第一章 発端
むしゃくしゃして眠れないなら、いっそ眠らない方がいい。
麻田未由は、勢い良く身を起こすとベッドから抜け出した。
枕許の時計は、午前五時を少しだけ回ったところ。夏至に向けて、夜明けの時間は日一日と早くなっているから、外はもう明るい。早起きの雀の囀りを聞きながら、ベッドの下に脱ぎ捨てたままのシャツを手に取る。簡単な洗顔を済まして、髪をブラシで整えただけで、部屋に戻る。財布などが入れっぱなしになったショルダーバックを肩にかけ、アルトサックスのケースを片手に玄関に向かう。
リビングに置かれた電話の留守電サインが点滅しているのが、視線を掠めた。
未由はため息一つついただけで、足を玄関に踏み出していた。スニーカーの靴紐を絞めたら、準備OK。ドアを開けると、少しだけ冷たい朝の空気が心地好かった。
目的地は、市内でも指折りの大きな公園だった。ボートで遊べる池と、音楽ホールを含めた広大な敷地に、人影はまばらだった。
未由はベンチに腰を降ろすと、アルトサックスをケースから取り出した。唯一と言っていい宝物だ。どうしても自分の力で手に入れたくて、生まれて初めてアルバイトをして手に入れた。楽器の値段としてはそれほど高いものではないが、学生にとって三十万という金額はけして安くはない。
マウスペットをつけて未由は立ち上がった。深く空気を吸い込み、マウスペットを咥えるとそっと息を吹き込む。
朝の公園にアルトサックスの深い音色が響き出した。
☆
それは突然の出来事だったけれど、けして不快ではなかった。
未由の奏でるアルトサックスの音色に、少女の歌声が重なったのだ。
サックスの音色にけして負けない声量だけれど、邪魔をしているのではない。むしろ気持ちのいいほど溶け合っている。
ふと声の主を見つめると、セーラー服の少女がにっこりと笑いかけた。無垢な笑顔に釣られて、こちらも笑顔になる。
少女は悪戯な笑みを零すと、高らかにサビを歌い上げた。
故人となったアーティスト、神沢俊広のソロデビューアルバムの一曲だ。ある意味、かなりマニアックな選曲なのだが、少女は歌詞の間違い一つせず、堂々と歌い切った。
「よく、こんな歌、知ってたね?」
未由は心底驚いて尋ねた。
少女はきょとんとした顔をした。まるで、1+1はどうして2なの?と訊かれた数学教師のような顔だった。
「だって、シュンちゃんの曲だもの」
少女の答えは単純明快だった。
「それより、もう一回一緒に歌おう?」
「同じ曲でいいの?」
「莉奈、何でもいいよ」
未由は少し意地悪な気分になって、高崎美雪の[ガラスのマーメイド]を吹き始めた。これも神沢俊広のプロデュースの曲だ。ところが少女は戸惑う素振りも見せずに歌い出した。
★
見つめていても あなた
すぐに目をそらすのね
プールサイド
デッキチェアーにもたれた
あなたが微笑む
遊びの相手ならば
声かけないさと あなたは言うの
だけど 瞳の奥
誰かの残像(かげ)があること
私 気づいているわ
水しぶきをあげて
あなたの心の海を
泳ぎたいの
だけど 私
強く抱いたら
砕け落ちる
ガラスのマーメイド
夕暮れのカフェテラス
名前呼び違えたわ
心の奥に
ささった刺が痛いの
あなたが好きです
誰の代わりでもいい
傍にいれるならば
そう叫んでみても
別の私が 心の奥で
ガラスのナイフ翳すの
お願い 強く抱いて
砕け散るくらい
誰かの残像(かげ)を 打ち消すほどに
だけど 私
何もいえずに
砕け落ちる
ガラスのマーメイド
そうよ 私
強く抱いたら
砕け落ちる
ガラスのマーメイド
★
「莉奈!」
そう名を呼んで、同じ制服姿のショートカットの少女が駆け寄って来た。
「あんたまた、こんなところで歌って」
「だって、このお姉さん、莉奈が一緒に歌っていいってちゃんと言ったよ?」
ほんとかと目で問いかけるショートカットの少女に、未由は深く頷いた。
そもそも公園で歌うことに、そんなに目くじらを立てる理由がわからない。
「全然自覚ないんだから。とにかく、学校行こう」
「待って、偲」
友人を待たせたままで莉奈と言うらしい少女は、未由にこう尋ねた。
「お姉さん、今日の四時に、ここでもう一度逢えるかな?」
学校が終わる時間がちょうどそのくらいなのだろうか?
