午後2時のラジオステーションは、外の暑さをよそにエアコンが効いていてまるで別世界だ。
 ガラスの向こうの人影が、莉奈を認めて軽く会釈をよこした。
 中心街の地上14階のFMステーションでのラジオ出演が、今日の莉奈の仕事だ。
 大きな窓ガラスの真下に時計台が立っている。南方にテレビ塔とライラックで彩られた公園が望める。
 開局当初はリスナーが自由に見学できたこのラジオステーションは、両側にスタジオがあり、ガラス越しにアナウンサーやDJの仕事ぶりがつぶさに見えるようになっている。外の景色を写す大きな窓がなければ、水族館に迷い込んだ気分になる。
 いや、肌寒いくらいの空調のせいで、莉奈には人間が泳ぎ回る水族館に思えた。
 もっとも昨日までは、三日ほど続いた雨のせいで、この街全体が巨大な水槽の中に入ったような気分だったのだけど。
 北原莉奈は水槽の外から、収録の準備を進めるスタッフの様子を懐かしそうに見つめた。
 まだ、神沢俊広が生きて側にいてくれた時、自分の担当するラジオの収録に、小さかった莉奈を連れてきたのだ。
 小学校低学年の莉奈に深夜2時のDJなど聞けるわけがない。でもテープで取ったものでは納得しない、今思えば手に負えない子供だった。
 けれど俊広にそう言って駄々をこねれば、我儘が通ったのだ。実の娘のように、それこそ目に入れても痛くないほどに莉奈を溺愛していた俊広は、何かにつけ莉奈を仕事先に連れ出していた。
 民放のFM放送局自体、思ったほど増えなかったので、神沢俊広との約束通りアイドル歌手となった莉奈が、このFMステーションに来ることは、当然と言えば当然の成り行きだ。けれど深夜番組に初めて出演して、その上、同じスタジオなんて、偶然と呼んでいいのだろうか。
 右手の一番窓に近い水槽の中、今は誰も座っていない椅子に腰かけて、ヘッドフォンをつけた俊広が莉奈に微笑む幻が、不意に目の前に現れた。
 それに笑顔を返せるくらいは、莉奈は大人になった。
 感傷でもなく追憶でもなく、ただ心の中に大事にしまっておいた大切な宝物だ。莉奈だけの想い出のワンシーン。
 今日のテストの結果をあれこれ悩むよりはいいだろう。アイドル歌手が学業よりも仕事のスケジュールを優先していた時代もあったが、莉奈は学業が優先だ。少なくとも表向きは。親の七光りと陰口は覚悟したが、それに対抗できるだけの努力はしたいと思っている。少なくとも、だから成績なんて悪くてもいいなんて、誰にも言われたくなかった。せめて上位グループのシッポくらいにはつけていたい。
 それでも、試験が完璧だったと言い切れるわけもない。
(彬じゃあるまいし)
 誰に似たのか、学年で常に三位以内に入る優秀な弟の、憎たらしいほど秀麗な横顔を思い浮かべる。仮にもアイドル歌手の姉よりも顔立ちが整っていて、ある種人形めいた冷たさまで感じることがある。両親ともに血のつながった、唯一無二の姉弟だというのに、自分とは全く異質な存在だ。
 子供の頃は小児科の医者に『双子』と言われたくらい似ていた。確かに造作は同じだ。ただ莉奈が思うに、神様は自分の時の失敗を経験を、弟を創り出す時に余す事なく反映させたのだ、と確信している。
(彬なんかキライ)
 当の本人が知ったら、大いに傷つくであろう言葉を、莉奈は呟いた。
 最近、大事な姉の回りにうろついている(とは彬の言い分だが)、胡散ぐさ気な人物に対する弟の評価が、著しく莉奈の機嫌を損ねていた。その人物に莉奈が惹かれ始めているのが最大の要因なのだが、彬の感情はおろか、自分の想いにさえ全く気づいていない莉奈である。
「彬なんか嫌いだわ」
