第一章


 出逢ったのは十年前。男手一つで由之を育ててきた父親が、再婚したいとある女性を家に連れてきた。その女性も、一年前に事故で建設工事の現場監督をしていた夫を亡くしたと言う。
 写真だけの母親に義理立てする気はなかったし、新しい母親になりたいと言う女性も優しそうに見えた。問題はその女性にも連れ子がいたことだったが、三つ上のその女の子はクラスの女子の誰よりも大人びて眩しく見えた。
 お互いに同じ境遇の夫婦は子供の目から見ても仲が良かったし、姉となった女の子も、三つ下の弟の面倒を良く見てくれた。
 血の繋がりはないが美人で成績も良かった姉は、由之の自慢だった。七歳にして家族の団欒を知った由之は幸せを感じた。
 そんな由之に不幸が襲ったのは高校の入学式を終えたその日のことだった。
 家族四人で息子の入学を祝おうと行きつけの寿司屋に予約を入れた。母は街に買い物へ出て、そこで仕事帰りの父親と待ち合わせ、自宅近くの寿司屋に合流する手筈だった。由之は姉と自宅を出た。
 地下鉄の駅から出てきた両親が、道路の向こう岸からこちら見て笑ったのが、今でも由之の脳裏に焼きついている。
 一瞬の出来事だった。暴走した車が横断歩道に並んで信号待ちをしていた両親を跳ね飛ばしたのだ。二人ともほぼ即死。酔っ払い運転が原因だった。
 三つ上の姉が守るべき存在に変わったのはそれからだった。
 運転手の賠償や両親の保険金などで、由之が成人するまでは何とか姉弟二人で暮らしていくだけの金はあった。けれど、血の繋がらない同士の姉弟に頼るべき親戚はないに等しかった。それぞれの親戚が二人を引き離しに掛かったのだ。
 秋に十九になる姉は、彼らに対し、弟は自分が責任を持って立派に成人させると啖呵を切った。
 七つまで父と二人きりだった由之は、自分の身の回りのことは何でも出来た。ただ、姉が寂しくないようにと、部活にも入らず真っ直ぐ家に帰る毎日だった。
「姉さん、僕のことは気にしなくていいんだよ。それだけ美人ならデートの相手に困らないだろう」
 そうねと鮮やかに笑った姉は、一瞬黙った後で、由之の顔を見つめてこう言った。
 ――デートしたい相手なんかいないわ――
 部活をしない由之が代わり夢中になったのは、父親が教えてくれたギターと歌だった。父の形見のギターで自己流で曲を作り始め、口に出せない想いをメロディに乗せた。
 そのうち、インターネットで曲を発表するようになった。
 ラブソングのヒロインがいつも同じ女性だと指摘されたのは、そんな暮らしを始めて半年ほど過ぎた時だった。それが誰かも由之にはわかっていた。
 だけど、自分だけの想いだと信じていた。
 ――あの夜までは。


 今から考えれば、姉は……翔子は覚悟を決めていたのだろう。
 一年前の十月二十三日、姉の十九歳の誕生日の夜だった。
 二人で台所に立って、ささやかだけどちょっぴり豪華な夕食を作った。由之は学校帰りに流行りのケーキ屋に寄って、姉が好きそうなケーキを三つ買った。安物だけどよく冷えた白ワインを二人で一本空けた。
 そして。
「なんかさ、十九の誕生日に銀のリングを恋人に贈られたら幸せになれるって。姉さん、僕のせいで恋人の一人も出来なかったものね」
 そう言って由之が手渡したのは、インターネットで求めた銀のファッションリングだった。細いリングに銀メッキを施した安物だが、文字が刻めるのでちょっとした人気を呼んでいた。実際、指環の値段の八割は文字を刻む技術料だろう。
 蛍光灯の灯りで<Shoko>の五文字を読みながら、翔子は嬉しそうに笑った。
「ありがとう。一生大切にするわ」
「ちゃんとした恋人が出来たら、抽出しの隅に仕舞われてそのうちなくしてしまうさ」
「そんなことないわ」
 静かだが語気の強さに由之は驚いて、姉の顔を見た。
 今にも泣き出しそうな真剣な顔で、翔子は言った。
「由之がお小遣いを貯めて贈ってくれたんだもの、絶対なくしたりしない」
「大げさな。……姉さん、酔ってるんだよ。二人でワイン一本空にしちゃったものね。あと片付けは明日にして、もう寝よう」
 由之は姉の肩を抱くように立たせると、寝室へと連れて行った。翔子の右手の薬指には誂えたようにぴったりと、由之が贈った銀のリングが填められている。
 酔っていたのは由之も同じだった。二人はもつれ合うようにベッドに倒れこんだ。
 翔子の双眸が静かだが激しさを秘めて、由之を射た。
 唇を重ねたのは由之が先だったかもしれない。
 でも、その後のことは?
 二人のどちらが悪いとは言えなかった。
 どうせ、血の繋がりなどないのだ。
 お互いに口にはしないが、そう思っていた。
 それに。
 由之は腕の中抱き締めた存在が、誰よりも愛しく、自分の命よりも大切だと思った。
 そして、翔子も同じと信じた。
 翌朝、姉のベッドで目覚めた由之は隣に一人で眠っていることに気がつくと、慌てて飛び起きた。
 主のいない部屋が妙に片付き過ぎている気がした。
「姉さん?」
 居間にも人影はなかった。自分の部屋から浴室、家中を探し回っても姉の姿はなかった。
 台所には昨夜そのままで眠った食器類は洗って仕舞われ、朝食の支度が終わっていた。食卓テーブルには一人分の食器と、一枚のメモ紙が置いてあった。
 メモ紙には見慣れた姉の綺麗な文字が並んでいた。
「嘘だろう」
 何度繰り返して読んでも、内容は変らなかった。
 ――高校時代の友人の誘いでニューヨークに行きます。成人するまで傍にいられずに本当にごめんなさい。私の机の一番上の抽出しに通帳とキャッシュカードが入っています。暗証番号はパパとママの結婚記念日、覚えていますね。
 由之の顔を見ると決心が鈍るので、何も言わずに行きます。
 身体に気をつけてね。

翔子
 追伸.昨夜の出来事は忘れなさい。私も忘れます。――


 コーヒーカップを宙に浮かせたまま、凍りついている由之の手から、それをそっと取り上げながら、神沢は優しく言った。
「もちろん、お前だって、突然のことだ。すぐに返事を出すのは無理だろう。時間は十分にある。じっくり考えればいい」
「あんたは他人事だから」
 三十二歳の敏腕プロデューサーを睨みつけて、由之は言った。
「そもそも、姉さんは何だって、あんたにそんな大事なことを託したんだ」
 特定の恋人を作らない独身貴族のこの男は、複数の女性と浮名を流している。その一人でしかないはずの翔子に、どうしてそこまで肩入れするのだろう。
 神沢俊広は、自分のコーヒーを一息に飲み干した。空になったカップを静かにテーブルに戻すと、じっと目の前の少年を見つめる。
 それから、おもむろに口を開いた。
「『運命』かな」
 それから、空のカップを持って立ち上がる。
「コーヒーのお代わりは?」
 由之は首を横に振った。
 自分の分だけ注いで、ソファーに戻った神沢は、新しい煙草に火を付けた。