第二章 夏色の彼方


 倉庫の窓を開くとそこは海だった。札幌で生まれ育った莉奈は、普段海を見る機会はあまりない。とりあえず小樽に別荘があるので夏休みにそこで過ごすのが毎年の習慣になっているので、海を見たのが初めてではない。だが太平洋を見るのは、小学校の修学旅行で洞爺湖に行った時についでに回った噴火湾以来だ。晴れているせいか、小樽の海よりも暖かに見える。この海の向こうに大好きなパパがいるからかも知れない。世間でどう言われようと莉奈は父を慕っている。もちろん、シュンちゃん――神沢俊広とは全く違う意味で。
 一頻り潮の匂いのする空気を堪能すると、莉奈は問題のアップライトピアノの蓋を開けた。矢嶋にもどうしてここにアップライトのピアノがあるのか、詳しいことはわからないようだった。ただホールのピアノと違い、普段誰も弾かないから、かなり調律が狂っている可能性があるとだけ言うと、ピアノに触れもしないでバンドとのリハーサルに行ってしまった。まあ、矢嶋がピアノを弾けたとしても、道具もなしに調律が出来るわけでもない。
 鍵盤の上に敷いてある赤い布を取り払い、ピアノの上に置くと、莉奈はピアノの椅子に腰を下ろした。年代ものなのか白鍵が少し黄ばんでいる。軽く和音を鳴らしてみると、確かに音に狂いがある。客の前で弾くならば支障が出るだろうけれど、練習ならまあ問題がないだろう。一応全部の鍵を鳴らしてみたが出ない音はない。強く叩けば弦を切ってしまうだろうし、長時間弾いてもやはり弦が切れそうな危うさがある。もっともホテル側の許可は取っているから、故意ではなくピアノの弦が切れたとしても話のつけようはある。どの道、莉奈はピアノ演奏が目的なのではなく、もらった楽譜の曲を歌うためのイメージをつかみたいだけだった。
 音符通りにメロディを弾くと少し調子外れの曲になった。構わずサビまで通し、やっと矢嶋の曲に聞き覚えがあると気がついた。莉奈がまだ幼稚園くらいの頃、母親の優子が気まぐれにピアノを弾いて歌っていた曲だ。優子が今の莉奈くらいの頃に流行った、あるアイドル歌手のサードシングルだ。彼女のデビュー後初めてのミリオンヒット曲となり、それがきっかけでその歌手はトップアイドルとなった。
 知っている曲となれば、もう不安はない。まして今まですっかり忘れていたとはいえ、莉奈の好きな曲である。なにしろママが歌ってくれた曲なのだから。
「莉奈」
 夢中で歌っていた莉奈は、だしぬけに倉庫の窓から名を呼ばれ振り返った。
「匠君!」
 慌てて窓辺に寄ると、西野匠は莉奈に衣装ケースを手渡した。
「ずいぶんとキーが狂ったピアノだな。とても《Second Love》には聴こえない」
 無口な付き人は無愛想にそう言った。
「……わかるんだ。ピアノの音が狂ってるの」
 西野匠は、本来KCS(北原セレモニーサービス)の葬祭部に所属している一級葬祭士だ。どういう理由かは当人にもわからないが、KITAHARAの社長である北原敬一自ら、北原莉奈の付き人を依頼し、今に至っている。実は匠が音大付属高校のピアノ科に在席していたのだと、最近莉奈のバックでサックスを弾くようになった女性に聞いたばかりだ。学内のピアノコンクールで常に上位で将来はピアニストになるものだと誰もが疑わなかったのだと、彼女は莉奈に話してくれた。莉奈は匠がピアノを弾けることすら全く知らなかった。今彼がピアノを弾かない理由も。
 そして今、少なくともこのピアノの音が狂っているのを即時に判断できる程度の耳を匠が持っていると莉奈は知った。
 だが匠が次に口にしたのはこんな台詞だった。
「倉庫のドアまで回るから、すぐ着替えろ」
