第五章 夜天



 河口真一が久村夫妻に逢ったのは、そんなことあった三日後だった。
 雪融けを急かせる春風と陽光のせいで、路上の雪はすっかり姿を消したが、代わりにかっては馬糞風と言われた強風が容赦なく埃を巻き上げている。その中を、二十代前半の若い夫婦は沈痛な面持ちでやってきた。
「聖があんなにはしゃぐのを久しぶりに見ました」
 久村家の一粒種は病室に現れた両親に、飛びつくように[大好きなお姉ちゃん]が歌を唄ってくれた話をしたという。
「本当にありがとうございます」
「友人の娘でしてね。私には子供がいないので、娘のように可愛がっています。お役に立てて幸いでした」
「あら、新婚だとお聞きましたよ」
 ふいにそう言われて、真一は赤面する。
「奥さま、お美しい方だそうで」
 夫もそういって傍らのたおやかな美女に同意を求める。十人が十人とも美人と太鼓判を出すだろう日本美人が、花のようにどこか儚い笑みを浮かべてこっくりと頷いた。特別似てるという印象はそれまでなかったのだが、その笑みは、高校時代の天野優子――現、北原敬一夫人――がよく見せていた表情そのものだった。
 おとなしい表情が母親似の莉奈に、聖が惹かれるのはそのせいもあるのかもしれない。
 夫の久村は白皙の面に切れ長の目が凛々しい涼しげな優男だ。新婚当初はさぞかし、お雛様のように似合いの夫婦だったろうに、今はその顔にやつれが目立っている。
 ちなみに真一が五年以上の歳月をかけてようやくものにした新妻は、確かに美人であるが、目の前の美女に使うような、たおやかとか楚々としたとかいう、一般的に女性を褒める形容詞がまるで似合わない女である。
 ショートにした髪がこよなく似合い、今でも相棒の小説家・天野優と並んだら、カップルにしか見えない。男顔で男物のスーツを着こなし、ローファを履いても、身長一七〇の真一より頭半分低いだけの身長だ。
 体型も男っぽいのかと思いきや、真一はこの腕に抱きしめて初めて気がついた。実は豊満なプロポーションを目立たないように隠していたのだ。見ためと立ち振る舞いで案外気づかないけれど、男としては嬉しい誤算だった。
 思わず脂下る己に気づいて、真一は渋面でわざと首を振ったが、久村夫妻は誤魔化されてはくれなかった。
「すぐに可愛いお子様が授かりますよ」
 真一は初な少年のように頬を染めて恥じらいながら、たどたどしく言った。
「妻にとっても莉奈は親友の娘でして」
「そうですか」
「あの、先生。あの娘さんが元気づけてくれるなら、聖も安心して手術を受けられるのではないでしょうか」
 確かに莉奈の歌が聖を元気づけるとは思う。
 だが、それでも。
「見た目は確かに元気ですが、手術の成功率があがるわけではないんですよ」
 厳しい真一の言葉に、夫妻は一瞬怯んだように顔を伏せた。
 けれど、意を決したように久村は真一を見つめた。
「私どもは、覚悟を決めました。このままでも、息子が助からないのなら、親としてできるだけのことはしてあげたいんです」
 夫婦でよく話し合った結果なのだろう。
 佳織も夫の傍らでこっくりと頷いた。
「畏まりました。それでは書類に署名と判を」
 ただでさえ難しい手術だ。手術がかえって息子の命を縮める可能性もありうる。幼い身体にメスを入れるのだから。
 それでも手術を依頼するという内容の書類を受取りながら、真一はただ、できる限りのことをすると告げるのが精一杯だった。


 久村夫妻が診察室を出ていって一時間ほどした頃に、ひょっこり莉奈が現れた。
 腕時計の針は九時近い。真一の咎める視線を先回りして少女は告げた。
「ママには河口先生のところに行くって言ってきたから大丈夫だよ」
 どうせボディガードがわからないようについてきたのだろうが、子供がふらふらと出歩く時間ではない。それに締切りに追われている天野優が娘に構える状態でない可能性もある。
 案の定、すぐに机上の内線が鳴った。北原優子こと[小説家 天野優]のエージェントをしている水原玲、本名河口玲からの外線が入っているという、受付からの連絡だった。
「訳を聞いたら送って行くから、君は優子君の傍にいなさい」
 そう受話器の向こうの妻に告げ、首をすくめて電話が終わるのを待っていた莉奈に向き直り、真一はため息をついた。