未由は何も考えずに頷いた。
「約束だよ」
莉奈は何故か念を押すと、先に歩き出した友人を駆け足で追いかけた。
それが、麻田未由と北原莉奈の出逢いだった。
☆
四時に少し早い時間にセーラー服の少女は約束通り未由の前に現れた。
そして満面の笑顔で少女はこう訊いた。
「お姉さん、莉奈が一緒に歌うの好き? 莉奈の歌に合わせてサックス吹くの好き?」
少女と一緒の演奏は未由にとって心地好いものだった。だから、即座に頷いた。
未由の返事に跳ね上がって喜んだ少女は「じゃあ決まり!」と勝手に頷いて、そのままこの喫茶店まで連れてきたのだ。
少しくたびれた感じのする白木造りの喫茶店のドアを開けると、少女は開口一番こう宣言した。
「栗林社長、莉奈のバンドのサックスプレイヤー見つけたよ!」
カウンターを挟んで、未由と喫茶店のマスターが呆気にとられたのは言うまでもない。
先に正気に戻ったのは『栗林社長』と呼ばれた、カウンターの内側にいる男だった。
「コーヒーでいいですか?」
あくまでも喫茶店のマスターらしく、カウンターの椅子を未由に勧めながら、男はそう訊いた。
何が起きているかわからないまま、未由はカウンター席に腰を降ろした。
「……コーヒー」
辛うじてそう答えた彼女に男は、レジの下から名刺入れを取り出すと、一枚抜いてカウンターに置いた。
[オフィス栗林 代表取締役社長 栗林貴志]
それを未由はじっと見つめ、それから手際よくコーヒーを入れると男に目を移した。
確かにその字面に見覚えはある。確か、この名前は……。
「神沢俊広の所属事務所の社長さん?」
「良くご存じで」
ブレンドコーヒーをカウンターに置いて栗林は笑った。
「お姉さん、俊ちゃんのヘビーファンだよ。[マンハッタン・イン・ザ・レイン]を吹いてたから思わず歌ったら、次の曲は[ガラスのマーメイド]だったし」
「お嬢さん、お見受けしたところ二十代前半ですよね」
「もうすぐ二十二です。神沢俊広のファンになったの、彼の死後なんです」
「じゃあ、お姉さんに後でいいモノみせてあげるね」
喫茶店に着くや否や、学生鞄から取り出したPHSでどこかに連絡をとっていた少女がそう声をかけた。
幸い客は少女と未由しかいない。少女を客に数えていいのならの話だが。
「お名前を聞いていいですか? 僕がまさか莉奈のように『お姉さん』なんて呼ぶわけにも行かないし」
「麻田未由です」
「麻田さん、『北原莉奈』のサポート・ミュージシャンとしてサックスを吹いてもらえますか?」
未由は飲みかけのコーヒーを喉に詰まらせた。
マスターは慌てて紙ナプキンを一束、未由の前に置いた。
☆
喫茶店のカウンターに座り、麻田未由は呆然としていた。
「確かにメディアにそれほど顔を出しているわけじゃないけど、神沢俊広のヘビーマニアが気づかないほど、『北原莉奈』の顔が売れてないのは、問題だな」
クリスティとロゴが入ったエプロンをつけたマスターが苦い顔で笑った。
「そういえば、どこかで聞いたような声だったとは思っていたけど。でもまさか『北原莉奈』が登校途中に、公園でアルトサックス吹いてるストリートミュージシャンの曲に合わせて歌うなんて思わないでしょう」
「そういうことを平気でやるのが、莉奈の莉奈たる所以なんだけどね」
マスターの苦笑いに、莉奈がふくれた。
「だって、一曲目は思わず釣られて歌ったけど、二曲目はちゃんとお姉さんの許可取ったもん」
「私も気持ちが良かったし、一人で吹いてるよりもずっと楽しかったから、それは別に構わなかったけど」
栗林貴志は思案顔で、莉奈と未由を見比べた。
「莉奈、拓哉と連絡取れたかい?」
「ううん。なんか急にレコーディングの助っ人に入ったとかで、スタジオの場所は突き止めたけど、駄目」
莉奈の返答に栗林は軽くため息をついた。
