EPILOGUE
「翔子の右手の薬指のリングを贈った男は誰か、僕はあえて訊かなかった。ただ、その男を狂おしいほどに愛してる想いだけは痛いほどわかった。数日後、翔子は玉のような女の子を出産した。子供が生まれても、翔子の決心は揺らぐどころか、ますます強くなったようだ。僕はデビューバンドをニューヨークレコーディングさせると言う名目で、[リリック]を渡米させる準備のために日本に戻った。メンバー五人のうちドラマーは生粋のアメリカ人、ベースは父親がアメリカ人のハーフであるためか、そのことに対する疑いは生まれなかった」
そこで神沢俊広は、煙草に火を付けるために口を閉じた。
「……僕を姉さんに逢わせるため?」
由之の言葉に神沢は深く頷くと、話を続けた。
「由之に偲を託す説得を引き受ける代わりに、目の前に連れてくるからと。ただし、翔子の連絡先は一切明かさない。僕はお前に逢えば、気持ちを変えて、翔子が一緒に日本に帰ると踏んでいたんだが、思惑は外れたようだ」
「姉さん、そんなに僕と暮らしたくなかったのか……」
十七の少年が肩を落とすのを、神沢は優しく見つめた。
「僕はそうは思わない。そもそも、ディックだったから母子ともに命に別状なく産まれたんだ。自分の身を危険に曝してまで産んだ子供を託せるのは、世界広しと言えども、お前一人だったんだ。分娩室の前でうろうろして、本当にお前の子じゃないのか?なんて真理に軽口叩かれた僕を差し置いて、由之が父親代わりだぜ。酷い話だと思わないか」
由之は突然立ち上がると、寝室に足を向けた。
ベビーベッドを見下ろすとそれに気がついたわけでもないが、偲は目を覚まし、母親の姿を求めて泣き出した。
危なかしい手付きで抱き上げながら、由之はふと思った。
あの夜の出来事がなければ、翔子は日本を出て行かなかったろうか。
自分は悪い姉だから、弟の傍では生きられない。
どんな時でも、外さなかった銀のリング。
月をねだる恋。
心に秘めた想いは同じ。
あの夜何もなくても、その後ずっと、自分の想いを押さえられたか、由之には自信はなかった。
姉も、……翔子も同じだっただろうか。
もしかしたら、血の繋がらない姉と弟の間で子供が生まれる事だってありえたかもしれない。
そうなれば静観していた親戚だって黙っていないだろう。二人は引き離され、子供も奪われる。
今でこそ、由之の周りには頼りになる大人がいるが、未成年の二人が子供を抱えて、誰の援助も受けずに生きていくのは、至難の業だ。
気障なだけのプレイボーイと思っていた神沢がいなければ、この広い異国の地で、姉を探し当てられたかどうかさえわからない。
「神沢さん、僕に本当にこの子を育てられると思いますか」
いつの間にか人肌に暖めたミルクを哺乳ビンに作り、神沢が歩み寄って来る。
「人一人の命を預かるんだ。生半可な覚悟じゃ、とてもじゃないが出来ないだろう。だから協力は惜しまない。それに、僕のポリシーは好きになった女の子は自分の出来る範囲で大事にすることだ。父親ではないけれど、偲を大切に思う気持ちは、今さっき逢ったばかりのお前に負けやしない」
偲にミルクを与えるために抱こうとする神沢の手から、由之は哺乳瓶を取り上げた。
「偲は僕の姪です」
きっぱりという由之を見つめ、俊広は苦笑した。
それが会心の笑みに変わる。
「日本に帰ったら、お前は北原のマンションに偲を連れて行くといい。まもなく優子さんの子供も産まれるし、あそこには子守りの集団がいる。まあ、無料の保育所と思って構わない。でも休日や夜は由之が面倒を見るんだよ」
「ありがとうございます」
深々と頭を下げる由之の肩を神沢俊広は優しく叩いた。
「由之。これは『運命』なんだ。腹をくくって生きてくしかない」
ふと窓の外に目を転じると、綺麗な三日月が夕闇に浮かんでいた。
この月をどこかで翔子も見ているだろうか。
きっとそうに違いないと由之は思った。
そして、目の前の『運命』を受け入れようと決意した。
二人を繋ぐ目に見える確かな絆が、こうしてしっかりと力強く息づいているのだから。
Fin.