第四章 虚心
結局、夕食が運ばれるまで、莉奈はねだられるままに歌を歌った。
その度に、聖は素直に喜び、時には涙を零した。
挙句の果てに帰るなと駄々をこねる聖にまた来るからと宥めすかして、二人は病室を後にしたのだ。
「あの子、どこが悪いの?」
お礼に夕食を奢ると、真一が連れてきたのはクリスティだった。
ところがカウンターの中で気晴らしをしていたのが、莉奈の母親だったものだから、子供たち二人の口に入ったのは、結局は北原家の家庭料理だったりする。
「優子君悪いね。これじゃお礼にならないよ」
「何言ってるの、先輩。莉奈がお世話になってるんだから当然でしょう」
仕事に煮詰まると、行きつけの喫茶店である[クリスティ]で、軽食を作るのがこの母の昔からの癖だ。ここのマスターも古くからの常連客である優子の好きにさせてくれている。
だから、二人とも今更驚かない。まして、メニューにあるものは好きに注文していいとなれば、大人達の会話をよそにカウンターに陣取り、楽しそうに今夜の夕食を選び始めた。
「莉奈はカルボナーラにする」
つい先日、自分で作ろうとして失敗したメニューを莉奈は宣言した。
そのいきさつを教室で聞かされていた偲が、くすりと笑って「じゃあ、私も」と告げる。
「偲ちゃん、別に莉奈に合わせなくてもいいのよ?」
「ううん。優子ママのカルボナーラ、食べたいから」
「そう言われると、僕も食べたくなるな」
と、真一も柔和な笑みを浮かべた。
「じゃあ、腕によりをかけますか」
結局、三人前のカルボナーラを作ることになった優子は、そう言って無邪気に笑った。
手際よく作られたカルボナーラを、三人は嬉しそうに口に運んだ。
パスタ皿の半分までカルボナーラを片付けた莉奈の手がふと止まった。
「先生、あの子、どこが悪いの?」
カウンターで優子と向かい合って世間話をしながら食を進めていた真一が、テーブル席の子供たちを振り返った。
「肺だな。小児喘息だよ」
「そんな風には見えないけど」
「ここのところ容体が安定してるからね。でも油断は出来ない。だから莉奈を呼んだんだ」
「なんで?」
まっすぐな眼差しで少女は問いかけた。
「聖が莉奈を捜して病室を抜け出すから、莉奈を連れてくる代わりに、脱走しないと約束させた」
「どうりで泣くほど感動してたわけだ」
納得したように偲が呟いた。
「え?」
カウンターの中で優子が怪訝な顔をする。
「あのね、ママ。聖君、莉奈の歌聴いて泣き出したの」
「ああ、そうなの。良かったわね」
ふんわりとした笑顔でそう答える母親に、莉奈は素直に頷いた。それから、カウンターの河口医師を振り仰いで訊く。
「先生、あの子、治るよね?」
「何言ってるの、莉奈。いくらあの部屋だからって、そんな言い方」
偲の言葉を優子は遮った。
「あの部屋って?」
真一は沈痛な面持ちで、優子の問いかけに答えた。
「聖が入院してるの、五六号室なんだ」
その数字に優子の顔が陰る。
けして忘れられない河口医院の個室のナンバーだ。
「ねえ、先生あの子治るんでしょう?」
いつもなら大好きな優しい笑顔で大丈夫とすぐに答えてくれるはずの名医は、二度目の莉奈の問いかけに、暗い顔で首を横に振った。
「先生、それ悪い冗談だよね?」
偲も縋るような視線を投げるが、河口医師の答えは変わらなかった。
「今度、悪性の発作を起こせばアウトだ」
莉奈の目から涙が零れ落ちた。
「莉奈、僕は人が言うような名医じゃない。ただの医者だよ。だから、六年前も俊広を治せなかった」
「だってあれは先輩のせいじゃないわ。コンサートの夜に初めて倒れて河口医院に担ぎ込まれた時には、もう手の施しようがなかったんだから」
「……ママ、それ本当?」
莉奈の顔色が見事なほど青く変わった。
衝撃で、涙が止まっている。
六年前、あの病室で大好きな[俊ちゃん]が亡くなった時、莉奈はけして真一を責めなかった。俊広が入院して以来、真一が賢明に治療をしていたのをこの目で見ていたし、何より、自分と同じくらい嘆くのを見てしまったから、責める言葉が浮かばなかった。
でも、最初から治せないほど悪いとは露も知らなかったのだ。
自分の失言に気がついた優子だが、怖い目で睨つける娘から目を逸らさず、真剣な顔で見つめた。
「じゃあ、みんなで俊ちゃんを騙してたの?」
「そうじゃないわ。莉奈」
「だって俊ちゃん、莉奈に言ったもの。『真一が治してくれるから、大丈夫だ』 そう莉奈に言ったもの。……言ったもの!」
言葉を発するにつれて感情を取り戻した莉奈は慟哭した。