「麻田さん、本気で莉奈とステージに立つ気ある?」
「それって、公園で好き勝手にサックス吹くのとは違いますよね」
未由は考え込んだ。
「別に違わないと思うけど」
少女が振り向いて答えた。
「お姉さんは、莉奈の隣で自分の好きなようにサックスを吹いてくれていいよ。もし、お姉さんがやりたい曲しか吹きたくないなら、それでも構わないし」
「そんな、我儘通るの?」
「だって吹きたくない曲吹いても、つまんないじゃない」
少女の言葉に迷いはない。
「麻田さん、連絡先教えてくれるかな。莉奈のプロデュースをやってる相澤拓哉を捕まえ次第、逢ってもらうから」
「それって、作詞家の相澤拓哉さんのことですか?」
栗林は驚き顔の未由に頷いた。
☆
「騙されてるんだよ」
部屋に帰ってくるなり、冷蔵庫の缶ビールを取り出して、一気に空けた男が断言した。
「北原莉奈って、もともとガード固くて、デビュー直前まで顔写真一枚出回ってなかっていう、折り紙付きの深窓の御令嬢だよ。からかわれたんだよ。決まってるじゃんか」
ビールくさい息を吐きながら男は言った。渡辺穣。本人は未由の恋人気取りだが、彼女の中では微妙な位置にいる。
その場にいたわけでもないのに、こんな風に決め付ける言い方が、時々無性に腹が立つのだ。もっとも、穣ならその場にいてもやはりこういうのだろうけど。
未由は、無邪気な少女の笑顔を思い浮かべた。
あれが嘘だとは思えなかった。
「大体、未由がそう簡単にプロデビューできるわけないじゃん。それとも、親父さんが裏で手を回したとか」
「パパが裏で手を回したからって、北原莉奈のステージに娘を立たせるなんて無理よ」
「だよな。北原莉奈くらい親のネームバリューが高ければ、また別だろがね。北原敬一の娘だってだけで話題にもなるし、アイドルなんて可愛ければ歌は二の次だろう? なんなら取引先にCD買わせりゃいいんだし」
穣は未由が苦い顔で睨むのに気がついて言った。
「そんな顔するなよ。現実なんてそんなものだって。未由だって、汚い親父さんのやり方に反抗して家を出たんだろう。だからさ、俺と結婚しよう? 麻田の名前なんて捨ててさ。贅沢はさせてやれないけど、サックス吹きたいなら、好きなだけ吹いていいよ。何もそんな胡散臭い話に乗ることないじゃないか」
「それとこれは、別だわ」
「未由、俺のこと嫌い?」
「嫌いじゃないわ。でも」
でも、結婚したいほど好きかどうかわからない。
穣が出してくれた缶ビールに手もつけず、未由は席を立った。
「ビール飲まないのか?」
「用事があるのよ。これから出かけるの」
「11時だぜ」
「遅くなるから、寝てていいわ」
「どこに行く」
「教えなきゃならないの?」
この部屋の持ち主は目の前の男だ。未由は家出娘で、この男の元に転がり込んだ形になっている。けれど、仕事のせいか遊びのせいか、穣自身は週の半分もこの部屋には泊まっていない。昨夜もいなかったし、どこで過ごしていたかも知らない。それを暗に皮肉った未由である。
「わかったよ。一緒に出よう」
「ついてくるの?」
「こんな時間に彼女が出かけるの止めないだけいいだろう」
「わかったわ」
それは勝手にしてという意思表示だったのだが、彼には通じなかったようだ。
未由は、鏡の前で化粧をすると、きちんとスーツに着替えた。 一枚きりだが、自宅から持ち出しておいて良かった。部屋から出てきた未由を見て、男は眉を寄せた。用事といってもせいぜい買い物か、飲みに行くか。いずれにしても大したことではないと思っていたのだろう。デートに行くのかとも取られかねない未由の装いに、穣は眉を寄せた。
「どこに行く気だよ?」
「あなたに関係ないでしょう?」
