終章 I WILL……
待ち侘びたように鳴らされる拍手の中、一曲目のイントロが始まった。
途端に莉奈の表情が変わった。
まるで幽霊にでもあったように呆然としている莉奈に、相澤のみならず匠までもが何事かと少女を見る。
「莉奈?」
「矢嶋さんの曲だったんだ」
ここ半月ほどずっと聴いていたMD。歌手の名前など気にしてもいなかったが、耳に馴染んだ歌声がステージから聴こえてくる。
しかもどの曲が好きと訊かれて答えた二曲のうち《Harddays of Love》を演奏している。
後でステージにあげやすいようにか、ステージの真ん前のテーブル席に莉奈は座っている。目の前でサビを高らかに歌い上げる沢村がしてやったりという顔をしているのは、けして少女の気のせいじゃないだろう。
そして二曲目は、莉奈のMDに入っている曲ではなかった。けれど何故か思いっきり渋い顔でステージを見ているプロデューサーが、ついさっきピアノを弾きながら口ずさんでいた歌だった。
「これもそうなんだ」
《Halfway of the Dream》が終わると、三曲目が《Only Yesterday》を沢村は歌う。まるで莉奈のリクエストに答えるようにセットリストが組まれていた。
三曲を立て続けに歌い終えた後で、沢村は何故か一仕事終えた顔でマイク片手に立ち上がった。
「一曲目が《Harddays of Love》そして《Halfway of the Dream》、《Only Yesterday》とまずは三曲聴いてもらいました。こんばんは、沢村タカキです。今日はここのホテルのオーナーに是非にとせがまれたので、のこのことやってきたんですが、手土産もなしにはちょいと失礼かと思い、とびきりの美少女を連れてきました。早速、呼んでみたいと思います。北原莉奈ちゃん」
名を呼ばれ、莉奈は反射的に立ち上がる。引き寄せるようにステージへと近づくと沢村は、まずは右手のマイクを手渡した。素直に受け取った少女を空いた両手で抱き上げ、そのままステージに立たせる。とんでもない出来事に客席が一瞬静まり返った。
そんな状況などまったく気にせず、沢村は莉奈に話し掛けた。
「どう、莉奈ちゃん、僕の曲気に入ってくれたかな」
「莉奈のリクエストを一曲目から歌ってくれるなんて、思わなかったです」
少女にしては上出来な返事に、テーブル席に残されたプロデューサーがほっと息をつく。
「じゃあ今度は僕からリクエストをしてもいいかな。《あなたに逢いたい》を歌って欲しいんだけど」
「わかりました。でも一人じゃ不安なので……相澤さん!」
事前の打合せには全くない注文だったが、莉奈に躊躇などなかった。ただしその曲の製作責任者で、莉奈のバックバンドのリーダーある男を巻き込んだ。
よもやこんな展開になるなんて思っていなかった相澤だが、煙草を灰皿に押しつけると、すっと立ち上がる。そのまま、ステージに飛び乗った。
いつもの快活な笑顔でステージ上で一礼すると、莉奈からマイクを取り上げ話し始める。
「突然の指名にかなり戸惑っています。その上リクエスト曲が、誰かに歌わせるつもりで作ったけれど、その当時……タカキの《Halfway of the Dream》が売れる少し前の頃だから、はいそこのお客様指を折って年を数えない……ともかくその時には誰も歌ってくれずに、でも自分ではかなり気に入っていた楽曲なんで、YUCOのセカンドアルバムに入れて。そうしたら、知らないうちに莉奈が古いそのアルバムを引っ張り出して歌ってるんで――やっと最初の目論見通りになるかと、期待してるんですが」
「拓哉にそんな野望があったなんて、僕は全く知らないんだけど、拓哉の曲の中で一番、今の莉奈ちゃんに歌わせたいと思った歌です。僕は客席で見てるから、あとよろしく」
そう言い残し沢村はステージから去った。
男達の思惑など、まるで知らん顔の莉奈だったが、拓哉が表情を改めて、ピアノを奏で始めると、あどけない表情を消した。
