PROLOGUE


 木枯らし吹くニューヨークの舗道、ビル街を古新聞が風に浚われてゆく。ちょっとレトロな気分を味わえる瞬間。空はあくまで高く、けれど青空は見えない。
 竹本由之は、腕時計に目を走らせた。約束の時間から五分過ぎている。
 デビュー・レコーディングの最中、プロデューサーが不意に言った。
 ――逢わせたい人がいるんだ。きっと、お前も逢いたいだろう――
 プロデューサーは意味深な笑みを浮かべた。
 逢いたい人間は一人しかいない。バンドのデビューが決まり、ニューヨークでレコーディングすると話を聞いた時、これで探しにいけると由之は思ったのだ。
 国内と同じ感覚で海外旅行が出来るようになったとはいえ、十七歳でしかない由之にとって、やはり世界最大の都市は異国の街だった。
 置手紙一つで消えた女性。
 不意に突風が吹いて、埃が一瞬由之の視力を奪った。
 右手でまぶたを擦り、目が見えるようになった時、風の中から一人の女性が歩いてくるのが見えた。
 真っ直ぐにこちらに歩いてくる。
「姉さん?」
 知らずに由之は駆け足になっていた。
 一年前、単身ニューヨークに渡った三つ違いの姉、竹本翔子がそこにいた。
 抱きしめようと伸ばした由之の腕が宙に浮く。
 姉の腕に大事そうに抱かれているのは、生まれたばかりの赤ん坊だった。
「由之。元気だった」
 目を潤ませて翔子は言った。
「姉さん、その子は」
 翔子は腕の中の赤ん坊にあやすように笑いかけた。顔を覗き込むと、きゃっきゃと無邪気な笑い声をあげる。
「偲。にんべんに思うと書くの。私の宝物よ」
 由之は呆然と立ち尽くした。
 一体、姉に何があったと言うのだろう。音信不通の一年の間に、姉の身に何が起こったのだろう。
「父親は?」
「父親はいないわ。だからあなたがなるのよ」
 きっぱりと翔子は言った。
「私にはこの子を育てられない。ニューヨークはシングルマザーが生きてゆくには向かないわ」
「そんな無責任な」
 生まれて来た子供には罪はないだろう。
 けれど、十七歳の少年でしかない由之に、乳飲み児の世話が出来るとも思えなかった。
「姉さんが僕とは別の一年を過ごして来たように、僕だって昔の僕じゃない。夢が叶って、デビューできるんだ。一人じゃない。音楽をやっていく仲間を見つけた。いくら姉さんの頼みでも、出来ることと出来ないことがあるんだ。それに」
 勝手にいなくなったのは姉さんの方じゃないか。
 喉元まで出かかった言葉を由之は飲み込んだ。
「由之、翔子は全部わかっているよ」
 姉弟の会話にそう割り込んできた男がいた。
「神沢さん」
 由之が振り返ると、ロングコートの襟を立てて二人の方へ歩み寄ってくる男がいた。
 由之のバンド、[リリック]のプロデューサー、神沢俊広だった。
「翔子。もう行きなさい。後の説明は僕に任せて」
 神沢はそう言って、自分が乗ってきたイエローキャブを片手で示した。
「さあ、由之」
 腕の中の赤ん坊を無理やり弟の手に委ねると、翔子は愛しむように我が子を見つめた。母親の腕から無理やり別な腕に預けられて、泣き声をあげる。
「幸せになりなさい。誰よりも」
「姉さん、どこへ行くんだ」
「由之、忘れないで。偲と由之は私の大事な宝物だって」
 姉の目から一滴の涙が零れ落ちるのを、由之は何も言えずに見つめた。
 その行為は無責任だが、姉が真剣だと言うのだけは間違いなかった。
 竹本翔子は、我が子と弟に向けて笑顔を作ると、それが崩れるのを恐れるように身を翻した。
 そして乗客を待っているイエローキャブに乗り込むと、大都会のビルの谷間に去っていった。
「偲が風邪を引くといけない。中に入ろうか」
 由之の肩を抱くように、神沢は優しく言った。


 神沢が二人を連れてきた場所は、ホテルの一室だった。
 小さいが応接間と寝室の二部屋がある。
 驚いたことに、偲のオムツから哺乳瓶、果てはベビーベッドまでそこにあった。
「つまり、あんたと姉はグルだったってわけだ」
 由之はポケットから煙草を取り出して一本咥えた。一年前、姉が目の前から消えた時に覚えた悪癖だ。
 軽く顔をしかめて、神沢はドアの脇にあるエアクリーナーのスイッチを入れた。
「ひょっとして、この子の父親ってあんたじゃないのか」
 神沢はアコーディオンカーテンを開けながら言った。
「残念ながら、違う。翔子とそういう関係ではなかったと、そこまでは否定はしないけどね」
 一口しか吸わずに、由之は灰皿に煙草を押し付けた。
 そのまますっくと立ち上がり、アコーディオンカーテンの影に消えた男の背後に立つ。由之はこぶしを振り上げた。その腕を、神沢はがっしりと掴んだ。
「今、コーヒーを入れてあげるから、そっちで偲を見てなさい」
 幼子を諭すように由之の目を見つめながら掴んだ腕を放すと、神沢はシンク脇の冷蔵庫からミネラルウォーターの大型ペットボトルを取り出し、薬缶に注ぐ。同時に取り出したコーヒーを濾紙の上に開ける。挽きたてのコーヒーの香りが微かに香った。
 母親に置き去りにされた赤ん坊は、由之の隣で、泣き疲れたのか知らぬ間に眠っていた。
 こんな小さな赤ん坊など、触わるのも初めてだと姉は知らなかったのだろうか?
 じっと見つめていると、目元が姉に生き写しと由之は気がついた。
「僕はブラックだが、砂糖とミルクは」
「いらない」
 普段は一つづつ入れるのだが、ブラックで飲みたい気分だった。
 大きめのマグカップを両手に持った神沢がアコーディオンカーテンの影から現れた。片方を由之の前に置き、ソファーの上で眠りに落ちた赤ん坊を見つめる。
「偲は寝たようだね」
 自分のカップを応接テーブルの上に置くと、偲の傍へ行き、意外と馴れた手つきで抱き上げ、奥の寝室へと連れて行く。ベビーベッドに寝かせるつもりなのだろう。偲が起きたらすぐに気がつくように、寝室のドアを開け放つ。
 それから、由之の前に腰を降ろすと、自ら淹れたコーヒーを一口飲み、出来栄えに満足するように深く頷いた。
「翔子と僕との出逢いを話す前に、彼女からの伝言を伝えておく」
「これ以上何を?」
 三本目の煙草を揉み消しながら、由之は不機嫌に告げた。
「由之が偲をどうしても引き取れないなら、その後のことは全て僕に任されている。その場合、日本に連れて行って、僕の大切な友人の養女になる。その家には今月、十一月半ばに子供が生まれるが、一人も二人も同じだからと快い返事を貰っている。……けれど、翔子の意向はお前が直に聞いた通りだ。まあ、赤の他人に預けるよりはと思ったんだろう。でも、由之にだって拒否する権利はある。戸籍上は姉とは言え、翔子とお前は血の繋がりは一切ないのだから」
 思わず絶句する由之の前で、神沢は応接テーブルの煙草入れから一本取り出すと、卓上ライターでそれに火を付けた。