喩え騙されているとしても、目の前に放り出されたチャンスを確かめもせずに投げ出せるミュージシャン志願がいたら、是非お目にかかりたい。だけどそれを頭ごなしに否定した男に告げてみても仕方がない。
「どうしてそういうことを言う?」
「時間がないのよ。言い合っているヒマないし、そのつもりもないわ」
未由はそれだけ告げると、サックスのケースを片手に部屋を出た。
スーツに合わせてバックもフォーマルなものに変えたが、無骨なアルトサックスのケースは変え様もない。かといって置いていくわけにも行かないし。
穣はむすっと黙りこくったまま、一緒についてきた。
更なるアクシデントが起こったのは、未由がマンションの玄関を出た時だった。
遅くに帰宅した住人だと思い込んですれ違おうとした男がこう告げた。
「未由様。こんな時間にどちらにお出かけですか?」
「……明人」
咄嗟に未由の口から零れたのは、彼の姓ではなく名前の方だった。
だが、次に口にしたのは冷静な言葉だった。
「説明している暇はないわ。高瀬、あなた車で来たの?」
「そうですが?」
「じゃあ、今から言う場所に私を連れて行きなさい」
「私も同行して構わないのであれば」
「いいわ」
「おい、どういうことだよ!」
高瀬はこんな時間なのにきちんとしたスーツ姿だ。線は幾分細いが男にしては整った顔立ちも、穣の反感を買ったのだろう。未由との会話で二人が待ち合わせをしていた訳ではないと理解していなかったら、逆上していたかもしれない。
「あなたに飲酒運転させられないでしょう?」
「ビール一杯だけだろう?」
言い合いしている間に高瀬はマンションの表に車を乗り付けて、助手席のドアを開けた。未由が乗り込むと、穣は勝手に後部座席のドアを開けて同乗してきた。
「中島公園の近くにクリスティという喫茶店があるわ。そこに行って」
高瀬は頷くとバックミラー越しに男を一瞥し、車を発進させた。
☆
「お供が二人か。さすがに麻田さんちのお嬢様は違うね」
未由の後に続いて店に入ってきた二人の男を眺めつつ、相澤拓哉はそう言った。
「どうして?」
確かに未由は、相澤拓哉に逢う為にここに来た。
だが、事務所の社長を名乗る男に名前と連絡先を告げただけだ。佐藤・斎藤とまではいかずとも麻田なんて、珍しくもない名字だ。けれどこの男は、未由の素性を正確に把握しているようだ。
「未由様がこの約束をしたのは、いつですか?」
呆然としている未由に高瀬が訊いた。
「確か、六時過ぎだったと思うけど。でもこの店に来たのは今日が初めてだわ」
「それは何時ですか?」
「四時前に、莉奈ちゃんと公園で待ち合わせて、その後だけど」
「二時間あれば簡単な素性くらい調べはつきます。その上で、あなたと今夜逢うことを約束した。違いますか?」
最後の言葉は相澤に向けられたものだ。
「気を悪くしたなら謝るが、こちらも事情があってね。素性のわからない人間を莉奈の周りに近づけるわけにはいかないんだ」
「それは構いません。ただし、私の方でもあなた方のことを確認させていただきます」
「構わないよ。昔ならいざ知らず、生憎今は叩いてもそうそう下手な埃は出せないんでね」
「拓哉、その辺にしておかないか?」
ブレンドコーヒーを三人分用意したエプロン姿の男が、立ったままの客人をテーブルに促した。
「初めまして。麻田さんには昼間ご挨拶しましたが、栗林貴志と言います。この店のマスターが本職ですが、副業として音楽事務所の社長をしています」
コーヒーを配り終えた後で、エプロンのポケットから名刺入れを取り出し、彼は新顔の二人に名刺を渡した。
「未由、やっぱり担がれたんだよ。こんな街中の喫茶店のマスターが北原莉奈の所属事務所の社長のはずがないだろう?」
店に着くなりだんまりを決め込んでいた穣が、堰を切ったように話し出した。