おもいがけない飛び入りに期待を向ける沢村ファンの視線と拍手の中、客席を、いつものポーカーフェイスで煙草を咥えている匠に視線を定め、そして少女は歌い出した。
★
逢うたびに 違う顔を見せるあなた
まるで MOVIESTARのよう
役柄を使い分けるの
今日のあなたは 遠い旅人みたいよ
そっと 横顔向けて 瞳は
違う空を見てるみたいね
万華鏡の中 迷い込んだ気分
そうよ あなたに 恋してから
紫色の夕暮れ 灯りはじめる街路灯(あかり)を見つめ
送るよって あなたは言うの
帰りたくないと もし言ったら
あなたはどんな表情(かお)するかしら
あなたはいつも 何気ない振りして
魔法の 呪文をかけるわ
私の心の色を変えるの
言葉が 想いが ほら届かずに
鏡のあなた 悲しく見てる
誰も知らないその顔 都会の夜にそっと隠し
微笑みだけを あなたはくれる
誰も知らないその声 何を囁くの
あなたはどんな素顔(かお)をしていますか
私に向ける微笑み とても優しいその瞳
ねえ 明日も また逢えますか
どんな姿をしてても あなたが好きです
私は いつも あなたに逢いたい
★
リハーサルどころか、打合せさえしていなかった楽曲を、いきなり舞台にあげて歌わされた少女に、沢村タカキ――いや音楽プロデューサー矢嶋吟次は、心中舌を巻いていた。相澤がこの場に現れたのは、栗林との策謀である。ただ相澤は自分の意思でしか動かないから、札幌から高速を飛ばしても二時間はかかる片田舎の温泉地に莉奈をさらってみせるという賭に出た。
付き人が衣装を抱えて後から追ってくるにしても、『北原莉奈』と仕事をするのは初めてであるミュージシャンばかりの中に、デビュー後わずか一と月足らずのアイドル歌手を一人で放り込むことを、莉奈のプロデューサーである相澤拓哉が許すとはとても思えなかった。
ステージ上ではある意味、沢村が神だ。莉奈が列車内で聴いていたMDが、自分の楽曲のみで編集されていると気がついて、今夜のセットリストを土壇場で変えたり、こうして前ぶれもなしにいきなり歌わせたり。
その《あなたに逢いたい》の2コーラスのサビで沢村は立ち上がった。この曲を終えると同時に、これは事前に莉奈にリハーサルをさせた《Second Love》をMCなしに続けるつもりだ。この分だと相澤が意趣返しに、このままピアノ伴奏を続けそうだが、それはいいとして。
沢村はさっきまで、相澤と莉奈がいたテーブル席についていた。莉奈の付き人だという無口を通り越して無愛想な顔つきの、でもなかなか二枚目の男が、ステージ上の歌姫の視線を真っ直ぐに受け止めている。一五歳の少女の心情など推し量る気もなかったが、莉奈が意図的にか無意識かは別にして、歌詞に登場するつれない男のイメージを彼に重ねているとしたら。
沢村は、余計な邪念を振り払い、ステージの裏手に素早く移動した。
自分に任された舞台を予想以上の完成度で終えた相澤は、かなりきつい視線を今夜のホストに向けたが、思った以上にあっさりとピアノを譲ってくれた。
その様子を客席からの拍手を浴びながら見守っていた、今夜の歌姫に笑いかけ、沢村タカキはピアノに指を乗せた。
そんな沢村に軽く会釈を返すと、少女はただ一人の観客を見つめて歌い出した。
リハーサルでは単なる伴奏者に徹していた沢村だが、それは単に歌声を莉奈に聴かせたくなかったからだ。歌声と話し声にそう隔たりがある方ではないが、まさか目の前の男がMDの歌声の持ち主と思わなかった莉奈に、多少は意趣返しをしたい気分もあった。
サビの部分でさりげなくハモってみせる。歌い出してから初めて、歌姫が視線を向けた。のみならず、にっこりと笑った。
この少女が、何故『歌姫』と呼ばれるか、沢村は改めて思い知った。誰のために歌っているのかは知らない。それを知る必要も今はない。少女はただ歌うことが好きなのだ。それも一人で歌うことに拘るわけじゃなく、誰かと一緒に音楽を奏でることが好きなのだ。
