第一章 もう少し遠く
地上にあがる階段を登って、透明なドアを押し開けると、彼は眩しさに目を細めた。
夏と呼ぶにはまだ早い六月の初め。土曜日なので、駅前を行き交う人の数は多いが、それでもごった返すとまでは言えない。
南に十メートルほど足を進め、彼はゆっくりと振り返った。そのまま視線を斜め上に向けると駅舎ビルの正面の壁に大きな時計盤だ。針は上下に真っ直ぐに伸びる手前の時刻を指している。時計がよく見える位置まで移動して、おもむろに周囲を見回した。約束の時刻より五分少々早いせいか、待人はまだ来ていないようだ。
襟元に手をやり、ネクタイの結び目を点検する。本当ならネクタイを弛めたい気分だが、これから仕事相手に逢うのだから仕方がない。まして相手はまだ中学の三年で、しかも美少女なのだ。何かと物騒な昨今、援助交際などに間違われるのは勘弁して欲しい。これでも一応は人気商売で、多少なりとも顔が売れているという自負はある。二枚目とは言えなくとも、スーツが似合う穏やかな紳士のイメージは崩したくない。もっとも平凡な顔立ちのせいで人込みにいても気づく人がいないのも、いいのか悪いのか……。
大きく深呼吸して、彼は駅の正面ドアに視線を向けた。
正午を回り、本格的な夏への予行演習とばかりに、太陽はますますエンジン全開で照りつけている。彼と同じように陽射しの強さに戸惑うように右手を翳し、それから誰かを捜すように視線をさまよわせている少女がいた。
白いセーラー服が陽射しにとけそうだ。濃紺の二本線が襟にアクセントを添える。胸元でゆったりと結んだ赤いリボン。今時希少価値である膝を完全に隠した襟のラインと同色で揃えた濃紺の襞スカート、そして白いハイソックスに黒の革靴。その制服から待人と気づいた。
大きくなってから逢うのは初めてだが、迷子になったような不安な顔つきは、母親そっくりだ。けして、派手な顔立ちの美女ではないのだが、気障を承知で言えば、都会に天使が舞い降りてきた清らかさがある。そこだけ空気が澄んでいる気がした。
彼は早足で少女に近づいた。
「莉奈ちゃん?」
名を呼ばれると、少女は安堵したように淡い笑みを零した。
「矢嶋さんですか?」
彼は、少女の正面に立ってこっくりと頷いた。噂では余り人見知りしないと聞いてはいたが、やはり彼女にとっては初対面のそれも大人の男と、たった一人での待ち合わせは負担が大きかったようだ。
「はじめまして、北原莉奈です」
少女はそう言ってぺこりと頭を下げた。
「矢嶋吟次です。君は覚えてないだろうけど、小さい頃レコーディングスタジオで逢ったことがあるよ」
「ごめんなさい。よく言われるんです」
どういう訳か、両親の知り合いにミュージシャンが多いせいで、莉奈は物心つく前からレコーディングスタジオを遊び場にして育っている。一番連れ回していた神沢俊広が亡くなってから、足は遠ざかっていたが、莉奈を憶えているミュージシャンは多い。かくいう矢嶋もその一人だ。
「すみません、事務所に電話を入れていいですか」
そう断ると莉奈は首から下げたPHSの短縮ボタンを押した。
「莉奈です。今矢嶋さんに逢えました」
どうやら、矢嶋に無事に逢えたことを報告しているようだ。ここから先は彼と行動するにしろ、付き人が同行せずにアイドル歌手が仕事に赴くなんて、普通はありえない。もっとも世界のKITAHARAの令嬢でもある莉奈だ。目立たぬようにボディーガードの一個小隊くらいついているのだろうけれど。
「はい」
じっとその様子を見ていた矢嶋は、不意に莉奈が首からPHSを外し、それを差し出されて驚いた。
「社長がお話したいって」
「ああ」
受話器を耳に当てると、穏やかな男の声が矢嶋に語りかけた。
『栗林です。莉奈を頼むね。あとは矢嶋さんに任せるから』
「責任持ってお預かりします」
矢嶋は神妙に答えた。念の入ったことで、莉奈の言葉だけじゃなく、本当に矢嶋本人か確認したようだ。この分だと受話器を通して声紋照合までしているかもしれない。最近は作曲家がメインの仕事だが、そもそも矢嶋は別の名前でソロボーカリストをしている。声紋照合など容易だろう。本当なら矢嶋から連絡を入れるべきだったのだから、文句を言う筋合いでもないが。
『そうそう、イベントに間に合うよう、莉奈の付き人に衣装を持たせるからね』
