Epilogue
翌日、偲はとんでもない噂を耳にした。
「四組の山下さんが見たんだって。竹本さんと佐橋に間違いないって言ってる」
親切にもそう耳打ちしてくれた同じ風紀委員の子は、常日頃から佐橋美夜を目の敵にしていた。中間考査の成績が、美夜より劣っていたのが気にいらないのだろう。
「わかった。美夜に訊いてみる。教えてくれてありがとう」
それだけ言うと、偲は踵を返した。
教室に戻り美夜の席に近づくと、夜の素行の芳しくない友人は、偲の顔を見上げて軽く首を傾げた。
「美夜、昨日、由之君と一緒だったの?」
単刀直入に訊くと、美夜は逆に切り返してきた。
「竹本さん、何も言わなかったの?」
噂は本当だったと知った偲が苦い顔をする。
「薫に急な仕事が入ってデートがキャンセルになったから、街で一晩明かそうとしてたのとこを、竹本さんに拾われたの。雨が降ってたし、仕事が早く終わったからって、家の前まで送ってくれたわ」
「傘に一緒に入ってたって」
「車から呼んでもわかるかどうかが、自信なかったんでしょう? 驚いたわよ。四丁目のスクランブルでどこに行こうかなんて、ぼーっと立ってたら、不意に竹本さん、傘に入ってくるんだもの」
それから、美夜は大人びた微笑を浮かべた。
「偲、余計な心配しなくていいわ。私、偲の大事な人取る気はないから」
大事な人が恋人と聞こえた気がして、偲は美夜を凝視した。
「偲、竹本さんのこと好きでしょう? 肉親としてじゃなく」
――美夜は自分と由之が、実際は血の繋がりなど何もないことを知らないはずだ。
「チャイム鳴ったわよ」
落ち着き払った美夜の声がした。
慌てて自分の席に戻りながら、偲は自分でもどうしていいかわからない感情に捕らわれていた。
きっかけは、携帯電話に入った些細な留守録メッセージだった。
偲は、莉奈と美夜とあの男の微妙な関係を、手を出せずに静観するしかない部外者のはずだった。ところがまるでドミノが倒れるように、いつのまにか、偲も当事者になりそうな予感がしている。
誰にも打ち明けられずに、心に鍵を掛けた想いが、あらぬ方向に流れ出してしまうかもしれない。
ふと教室の窓を見ると、青い空に気持ちよさそうに蝶が舞っていた。
このまま誰にも囚われずに。
偲は、誰のためともつかずに、そう願わずにはいられなかった。