第三章


 子供がいると知らされた翔子の驚きと嘆きは、端から見ていても辛いものだった。僕は、万が一のためにと手配を頼んだ優秀な産婦人科医(彼は堕胎の腕も超一流だった)と翔子を引き合わせ、その上で何があったかを問いただした。
「その指環の男か?」
 翔子は大きく頭を振った。
 わかってる。由之、お前は何も言うな。
「じゃあ、誰だ。アメリカに来てからか?」
 翔子はただ泣き崩れて何も答えられる状態じゃなかった。
「もし、誰かに乱暴されたのが原因なら、探し出して、きっちり謝らせた上に慰謝料と医療費を取り立てることも出来る」
 僕の言葉に翔子はびっくりしたように泣いた顔を上げた。
「どうして? ほんの二週間前に逢ったばかりの、どこの誰ともわからない子の子供を宿した女に、どうしてそんなに優しくするの?」
 僕はベッドに上半身を起こした翔子を背中から抱き締めた。
「言ったろう。好きになった女の子には自分の出来る範囲で大事にするって。男なんて愛しいと思う相手を守れないと、一人前とは言えないんだ」
「……お金を地獄まで取りに行くことなんて出来ないわ」
 ぽつりぽつりと翔子が話したことを要約するとこういうことらしい。
 翔子に乱暴したのは彼女をニューヨークまで呼び寄せた友人の恋人で、そのことがあった翌朝、何も言わずにそこを飛び出したという。その数日後、その男がつまらない喧嘩であっさりと殺されたのを、TVニュースで知った。
 翔子はよもや妊娠までしているとは思わなかったようだ。
「今なら、まだ子供を卸すことが出来る。ディックは最高の腕を持っている。何も心配いらない」
「そんなお金、払えないわ」
「医者は僕が勝手に手配した。翔子が気にすることなんてない」
「でも」
 僕はまだ何か言いかける唇をキスで塞いだ。
「怖がる必要はないが、手術をするには体力が必要だ。今夜はこうしていてあげるから、安心して眠りなさい」
 翔子は素直に目を閉じた。
 翌朝、翔子は吹っ切れた顔で爆弾宣言をした。
「シュン、私、この子を産むわ」
「翔子?」
 驚きの余り何も言えない僕に、彼女はこう言った。
「私の実のお父さんは九つの時に、ママとそれに新しいパパまでが去年死んじゃった。それに……。私、これ以上自分の肉親を失うのは嫌なの」
 僕の顔を覗き込み翔子は鮮やかに笑った。
「ディックは子供を取り上げるのも超一流なんでしょう? 同じ借金をするなら、いいことに使いたいわ」
 そうまで決心して産んだ子供をどうして置き去りにしたのかって?
 まあ、慌てないで。お前の話だってこれからなんだから。
 翔子は子供をお腹に抱えながら、ホテルの客室係を続けてた。そして、僕がレコーディングで徹夜する以外の夜はこの部屋で眠るようになった。
 莫迦いいなさんな。妊婦を抱こうって言うじゃないよ。
 妊娠中は精神が不安定になりやすい。僕はていのいい精神安定剤さ。あれはそんな夜のことだった。
 僕はデビューさせるバンドの選考のMDをMDラジカセにかけて低い音量で流していた。
 向こうの寝室にあるよ。KITAHARAの、まだ市場に出ていないニューモデルだ。
 眠ったはずの翔子が不意にベッドの上で身を起こしたんだ。
 信じられないと言う顔をしていた。
「翔子?」
「シュン。あなた、バンドのデモテープを聴いているって言ったわよね」
「ああ、そうだけど」
「ボリューム上げて」
 僕は言われるままにリモコンを手にした。
「由之の声だわ」
 翔子はそうはっきりと言った。
 デビューのきっかけになったあの曲だ。
 お前の姉さんは、わずかなフレーズだけで正確にお前の声を聴き分けたんだ。
 僕はMDの資料からその歌の作者を読み上げた。
「バンド名[リリック]、この曲は[月光] 作詞作曲 yoshiyuki takemoto 竹本よしゆき」
「理由の由に、ひらがなのえに似た漢字の之。日本に残して来た私の最愛の弟よ」
「翔子、肉親は日本に誰もいないって」
「私は悪い姉だから、あの子の傍にいちゃいけないの。二度と逢う気はないわ」
 ――月をねだる恋をしたことがある?――
 僕は泣き出す翔子を、ただ抱き締めることしか出来なかった。


 その後、僕は自分のアルバムの最終打ち合わせと、デビューバンドの発表など、日本での仕事のために一旦帰国した。
 十月終わりの翔子の出産予定日までには必ず戻ると誓い、その間は、今岡真理と北原敬一に翔子の世話を頼んだ。二人とも、信頼できる僕の数少ない友人だ。
 自分のアルバムはこの際、後回しにすることが出来たが、バンドのプロデュースの仕事を投げ出すわけには行かなかった。
デビューバンドは[リリック]に内定していた。翔子の弟であるお前がリードボーカルだというのは、選択の一つの理由にはなったが、けしてそれだけではない。こちらも商売だし、金をかける以上、失敗するわけには行かない。
 ただ、同レベルのバンドならば自分の好きな方を選ぶ。それは人情だろう?
