第一章 出題



 今はもういない人間を悼むように、冷たい雨が降りしきっている。
 葬儀会場のロビーで、ぼんやりとガラス窓の向こう、雨に煙る駐車場を見ていた北原莉奈は、肩を叩かれて振り向いた。
「パパ」
 咥え煙草で北原敬一は頷くと、それを指に持ち替えてロビーの灰皿に捨てた。そして愛娘に向き直る。
「訊きたいことがあるんだが」
「なあに?」
「まずは座りなさい」
 神沢俊広が物故して六年。今日はここで七回忌の法要が執り行われた。
 普段、世界中を飛び回り、ほとんど家に居着かない敬一だが、親友で母方の従兄でもある神沢の法要だけは、必ず自らが取り仕切っている。
 そして彼には親友と交わした一つの約束があった。
 ロビーの椅子に娘を座らせ、その隣に腰を下ろすと、敬一は穏やかな瞳で愛娘を見つめた。大好きなパパと一緒にいられるのが嬉しいのか、莉奈は先ほどの沈んだ顔などどこかへ行ったように微笑んだ。
「莉奈。お前は今でも歌手になりたいかい?」
「うん」
 即答だった。ためらいなど微塵もない。
「その理由は?」
 敬一は重ねて訊いた。
「約束したんだもの。俊(シュン)ちゃんに」
 幼さの残る口調で莉奈は答えた。
 事実、先ほども祭壇で神沢俊広にそう誓ったばかりだ。
「俊と約束したからって言うだけじゃ、パパは賛成できないな」
「……?」
 莉奈は父親の言葉の意味が読み取れず、きょとんとした顔をした。
 それからにわかに大声をあげる。
「えーっ!!?」
「えーっじゃない」
 莉奈の大声にロビーの人々が振り向くのも構わずに、平然と敬一は言い返した。
「なんで!? ねえ、パパだって賛成してたじゃない。今更そんなこというのってずるい」
 普段家にいないせいか、敬一はどちらかと言うと甘い父親である。莉奈の記憶にある限り、大概のわがままは通ってきた。
 莉奈が歌手になることは、神沢俊広の夢ではあったが、敬一も大手を振って賛成していたはずだ。少なくとも駄目だと言われた覚えはなかった。何で今更反対されるのか、全く理解できない莉奈だった。
「なんで、どーして反対なの?」
 一度は注目を浴びた親子だが、ロビーの人々はそれぞれの会話に戻っている。傍から見たら、久しぶりに逢った父親におねだりを断られたわがまま娘にしか見えないからだろう。
「莉奈、人の話はちゃんと聞くものだよ。パパは何も頭から反対というわけじゃない。賛成できないってちゃんと言っただろう」
 詭弁である。賛成できないということは、すなわち反対に他ならないではないか。
 むくれた娘をなんだか楽しげに敬一は見つめた。それに気づいた莉奈がもっとふくれる。
「死んだ親友の遺言だし、反故にする気はないよ」
「ほごってなに?」
 中学になったばかりの莉奈には難しい言葉はわからないが、どうやら頭っから反対ではないというニュアンスは伝わったようだ。そっぽを向いたままそう尋ねる。
「なかったことにはしないってことさ」
 楽しげに敬一は言った。
「じゃあ」
 勢い込んで莉奈は言った。
「一年やろう。莉奈も中学になったばかりだ。勉強もちゃんとしなきゃならないし、他にやりたいことが見つかるかもしれないだろ?」
「そんなものないもん」
 莉奈は即答した。
 歌手になるのは莉奈にとっても物心がついた頃からの夢だ。亡き俊広の膝の上で、彼が奏でるピアノを伴奏に、童謡を歌っていた頃からの夢。
 少女は[俊ちゃんのピアノ]でお唄を歌う人になりたかったのだ。
 神沢俊広の死の床でもそう誓った。だから、それは莉奈にとっては違えるなんて考えつけもしないほど、神聖な約束である。
 なのに父親は優しい目でとんでもない台詞を吐いた。
「急がなくていい。お前の未来はたくさんの可能性に満たされている。死人との約束なんかに縛られる必要は全くないんだ」
「そんな言い方ってない」
 知らずに莉奈の目から涙が零れた。
「莉奈」
 泣いて睨む愛娘を、敬一はあくまで真摯に見つめる。
「俊は死んだ。六年も前に。もういないんだ。だから、奴が言ったからっていうだけの理由で、俺の可愛い愛娘の将来が決まるの駄目だ」
「莉奈の人生だもん。莉奈がやりたいならいいじゃない」
「そう、莉奈の人生だ。だから、お前がちゃんと自分の意志で決めなさい」
「だから、やりたいって」
 どうして? どうしてパパはわかってくれないの?