『歌姫』との時間はあっけなく終わり、ホールには拍手が鳴り響いた。
「北原莉奈ちゃんの歌で、最初は相澤拓哉さんとの共演の《あなたに逢いたい》そして僕と一緒に歌ったのは《Second Love》でした。この《Second Love》は、昔僕があるアイドルに書いた曲だけど、いつか莉奈ちゃんのために曲を書く機会があればいいと思っています」
そう一気に告げ、沢村は莉奈を見つめた。
莉奈はそれには何も答えずにこう言った。
「《Second Love》は、小さい時に母がよく歌っていました。今日初めて、この曲を書いた人に逢えて、その上一緒に歌ってもらえて、すごく嬉しかったです。どうもありがとうございました」
「こちらこそ、無理なリクエストにもちゃんと答えてもらえて大感激でした。北原莉奈ちゃんにもう一度盛大な拍手を!」
大きな拍手の中、莉奈は深々と一礼すると、ステージの袖で事の成り行きを見守っていた相澤の元に戻っていった。
沢村タカキのライブは《I WILL……》で幕を下ろした。
☆
舞台がはねた後、ホテル内の和食料理店の個室で打ち上げが催された。早い話が宴会だから、いくらゲストはいえ、まだ中学生の莉奈が参加するのは良くはないのだが、保護者がいれば話が別だ。もちろんこの場合の保護者は相澤拓哉である。
その上どういうわけか西野匠も同席していた。無口なこの付き人も北原莉奈の関係者なのだから、仲間外れにするのは酷かもしれないが、そうしたところで当の本人は平然としていそうな気がしないでもない。
男たちはビールジョッキを、莉奈はグレープフルーツジュースの入ったグラスを手にひとまず乾杯する。
「こういう所に来るの初めて」
そういって莉奈ははしゃいでいる。
「宴会自体はね、クリスティでたまにするんだけどね」
「子供なのに宴会に参加してるの?」
ギタリストからの突っ込みに、少女は笑ってみせる。
「だって、パパとママが一緒にいるんだもの。ママはともかくパパなんか一年に数える程しか日本に帰ってこないし」
そう言われて、軽くからかうつもりだったギタリストは、何とも言えない顔で黙り込んだ。
変わってドラマーがこう訊いた。
「莉奈ちゃんはパパが好きなんだ」
「うん、大好きだよ」
満面の笑顔に気圧され、ドラマーもダウンした。
相澤はそんな様子をにやにや笑ってみている。
「ところで、莉奈ちゃん」
ビールをジョッキ半分は空けているのだが、完全に素面と変わらない様子で矢嶋吟次は切り出した。
「僕が君のために曲を書きたいって言う話、本気で考えてくれないかな」
今時の中学生にしては綺麗な箸使いで鰈の姿焼きをほぐしていた莉奈は、箸を置いて矢嶋を見つめた。
「そういう話は莉奈じゃなく、社長や拓ちゃんとするものじゃなんですか?」
莉奈の言葉に、矢嶋は相澤を一瞥した。
「俺は別に構わないよ。ただしギャラが安いから、こいつで一山当てる気でいるなら、やめた方がいい」
「まさか本気でそう言ってるわけじゃないだろうな、拓哉」
「俺は『北原莉奈』を確かに商品として売り出そうとしている。だが、こいつで大儲けをする気は全くないんだ。結果的に大ヒットになるなら別だが、こいつを売れる歌手に育てる意図はない」
「まあ、ヒットなんか狙ってどうなるものでもないがね。僕も今更そんなことには興味がない。だが、画家がどうしても描きたいモデルに出逢ったと同じにただ純粋に曲を捧げたい」
最後の言葉は莉奈を見つめて告げた。
「誰が歌おうと、曲は曲じゃないのかな。今日歌った《Second Love》だって元々は別の誰かに捧げた歌なんでしょう。その人が歌わなくてもいい曲は残るわ」
「だから、ステージで何も言わなかったんだね」
矢嶋の言葉に莉奈はこっくりと頷く。
