第三章 打診
肩にかけた麻袋からレジャーシートを取り出した匠から、それを受け取った莉奈は、ステージを正面にして、中央からやや右手の前から二列目の位置に陣取り大きく広げた。
それを横目で見た匠は、空を仰いで掌を上にして雨の降り具合を確かめた。今はまだ小降りだが、この程度で済まないだろうことは、低くて厚い雨雲を見れば嫌でもわかる。
「匠君、どこ処行くの」
急に歩き出す匠に気がつき、莉奈が声をかけた。
「傘、買ってくる」
「待って、一緒に行く」
「場所取られちまうぞ」
「大丈夫」
財布を抜いたリュックをレジャーシートに残すと、莉奈は匠の背中を追いかけた。
あと一時間半ほどでステージが始まる。三十分前には安井達も姿を現すだろう。
莉奈は、それが目的でここに来たはずだと思うが、西野匠はそんなことを口に出す男ではない。せいぜいが訝しげな視線を少女に向けるだけだ。
こんな無口な男の何処が気に入ったのか、莉奈は喜々とした表情で匠の横を歩いている。
「そんなに楽しいか?」
この男にしては珍しい台詞に驚いた顔をした莉奈が、満面の笑顔で頷いた。
「すっごく楽しい。だって匠君とお揃いの傘を買うんだよ」
この雨だ。他にもお揃いの人間はいるだろう。何しろ買おうとしているのは何の変哲もないビニール傘なのだから。
次第に強くなる雨から逃れるように駆け込んだ売店で売っていたのは、無色透明のビニール傘に[ゆうばり黒ダイヤミュージアム]のロゴ入りの物だった。その分若干高いが、ここが観光地と考えれば妥当な値段だろう。
コンビニで売っている、誰のものかすぐに区別がつかなくなるようなものとは少し違うだけでも、莉奈には特別な意味を持つのだろうか。
更に機嫌が上向いてゆく少女を見ていると、匠としても悪い気分ではない。
「それにしても寒いね。何かあったかいもの飲みたいね」
黒目がちの大きな瞳が匠を見上げる。買ったばかりの傘を両手で持っているのは、指先が冷たいからだろう。
匠自身はそれほど寒さを感じていなかったが、反射的に売店内を見回した。
レジの付近にコンビニによくあるタイプの、缶飲料を温めるガラスケースはない。レジに向かって左手の壁にに冷たいジュースが収められている、ガラス戸付きの冷蔵棚があるだけだ。
軽く舌打ちすると、匠は無言で売店の外に出た。ビニール傘を差すと目についた自販機に向かって歩き出す。慌てて莉奈が後を追いかけてきた。
季節は夏に向かっているとはいえ、雨が降ると気温は簡単に二十度を切る。それなのに、野外ステージの周囲の自販機はどれもこれも冷たいものしか買えなかった。
「匠君、もういいよ。戻ろう?」
歩き回っているうちに体温が上がってきたのか、さっきほど莉奈は寒そうな顔をしていない。
匠は少女に頷きかけて、ステージに通じる道を並んで戻り出した。行く手にトイレの案内表示が見える。そちらの方向を何気なく見た匠の視界に、自販機が飛び込んできた。ステージ方向に足を向けている莉奈の肩を叩く。
「駄目元だね」と、振り向いた少女がにっこりと笑った。
自販機に近づくにつれて、二人の足取りは自然軽くなった。
こうして辛うじて一台だけホットドリンクが売っていた自販機で、二人はウーロン茶とコーヒーを調達した。
ステージ前に戻ろうとした時、匠の携帯が鳴り出した。通話ボタンを押しながら、先に戻るように促すと、莉奈は軽いため息をついて歩き出した。
☆
一人でステージ前の席に戻った莉奈は、雨で濡れたリュックをレジャーシートの上からどけると、その場所に腰を下ろした。それから、差していたビニール傘で体全体を覆う。
傘の下で莉奈はヨットパーカーのポケットから財布を取り出してリュックにしまった。リュックは完全防水加工だから、中は全く濡れていなかった。