「莉奈ちゃん」
カウンターの内側で静かに事の成り行きを見守っていたマスターが、テーブル席にやってきて、ホットミルクを泣きじゃくる莉奈の前に置いた。
「マスター?」
「まずはこれを飲みなさい。偲ちゃんにも今持ってきてあげるからね」
別段猫舌ではないが、すぐに飲めるようにと人肌よりちょっと熱いくらいに冷ましてあるミルクを、莉奈は口元に運んだ。
微かにブランディの香りがする。
「マスター、それ私にももらえる?」
「僕には生のままのブランディを」
優子は軽く咎めるような目で真一を見たが、何も言わなかった。
「大丈夫、酒に酔って誤魔化す気はないよ。莉奈はあの頃の子供じゃないし、いずれはちゃんと話さなきゃならないとは思っていたんだ」
「どういうこと?」
泣き顔のままの莉奈が問う。
「……つまり、神沢さんは、自分が死ぬって知ってたんだね」
同じく蚊帳の外に置かれていた偲が低い声で告げた。
「知らなかったのは子供たちだけだったってことだね。そうでしょう?」
カウンターに群がってる大人を睨つけて偲はそう言い放った。
「そうよ。だけど、それが俊の願いだったの」
カウンターの内側で、優子は毅然と子供たちを見つめた。
★
「その方がいいと思うんだ。特に莉奈には」
病院を抜け出して[クリスティ]のカウンターで煙草を燻らしながら俊広は言った。
「お前はいいだろうさ」
この上もない不機嫌な顔で、禁煙の忠告を平然と破る自分の患者を睨つけて、真一は毒づいた。
「全てばれた時には地獄の釜の中だ」
「なんで地獄なのかな」
楽しそうに俊広は幼馴染みを見つめた。
「おまえ、天国なんて行けると思っているのか? 図々しい」
「まあ、その辺にしとけよ」
愛娘を膝の上で眠らせてご満悦の北原敬一がテーブル席で笑う。
「それよりも、俊、本気なのか? 莉奈のために、全財産残すって」
「お前にやるんじゃないよ。別に半分は彬のために使っても構わないが」
「だって、神沢の家は?」
煙草をクリスティと店名が入った陶器の灰皿でもみ消しながら、俊広は答えた。
「僕が[神沢俊広]として書いた詩曲に関する一切の権利だ。まあ、全財産といっても構わないけど、神沢の家には関係ないものだ。婚約不履行の代償としては当然だろう?」
膝の上で眠る少女は、あろうことか自分の父親より年上の男の[お嫁さん]になると宣言して憚らない。
物心ついてまもない女の子というものは、一度は自分の[パパのお嫁さん]になりたがるものだが、普段家にいない父親ではその対象にはなれなかったのだ。まして、パパ代わりの血の繋がらない独身貴族じゃ、『パパとは結婚できないんだよ』という常套句も使えなかった。
愛娘をかっさらわれた、父親は苦い顔で頷いた。
「莉奈は将来アイドル歌手になるんだから、あって邪魔にはならないだろう?」
更に言葉を重ねる[娘の婚約者]に、敬一は憮然と言い放つ。
「自分の意思で誰の意見にも左右されないで、莉奈がどうしてもなりたいっていうんならな」
「そりゃそうだろう。僕だって、莉奈の自由意志を蔑ろにする気はない」
俊広はノンアルコールのカクテルを手に嘯いた。煙草はともかく、アルコールは投薬されてる薬の副作用を促進する可能性があると、真一がマスターに念を押したのだ。それにクリティには下戸の優子のために、以前からノンアルコールのカクテルが数種類用意されている。
「でも今のままじゃ、[俊ちゃんのために]歌手になるって言い出すに決まってる」
「敬、そこを何とかするのが、父親の役目だろう? 僕は莉奈の[王子様]だからね。姫の願いを叶えるために出来るだけの努力をせっせとするだけさ」
俊広は何も知らずに眠っている幼い婚約者を愛しげに見つめた。楽しげな表情が溢れ出す悲しみにとって変わる。
「言えるわけがないよ。泣かせるってわかってて、僕がもうすぐいなくなるなんて」
莉奈は今年中に七つになる。それでもまだたった七つでしかない。
それが嘘だとわかる日が来るとわかっていても、世界が優しくて楽しいものだと信じさせてやりたいと思うのは間違いだろうか。
「俊は嘘が得意だものね。その甘い声でいったい何人の女を騙してきたのかしらね」
いつまでもこんな戯言を言っていたいという思いを胸に秘めながら、優子は女の表情で軽く咎めるように告げる。無論、本気じゃない。夫である敬一も大きく頷いた。
「……人聞きの悪い。確かに僕は遊び人だけどね。優子さん、少なくとも君を騙した覚えはないけど?」
「そうだったけ?」
