第四章 逢遇
腕時計の針は約束の時間の五分前を差している。佐橋美夜は喫茶店の大きなガラス越しに勢いを増した雨を眺めていた。
いつもの店、いつもの曜日、いつもの時間。連絡方法も同じだった。
授業中は電源を切っている携帯電話の留守電サービスに、ぶっきらぼうな声が録音されていた。
――今夜、いつものところで――
砂田薫からの連絡だった。……いや、西野匠からと言うべきだろうか?
自分の素性がばれてしまったのに。
美夜は、西野がもう自分に逢う理由がないと思っていた。
彼に北原莉奈の付き人を辞めるつもりはないのだから、全く縁が途絶えたわけではないだろう。どんな風に過ごしているかは、莉奈の口から聞ける。ただし、それも莉奈に自分と西野の関係が明るみになるまでだ。
思えば、西野匠は自分のことをほとんど話さない男なのだ。
初めて、出逢った夜もそうだった。
☆
中学も三年になり、自分の進路について、美夜はそろそろ真剣に考えなければならない時期に来ていた。両親は、母の兄が理事長を務める私立の名門中学に娘を入学させると、それで責任を果たしたと考えたのか、仕事で外国に飛んだ。
中堅だが手堅い経営で知られる貿易会社の取締役営業部長の父と、一級設計士の母。世間的には仲の良い夫婦と思われているが、内実は違い、一人娘の美夜はほとんど他人の手に掛かって育ったに等しい。仕事という名目で、頻繁に外出する両親の、その理由の何割かが、情事だということも知っている。
親の愛情を受けずに育った子供は、精神的に不安定になると言う。
親の言いつけで伯父のいる中学に入学した美夜は、同じクラスになった北原莉奈と竹本偲と出逢った。莉奈は世界に冠たるKITAHARAの社長令嬢だったが、世間は母親の不倫の果てに生まれた子供だと噂していた。
偲は一緒に暮らしている叔父がTVなどで顔を見ることができるミュージシャンだが、実の両親については全く話さない子だった。
最初こそは、同じような立場でありながらも、わりに素直に育った二人を敵視していた美夜だが、次第に親友と呼べるほど打ち解けていった。
それでも、心の寂しさを二人が全て埋めてくれるわけではない。
四月六日、三年に進学した夜に、十五歳になった美夜は、寂しさを埋めるために、テレフォンクラブにメッセージを入れた。
自分の声を聞いて、興味を示した男達の数の多さに新鮮な驚きを感じた美夜は、伝言ボックスの中から、思い付きで一人の男を選び出した。冴えない中年のサラリーマンだったが、出来うる限り優しく美夜を抱いた後、同じ年頃の娘がいると告げた。そして、高額紙幣を三枚、美夜の手に握らせると、逃げるようにホテルを出て行った。
美夜は身体を押し開かれた痛みよりも、全くの他人に優しく抱かれたことに素直な感動を覚えた。
実の両親と同じベッドで眠った記憶もない美夜にとって、肌のふれあいの心地よさは、それが社会的に非難を受ける行為であることなどとは引き換えに出来なかった。
自分の身体を紙幣三枚で売ったという痛みすらなかった。両親は美夜が好き放題できる程度の金は与えてくれてはいた。けれど、親とは関わりのないお金を自分が受け取ったのだと気がついた美夜は、翌日、普段利用していない銀行に口座を作り、そっくり預金した。
砂田薫と名乗る男と出逢ったのは、それから間もなくだった。
呼び出された喫茶店に時間通りに現れた彼は、美夜に軽く頭を下げると、テーブルの上の伝票を掴んだ。それから視線だけで少女を促すとレジに向かった。
彼は今まで身体を重ねた男の誰よりも若く、顔立ちも整っていた。本当に自分の相手だろうかと思いながらも、美夜は後を追った。もし、相手の勘違いだったとしても構わないと思ったのも確かだ。
彼が口を開いたのは、待ち合わせた喫茶店から三丁行ったところにある、オフィス街の裏道にひっそりと立つラブホテルの一室だった。
「砂田薫と言う。年は二十五歳。サラリーマンだ」
「私は美夜。佐橋美夜です」
――その時、どうして本当の名を名乗ったのか、美夜は未だにわからない。
☆
定刻通りに現れた男は、いつものように美夜の座ったテーブルの上の伝票を無造作に掴むと、レジに向かって歩き出した。
美夜は、その背中を泣きたい気持ちで見つめながら、バックを持って席を立った。
彼は美夜の飲んだコーヒー代を払い終えると、店の外でタクシーを拾った。確かに、徒歩で三丁移動するのは、うんざりしたくなるようなどしゃぶりだ。
西野匠は美夜の肩を押すようにタクシーに乗せ、自分も乗り込むと住所といつも利用しているホテルの名を告げた。
いつもの部屋で男と二人きりになった美夜は、ダブルベッドに倒れこむように腰を降ろした。