「置き手紙一つで家を出てきたって、どういうことだ」
 莉奈は黙って俯いている。
 両親とも共働きで他人の中で過ごす時間が多かった北原家の子供たちだが、二人とも比較的素直に育っている。特に莉奈に関しては、持って生まれた大らかさで、たいていのことは乗り切ってきたのだ。
 こんな風に黙り込む少女を見たのは真一にとって六年ぶりだ。
 そう、莉奈の[王子様]がなくなった時以来だ。
「わかった」
 そう言って真一は少女から視線を外すと、再度内線電話の受話器を取った。
「急用ができた。何かあったら携帯に直接連絡してくれ」
「先生? 御用があるの?」
 弾かれたように視線を投げる少女の髪を、真一は愛しげに撫ぜた。
「そう、大事な用があるんだ。莉奈とお出かけするっていうね」


「ここなら、大声で歌っても大丈夫だよ」
 真駒内公園の駐車場に車を停めて、夜の公園の真ん中まで歩いてきたところで、真一は少女に告げた。
「どうして?」
 心底不思議そうに莉奈は訊いた。
「さあ、どうしてだろうね」
 ただ歌うだけならカラオケボックスでもいい。けれど、莉奈が聴かせたいのは、遠い場所にいる人間だ。春の星座が瞬く広い場所がふさわしいそう思っただけだ。
 本当はどこで歌っても、神沢俊広は莉奈の歌声を聴いているのだけど、それが理解できるなら、こんなに悲しい顔をしないだろう。
「綺麗な星空」
 泣きそうな顔で見上げながら莉奈は言った。
「俊ちゃんは亡くなったけど、莉奈に歌をいっぱい残してくれたよね」
「婚約破棄の慰謝料としてね」
「莉奈はただ歌っただけなのに、あの子は泣いたの」
 真一は黙って頷いた。
「さっき、聖君の病室寄ってきたら、大きな手術を受けるんだってそう聞いたわ」
「精一杯頑張るよ」
「でも、駄目かもしれないんでしょう?」
「人の命の長さは神様が決めるんだ。成功率が一%でもある以上、僕は仕事を投げ出さないよ」
 真一が名医と呼ばれているのは、何も医者として腕がいいからだけではない。たとえ死なせたとしても、その誠実さが患者や遺族に伝わるからだ。
「俊ちゃんの時ももちろんそうだったよね」
「どんなことをしたって死なせたくなかった」
 けして傍目には仲が良いように見えずとも、真一にとって俊広は掛け替えのない親友である。誰よりも自分のために生きていて欲しかったし、それ故にもう手の施しようのない状態で自分の元に来た俊広を、ずいぶん恨んだものだ。
「結局何もできなかったけどね」
 莉奈は大きく首を横に振った。
「莉奈だって歌うしかできなかった」
「それのどこがいけない? 僕が莉奈が病院で歌うのを止めなかったのは、患者さんの容体が良くなることもあるからだよ。医者ができることなんか限られているけどね」
「でも莉奈は俊ちゃんや、由之君みたいに上手に歌えない」
「でも、歌うの好きだろう?」
 莉奈はこっくりと頷く。
「聖の両親は、成功率の低い手術だからって、ずっと迷っていたんだ。けれど、莉奈の歌を聴いてはしゃぐ聖を見て、手術を受けようと決めた。もしかしたら助からないかもしれない。けれど、治るかもしれない」
「それは莉奈のせいなの?」
「きっかけは莉奈の歌だったけれど、決めたのは自分たちだ。だから、仮に駄目だったとしても、莉奈のせいではない。自分で選ぶってそういうことだろう?」
 少女はこっくりと頷いた。
「だから、莉奈もちゃんと自分で決めなさい。莉奈が歌手になることは、いろんな人が莉奈の歌で心を動かすことに繋がる。それ自体はけして莉奈の責任ではないけれど、歌手になったのは自分の責任だからね」
「莉奈が歌って、いろんな人が心を動かすのは、悪いこと?」
 少女は真摯な眼差しで問いかける。
「莉奈は俊広や由之の歌を聴いて、笑ったり、泣いたりしたけど、それが悪いのかい?」
 少女は即座に大きく首を振った。
「俊広はもういないけれど、いつでもCDで歌声は聴けるし、その度に莉奈は奴が大好きになる。それは悔しいけれど、すごいことだと思う」
 少女は満面の笑顔で頷いてみせる。
「でも、莉奈。先生のことも大好きだよ」
 無邪気な少女の言葉に真一は笑った。
