第五章 岐路
莉奈の歌を締めくくりに、半日に渡る[ゆうばりミュージックフェスティバル]は終わりを告げた。
周囲にほとんど人家のない場所だから、やろうと思えば夜を徹したライブもできる。けれど明日は月曜日、莉奈に学校があるようにみなそれぞれの予定が決まっている。
なにより、鉄道へアクセスする路線バスの最終時間が迫っていた。それを逃せば、夕闇が深くなる中、雨に打たれながらてくてくと小一時間かけて歩かなければならない。
一応[夕張市]とはいえ基幹産業が衰退して寂しいところだ。主催者サイドとしても、無責任なことはできなかった。
レジャーシートを畳もうと立ち上がり身を屈めた莉奈の目の前に、忽然と見馴れた人影が現れた。
「何であんたがここにいるの」
「いいから、そっち端持つ」
札幌で留守番をしているはずの弟が、不機嫌な顔で言った。
「お姉ちゃんはもう十分濡れたからいいかもしれないけど。でも、放っておくわけにはいかないよ」
莉奈は言われるままにレジャーシートの両端を持って、彬の持つ反対側と重ね合わせ、二つ折りにした。後は手伝ってもらわずとも一人で畳める。
「あいつ、どこ行ったんだよ」
自分の差してきた大きな黒い傘を足もとから拾いあげながら、彬は往路の運転手の所在を尋ねた。
「急にお葬式の手伝いに駆り出された」
用意のいい彬がジージャンのポケットから出したスーパーのビニール袋に、濡れた草が張り付いたレジャーシートを入れ、莉奈は自分のビニール傘を差した。それから、首に掛かているPHSから、匠の携帯にかけてみる。
『留守番電話サービスセンターにお繋ぎします』と、無機質な女性アナウンスーの応答が聞こえてきた。
「莉奈です。彬が迎えに来たので一緒に帰ります」
そう、留守録を残しながら莉奈は深いため息を付いた。
恐らくまだ仕事中なのだろう。それとも電波が繋がりにくいのだろうか。
日本中どこに行っても、ほぼ携帯もPHSも繋がるようになったが、どうしてもTVが映りにくい場所があるのと同じように、電波が届かない死角は存在する。全てのKCSの建物と葬儀用車両に通信アンテナは備えているが、天候にも左右されるし、絶対ということはない。
「何やってるんだよ。河口先生が車で待ってる」
苛々とした口調で彬が急かした。
「先生来てるの?」
てっきりブラック・アイズを使ったのだとばかり思っていたのだが、どうもそうではないようだ。
駐車場には、両側面に河口医院と書かれた、大きな白いステーションワゴンが停まっていた。一般の救急車と同等の設備を備えていて、いざとなれば緊急車両としてサイレンを鳴らすこともできる。
「莉奈、寒かっただろう」
ワゴンに乗り込んだ少女に乾いたタオルを手渡しながら、河口真一は笑いかけた。
「何で?」
彬が現れるまでは、相澤拓哉と一緒に帰るつもりだった莉奈である。どうやら、安井も鈴川も、ひょっとすると匠までが今回の[北原莉奈の飛び入り]に関わっている。そして主犯は相澤だと少女は考えたのだ。
「先生も莉奈が歌うって知ってたの?」
「僕はたまたまクリスティで鉢合わせた彬から莉奈の夕張行きを聞いて、野外イベントだけどこの雨だから、心配になって迎えに来ただけさ」
「お姉ちゃん、話はあと。まずは着替える」
どこまでも用意がいい弟は着替えを、それが入れられた紙袋ごと寄越した。
どしゃ降りになったのは、第二部からだ。
匠が貸してくれた革ジャンのおかげで、風邪をひく心配はなさそうだが、それまでも全く濡れていないわけではない。ジーパンに至っては色が完全に変わっているし、スニーカーも浸水状態だ。紙袋の中身は、黒い無地のシャツブラウスとジーパン、それに靴下。執事の坂田が持たせたのだろうけれど。
「スニーカーの替えもあるから」
――嫌味なくらい完璧な用意である。
莉奈は、カーテンに仕切られた簡易ベッドに向かった。
車内はほどよく暖められている。できればパジャマに着替えて寝転がりたい気分だ。
「先生、ここで寝ちゃっていい?」
白いカーテンの向こうに莉奈は声を投げた。
「いいけど、莉奈、お腹空いてないかい?」
「もしかして、お弁当もあるの?」
「それはないけど、久しぶりだからどこか寄って帰ろうかと思って、家に帰ってもどうせ誰もいないし」