することがなくなった莉奈は、今通ってきたステージ脇の道を匠の姿を求めて見つめた。
両手で買ったばかりの缶ウーロンを、懐炉代わりにもてあそぶ。
ちゃんと戻ってくるとわかっているが、知らない場所に一人きりは心細い。
匠が一緒だからここまで来た。見たかったイベントだが、一人で来る気など最初からなかった。
ステージでライブが始まればまだ身の置きようもあるが、手持ち無沙汰が更に心細さを増すようだ。
大きなため息を一つついた莉奈の視線の先に、どこかで見たような長身の影が現れた。
莉奈が誰かと気づくより先に回りが騒ぎ出す。無地のビニール傘を差した彼は、莉奈を認めると、意味ありげな笑みを浮かべて近づいてきた。
「安井さん」
「一人で来たの?」
傘を閉じて、一人きりでレジャーシートに座っている莉奈と向かい合うようにしゃがみながら、安井顕は訊いた。
「匠君と一緒」
莉奈はリュックからハンカチを取り出しながら答えた。隣に座るように勧めるにも、雨でレジャーシートはびしょびしょだ。
「ああ、すぐ戻るから構わないで」
莉奈の考えを読んだ安井は笑顔で言った。
「西野は?」
「これ買って戻る途中で電話がかかってきたの」と、莉奈は左手に持ったままの缶ウーロンを、安井の目の前で振った。
「あのね、莉奈ちゃん、ステージに出る気ない?」
唐突な言葉に莉奈は目を丸くした。
「莉奈、今日オフだよ。だから札幌から安井さん見に来たんだもの」
お気に入りのアイドル歌手の言葉に、安井の相好が崩れる。
「俺、本気にしちゃうよ」
「本当だよ。ラジオの時に言ったでしょう。私はヤスケンファンだって」
「じゃあ、俺のお願い聞いてくれるよね」
冗談としか思えない安井の表情に、莉奈も緊張を解いて、ふくれて見せた。
「オフに勝手なことしたら、怒られるもん」
「怒らない」
別な声が降ってきて、莉奈と安井は上を向いた。いつの間に戻って来たのか、匠が二人を見下ろしていた。
「無粋な奴だな。折角二人きりだったのに」
[北原莉奈の付き人]の登場に、安井は本気で残念がりながらも立ち上がり傘を広げた。
「怒らないって、どういうこと?」
ビニール傘の下から莉奈が訝しげに訊いた。
それには答えず、匠は安井と入れ代わるように、レジャーシートの前に立つと、革ジャンのポケットからハンカチを取り出して自分の座る分だけ雨水を拭いた。それから莉奈の隣に腰を下ろすと、かっての学友を見上げる。
莉奈にはその表情が無言の威嚇に思えた。
「まあ、俺に逢いにわざわざやってきただけ良しとするか。じゃあ、莉奈ちゃん頼んだよ」
安井は意味ありげな笑みを浮かべると、ステージに戻っていった。
その後ろ姿を見送りながら、莉奈は呟いた。
「冗談だよね」
匠が缶コーヒのプルトップを開けて口許に運ぶのに気がついて、手の中の缶ウーロンを見つめる。
「帰り、送れなくなるかもしれない」
缶コーヒーを四分の一ほど減らした匠がふいに言った。
「仕事が入ったの?」
西野匠は北原莉奈の付き人ではあるが、KCS(北原セレモニーサービス)との縁が切れたわけじゃない。莉奈が学校にいる間とかオフの時など、引っ張り出されてる。つまりはそれがKCSサイドとの約束だったのだ。
今日、莉奈はオフだ。だから、KCSの仕事が優先になる。
「夕張で神道の葬儀が入った」
「いいよ。駄目ならブラック・アイズと帰るから。誰が来てるか知らないけど」
莉奈はため息混じりに答えた。莉奈は北原家のお嬢さまだから、こうして二人きりでいても、見えない場所でボディガードが守っている。
「もう行くの?」
「まだいい」と、匠はロレックスに目を落とした。
それからまもなくしてステージ上に、鈴川崇明と安井顕が現れた。
雨は小降りになってきていた。