「せっかく友達になれると思ったのに」
 口に出していったつもりもなかったが、同じ名前を持つ男は耳聡く聞きつけたようだ。莉奈より十は上のDJがいつの間にか現れていて、本気で傷ついた顔をしてみせる。
 グレーの麻のヨットパーカに下はデニムのパンツ。左手で自転車の鍵がついた、煙草の銘柄入りのメタリックブルーのキーホルダーが揺れている。
 ちょっと煩いくらいに目に掛かった、茶髪に染めた前髪を掻きき上げると、莉奈には少しだけ負けるけど、それでも大きな目が、縁なしの眼鏡越しに笑っている。
「彬って、ヤスケンさんのことじゃないんです」
「いいって、こんなことぐらいじゃ僕はメゲないから」
 莉奈が神妙な顔で言い訳すると、男は大きな右手を大仰に振った。
 莉奈はそのたくましい癖に陽に灼けていない、綺麗な指先を目で追った。
 いつの間にか持ち替えたのか、右手のひとさし指で、メタリックブルーのキーホルダーがくるくると回った。
 舞台の上や深夜テレビでは見たことがあるが、こんなに間近で見るのは勿論初めてである。会話をするのも初めてなのだが、友達が少ないと広言するわりには馴れ馴れしい男である。
 初めて見た舞台じゃ、男の癖に意外に細くて綺麗な素足と、それが生えているトランクスまで見ている。上にはジャージーを着ていて、風邪を引くからと、ズホンを履かない男の役だったのだ。おまけに、変態ショーまでやってのけた。
 一人二役をやっていて、刑務所の所長は黒服で口髭が似合う渋くてカッコいい役だった。そのギャップに莉奈はハマッたのだ。
 友人には逆だよ、と散々言われたのだが。
 だから莉奈にとっては、少々ずうずうしく話しかけてくれた方が好都合だった。大体、今更はじめましてと言うのもおかしな話である。どうせ、公式にも初対面なのだから、ラジオの中での挨拶は、『こんばんは。はじめまして、北原莉奈です』になるのだ。
 そんなことを思いながら、いまだに傷心と顔に大きく書いている男を見上げて、莉奈は言った。
「だって単なる姉弟喧嘩だもの」
 そこまで言われて、男ははたと表情を改めた。
 即座に明るい表情になるこの男、本職は劇団の看板俳優である。
 どこまで本気で傷ついたかとなると、多少の疑問は残る。
「そうか、北原彬君のことか。ふーん、莉奈ちゃんでも姉弟喧嘩なんてするんだね」
 言外に『北原の嬢ちゃん方でも』という揶揄が感じられる台詞に、莉奈は軽く眉を寄せた。それを悟られないうちに、にっこり笑って見せる。
「しょっちゅうですよ。安井さんはご兄弟いらっしゃらないんですか」
「姉がいます。もう嫁に行きましたけどね。五つも離れていると母親が二人いるようなもんだから、喧嘩とかしなかったな。俺が一方的に突っ掛かっていただけだったし」
 カラオケボックスで初めて逢った男女という設定のラジオプログラムで、二十五歳にもなって、『ケンちゃんと呼んで』と、照れもせず言ってのけた男の性格形成の一つの理由なのだろうと、莉奈はなんとなく納得した。
 ちなみにその初回放送のリスナーの反応は、<ヤスケン>が本当に酔っぱらっていると思っていた人が意外に多いとの結果が出た。
 それだけ安井君の演技がうまかったんでしょうね、と男の所属事務所の社長で、公開生放送を含むFMのベルトプログラムのDJを自らこなし、莉奈が必ずチェックする深夜テレビ番組の企画・出演者である人物がフォローしていた。
 が、それを演技と見破った莉奈は、目の前の男の『俺、ほとんどアル中一歩手前ですから』との台詞に、ラジオに向かっていったものだ。
(ケンちゃん、それってシャレにならないってば)