「それに、先生は病気で苦しんでいる患者さんをちゃんと治しているよね。莉奈や俊ちゃんには出来なかったことだよ」
 そう告げて、莉奈は笑った。
「ありがとう」
 真一の言葉に頷くと、莉奈は星空を見上げて歌い出した。
 [天使の歌声]だと真一は思う。
 商業ベースにこの歌声を乗せることが、本当に「いいこと」かどうかはわからない。けれど、この歌声で自分が今癒されているのは紛れもない事実だ。
 莉奈はただ無心に歌っている。
 それで十分だと真一は思った。
 何曲そうして[天使の歌声]を聞いたかわからない。
「真一さん」
「河口先輩」
 呆れた声が真一を正気に戻した。
「ママ、玲さん」
 どう見ても男女のカップルにしか見えない二人連れが、夜の公園を早足でこちらに向かってくる。
「仕事、終わったのかな」
「おかげさまで」
 皮肉っぽく男装の美女が答える。
「さあ、もう帰る。お医者さんがついてて子供に風邪を引かせる真似をしてどうする」
「玲、河口先生は莉奈のわがままに付き合ってくれただけよ」
 優子が柔らかい笑顔で親友を嗜めた。
 優子から莉奈が夜遅く飛び出した訳を聞いているだけに、玲も強くは言えない。
「でも、莉奈、河口先輩にちゃんとありがとうって言わなきゃ駄目よ」
 少女は素直に頷いて、大好きなお医者様に向き直った。
「莉奈を元気にしてくれたのは、河口先生だよ。ありがとう」
 真一は少女の笑顔に相好を崩す。
「帰ろうか」
 莉奈は素直に頷いて歩き出した。
 ふと星空を仰ぎ、真一に問いかける。
「先生。俊ちゃんに莉奈の歌、届いたかな」
 真一はただ頷いてみせた。
 代わりに母親が振り向いて答える。
「莉奈がちゃんと歌ったんなら、届くわ。だって、俊ちゃんは莉奈の[王子様]なんだから。いつでもどこにいても莉奈を見てるわ」
「うん」
 そう頷いて、莉奈は綺麗な笑顔を満天の星空に向けた。
 それから数日後、聖は莉奈の莉奈の歌声を子守歌に麻酔の眠りに落ちた。河口真一は、持てる伎倆の全てを費やして真摯に執刀した。長時間に及ぶ手術の結果は、しかし残酷なものだった。
「力を尽くしたんですが、申しわけありません」
 謙虚に謝罪の言葉を告げる医者を責めるわけには行かず、ただ泣き崩れる若夫婦を前に、真一は頭を垂れるだけだった。


 久村聖の初七日が過ぎたある日、莉奈は久村家に招かれた。
「よく、来てくれました」
 きちんと正座をして仏壇に線香をあげる少女に、聖の母、久村佳織は深々と頭を下げた。
「莉奈さんのおかげで、聖は子供らしい時間を過ごすことができました。病院を抜け出して、河口医院長を困らせるなんて、そんなことまでしていたなんてびっくりしましたけど」
 なんと答えていいのかわからずに莉奈は黙り込んだ。
「莉奈さんにもわがままを言ったんじゃないんですか?」
 そう言いながら、佳織は応接ソファーに座るように莉奈を促した。
「そんなことはないです」
「正直に言って下さって構わないのよ」
 莉奈は大きく首を横に振った。
 確かに少しは困りはしたが、今となっては懐かしい痛みだ。
「今日はね、お願いがあってお招きしたの」
 莉奈は頷いた。
 事前に莉奈は真一から聞いている。聖に聴かせた歌を母親である佳織も聴きたがっていると。
「その前に一つ聴いていいですか?」
「何かしら」
 佳織はそっと首を傾げる。
「もし、私が歌を唄わなければ、聖君は手術をしなかったんでしょうか?」
 間接的に自分が聖の死に関わったのじゃないかと、莉奈はそれだけが気がかりだった。
「そうね。確かに聖は手術をしなかったかもしれない。でも、可能性の問題を考えたら、人間は何もしちゃいけないじゃない」
 佳織はきっぱりと言った。
「そんなことを言うならね、体の弱い子を産んだ私の責任まで発展しちゃうわ。だけど聖は生まれてきたし、あの子はあの子なりに精一杯生きたの。そうよね?」
 莉奈は大きく頷いた。
「聖君、いい子です。私のこと天使みたいだって言ってくれたけど、でも聖君の方が天使だと思う」
「ありがとう」
 佳織はそう言って綺麗な笑顔を向けた。
「じゃあ、歌ってくれるわね」
 莉奈はこっくりと頷くと、聖に初めてねだられた[夏服の午後]を歌い出した。