楽しげに優子は笑った。泣きたい想いを隠しながら。
「だから、莉奈のためにだけつく、たった一回の嘘を見逃してくれるだろう?」
そう告げて優子の大好きなとびきりの笑顔を浮かべると、神沢俊広はグラスに満たした、いくら飲んでも酔わない紫色のカクテルを空にした。
★
「優子ママ、それ本当なの?」
一通りの話を聞いた偲は、話が終わるなりそう訊いた。
「いくら三文小説家だからって、こんな嘘つかないわ」
優子はそう告げて同意を求めるように真一を見つめた。患者を助けられなかった名医は苦い顔で頷いた。
「今の莉奈や偲だったらあるいは、ちゃんと話せば俊広の痛みや苦しみを分かち合えたかもしれない。でも、幼なかったお前たちには無理だと思った。今でもあの判断が間違っているとは思わない」
生真面目な表情に痛みをにじませて真一は告げた。
莉奈は泣き顔のまま大人たちの顔を順に見つめた。
その顔が自分の母親で止まる。
「今だって莉奈は、一度しか逢っていない男の子がもうすぐ死ぬって言われて泣くほど動揺したでしょう? そしてすぐにはそれを受け入れられなかった。そうよね」
「でも」
そう言って莉奈は必死に言葉を探す。
「莉奈、一度耳にした言葉はけして聞かなかったことには出来ないわ。まして、俊が助からないのは、どんなにそれを否定したくても嘘にはならなかった。そして、小さかった莉奈や偲にそれが受け入れられないのは、誰の目にも明らかだった。だからなのよ」
そこに悪意は微塵もなかった。大人たちがそう言いたいのは、莉奈にも理解は出来る。だからといって、痛みが薄れるわけではない。そう、一度耳にした言葉は取り消せはしないのだから。
「ねえ、莉奈。あなたの大好きな俊ちゃんが莉奈を悲しませたいと思う? 目の前で泣かせたいと思う? 違うでしょう? 莉奈を泣かせないためなら、どんなことでもしてくれたでしょう? 覚えてるわね」
「うん」
莉奈の瞳からまた別の涙が溢れてきた。
大好きな俊ちゃん。どんな時でも莉奈の味方だった。
「莉奈が俊を大好きだったように、ううん、莉奈が彼を大好きだった以上に、俊は莉奈が大好きで、大事だったの。誰よりもね。だって、俊は莉奈の[王子様]だったんだから」
「うん」
「莉奈はこのことで俊を嫌いになる?」
莉奈は即座に頭を振った。
「莉奈が、俊ちゃんを嫌いになるわけないじゃない」
「だったら、僕たちのことも嫌わないで欲しいな」
すっかり優子にお株を奪われた形の真一が言った。
「僕だって莉奈や偲を大切に思っているよ」
「私のことも?」
すごく意外な顔で偲が言った。
ショートカットの娘を愛しげに見つめて真一は言った。
「何を言ってるのかな。この子は。いつも言ってるだろう? 僕は自分の患者を嫌いになった覚えはないよ。それに、俊広だって偲について責任があるしね」
「うん、私のママをニューヨークで助けてくれたって聞いてる」
偲を一人で育てられないと嘆く十九の娘から、赤ん坊を預かり、彼女の弟への橋渡しをしたのが、ニューヨークレコーディングで彼女に逢った神沢俊広だった。
実の叔父の手前遠慮していたきらいはあるが、竹本由之が仕事で忙しくて偲を放っておくたびに、俊広は本気で彼を叱り、良く面倒を見てくれたものだ。
そんな偲から見ても俊広の莉奈への溺愛は特別だった。
そう、彼の死の直後にぶり返した噂を信じたくなるほどに。
曰く、莉奈は天野優と神沢俊広の間に出来た罪の子だと。
それが真っ赤な嘘だとわかっている偲でさえ、一瞬信じたくなったほどに、俊広は莉奈を可愛がっていたし、誰よりも愛していた。
そんな偲の夢想を打ち破るように、沈んだ優子の声が響いた。
「先輩、私だって」
「優子ママ?」
「私だって知らずにいたかったわ。俊が末期癌だなんて知りたくなんてなかった。先輩が俊を助けてくれるって信じていたかったわ」
「優子君……」
「……ママ」
真一の声に莉奈の呼び声が重なった。
優子は愛娘を優しく見つめた。
「だからママは莉奈にはそう信じていて欲しかったの。俊が助かるって、そう信じて欲しかったの。偲ちゃんにもね」
莉奈も偲も、もう文句を言うことは出来なかった。
ずっと黙ってたマスターが、全員に今度はミルクティを運んできた。真一には多目に他のカップにはほんの少しだけブランディが垂らしてある。
全員黙り込んでミルクティを口に運んだ。
甘いはずのミルクティは、いつもより少し苦く感じた。
それがブランディのせいじゃないことくらい、子供たちにも良くわかっていた。