 莉奈は、男の吸う煙草の銘柄から、着ぐるみを着てTVに出ていた旅番組で、ワイン城の蔵のワイン瓶をほっとけば全部空けるんじゃないかと言うくらい飲んでいたことまで知っている。
 ブースの向こうでディレクターが大きく手を振った。
 それに右手で答えて、男は莉奈に向き直った。
 莉奈はこの男と頭一つ身長が違う。正しくは11cmだ。
「ラジオでもこんな風な感じでいいと思うんだ。余程のことがない限り録り直しはしないし、編集もしないから」
 プロのDJの顔になって男、安井顕(やすいあきら)は言った。
 今人気上昇中のアイドルが、自分の大ファンだということを、不幸にも安井顕は全く知らなかった。


「莉奈ちゃん、この時間だったら普段寝ているでしょう」
「ここのところはね。起きてたの」
「え、何で」
「期末考査」
「ああ、期末試験。そうかあれ6月だっけ? いいんかい。こんなラジオに出てて」
「今日で終わったから。でも、安井さんのラジオは聞いてるよ。ちゃんと起きてリアルタイムで」
「またまた」
「だって、今クラスで大変なんだから、泉野派と安井派に別れて。私はヤスケン派だから、当然チェックしてるもの」
 何も知らない顕のリアクションに、莉奈は本気で拗ねている。
 けれど、安井顕には、それが本気か演技か全くわからない。
 トップアイドルとはいえ、良心的なマネージャーがついていれば、少しでも莉奈の印象を良くするために、そのくらいの知恵は授けるだろうし、ラジオの録音テープくらい移動中だって聞けるのだ。
 大体十も年下の少女達が、自分たちのことをそんな風に話しているなんて、何度言われても実感がわかない、と顕は思いながら、今時一歩間違えれば時代遅れでギャグにしかならない、純粋培養の清純派アイドルなんてシロモノを見つめた。
 そしてふと思いつくままに、こんな言葉を口にしてみる。
「じゃあ、俺はここで、泉野洋志にケイタイかけて自慢してもいい訳だ」
「泉野さん、起きてるのかしら」
「あいつ夜行性だから大丈夫。深夜バスじゃなきゃ眠れない体質だから平気」
 キョトンとするか、それとも一歩遅れたリアクションをするかと思いきや、マニアックなジョークに莉奈は噴き出した。
「まさか、地下鉄乗るにも、サイコロ振ってるなんて言わないよね」
 お嬢さんアイドルなんて、実は取っ付き難いタイプだと覚悟していたし、これで結構ミーハーな顕は、莉奈の意外なリアクションに本気で戸惑った。
 が、そこは役者。しかもアドリブ主体の劇ばっかりやってる舞台俳優が本職だ。幕が上がってしまった以上、立ち往生する訳にはいかない。ここにはアドリブで救ってくれる相棒もいない。
「うん。あいつ、拉致されないと、サイコロって振っちゃいけないと思っているから。なんて、よその局の話題で盛り上がってどうすんだよ、莉奈。FMだよ。オシャレな曲でもリクエストして」
 さりげなくも強引に軌道を修正した顕に、莉奈は花が咲くように笑った。
「おしゃれな。女の子が真夜中に聴きたくなるような曲をね」
「じゃあ、莉奈のお願い聞いてくれる。私、安井さんの声、すごく好きなの。だから、ちょっと気障な曲紹介して欲しいな」
 この頃になってようやく顕は、目の前の少女が自分のファンかもしれないと思い始めた。
 そして、そうならいい、と本気で思っている自分を苦く感じた。
 実は打合せの段階で、北原莉奈のリクエストは聞いている。番組の構成からいっても、ゲストの好きな曲をかけるのはセオリー通りだ。放送コードに引っかかるような楽曲でない限り、あるいは番組の雰囲気を壊さない限り、大概のリクエストは聞きとげられる。