 莉奈が頷くのも待たず背を向けると、とっとと歩き去る。腕時計に目を落とすと、莉奈を交えてのリハーサルの時刻が迫っていた。


 矢嶋のピアノ伴奏に合わせて通しで二度、フレーズ毎の主にPAとの微調整を終えると、拍子抜けするほど簡単に、莉奈のリハーサルは終わった。そもそも彼のソロライブにゲストとして登場した北原莉奈が、矢嶋が他人に提供したヒット曲を歌うという構成だ。全体でも本編で1時間弱、アンコールを含めても1時間半を越えることのないステージになる予定だ。
「思った以上に伸びやかな声なんだね」というのが、ともかくも通して一度聴かせて欲しいと、倉庫に置いてあったのよりも格段に音が安定しているグランドピアノに陣取った矢嶋が、莉奈に好きに歌わせた感想だった。
「昔ね、クリスティのピアノで、優子さんに同じ曲を歌ってもらったことがあるんだけど。酔いに任せた遊びとしてね」
「自分で弾いてみて初めて気がついたんだけど、まだ私が幼稚園の頃にママが家のマンションのピアノを弾いて歌ってくれた曲なんです」
「うん。僕の書いた曲の中でも、すごく好きな歌だって言ってたよ。莉奈ちゃんはどう? この歌が好きかな?」
 莉奈はにっこりと笑い頷いてみせた。
 それに笑顔で返して、昔を懐かしむように矢嶋は言った。
「でも、ママの声と違うね。同じようにどちらかといえば高い声だけど、全く似ていない。よく言われない?」
「そう言われたことはないです。でもママの親しい友達から電話が来ても、ママと間違われたことはないな」
「そうだね。君は君だから」
 矢嶋はそう言って、莉奈の目をじっと見つめた。
「今回のライブだけどね。莉奈ちゃんに、ただ僕の昔の曲を歌って欲しいだけじゃないんだ。君と仲良くなるための単なる切っ掛けだから。このライブを終えて、僕自身も、少しでいいから気に入ってくれればいい。そう、プロデューサーの矢嶋吟次だけじゃなく、出来れば歌手の沢村タカキとしてもね。まあ、そっちの方は少し自信があるけどね」
 謎めいた笑みを零すと矢嶋は着替えてくると告げ、一旦部屋に戻った。
 ライブの観客はそれぞれ時間まで食事などをして過ごしているし、矢嶋こと沢村タカキのバックバンドのメンバーも、ライブの開始時間まで好きに過ごすという。莉奈とは軽く顔合わせしただけだ。
 部屋に戻ろうと人気のないホールの出口に向かった時、見馴れた人影がこちらに歩いてくるのに莉奈は気がついた。匠ではない。無愛想な付き人は莉奈の制服をつめた衣装ケースをホテルの部屋に置きに行った後、一度莉奈のリハに顔を出したきり、どこに行ったのか戻って来ない。ひょっとして衣装を届けたきりで札幌に帰ったのかもしれない。今回は莉奈の事務所の社長である栗林から、北原莉奈を一泊二日のスケジュールで矢嶋が預かったことになっている。実際問題付き人である西野匠の仕事は、莉奈の着替えとステージ衣装を届けることだけと言ってしまえる。
「なんだ、大事な姫を放ってタカキは雲隠れか」
「拓ちゃん。なんでここにいるの?」
 今日は莉奈のバックとしての仕事がなく、別に登別に来る必要がないはずの相澤拓哉が訊いた。
「その上、お供の葬儀屋の兄ちゃんまでいないのか」
「矢嶋さんは着替えをしに部屋に戻った。匠君はどこにいるか全くわかんない。札幌に帰ったんじゃない?」
 かなり拗ねた顔でそう答える莉奈に、相澤はあっさり答えた。
「いや、あいつの車、ホテルの駐車場にあったから、それはないだろう」
 海を背に建っているホテルだ。単に散歩にでも行ったのかもしれない、と莉奈は思った。単に匠がのんびりと温泉に漬かっているのがイメージできなかっただけだが。