そう栗林は明るい口調で告げ、「はい」と神妙に返事をする相手の心情など意に介さずに通話を切った。矢嶋は深く息をつくと、PHSを莉奈に返した。
「じゃあ、行こうか。それともまだ時間少し早いからどこかで昼飯を調達する? ごちそうするよ」
そう言いつつも、北原のお嬢さまにどんな昼飯を奢れば『ご馳走』したことになるのか、と埒もないことを矢嶋は考えた。
「あの、母が矢嶋さんと食べなさいって、これを」と、莉奈は両手に持った籐のバスケットを軽く持ち上げた。
「……ひょっとして、優子さんの手作り?」
矢嶋は正直に嬉しげな表情になった。
「母をご存じですか?」
莉奈の母は小説家の天野優といい、少女小説を書く傍らで、神沢俊広に詞を提供していた。趣味は料理で小説に煮詰まると、莉奈や故神沢俊広の事務所の社長である、栗林が経営する喫茶店のカウンターに入り込み料理をしているなどという噂がある。
「昔、僕のライブに遊びに来てくれたことがあってね。でも、残念ながら手料理にありついたことはないなあ」
「矢嶋さんも、ママのファンなのね」
敬語で話していた莉奈が年相応に拗ねた顔を見せるのを、矢嶋は好ましく眺めた。
「でも莉奈ちゃんのファンでもあるよ。だからこうして逢いに来た」
矢嶋は前もって栗林が送ってくれた切符を上着の内懐から取り出した。土曜の午後とはいえ、指定席の座席を確保するほどのこともないが、矢嶋としても莉奈と二人きり登別までの旅を楽しむのは願ってもないことだ。
「わざわざイベントに割り込ませて?」
登別温泉でのイベントは本来、矢嶋吟次こと、沢村タカキの極秘ソロライブとして組まれていた。こんな地方の温泉だ。市民ホールならともかく普通、温泉ホテルなんて、演歌歌手のドサ回りでしか公演しないものだ。ただ、ホテルのオーナーが古くからの沢村ファンで、是非自分のホテルでライブをして欲しいと懇願し、アコースティックな簡単なライブで、ほんのお遊び程度ならという条件を呑ませた上で、承諾した。
ただそれだけなら矢嶋にはほとんどメリットはない。一応、極秘ライブとしてファンクラブだけでチケットを捌き、イベントとして体裁を整えたにしろ、わざわざ登別くんだりまで行く意味は余りない。
矢嶋自身はそれでも良かったのだが、プロデュースと作詞と事務所の社長までしている沢村つた子が、承知しなかった。つまりは、今話題の北原莉奈のプロデュースをするきっかけだけでも取ってこいというのだ。
莉奈は札幌での活動が中心で、学業優先という建て前ではあるが、TV出演がほとんどないため、上京することがほとんどない。まあ、KITAHARA出資で、札幌に世界有数のレコーディング器材を備えたスタジオが建ったのでレコーディングのためにわざわざ上京する必要がなくなったせいもある。
ただ矢嶋自身としても社長命令ではなく、莉奈のプロデュースはしてみたかった。莉奈のバックにKITAHRAがあるから、その伝が欲しいなどという打算はない。仕事を選べるほどの儲けはないが、気に入らないタレントをわざわざプロデュースせずとも喰いっぱぐれはしない。『北原莉奈』とのプロジェクトは、KITAHARAが全面バックアップし、放っておいても儲かるなどというおいしい仕事などにはならない。北原敬一は、作家である妻のバックアップもあくまでも私人の立場に徹し、KITAHARAの威光を振りかざすことなどなかったし、自分には家族が一生生活に困らないだけの儲けはあるから、それ以外の援助は一切しないと明言している。
もっともあの噂が本当ならば、不義を犯した妻とそれで生まれた娘のために生活費以外の無駄な金は払わないと言っているようなものだ。
――莉奈が神沢俊広の娘ならば。
「わざわざじゃないさ」
並んで駅に入りながら矢嶋は言った。
「でも莉奈に関わったからって、KITAHARAの援助は受けられないし」
デビュー以来、北原莉奈は故・神沢俊広の遺産である楽曲しか歌わず、楽曲提供を申し出た、多くの作曲家・作詞家の誘いを断り続けている。弱小事務所だから、法定額の印税しか払えないと、社長の栗林が全て断っているらしい。神沢と親交があり、姉のつた子と二人で事務所を立てなければ、オフィス栗林に所属したかもしれない矢嶋だから、とりあえず莉奈を落とせたら好きにしろというお墨付きをもらえたのだ。もっともこの少女を口説くことが、一番大変かもしれないのだが。