 佳織は茫然とその歌声に聴き入った。
 歌い終えた時、佳織の目に涙が溢れていた。
「この歌、ずっと忘れてた。私が学生時代に好きで良く聴いていて。そういえば、あの子がお腹にいる時にも、鼻唄混じりに歌っていたかもしれないわ」
「そうなんですか。聖君この曲が一番好きだって。一番最初に歌って欲しいって言われたのも、この曲だし」
「莉奈ちゃん、歌手になるの?」
 莉奈はためらいがちに頷いた。
「でも、誰かのためじゃなくて、自分でなりたいんじゃないと駄目だって」
「それは当然だわ」
 佳織は涙を拭って言った。
「でも、もし莉奈ちゃんがなりたいと望んでくれるなら、私もその方がいい。だって、天国の聖のために莉奈ちゃんのCDをかけてあげることも出来るし。でも、決めるのは自分よ。聖が、あの小さい子が自分で自分の運命を決めたように」
(僕、手術に行ってくるね)
 莉奈の耳に、麻酔で眠りつく前の聖の声が蘇った。
 黙り込む莉奈に佳織は言った。
「[夏服の午後]はありふれたラブソングよね。でも莉奈ちゃんが歌ったことで、聖は勇気をもらったの。それは凄いことだと思う。難しいことはよくわからないけど。でも凄いことだと思うわ」
 莉奈は顔を上げた。
 その頬に涙が零れそうなのを見て、佳織は驚いた。
「ごめんなさい。急用を思い出したんで帰ります」
 不意に立ち上がった莉奈の言葉に、佳織はこっくりと頷いた。


 愛娘からの急な電話に驚きながらも、北原敬一は携帯の通話ボタンを押した。
『パパ。莉奈ね、歌手になる』
「宿題は出来たのか?」
『莉奈が歌って、それで誰かが喜んでくれるなら。何かが伝わるなら、何もできなくてもいいよね』
「莉奈が歌いたいなら、それでいいよ」
『うん、莉奈が歌いたいの』
 迷いのない声に、敬一は「それでいい」と返し、近日中に日本に戻ると告げた。
 携帯から愛娘の声が途切れると、敬一は深いため息を零した。
 自分が娘に課した宿題はどうやら終わったようだが、亡き親友から託されたもう一つの宿題はまだ終わっていない。
 莉奈のデビューまでに神沢俊広の代わりになるピアニストを捜す必要があった。
 意を決して敬一は卓上の受話器を取り上げた。


 二年後。
 真駒内青少年会館で、関係者のみを集め、北原莉奈はミニコンサートを開いた。
 今は亡き神沢俊広が実質的なデビューを果たした場所から、歌手としての一歩を踏み出したい望んだのは少女自身だった。
 [ありがちなラブソング]を唄った後で、莉奈は拍手の中、深々と一礼した。
「初めまして、北原莉奈です。小さい頃から歌うことが好きで、今は亡き俊ちゃんこと神沢俊広さんのピアノに合わせて、無邪気に歌いながら、いつか歌手になるって決めてました。その時はそうしたらずっと彼と一緒にいられるって、それだけ考えていたような気がします。八年前、彼は私を置いて遠くに行ってしまいました」
 客席が水を打ったように静まり返った。
「それでも歌手になろうと思ったのは、今でも彼の曲が、ここにいるみなさんを始め、多くの人たちを動かしているからです。一つ一つは今私が歌ったような[ありがちなラブソング]に過ぎません。本当にたあいのないただの歌です。でもこうして歌うことで、彼の想いを引き継ぐことが出来ればと思います」
 静かな客席に拍手が沸き起こる。
 ふっと、薔薇の香りがした。俊広が愛用したグランドピアノがステージ上に用意され、その上に赤い薔薇のブーケが置かれている。
 俊広が一番愛した花の香りは、莉奈に[王子様]の存在を確信させた。
 目は見えない、声も聞こえない、ましてや手に触れることもできない。
 けれど[神沢俊広]は確かにいた。
 そしてこれからも莉奈の心の中にいる。
 故人の代わりに、今日は相澤拓哉がグランドピアノの弾き手として舞台に立っている。
 そもそも[神沢俊広]を歌手にしたのは、この男だ。よもや、自分より先に逝くなんて思わなかったと嘆いたが、持ち前の快活さで今は[北原莉奈]のチーフプロデューサーだ。
 相澤の指がピアノのキーを叩く。
 莉奈は微笑みを浮かべ、軽く一礼すると、[天使の声]で歌い出した。
 愛する誰かのため、目の前の観客のため、そして誰よりも自分が「歌いたい」から。
Fin