 莉奈のリクエストは放送できない曲ではなかったし、民放FMでまずかかることがないド演歌でも民謡でもなかった。ラジオで流す分には何の問題もない、リスナーからのリクエストが、最近とみに増えてきたアーティストのラヴ・バラードだった。
 ただ、このアーティストの曲をかけるには、莉奈にまとわりついている噂がかなり煩さかった。
 でも、週刊誌の話題を今更、口にする気は顕に全くなかった。
 北原莉奈の実の母親、天野優との艶聞が最後まで絶えず、莉奈のデビューで口さがない人々がスキャンダルを再燃させた、もうこの世にいないアーティスト、神沢俊広の話題など。
「じゃあ、莉奈、君のために捧げるよ。『AFTER THE RAIN』
 SONG BY TOSHIHIRO KANZAWA」
 莉奈の瞳が少しだけ涙ぐんだ気がした。


 お決まりのように、北原莉奈のデビューアルバムから一曲流して、ゲストシーン、会話部分は十分にも満たなかったラジオ取りが終わった。
「ねえ安井さん。ほんとにアップスピークのチケット、ソールドアウトで手に入んないの? 私ね、あのラジオ聞いてすぐに、尽くせるだけの手を尽くして捜したの」
 莉奈がこの深夜のDJを聞いていると、安井顕が確信したのは、この台詞の意味を正確に理解した瞬間だった。
 デビューコンサートで大ホールがソールドアウトするのは、ビジュアル系のバンドか、少年アイドル養成で荒稼ぎしている某プロダクションの所属グループ、と相場が決まっている。収容人数が少ない小ホールとは言え、地方の弱小の劇団の旗揚げ公演のチケットが売り切れるなんて、ありえないことだった。
 でも北原の力を持ってしても手に入れられなかったと目の前の少女は告げた。
 それは信じられないが事実だ。
 もっとも、熱狂的な安井顕のファンが、一人で何枚もチケットを買っているはずだから、そんな奇特なファンから手に入れればいいとも言える。
 しかしそんな手段など、莉奈には思い付きもしなかったのだろう。
 だから、こんな直接的な行動をとったのだ。
「うん、俺の手元にも残ってないんだ。でも、莉奈ちゃん一人くらいなら話通すから。バックステージパス渡すよ」
「やった!」
 莉奈は満面の笑みを浮かべ、顕の首に抱きついた。
 まるで恋人に再会したヒロインのように。顕がキスを返そうかなどと考える余裕もない、一瞬の出来事だったけれど。
 莉奈の恋人候補ナンバーワンの男、つまり彼女の弟であるもう一人のアキラ君が全身全霊を賭けて、大事な姉の半径1m以内から抹殺を計っている男が、大学の同窓生で顕の数少ない親友だということを、まだこの男は知らなかった。
 そして、意外に古いタイプの男である安井顕は、その男・西野匠に、自分の劇団の旗揚げ公演のチケットを二枚送っていた。
 匠からその話を聞いた莉奈は、スケジュールをねじ曲げて、顕の旗揚げ公演へと赴くことになる。また、アップスピークのチケットを手に入れた莉奈が、同じ行動を起こすこともあったりなんかするのだが。それはまた別のお話。
「ねえ。安井さんなら知ってるかな。あのサイコロキャラメルって、中身入ってたの?」
 しゃべりすぎて喉が痛いと、背中に背負ったリックを下ろし、紙で出来てる赤い真四角の箱をとりだすと、莉奈はいたずらっぽく笑い、一つをいまだに茫然としている顕に差し出した。
「顕ちゃんの茫然とした顔って本当に、素敵」
 顕にとっては著しく不本意な言葉を口にした莉奈は、ローズのマニュキアが綺麗な華奢な指で丁寧に、残ったもう一つの紙を剥き、少女の口には少し大きめのそのキャラメルを、大胆な仕草で放り込んだ。


Fin