「別に北原敬一に歌わせようって言うわけじゃないよ。もっとも僕としては、君のパパが遊びで歌ったのも聴いているから、プロデューサーとしての食指は動くけどね」
「クリスティでのライブに来たことあるんですか?」
毎年敬一の誕生日の前日であるエープリルフールと真夏のクリスマスである七月二十五日に恒例のイベントがある。オフィス栗林のアーティストが一同に介して、ファンを一切シャットアウトしての極秘ライブ……といっても、仲間内でのギグなので、プログラムがあるわけでもなく、成り行き任せのドンチャンパーティだ。七月二十五日はともかく、四月一日のライブは、敬一の誕生会でもあるので、主役の歌も公開される。
「いや。神沢に誘われたことはあるけど、参加したことはないよ。僕が持ってるのは《素敵にNIGHT&DAY》のCD」
莉奈が生まれる前に敬一が冗談で出した楽曲だ。もちろん北原敬一の名前は一切クレジットしていない。覆面バンドとしてリリースしたら何故かヒットチャートにあがってしまったという曰く付きのCDだ。廃版となった今では手に入れるのは難しいだろうが、リアルタイムで手に入れたなら別だ。
「パパの声、シュンちゃんと似てるから、神沢俊広が歌い方を変えてシークレットで出したと思われてるのに」
「確かに似ているけどね。一応これでもプロの歌い手なんだ。神沢の声じゃないくらいはわかるよ。君のパパだとわかったのは、お宅の社長に訊いたからさ」
「そうですか」
莉奈は少しつまらなそうに告げた。
「まあ、難しい話はいい。音楽にね、理屈なんかいらないだろう?」
「でも、『お仕事』って難しい話が絡むものじゃないんですか?」
中学三年にもなれば、それくらいはわかるだろうと、矢嶋も理解はしている。だが、少女の眼差しを受け止めたのは、口許に浮かべた笑みだけだった。
☆
「……これ、何ですか?」
指定席の窓側の席に腰を下ろし、MDを聴きながら矢嶋を待っていた莉奈が、カチカチに凍った冬みかんを見つめて訊いた。
「え? 知らない?」
優子さんの手作りのサンドイッチはご馳走になるとしても、飲み物くらいは奢らせてくれと、莉奈を残してキヨスクに行った矢嶋は、缶コーヒーとウーロン茶と冷凍みかんを買ってきたのだった。
こっくりと頷く少女に、逆に驚いた彼だ。でも、確かに矢嶋自身も久しぶりに見かけて嬉しくなって思わず買ったのだ。
「まあ、とりあえずこれはデザート。みかん食べられるよね」
嬉しそうに頷いた莉奈は、バスケットからおしぼりを出して矢嶋に渡した。
「矢嶋さんは好き嫌いあります?」
「ないわけじゃないけど、大概のものは食べるよ。ましてや、優子さんの手作りなら残したら罰が当たる」
莉奈はそれには答えず、MDプレイヤーを鞄にしまおうとした。
「何を聴いてたの?」
「えーと」
莉奈は一瞬悩んだが、そのままMDプレイヤーを矢嶋に渡した。
「ママが編集したMDなんで、誰の曲かはわかんないんです。でも最近ずっとこのMDにはまってて」
「聴いていいの?」
莉奈が頷くのを確かめると、矢嶋は耳掛け式のヘッドフォンをつけ、再生を始めた。ワンフレーズ聴いただけでギョッとして、全ての曲をサーチし確認する。
「優子さんに誰の曲かを、訊かなかったの?」
「誰でも良かったの。いい曲だったから、それで満足だったし」
そう答えた後で、莉奈は矢嶋に訊き返した。
「矢嶋さんは、誰が歌っているかわかるんですか」
「……まあね。それで莉奈ちゃんはどの曲が好き? 曲名はちゃんと入ってるようだけど」
「《Only Yesterday》と《Harddays of Love》が好き」
矢嶋は何か思案していたが、ほどなく明るい顔で莉奈を見つめて、そしてこう言った。
「とりあえず食べようか」
MDプレイヤーを受け取った莉奈はそれを鞄にしまい、それからバスケットの蓋を開けてそのまま矢嶋に差し出した。優子特製のアメリカンクラブサンドを矢嶋がつまむのを確認すると、自分は冷凍みかんを向き始める。
冷凍みかんが、完熟みかんを単に凍らせた代物だと知って、莉奈は感動を新たにしたようだった。小さな手で冷たいみかんを口に運んでいる。その手がふと止まった。
