウンターに向かった。