第二章
僕が翔子と出逢ったのは、三月の終わりのことだった。
ここ二、三作ずっと組んでいる小説家の天野優が、出産のために今回の僕のアルバムの作詞を断ってきたんで、一人で曲作りのためにニューヨークにやってきたんだ。
秋にレコーディング・デビューを果たす、新しいバンドの最終選考も抱えていた。
このホテルは、レコーディング・スタジオに近いせいで、ここのところこの地での定宿になっていた。部屋もいつも同じだ。
地上十四階から見下ろす、ビル街も気に入っていたしね。
翔子はこの部屋の客室係だった。前回は白人の中年女性が付いてくれたが、どうやら彼女の後任らしい。
この国は人種の坩堝で、日系人も多い。だが、生粋のJapaneseはやはり珍しい。
意外に馴れた手つきでベッドメイクをする彼女をじっと見つめていると、不意にこちらを見てこう言った。綺麗な日本語で。
「もしかして、お客様……。シュン?」
僕の熱狂的なファンは神沢俊広の俊を音読みして「シュン」と呼ぶ。
「神沢俊広さんですよね」
僕が笑顔で頷くと、彼女は花のような笑みを零し、それから急に踵を返した。
「君?」
「アルバムを持ってるんです。今、取って来ますから、サインしてもらえます?」
ドアのところでそう振り向くと、彼女は廊下に消えた。
僕は、煙草を咥えたが、火を付けるのを躊躇った。折角、彼女が綺麗に掃除を終えたのに、灰を落とすのが悪い気がした。
ほどなく彼女は戻ってきた。急いでいたのだろう、軽く息が上がっていた。
「[Manhattan in The Rain] 僕のソロデビューアルバムだ。こうしてジャケット見ると、ずいぶんオジサンになったな」
「そんなことないです。神沢さん、今でも十分、若くて素敵です」
ムキになって彼女は言った。
内ポケットからペンを取り出すと、僕は日付入りでサインをしてそれから、ふと顔を上げて訊いた。
「名前は?」
彼女は一瞬何を訊かれたかわからなかったんだろう。
「君の名前。入れた方がいいだろう?」
「ああ。……翔子です。空をはばたくの翔に、子供の子。竹本翔子と言います」
それが僕らの出逢いだった。
僕が恋愛対象として翔子を見るようになったのは、それから間もなくのことだった。
訊くと、高校時代の友人を頼って単身ニューヨークに渡ったが、その事業がうまく行かずに、途方に暮れていたところこのホテルで、住み込みの客室係を募集してたということらしい。
大人びて見えたがまだ十九だと言う。サインをねだった時のことを思い出せば納得できた。家族はどうしていると尋ねたが、交通事故で両親を亡くして頼る親戚もいないと答えた。
そんな顔をするなよ。実際、僕がお前のことを聞いたのは、しばらくあとなんだから。
僕は彼女の境遇に同情した。同じ年頃の子供達が親の金でこの国の大学に留学して、勉強もせずに遊び暮らしているのに、彼女は自分の生活費をその手で稼がなければならないんだ。
けれど、中途半端な同情は逆に彼女を駄目にする。結局、どんな人生であれ、自分で歩いていかなければならないのだから。
僕はこちらに滞在している間は、出来るだけ力になると翔子に告げた。
「大したことは出来ないと思うし、僕だってずっとこっちにいるわけじゃない。でも、ニューヨークに来る度にこのホテルに泊まるし、客室係は君を指名する。それに」
「それに?」
訊き返す翔子の瞳を覗き込んで僕は言った。
「君さえ良かったら、君のプライベートの時間を独占したいな」
「神沢俊広は名うてのプレイボーイと聞いたわ。こちらに来て声かけた女の子は一人じゃないでしょう?」
「声はかけたけれど、普段の素行の悪さが祟ってね。いい返事がもらえないんだ。君こそ、その指環の彼に義理立てするのかな? 無理強いはしないよ」
ビル街に陽が沈み始めた。
右手のリングに目を落として、翔子は俯いた。
「ただ、これだけは誓える。僕は確かに遊び人だけど、好きになった女の子に対しては、自分なりに大切にする」
翔子は顔を上げて僕に笑いかけた――。
☆
「月をねだる恋をしたことがある?」
未成年に飲ませる酒はないと、ノンアルコールでカクテルを作らせて、乾杯した夜だった。
不意に翔子は訊いた。
「……あるよ」
今も消えない面影を心に浮かべて僕は答えた。
「叶えられない願いなんてないなんて、嘘だわ」
そう呟くと、止める間もなく翔子は僕のグラスを手に取って一気に飲み干した。途端にむせて咳き込む。
「無茶だよ」
僕が背中をさすると、翔子はきっと睨みつけた。
「シュンが悪いのよ。十九の女の子に手を出しておきながら、良識ぶった大人のフリをするから」
「君が二十歳になったら、ちゃんとしたカクテルで乾杯するよ」
「その時に、あなたが傍にいるなんて、私に信じろって言うの?」
たとえ一年後でも未来を確約するなど、僕には出来ない。気休めの嘘なら付かない方がましだ。
翔子はドライマティーニで酔った瞳で、右手のシルバーリングを見つめた。
僕とのデートでもけしても外さない銀の輝き。一度眠りについた彼女の指から抜いたことがある。<Shoko>の五文字が刻まれていた。
僕にも忘れられない人がいる。翔子を責める気はないし、飲んで忘れたい気分もわからないわけではない。
けれど、その夜の翔子は、機嫌のみならず体調まで悪そうに見えた。
そして、悪い予感ほどえてして良く当たるものだ。
「気持ち悪い」
青ざめた顔の翔子が、そう呻いた。
「翔子? 大丈夫か」
僕が抱きかかえた時は、血の気が失せていて、額に脂汗が浮いていた。
すぐさま救急車を呼んで、病院に運ぶと同時に、顔見知りの医者に連絡を取った。
由之は驚くだろうけど、これでも僕は医者を志したことがあったりする。その時の仲間がこの街にいた。
「俊広、見損なったぞ」
救急医と話をしていたその男、今岡真理は僕の顔を見るなり開口一番こう言った。
「あの子、まだ二十歳前だろう。そんな子供に手を出した挙句、孕ませるなんて何事だ」
「本当か?」
さすがの僕も青ざめた。
「こんな時に冗談など言わない」
三十を越えた今でも女にしたいような細面の顔をしかめて、真理は言った。
この顔立ちと[まり]としか読めない名前のせいで、いまだに女に間違えられるという。名詞には、[まさみち]と名前に振り仮名があるが、そんなことをする前に、肩よりも長く伸ばした金髪(もちろん染めている)を何とかする方がいいと思うのだが。
無論、こんな場面で人の髪について余計なことを言う気などなかった。
僕は、真剣な眼差しを真理に向けた。
「……誓って言うが、翔子に会ってからまだ二週間だ。手を出さなかったとまでは言わないが、僕の子ではありえない」
真理は僕の目をじっと見た。
「信じよう」
「ありがとう。ついでに頼まれてくれないか」
「いい産婦人科医になら心当たりはある」
「僕が欲しいのは腕のいい堕胎医だ」
「俊広?」
探るように真理は僕を見た。
「あの子はまだ十九だ。自分が望まない妊娠をしている可能性はある。……無駄手間になっても構わないだろう?」
今岡真理は深いため息をついた後で、苦虫を噛んだ顔をして頷いた。