「矢嶋さんがどんな歌をうたうのか、私、知ってなきゃならないんですよね?」
矢嶋は一瞬、何と答えていいのかわからなかった。ライブのゲストが、共演までする相手の楽曲を全く知らずに仕事をするなど、ほとんど非常識と言える。まして、莉奈は可愛いだけのアイドルではなく、現代の『歌姫』という評判の、ちゃんと歌をうたえる歌手のはずだ。もちろん、あの栗林貴志がそんな歌い手を育てるわけがないのだが……。
だがある意味、これは面白いことになるだろう。
矢嶋はあるプランを頭に描きながら、こう訊いてみた。
「莉奈ちゃん、初見でも楽譜見て歌えるかな。まさか楽譜を読めないなんてことはないだろうけど」
実際バンドをやっていても楽譜読めない人間がいるし、プロでもそういうことがままある。けれど矢嶋には莉奈がそうだとは思えなかった。何しろ、完璧なバンドスコアを五線紙に起こすの趣味としていた神沢俊広の愛弟子なのだから。
「リハーサルの時間は? 一回通しただけでいきなり本番とか言われても困るけど」
「もちろん、リハはちゃんと時間とるよ。ただ僕のバンドのリハーサルをしている間に楽譜を見てもらえるだけでも違うから」
「その方が私も助かります」
プロの歌手の顔で莉奈は笑った。
「なら十分。さてと、僕は一件電話を入れなきゃならなんだ。ついでに煙草吸ってくるから」
「え、煙草なら」
座席はちゃんと喫煙席を指定してあった。ヘビースモーカーの矢嶋を気づかってのことだろうけど、莉奈の前で吸うのは何となく気が引けた。
「いいんだ」
矢嶋が携帯での打合せを終え、そのままデッキで煙草を一本吸ってから席に戻ると、莉奈は車窓から流れゆく景色を眺めながらMDに耳を傾けていた。矢嶋に気づくとほっとしたようににこっと笑う。それほど長い時間放っておいたとも思っていなかったが、寂しい想いをさせたのかと気づき、矢嶋は不思議な愛しさを胸に抱いた。
☆
駅からタクシーで海辺に飛ばし二十分ほどのところに、そのホテルは建っていた。予め用意されていた部屋に通された莉奈に、そこで休んでいるよう告げたまま矢嶋が戻ってきたのはその三十分ほど後だった。
制服のままベッドに横たわり、そのまますっかり眠っている少女を見つけ、矢嶋は我知らず動揺してしまった。妙齢と言うにはまだ年が足りないし、こうしていると実年齢よりもかなり幼く見える。ただその分、可愛らしさが増しているのがなんとも始末に負えない。矢嶋自身にはそんな趣味は全くないのに、幼い娘をどうこうしたがる男達の心情が、ほんの一瞬とはいえわかってしまったのだ。
少女のために用意した茶封筒をTVの上に置き、大きく深呼吸を一つして、矢嶋は莉奈に声をかけた。
「莉奈ちゃん、起きて」
少女はぐっすり眠り込んでいる。いっそこのまま寝かせておこうと思わなくもないのだが、バンドのリハーサルが迫っている。初見でも歌えないと莉奈は言わなかったが、莉奈の才能に頼る訳にも行かない。それに北原莉奈がプロの歌手である以上、ライブ前に出来るだけ準備はしたいだろう。
矢嶋は覚悟を決めて、莉奈の体に手を伸ばした。
「莉奈ちゃん、起きて!」
「……矢嶋さん?」
莉奈は目を覚ますと、安堵して気が緩んだのかそのまま床に座り込んだ矢嶋を見た。
「ひょっとして、莉奈、寝てた?」
「ひょっとしなくてもぐっすり寝てたよ」
床に座り込んだまま矢嶋は答えた。
「もしかして、もう本番始まるの?」
その様子に最悪の想像をしたのか、ベッドに身を起こし恐る恐る訊く少女に、矢嶋はやっと調子を取り戻した。
「いや、これからバンドリハーサルが始まるところ。でね、莉奈ちゃんに歌ってもらいたい僕の曲を、手書きで悪いけど楽譜を書いてきたんだ。一応バンドアレンジも終わっているから、原曲とは違うイメージで歌ってもらえると思うけど」
「でも、この部屋で歌ったらまずいよね?」
「そうだね。万が一部屋の外に声が漏れたら困るし」
矢嶋はTVの上に置いておいた茶封筒を莉奈に手渡した。
「なんでも、ホールに置いてある以外に、倉庫にもう一台アップライトだけどピアノがあるんだって。倉庫は本館と別棟になってるし、そこでなら歌っても差し支えないと許可もらってきたよ。ともかく案内するから」
矢嶋はそう結ぶと、莉奈の返事も待たずにドアに向かった。