 ――目の前のオジさんと違って。
「で、拓ちゃんはなんで来たの?」
「温泉に入りに。ここの温泉は美容にいいそうだ。莉奈もライブが終わったらのんびりつかるといい。美人になる」
 そんな戯言を口にしながら、まるで自分の指定席とでも言うような風情でピアノに向かうと、相澤は気まぐれなタッチで曲を奏で始めた。のみならず、歌まで唄い始める。どこかで聴いたことがある曲のような気がするけれど、思い出せない。少なくとも相澤自身の曲ではないことは確かだ。莉奈に対しては音楽プロデューサーとしての顔を持っているが、作詞家として以外にもこの業界では名の知れたキーボーディストであり、『相澤拓哉』としてソロアーティスト活動をしている彼だから、別にピアノを弾いて唄うこと自体珍しくもない。ただ大抵は自分の曲か、気が向くと今はいない神沢俊広の楽曲を歌うくらいだ。
 莉奈は神沢俊広の楽曲はもちろん、相澤の楽曲は全部、覚えている。たまに洋楽を歌うこともあるが、他人が書いたJ・POPSを歌うことはほとんどない。もっとも男のすることだから、気が向いたからと言ってのけるだろうけど。
 何の曲かと考え込んでいる莉奈に、ワンコーラスで歌うとあとはピアノでメロディ繰り返し弾きながら、相澤は悪戯っぽく笑う。
「それじゃ《Second Love》行ってみるか」
 矢嶋が置き去りにした楽譜を見遣り、莉奈の返事を待たずに弾き始めた。本能的に莉奈は歌い出す。物心ついた時からの習慣だ。なにもピアノを弾いて少女を歌わせたのは神沢俊広だけじゃない。相澤もその一人だ。
 相澤がアドリブで入れたハモーニーつきで《Second Love》をフルコーラス歌い終えた時、拍手がホールに鳴り響いた。着替えを終えた矢嶋こと沢村タカキが、ステージ衣装のせいか、さっきよりもほんの少しハンサム度がました笑顔で手を叩いている。
「拓哉、久しぶりだね。どうだい? 僕の代わりにステージに出ないか?」
「やだよ。俺はオフで温泉に入りに来たんだ」
「温泉?」
 人を食った答えに矢嶋が苦笑いする。
「そのつもりだったら、どういうわけだか、古馴染みが俺の歌姫をさらってライブをするという。温泉を後回しに見るっきゃないだろう」
「参加せずに、高みの見物かい?」
「オフに仕事するほど物好きじゃないさ」
 そう言いながら相澤はピアノの席を沢村に譲った。少し遅れてやってきたバンドのメンバーが相澤に気づき挨拶をする。
「ところで、姫には一等席を用意してくれてるんだろうな」
「急に増えたお供の席まで用意はないよ」
 ピアノの椅子から軽口を飛ばす沢村に片手をあげると、相澤は莉奈を連れて客席に向かった。莉奈は出番まで、客に混じってライブを楽しむ手筈になっている。
「なんだ、あいつちゃっかり席にいるじゃないか」
 莉奈のために確保してもらったテーブル席へとホテルのスタッフに案内されて行ってみると、先に席についている西野匠が、いつものポーカーフェイスでこちらを見つめた。
「あんまりふらふらするな。莉奈の機嫌が悪くなる」
 半ば本気で睨む相澤に気にした様子もみせず、匠は新しい煙草に火をつけた。
「帰っちゃったのかと思った」
 少女が拗ねた顔で言うのに、紫煙をふっと吐き出し、ぶっきら棒に答える。
「帰りは俺と車で戻ることになっている」
「……そうなんだ」
 莉奈の返事に相澤が咥えた煙草のフィルターを噛み潰す。それをいまいましげに灰皿に放ると、頼りにならない付き人を睨つける。
「莉奈は匠君が衣装を持ってくるとしか聞いてない」
「どうやって帰るつもりだったんだ。沢村だって、帰りはスタッフと