 泣き顔にクレッションマークを貼りつけた愛娘の頭を、敬一はぽんと叩いた。
「だから、そのための一年だ。その間に莉奈自身が歌手になりたいと、きちんとパパを納得させなさい。そうしたら、ちゃんと賛成するよ」
 そしてわけがわからず泣き顔のままきょとんとしている娘に促す。
「莉奈、返事は?」
「……はい」
「よし。……そろそろ帰るか」
 敬一は立ち上がると、最後の指示をしに歩き始めた。
「パパの意地悪」
 娘の呟きは父親にはどうやら届かなかったようだ。


「僕も敬一の言う通りだと思うよ」
「……先生は俊ちゃんが嫌いだから」
 ココアの入ったカップを両手で持った莉奈はそう言って拗ねた顔をした。
 メタルフレームの眼鏡がこよなく似合うダンディなお医者さまは、深いため息をついた。
「……莉奈、それは誤解だよ。確かに傍からはそう見えたかもしれないけどね」
 春の陽射しが大きな窓から射し込んでくる。河口医院の医院長室は、陽だまりのような暖かさだった。
 河口真一はコーヒーを静かな仕草で口に運んだ。
「僕は自分の患者を嫌いになった覚えは皆無だなあ」
 真一はおよそ人を嫌うなどありえなさそうなほどに穏やかな紳士だ。温厚篤実をそのまま形にしたような人物で、莉奈など生まれてこの方、この男が声を荒げて怒ったのを見た記憶がない。聞くと母の優子もそうだと言う。
 優子は真一の高校の後輩で、それ以来の付き合いなので、元々穏やかな人柄なのだろう。
 そんな男が何故か神沢俊広を前にすると不機嫌な表情になった。二人は幼馴染みらしい。莉奈が知る限り真一が嫌ってたのは、少女の大好きな[俊ちゃん]だけだ。
 莉奈には優しい河口先生が、どうして[俊ちゃん]を嫌うのか、すごく不思議だった。
「先生、基本的に嫌いな患者なんていないじゃない」
「僕だって人間だからね。気に入らない奴だっているよ。だから、いつも貧乏している」
 真一はこの街でも指折りの名医だ。その名を聞きつけてあちこちから患者が来る。だが、温厚な人柄とは裏腹に、名が売れた人物の来客を嫌う傾向があった。そういう人間はえてして軽い症状でも、さも来てやったという態度を取りがちであるためだ。
 河口真一は病院に誰某が来たからと、評判が上がるのを喜ぶ人間ではなかった。
「嫌いだったら最初から診たりなんかしないさ。いつも通り別の医者を紹介してるよ」
「……俊ちゃんのこと、本当に嫌いじゃないの?」
 大きな黒い瞳で見上げる少女に、真一はこっくりと頷いた。
「じゃあ、なんでパパの味方するの?」
「別に敬一の味方をしているわけじゃないよ」
 そうかなあ、と莉奈は首を傾げた。
「ココアのお代わりは」
 空になった自分のコーヒカップを手に立ち上がりながら、真一は訊いた。
「いる」
 そう差し出したマグカップを受取る真一を見上げながら、莉奈は呟いた。
「どうして、俊ちゃんのために歌手になるんじゃいけないのかなあ」
「それは駄目だろうね」
「だから、どうして?」
「それは莉奈が自分で考えなきゃ駄目だよ」
 優しい物言いだがあくまでもそう言い張る真一に莉奈は拗ねた。
「何かその言い方、学校の先生みたい」
「ん? どこが?」
 二杯目のココアを莉奈の目の前に置きながら真一は訊いた。
「莉奈、算数苦手だから、わかんないって言ったら、ちゃんと自分で考えなさいって」
「ただわかんないってだけじゃそう言われるさ。せめてどこがわからないかを考えなきゃね」
 莉奈の数字嫌いは母親譲りである。数学の宿題を学生時代に母が真一に教えてもらったと言っていたのを、莉奈はふと思い出した。
「河口先生、どうして学校の先生にならなかったの?」
 真一は虚を衝かれて大きく瞬きをした。