「……もう逢えないかと思った」
「何故だ?」
心底訝しそうな声の男を見上げた美夜の目に、涙があふれた。
「だって」
西野匠は、美夜の隣に腰を降ろすと、そっとその肩を抱き寄せた。男にしては白すぎる指先が、美夜の涙を拭い、あやすように髪を撫ぜる。
「確かに、北原莉奈の付き人みたいな真似をしているが、あくまでも仕事の上でのことだ。それに」
言い掛けて、男は口を閉ざした。
いつもと違って口数の多い匠が何を言おうとしたか、美夜には見当もつかなかった。
「あなたのことは、何て呼べばいいの?」
「今まで通りでいい」
「砂田薫?」
涙に濡れた顔を上げて、美夜は訊いた。
こっくりと男は頷いた。
「じゃあ、約束して。私の前では砂田薫でいると」
砂田薫は、答える代わりに美夜の唇にそっと口づけた。
――お互いの身体を求め合いながら、美夜は誰よりも〜女になった夜よりも〜優しく抱くこの男を、自分でも止められないほど愛していると感じていた。
☆
国営放送のラジオの生出演を終えた竹本由之は、信号待ちで停めた車の中から、舗道を歩く見覚えのある少女を見かけた。
日暮れ時から降り始めた雨が、時折吹く風に煽られて傘が役に立たない状態だ。少女は歩行者用信号機が青になったのに、歩き出さずにぼんやりと立っている。
由之はサイドウインドを下ろして、声を掛けようとして思い直し、車を舗道に寄せて停めると、エンジンをかけたまま、外に出た。
すぐに冷たい雨が顔や肩を濡らす。
「美夜ちゃん?」
一応声を掛けてから、少女の差した傘に入り込む。
「……竹本さん」
「今、帰り? 家まで送るから車に乗りなさい」
「でも……」
「いいから」
由之は少女の手から傘を取りあげると、半ば強引に車に連れ戻った。
佐橋美夜は、戸惑いながらも助手席に乗り込んだ。
車を発進させながら、由之は車のヒーターの温度を上げた。
――じっとその様子を見ていた黒い人影が、由之の車が雨に消えるのを確認すると、踵を返し、地下街へと階段を降りていった。
美夜は何も言わずに、サイドウインド越しに流れる街の光を見つめていた。
「帰りたくないのなら、僕の家に来るかい」
行く先も決めずに車を走らせていた由之が、十分に暖まった車内の温度を幾分下げながら訊いた。
美夜は弾かれたように、由之の顔を見つめた。
「この間のように偲の部屋に泊まって、朝、一緒に学校に行けばいい」
「偲が驚くわ。竹本さんと一緒に帰ったりしたら」
由之はジャケットのポケットを左手で探り、煙草を取り出した。
「吸ってもいいかな」
「どうぞ。竹本さんの車よ。遠慮することなんかないわ」
「偲が嫌がるんだよ。車の中で吸うとね」
ダッシュボードに左手を伸ばしかけ、由之は笑った。
「そこに予備のライターが入ってるはずなんだ。すまないけど取ってくれないか」
ダッシュボードの中には、銀のジッポが入っていた。鈍く光ったそれには、Yoshiyukiと名前が刻まれている。
「ありがとう。何か、家に帰りたくないって顔をしてる。美夜ちゃん、夜はいつも一人なんだって?」
人のいない屋敷は荒れるからと、両親が外国に行っている間も、美夜は自宅で一人で過ごしている。中学校の理事長である母方の伯父が一緒に住むという話もあったのだが、自分が留守の間に屋敷で好きにされるのを嫌がった父親の反対にあった。
朝の七時から通いの家政婦が来て、屋敷の掃除から美夜の世話までしてくれる。夜の行動にこそ問題はあるが、美夜は入学以来、無断欠席をしたことはない。
「もう馴れたから、大丈夫ですよ」
美夜はそう笑ってみせる。
「円山まで送ってもらうの悪いから、どこか地下鉄の駅で降ろして下さい」
「円山のどの辺? あのね美夜ちゃん、十五やそこらでそんなこと言うもんじゃない。御両親が傍にいないから、早く大人にならなきゃならないって思ってるのかもしれないけど、子供はもっと大人に甘えていいはずだ」
美夜はびっくりした顔で、由之を見た。
「僕は、今夜の仕事は終わったんだ。本当はラジオの生の後で、打ち合わせが一つあったんだけど、向こうに急用が出来て、後日になった。円山までドライブする時間は十分にある」
「偲が心配するわ」
尚も言い募る美夜に由之は首を横に振った。
「急に打ち合わせがなくなったって言ったろう。偲には、打ち合わせで下手すると午前様って言ってあるから、美夜ちゃんが心配することはなにもない」
と由之は、TVで多くの女性ファンを魅了する優しい笑みを浮かべた。
☆
大通り公園横の道を西に向けて車を走らせている由之の横顔を見ながら、夜を一緒に過ごす彼氏にすっぽかされたと言ったらどんな顔をするだろう?