「そっちの偉そうな男もグルだろう? 大方、麻田の令嬢が、家出してストリート・ミュージシャンの真似事をしていると聞きつけたんだろう?」
「真似事じゃないわ」
「こいつらにとっては同じことさ」
「心外だな。一応音楽で飯を食って二十年以上たつんだが。ここまでの暴言を浴びたのは初めてだ」
台詞とは裏腹に、楽しげな笑みまで浮かべて相澤が答えた。
「そっちのスーツのあんた。俺の身上調査をする前に、大事なお嬢様についた悪い虫を退治することの方が先じゃないのか? あんたは麻田の人間なんだろう?」
「ええ。申し遅れました。私は高瀬明人。株式会社麻田の秘書課課長代理です」
高瀬はそういって、栗林と相澤に名刺を渡した。
「悪い、俺は名刺がないんだ。肩書きが通用しない世界で生きてるんでね。相澤拓哉。作詞もするしプロデュースもしている。今は北原莉奈のプロデューサーだ。裏を取ってくれてかまわないよ」
「それは後ほど。未由様に何か?」
「そっちの彼は信じてないようだけど、北原莉奈がそこのお嬢様のサックスを気に入っていて、是非一緒にプレイしたいと言っている。そこでプロデューサーの俺がとりあえずお目にかかろうかと言う話だ」
「その話を信用したとしても、はたして未由様のサックスがプロとして通用するとは」
相澤はふっと不敵に笑った。
「高瀬さんだっけ? あんたの懸念はもっともだけどね。プロとして通用するレベルじゃないなら、そのレベルにあげてもらうだけさ」
いとも簡単に相澤は言ってのけた。
「もちろん、それさえも出来ないって言うんじゃ、話にならないけどね」
相澤はまっすぐに未由を見つめ、そう言い放った。
☆
ドアを開けると同時にドアベルが澄んだ音を立てた。レトロな仕掛けだが、それがこの店には妙に似合う。
「いらっしゃい」
カウンターの中でマスターがそう言って笑顔を向ける。
「今日は一人?」
カウンター席に腰を下ろした未由にメニューを手渡しながら、マスターがからかった。
「一人です」
反射的にそう答えて、未由は単身でこの店に来るのが初めてだと気がついた。
最初は莉奈に連れられてきた。昨夜は心ならずも同行者が二人もいた。
「昨日は失礼しました。渡辺さん、酷いことばかり言って」
未由がそう頭を下げると、マスターは一瞬虚をつかれた顔をした。それからやっと事に思い当たったのか「ああ」と頷いた。
「あれが普通の人間の反応でしょう。北原莉奈はアイドルである前に北原のご令嬢だ。その所属事務所の社長がこんなところで喫茶店をしているなんて思わないでしょう? むしろ、あなたがこの話にあっさり乗ったことの方が意外だったな」
「全く疑わなかった訳じゃなかったけど。子供の悪戯にしては手が込んでるし、かといってあの子が利用されているとも思えなかったから」
「なるほどね」
マスターは未由の前に氷を浮かべた水のグラスを置いた。
「アイスコーヒー下さい」
「かしこまりました」
「マスター、それとも社長さんと呼んだ方がいいのかしら」
「今は営業時間内だからね、マスターだよ」
メタルフレームの奥で悪戯な目を見せると、マスターは冷蔵庫から作り置きのアイスコーヒーと黒い氷を取り出した。光の加減で黒っぽく見えるが、どうやらアイスコーヒーを凍らせた物らしい。
「私はテストに合格したと思っていいのかしら」
未由は昨夜のことを思い起こしながらそう訊いた。まだ二十四時間たっていないなんて信じられない気がする。
「拓哉がどういうつもりだったかわからないけどね。僕はテストをするつもりなんか、はなからなかったよ」
「どうして?」
コーヒーキューブをグラスに転がし、上からコーヒーを落とす。馴れた手つきでマスターがアイスコーヒーを作るのを見つめながら、未由は訊いた。
「莉奈がスカウトしてきたから」
そう一言告げて、カウンターにコースターを滑らせると、アイスコーヒーのグラスを置き、ストローを差した。