「先生?」
 少女が大きな瞳でその顔を覗き込む。
「……考えたこともなかったな」
 真一はそう正直に言った。それから、ふっと笑みを浮かべる。
「敬一が昔、高校の先生をしていたって、莉奈は知ってるかい」
「うそっ!」
 今度は莉奈が驚く番だった。
 真一は自分のコーヒーカップを手に、席に戻った。
「あいつ、大学卒業してからしばらく高校で社会科の先生をしてたんだよ」
 そう言って、真一はくすくす笑い出した。
「先生?」
「ああ、ごめん。思い出し笑いだよ」
 本当に楽しそうな真一の顔に莉奈も釣られて笑った。
「優子君が高校の時好きだったのがね、社会科の教師だったんだ」
「え……? ほんと」
 真一は大きく頷いた。
「……まさか」
 あの父親にそんな可愛い一面があったとは。
 莉奈は俄かには信じられなかった。
「そのまさかさ。あいつ、それで社会科の先生になったんだ。……ああそうか。だからか」
「何が、だからなの?」
 一人で納得している真一に、莉奈は問いかけた。
「莉奈の宿題のヒントだよ。誰かのためなんて理由で仕事を選んじゃいけないんだ。まあ、人のことは言えないんだけどね」と真一は苦く笑った。さっきの楽しげな笑みじゃなく、痛みを伴う表情だ。
「僕はある女の子の病気を治したくて、医者になろうと思って、そしてこの医院を継いだ。他の仕事も選べたはずなのに。そんなこと、今の今まで気がつきもしなかった」
「その人を治せたんでしょう?」
 莉奈が必死な顔で訊いた。
 だが、真一は首を横に振った。
「彼女は死んでしまったよ。しかも僕が医者になる前にね」
「お医者さんになったの、後悔してるの?」
 真一は顔を上げて莉奈を見つめた。そして尋ねた。
「そう見えるかい?」
 莉奈は大きく首を横に振る。
「後悔してないよ」
 真一はゆっくりとそう告げて、安心させるように穏やかに微笑んだ。
「そうだよね。ママが言ってたもん。河口先輩は、お医者さまになるために生まれてきたような人だって。莉奈もそう思う」
 真一は真剣な眼差しで一生懸命言葉を紡ぐ少女を見つめた。
「ありがとう」
 なんでお礼を言われたかわからず、莉奈は首を傾げた。
「そう。僕は医者になったことを後悔していない。他の未来があったなんて気づかなくてもね。だからこそ、敬一も、僕も莉奈に後悔をさせたくないんだよ」
「後悔なんか」
 勢い込んで言いかける少女を、真一は見つめた。
「例えば、歌手になって、嫌なことがあった時、それを俊広のせいにしないかい?」
 莉奈は即座に頷いた。
 真一は苦笑いを見せた。
「絶対、大丈夫?」
 莉奈の表情が少し揺らいだ。けれど、こっくりと頷く仕草は変わらない。
「ホントにホントに大丈夫?」
「……先生、意地悪」
 ふくれっ面の少女をよそに真一はコーヒーを口に運ぶ。
「歌手になるのは簡単じゃない。舞台の上で何が起こっても、誰も手助けなんかできない。そんな目にあった時、人間は弱い動物だから、つい自分以外の誰かにその責任を押しつけてしまうものだ。だけど、そんな覚悟じゃ、最初から歌手になっちゃいけないんだ」
「なんとなく、わかるような気がするけど。でも、それと俊ちゃんのために歌手になっちゃいけないのと、どうつながるの?」
 莉奈の真剣な眼差しが真一を射抜いた。
 真一はそれから静かに目をそらして、コーヒーを飲み干した。
「わからないついでに、もう一つ、難しい話をしようか」
 空になったコーヒーカップをガラスのテーブルに置いて、真一はそう言った。
「莉奈が俊広のために歌手になりたい。そう思う気持ち、それ自体は悪くないよ。だけど、それは歌手になるきっかけの一つにしかしちゃ駄目だ。莉奈が、莉奈自身が心から歌手になりたいって思わなきゃ」