少し皮肉な気分で美夜は思った。
偲は友人の素行の悪さをむやみに人に話す人間ではない。学校の公式行事にはなるべく顔を出す由之が、美夜の噂を仕入れるとしたらPTAからだ。
由之は大事な姪に悪い友人と付き合っていると嫌な顔をするどころか、ちゃんとした大人として、美夜に接している。嬉しくもあったし、見知らぬ男と肌を合わせるのとはまた違った心地よさもあった。
実際、いつもの時間に現れた砂田薫にかかって来た一本の携帯電話が、少女を一人にしたのだ。
席で待つように手振りで示す薫は喫茶店の玄関ホールから戻って来ると、初めて美夜の向かいの席に座った。
注文を取りに来たウエイトレスに、不機嫌な顔で「コーヒー」と短く告げると、不安な顔の少女に向かってこう言った。
「仕事が入った」
「仕事って? 莉奈からの呼び出しなの?」
「いや、本職の方だ」
偲から、西野匠はKCSの一級葬祭士と聞いている。裏で、霊能者じみた仕事をしていると苦い顔をしていた。
「お祓い?」
「葬式。一晩に十人も死んだ。うちじゃなければどうしても駄目なんだと」
美夜の目の前にいるのは、砂田薫ではなかった。砂田薫が西野匠の偽名である以上、致し方ないのだが、プライベートをまず話さないこの男が、西野匠の表情で愚痴を零すのが、美夜にはとても悲しかった。
もっと悲しかったのは。
「今夜の代金は申し訳ないが次にまとめて払う。こんな人前で金のやり取りはできないだろう」
「お金なんていらない。貰えるわけないじゃない。……別にお金に困っているわけじゃないのよ、私」
美夜は泣くまいと思い、唇を噛んだ。ウエイトレスが薫の分のコーヒーを運んできた。
「そんなことより、急がなくていいの?」
薫は左手首のロレックスに目を走らせるとほんの少しだけ思案した。それから湯気のたってるコーヒーには口もつけずに、伝票を持って席を立つ。
時折強い風が喫茶店の自動ドアのガラスに雨粒を叩きつける。片手を挙げてタクシーを捕まえると、薫は美夜を先に押し込めて、自分も乗り込んだ。
「まずは三越まで。それから円山」
そう言いながら、内ポケットから財布を出し、タクシーチケットの冊子を取り出すと、一枚切って美夜に手渡す。
「使い方はわかるな」
美夜はこっくりと頷いた。
三越デパートまでは、五分もしないうちに着いた。
「じゃあ」
薫にしては珍しいくらい優しく笑うと、黒いスーツ姿は地下鉄の駅に降りる階段へと消えた。
「お嬢ちゃん、円山のどの辺り?」
車を発進させながら、運転手が問い掛けてくる。やけに優しい声に、美夜は自分が今にも泣き出しそうな顔をしていると気がついた。
「ごめんなさい。次の信号で降ります」
このまま一人きりの家に帰るくらいならば、始発まで夜の街で過ごしていたかった。
竹本由之が美夜を見かけたのは、その直後だった。
☆
神宮の鳥居の横を登りながら、由之と美夜は神沢俊広の話をしていた。カーオーディオはKITAHARAのロゴ入りの最新型で、傍迷惑な噂を残して四十代の若さで物故したミュージシャンの歌声が流れている。
そう言えば、ちゃんと『神沢俊広』を聴くのは、初めての美夜だった。
「気に入ったんなら、そのMDあげるよ」
「いいんですか?」
「いいんだ。今度、リリックでシュンの曲を何曲かやるから、原曲を聴いていたんだけど。もっとも、莉奈に言えば、いくらでも録ってくれるか」
北原莉奈は神沢俊広との約束で歌手になろうとした娘だ。神沢本人も、莉奈が実の娘じゃないかと疑われるほど可愛がり、生涯作った作品に関する全ての権利を、それこそ他人に書いた曲に至るまで、自分が愛した歌姫に残した。そして莉奈が成人するまで、その管理を正真正銘血の繋がった彼女の父親に委ねた。