 それに、僕は翔子と由之との出逢いに偶然では片付けられない何かを感じていた。そう、『運命』って奴を。
 僕の帰国間際まで、翔子は日本に残して来た弟のことを気にしていた。
[リリック]のデビューがほぼ決まったことを告げると、深々と頭を下げて、お前を頼むと言っていたよ。
「私を寂しがらせないようにと、学校からも真っ直ぐ帰って来ていたわ。父親の形見のギターで曲を作るのが唯一の楽しみだった。そんなあの子が、音楽によって仲間を得る。もし、音楽で食べていけるだけの才能があるなら、それを潰さないように伸ばしてあげたいわ」
 僕は日本に帰り、[リリック]のメンバーに、お前に逢った。
 翔子が気にしていた通り、不健康に見えたし、人当たりもいい方ではなかった。ギターを弾いて歌っている時以外は、剥き出しのナイフのように思えた。
 ただ、僕と同じ想いで、歌に心を託しているのはすぐわかった。だから、きっと僕とは解りあえると信じた。そして、今も信じてる。
 バンドはデビューに向けて動き始めた。
 そんな矢先に、ニューヨークから連絡が入った。
 翔子が予定日よりもひと月も早く、出産しそうだと言うのだ。
 僕は全ての予定を投げ捨てて、ニューヨークへと飛んだ。
 出産には間に合ったが、翔子は死も覚悟したように、笑って見せた。すぐに僕は日本に連絡して、お前を呼び寄せようとした。
 だが、翔子は断固として首を縦に振らなかった。
 僕は翔子に内緒で、万が一の場合にお前が翔子に逢えるように、ニューヨークへお前を運ぶ手配をした。
 それが無駄になったのは、知っての通りだ。
「由之、この子を可愛がってくれるかしら」
 ベッドの上で、細身のせいで触れなければそうとわからない腹部を撫ぜながら、翔子は言った。
「血の繋がりのない姉の子でも、あの子は私の赤ん坊を可愛がってくれるかしら」
「血が繋がっていないのか?」
「私達、再婚した両親の連れ子同士なの」
 それを聞いた時、この姉弟が僕の前に現れたのは、やはり『運命』だと思った。
 それを口にはせずに、僕は言った。
「君の出産までは日本に帰らず、傍にいるから、安心して眠りなさい」
 これ以上母体に負担をかけないように、赤ん坊を母親の胎内から未熟児のまま外に出した方がいいと、ディックが言い出していた。
「シュン、私ね、思ったの。この国はやっぱり異国だって。言葉も思うように通じないし。勿論、北原さんや、今岡先生は良くしてくれたわ。北原さんは奥さんだって身重なのに、忙しい時間を割いて私に逢いに来てくれた。奥さん、有名な作家で日本にずっといるんですって? シュンも良く知っているのよね?」
「優子さんのことなら、良く知ってるよ。十一月半ばに、初めての子供が生まれる」
「日本で?」
「そう、日本で。……翔子、君もしかしたら、日本に帰りたいんじゃないのか」
 翔子は無言で頭を振った。
「私は日本を捨てたの。二度と帰る気はないわ。けれど、この子は日本で育てたい」
 僕はベッドに体を横たえる翔子の髪に手を伸ばした。
「ならば、帰るしかない。子供が生まれて君が飛行機に乗れる身体になったら、日本に帰ろう」
 翔子は頑固に首を横に振る。
「私、ディックにお願いしたの。もし、母と子とどちらかの命が失われるとしたら、子供を助けてって」
「翔子」
「不思議よね。由之の他に、自分の命よりも大切なものができるなんて思わなかったわ。それが母親になるってことなのね。それが例え望まない妊娠であっても」
 僕はまだ翔子が何を望んでいるのかわからずにいた。
「この子と二人でこの国で生きていくのは大変だわ。今だって自分ひとりが食べていくのがやっと、あなたに逢えなかったら、きっと命を落としていた。だから、この子の母親は、この子と引き換えに命を落としたと思ってもらえないかしら」
「翔子、ディックは」
 僕の言葉をみなまで言わせず、翔子は続けた。
「誰よりも優秀な産婦人科医。余程のことがない限り母子とも命を落とさない。彼の腕を疑う気は微塵もないわ」
「なら、莫迦なことを考えるんじゃない」
「違うのよ。凄く我儘な願いだけど、これなら月も叶えてくれるわ」
「翔子?」
「生まれた赤ん坊を由之に託すわ」
「託す?」
 僕は日本語の意味を思い出すように言葉を繰り返した。
「だって、君は二度と由之には会わないって」
「逢うつもりはないわ。無茶苦茶なことを言っているのもわかる。我儘なのもわかる。十七の男の子に乳飲み子を預けるってことが、どんなことかもわかってるつもり。でも、私と違い、あの子は一人じゃない。音楽を一緒にしていく仲間がいて、何よりあなたがいる。由之を一人前のミュージシャンにしてくれるって言ったでしょう? 私一人なら、この国でどんなことをしてでも生きていける。でも、その運命に生まれたばかりのこの子まで巻き込めない。それに死んだ姉の忘れ形見を育てるなら、由之の親戚も少しは手を貸してくれるわ。あの子は、この子が生まれたことに何も責任はないのだから」
 強がっていても十九の娘だ。もう時期、大人と呼ばれる年齢になるとしても、子供を育てていくのが不安になっても仕方がないと思っていた。
「生まれた子を僕が引き取ろうか?」
 翔子は一瞬表情をなくしたが、すぐに悪戯な笑みを零した。
「結婚でもしてくれるの? あなたが本当に愛しているのは、私以外の人だし、私もそう。あなたに父親になって欲しいなんて思ったこともないわ」
 生まれてくる子供に戸籍上の叔父がいる以上、他人でしかない僕がどうこう言えもしない。
「けど、こうやって出産まで付き合うんだ。父親の権利は、十七歳のギタリストよりはあると思うよ」
 そう言って軽く笑ったら、翔子もベッドの上から明るく笑いかけてきた。
「あのね子供の名前、決めてあるの。男の子でも女の子でも、人を思うと書いて偲。人