「莉奈だって歌手になりたいよ」
「じゃあ、もっと簡単に訊こうか。莉奈は俊広がいなくても、歌手になろうと思ったかい」
 莉奈は思いもかけないことを問われて、表情をなくした。
 その時、壁のインターホンが突然鳴り出した。
 真一はすっと立ち上がって、受話器を取った。二言三言告げて、インターフォンを置く。
「今日の授業はここまでだ。それを飲んだら帰りなさい」
 莉奈は茫然とした顔のまま、ココアを口に運んだ。
「……先生、その死んだ女の子って、莉奈の知ってる人?」
「さあね。どうして?」
「なんとなく、そんな気がしたの」
 そう呟いて、少女はココアを飲み干した。
「忙しいのに、突然やってきてごめんなさい」
「いや、たまたま時間が空いてたから構わないよ」
 春物のコートを身に付けた莉奈を眺めて、真一は微笑んだ。
「敬一のお土産だね」
 バーバーリーチェックがトレンチの襟元をおしゃれに飾っている。可愛らしいピンクのコートは、敬一が莉奈ためにイギリスの本店に仕立てさせた。それも、莉奈がねだったものではない。親莫迦な父親が、娘可愛さにオーダしたのだろう。
 莉奈はそういうわがままを言う子ではないから。特注だということさえ知らないかもしれない。
「似合う?」
 お澄まししてくるっとターンする少女に真一は相好を崩した。
 莉奈のために作ったのだから、当然なのだろうが、本人を連れていかずに誂えたとは思えないほど似合ってる。
 莉奈をガードしているブラックアイズも仕事にさぞ熱が入ってるだろう。その手の趣味の人間ではなくても浚いたくなるほど可愛い。
「うん、可愛いよ」
「ありがと」
 元気な足取りで部屋を出る莉奈のために真一はドアを開けた。自分も一緒に廊下に出る。
「これから診察?」
「うん」
「頑張ってね」
「莉奈も宿題、頑張るんだよ」
「今日は出てないもん」
「そっちじゃなくて」
 途端に不機嫌になる少女を玄関まで真一は送った。
「気をつけて帰るんだよ」
 素直に頷いて手を振る少女に手を振り返し、真一は踵を返した。
 診察室に通じる廊下の窓から何気なく外を見ると、道路向こうを莉奈が歩いていた。それを見送りながら、真一は深くため息をつく。
 蒼天に包まれて遠ざかって行く小さな影を祈るように真一は見つめた。
 真一が医者になりたいと思ったきっかけの少女は神沢優子。神沢俊広の妹である。
 かの儚き少女のために真一は医者を志し、俊広は歌手になった。二人の男の運命を変えた少女は、その死によって、結果的に自分の兄の命を奪っている。
 ……いや。
 俊広の死因は癌だ。病魔があの男の命を削り、死に追いやった。医者である真一はそれをよくわかっている。
 だが、神沢優子がその死によって血の繋がらない兄を縛りつけたのは事実だ。プレイボーイで鳴らした俊広が誰とも結婚しなかったのは、妹として出逢った少女を女として愛してしまった故だ。
 そして今、俊広が生前に溺愛した少女がその男との[約束]に縛られて、歌手を志している。
 もう、そんな呪縛はたくさんだった。
 それ故に、父親である敬一も、そして真一も、まだ十三にもならない少女に酷な宿題を課すのだ。
 莉奈の面ざしは真一の初恋の少女に生き写しだった。誰よりもかの少女を愛した俊広が、それに気がつかないはずはなかった。
 ――だが。
 莉奈が視界から消えたことに気がついた真一は、診察室へと足を急いだ。
 莉奈は莉奈だ。誰にも代われないし、その必要もない。
 だからこそ、莉奈には自分自身の意思で自分の道を選んで欲しかった。
 真一は莉奈の頭上に澄んでいた春