「二人とも、今日は京都だっけ?」
子供たちの母親は、取材旅行に出かけている。天野優のエージェントをしているのは真一の妻である玲で、今回も同行している。
「うん。二人とも何が食べたい?」
「温かいもの食べたいな。ラーメンがいい」
「ラーメンか。そういえば、旭川の吉野って店のラーメンは美味いらしいね。でも、遠回りかな」
運転席に戻った真一がカーナビを起動させている。KITAHARAの最新ナビゲーシンシステムはあらゆる裏道、抜け道を網羅している。
「彬もラーメンでいいの?」
「うん。でもその前に、どっかコンビニ寄れる? 中華饅ってまだ売ってたっけ?」
「莉奈、温かいココアが飲みたい」
「はい、はい。莉奈、着替え済んだ? 車出しても大丈夫?」
「うん」
「じゃあ、まずはコンビニね」
エンジン音がして、緩やかにステーションワゴンが動き出す。
莉奈はベッド腰かけて、濡れた服を畳んだ。ジーパン、靴下、チェックのカッターシャツそれにヨットパーカー。空になった紙袋に逆に入れてゆく。最後に残った革ジャンを、莉奈はそっと胸元で抱きしめた。
その感情の意味は知らない。でも少しドキドキした。
「いけない……、せっかく着替えたのにまた濡れちゃう」
カーテンレールに一つだけ掛かっていたハンガーに、革ジャンをかけて干すと、莉奈はベッドに横になった。
「お姉ちゃん、ココアでいいの?」
レジャーランドを出て一番最初に見つけたコンビニの駐車場に車を入れる真一を尻目に、助手席にから体を伸ばした彬が、カーテンの隙間から覗きこんだ。
「……寝つきのいい奴」
簡易ベッドに寝転がり、もう軽い寝息を立てている姉に彬は呆れ顔をする。
「朝早かったんだろう。莉奈の分もココアを買っておいで。僕にはコーヒーね」
小銭入れを手渡しながら真一が言う。
「ここはいいよ」
自分の財布を出す彬を、真一は笑顔で押し留めた。
「お小遣いはもっと有効に使いなさい。そうそうカレー饅もね、なかったら肉饅」
追加オーダーを受けた彬が、傘も差さずに飛び出して行く。
それを見送りながら、真一は自動車電話の受話器を取った。クリスティの短縮番号をぽんと押して、相手が出た途端、一言告げる。
「無事、夕張を出発したよ。帰り旭川でラーメン食べて帰るからね」
☆
旭川の吉野というラーメン店で、味噌ラーメンとアイスクリームのセットを食べて、一行が札幌に着いたのは、十時を過ぎていた。
お風呂でゆっくり暖まって、莉奈が自室のベッドに寝転がる頃には、時計の針は十一時を回っていた。
ベッドサイドに手を伸ばしてそろそろ繋がるかなと、匠の携帯にかけてみる。呼び出し音は鳴っているが、本人が出る気配はない。
やがて流れ出した、伝言メッセージ続いて莉奈は話し始めた。
「莉奈です。匠君、仕事はうまく行きましたか。私は無事夕張から戻ってきました。私の歌聴かせたかったな。また電話します」
PHSの回線を切った後で、莉奈は匠に借りた革ジャンのことを思い出した。優秀な執事が、莉奈が明日学校から戻るまでには、クリーニングを仕上げてくれると請け負ってくれている。
「まあ、いいか」
今日は思いがけず、雨の中で歌うことになって驚いた。
でも、気持ちよかった。
この雨は明日にはあがるだろうか。
――最後まで付き合って欲しかったな。
匠は札幌に帰り着いたのだろうか。
今頃、何をしてるのだろう。
そんなことをあれこれ考えてるうちに、莉奈は眠りに落ちた。
眠りに落ちる瞬間、目覚める前に聞いた歌声を少女は思い出した。
――雨が歌ってる。
外に降る雨はすっかり小降りになって、耳を済ませてやっと雨音が聞こえる程度。
なのに、聞こえる歌声。
あれは自分の歌声だったのだろうか。
雨の匂いがする。
それは、今日一日雨に打たれていたせい。
でも、何だか違う気もする。
あれは正夢?
雨が歌ってる。
でも、どちらでもいい。
心地好い疲れが少女を満たしている。
雨が降ってても構わない。
どしゃ降りだって全然平気。
誰の歌声でも構わない。
雨が歌ってる。
それでいい。
眠ったまま少女は夢見るように笑った。
――さっき入れた留守電メッセージが、匠と莉奈、そしてもう一人の少女の運命を大きく変えるとも知らずに。
幸せな夜がゆっくりと更けていった。
Fin