「そんなこと言ったら、莉奈のうちに軟禁されて、古いライブを見せられて三日三晩、どれだけ『シュン』がカッコよくて素敵だったか、聴かされ続けるわ」
莉奈の神沢俊広に対する思い入れは半端ではない。自分の父親よりも年上の男を『白馬の王子様』の如く崇めている。
確かに、この北の都一番の神宮の宮司の家に生まれだけあり雅な顔つきで、TVで人気のあるジャリタレなどにないダンディズムもある。
生涯独身を通し、特定の恋人を作らなかった、今はいないミュージシャンに、美夜だって男としての魅力を感じないわけでもないが。
(人のものを取る気はないわ)
まだ三十二歳なのに良識のある大人の演じている由之の横顔を見ながら美夜は思った。
(神沢俊広は莉奈の王子様。そして、この人は、偲のもの)
「じゃあ、このMDいただきます。でも、竹本さん、十五の女の子はきっと竹本さんが思っている以上に大人だわ」
美夜が一人でいたくなかった気分を吹き払ってくれたのは確かに由之だが、今日は特別だ。
「だから、こんな大きな屋敷で夜一人きりでも平気なの?」
門構えだけで思わず軽い呻き声をあげた由之に、美夜は笑顔で頷いた。
門の前に横付けされた車のドアを開けて、美夜はスカイブルーの傘を広げる。スヌーピーがワンポイントプリントされているが、大人でも十分差せるデザインだ。
「私も、それに偲も」
「あいつはまだまだ子供だよ」
何の躊躇もなくそんな台詞を吐く由之に、美夜は吐息のような微笑みを零した。
「そう思ってるの竹本さんだけかもよ」
「実際、君は大人びている。偲の友人で中学生だって知らなかったら、三十二歳のただの男になってたところだ」
美夜と由之の視線がほんの一瞬衝突した。
冗談に済ますには、由之の声色も眼差しも怖いくらいだ。
「じゃあ、狼さんが牙を出す前にお家に帰ります。今日は本当にありがとうございました」
車から完全に降りると、美夜は傘の中からぺこりと頭を下げた。
クラクション一つ鳴らして、竹本由之の車は、雨足が弱り始めた閑静な高級住宅街を走り去って行った。
☆
由之が自宅に帰ったのは、まもなく十一時に差しかかる時間だった。湯上りでパジャマ姿の偲が、濡れた髪をバスタオルで無造作に拭きながら、居間でビデオを見ていた。
ボーイッシュで第二次成長も特に気にせず過ごしてきたが、偲も今年で十五、来年は高校生だ。
「おかえりなさい。早かったね。……どうしたの、由之君」
座りもせずに突っ立っている叔父を、不思議そうに眺めながら偲は言った。
「いや、大きくなったと思ってね。いつから一緒に風呂に入らなくなったんだ?」
「由之君、打ち合わせってお酒飲んでやってたわけじゃないよね」
様子がおかしいどころか言動まで変になっている叔父を、偲は睨んだ。
「偲ちゃん、今夜一緒に寝ようか? 子守唄歌ってあげるよ」
「いいかげんにして」
バスタオルが飛んできた。
「不良中年も帰ってきたし、これ以上莫迦なこと聞かされる前にもう寝ます。おやすみなさい」
寝室に向かうために目の前を通り過ぎる姪をしげしげと眺め、由之は思い溜息をついた。
確かに今夜美夜を自宅まで送ったのは、中学生の娘を持つ保護者としての行為だった。けれど帰り際、ひとけのない住宅地に二人きり、ふいに劣情を感じたのも本当だった。
理性が保てる自信はあったが、ふざけて偲を子供扱いしたのは、そんな気分を拭いたかったからだ。
そんな視線に気がついたのか、偲は叔父の顔を覗き込んで笑いかけた。
「由之君も暖まって早く寝なよ」
「偲、今夜ね」
「何?」
「いや、何でもない」
今夜、美夜と出逢ったことを由之は何故だか言い出せなかった。それを姪の友人を一瞬とは言え女と見てしまった自分を、気付かれたくないからだと思い込んでいた。