「相澤さんが連れてきたならわかるけど」
「拓哉は現時点ではプロデューサーをしてるけれど、北原莉奈のバックミュージシャンとしての立場があ上なんだ。だから、余程のことがない限り莉奈の意思が優先される」
北原莉奈の名を騙って未由を騙すという渡辺の暴言よりも、未由にとっては信じがたい話だった。
未由は黙ってアイスコーヒーに口をつけた。ブラックのままだが程よい濃さが舌に馴染む。
「おいしい」
「ありがとうございます」
満更でもない顔でマスターは礼を言う。
「サックスプレイヤーを公園で拾ってくるのは余程の事じゃないの?」
「自分の才能を信じなさい」
マスターは音楽事務所の社長の顔で告げた。
「技術的な未熟さはレッスンでどうにでもなる。だけど感性はそんな付け焼き刃じゃ身に付かない。莉奈は歌い手になるべく僕らが育てた娘だ。莉奈の眼鏡に叶ったなら、問題ない」
「でも……」
「他に何の問題がある? まあ、麻田さんが莉奈を気に入らないって言うのなら、話は別だけど、そうじゃないよね」
未由は頷いた後、意味もなくストローでグラスをかき回した。コーヒーキューブが澄んだ音を立てる。けして行儀がいいことではない。ここに明人がいたら、即座に止めるだろう。
「返事は急がないと言いたいところだけどね、拓哉が張り切って、あなたの先生を捜してるんだ。駄目なら断らないと。あいつ、桜庭竹史に話をつけるみたいだよ」
未由は驚きの余り、グラスを倒しかけた。
「桜庭竹史って言いました?」
少しでもJ・POPSに詳しければ、知らぬものがいない若手のサックスプレイヤーだ。
「まあ、君が見つからなかったら、客演という形で彼を呼ぶつもりだったからね」
「そういえば、バンドのメンバーを聞いてなかったけれど」
「一応今は拓哉のバンドがバックを務めることになっているけど、ちゃんと、莉奈のための人間を揃えたいんだ。一応、ギターは目星をつけてるんだけど、今のところ正式なメンバーはあなただけかな。それまでは、拓哉がバンドの中心になるから、事前に麻田さんの音を拓哉が把握する必要があったんだ」
未由は店の左奥に置かれたアップライトのピアノを見つめた。
相澤拓哉の演奏に合わせて、アルトサックスを吹いた。曲目は[ガラスのマーメイド]。作曲は神沢俊広だけど、作詞は相澤拓哉である。この曲のオリジナルの歌い手である高崎美雪が今は相澤の妻になっていると、昨日未由は初めて聞いた。
その[ガラスのマーメイド]から始まって、相澤が奏でるピアノの旋律にしたがって立て続けに数曲吹いた。今でこそ作詞家の肩書きの方が有名だが相澤とて元々アーティストだ。メインの楽器はキーボードだが、ボーカルもこなす。その闊達な性格に似ず、意外と繊細なピアノのタッチは不思議と未由の音に合った。合わせてくれているのは明白だが、少なくとも手を抜いてる訳ではなかった。多分感性が似てるのだろう。
「昨日拓哉も言ったと思うけど、僕らはあなたの音が欲しいんだ。麻田さんが抱える諸々の事情には一切興味はない。拓哉じゃないけど、肩書きが通用するような世界じゃないからね」
マスターは、いや栗林貴志はそう告げて、真摯な瞳で未由を見た。
答えはYESかNOの二者択一。
簡単すぎて決められない問い、未由にはふとそんな気がした。
「北原莉奈と一緒に演奏するのは嫌かい?」
――お姉さん、莉奈が一緒に歌うの好き? 莉奈の歌に合わせてサックス吹くの好き?――
そう無邪気に問いかける少女の姿が未由の脳裏に浮かんだ。
「私でいいなら、お願いします」
居住まいを正して、麻田未由はそう答えた。
「あなたが、いいんだ」
そう栗林貴志は言い直した。そして――。
「じゃあ、契約成立だね」
満面の笑みを浮かべて、彼は頷いた。