「莉奈ちゃんの言うことは多分正しいんだろうね。どんないい曲でも、唄う歌手によって、人の受取り方が違うのも確かなんだよ。だって神沢さんの曲を僕がいくら一生懸命歌っても、莉奈ちゃんは神沢さんが歌うのがいいと思うだろうし、逆に僕の歌を神沢さんが歌ってくれたとしても……クリスティで昔そう言うことをしたことがあるんだけど、優子さんは、僕の歌は僕のボーカルが一番だとそう言ったよ。歌唱力という意味では、僕は彼に敵わなかったけどね」
「でも莉奈が唄う歌は、その時は『莉奈の曲』だよ。今夜の《Second Love》のように」
それはアイドル歌手としてデビューしながらもレコーディング曲はすべて誰かのカバー曲であり『北原莉奈のオリジナル曲』が一曲もないある意味希有な歌い手の矜持であった。
「でも、君は『北原莉奈のオリジナル曲』を他のどんな歌手が唄っても、莉奈には敵わないと言われるだけの歌手だよ。だからこそ、誰かのために捧げられた楽曲をも『莉奈の曲』にできるんだよ」
矢嶋が賢明に莉奈をかき口説くのを、興味ない風に無口にビールを呷っていた匠が不意に言った。
「この娘はどんな歌でも気に入れば歌う、それだけだ」
莉奈がびっくりした顔で付き人を見た。
「匠君、どうしてわかるの?」
匠はそれに答えず口許に笑み浮かべた。代わりに相澤が答えた。
「莉奈、こいつがわかってるんじゃなくて、タカキがわかってないだけだ」
「莉奈は、ただ歌うだけだから、ママや拓ちゃんたちのように、自分で何かを生み出すわけじゃないから、自分だけの歌じゃなきゃならないっていう拘りはないの。でも好きな曲なら歌う、それだけ」
「それでいいよ」
矢嶋はそう答えた。
「僕は君に曲を書きたいだけだから、莉奈ちゃんが気に入って是非歌いたいと言わせるような曲を、きっと書くよ」
矢嶋の言葉に、にっこりと頷いた。
☆
真面目な話がまとまったところで、打ち上げは単なる宴会と化した。
莉奈は和食が気に入ったようで、夢中で箸を動かしている。
「なんとなく莉奈ちゃんは、こういう和食とかある意味食べ飽きてる気がしてたんだけど」
「それは単にタカキの誤解。この子はお嬢さまだけど、意外に地味な育ち方をしているんだ。高級和食店なんて中学くらいじゃ、普通そんなに行かないだろう。それに宴会ったって、結局はクリスティでするんだから、メインは優子さんお手製のパーティ料理。じゃなかったら、クリスティに仕出し屋のオードブルなんかが並ぶだけ。どっちにしろ、和食は寿司くらいかな」
「そうなんだ」
「今度、パパが帰ってきたら、こういう店に連れていってもらおう」
そうはしゃぐ様子はまだまだ子供だ。
一晩借り受けた状態の和食店の個室で過ごすうち、いつのまにか日付が変わる頃になっていた。
さすがに眠そうな顔になった少女を見て、匠が席を立った。
「莉奈。部屋に戻るぞ」
「――一人で寝るのいや。ここにいる」
そうごねる少女を有無も言わさず、匠は抱き上げる。
その腕に収まり、少女は大人しく目を閉じる。
「こいつ寝かせたら、俺も自分の部屋に戻ります」
そう相澤に告げて、莉奈を抱いたまま靴を履く。
「一人で平気か?」
相澤が訊くのに頷くと、匠はその場の人間に頭を下げ、個室を出た。
「莉奈の靴はあとで俺が部屋に持ってくよ」
その背に相澤が声をかけるのが聞こえたのか、振り向きもしない。
矢嶋はそんな二人をじっと見ていた。
☆
翌朝、十時のチェックアウトに合わせ、一同はホテルを後にした。
矢嶋はバックバンドのメンバーが運転するレンタルの白いハイエースで千歳まで行き、そのまま東京に帰る。今度はいつこちらに来れるかわからない。
だが、莉奈に実際に逢って色々とわかった。
そう、あの無口な付き人とのことだとか。
莉奈はやはり西野匠が運んできたのか、半袖のポロシャツにデニム地のスカートという姿で、ハイエースに乗った矢嶋に手を振った。
西野が運転する白いクーペがホテルの前に滑り込んでくる。その助手席に乗り込む少女を矢嶋は見つめる。
あの二人をテーマに曲ができそうな予感がした。
少しだけ切ないメロディに乗せた、とびきりのラブソングが。
Fin