第二章 転居


 もうすぐ夏とはいえ、この街の天候は気まぐれだ。
 アルトサックスは湿った音を鳴らしている。上着が一枚必要な肌寒さである。雨が降りそうな雲行きだ。
 未由はマウスペットから口をはずし、ため息をついた。
 いくら北原莉奈本人の眼鏡に叶ったとはいえ、教わる相手が大物過ぎる。栗林の話は嘘ではなく、桜庭竹史は未由のために本当に時間を空けてくれた。といっても、さすがにすぐは無理だったようで、日取りは今から十日後だ。
 未由が外でサックスを吹くのは、ストリート・ミュージシャンだからではない。もっと単純に、渡辺の部屋ではサックスを吹けないからだ。
 この公園は確かに広いし、夜間照明もある。だから未由がその気になれば、二十四時間ここに来て、サックスを吹くことは出来る。しかし不夜城と言われる繁華街から歩ける距離である故に、広すぎるこの公園の夜の治安状態は、正直いってかなり不安だ。一度ならず、酔っぱらいに絡まれて、身の危険を切実に感じた未由は、深夜この公園で活動するのを諦めた。
 とはいえ以前とは立場が違うわけで、練習時間はいくらあっても足りない。ただでさえ雨が降ったら駄目なのに。
「お姉さん」
 ベンチに腰を下ろし物思いに沈んでいた未由は、そう呼ばれて、顔を上げて驚いた。莉奈が未由をすぐ側で覗き込んでいたのだ。
「……莉奈ちゃん。驚かさないでよ」
「ごめんなさい。まさかこんなに近づくまで、お姉さんが気づかないとは思わなかったから」
 ぺこっと頭を下げると、莉奈は未由の隣に腰を下ろした。
「どうしたの?」
 見ると莉奈は制服姿である。
「お姉さんにまだお礼言ってなかったから。やっと期末考査が終わったんだけど、莉奈、お姉さんの家知らないし。でも、ここに来れば逢えると思ったから」
「私、お礼言われるようなこと、何かしたっけ?」
 未由がそう首を傾げると、莉奈の方がきょとんとした顔をした。
「だってお姉さん、莉奈のためにサックス吹いてくれるんでしょう? マスターからそう聞いたんだけど、違うの?」
「違わないけど……」
 けれど、むしろ礼は未由が言うべきではないのだろうか? こんな風にプロのサックスプレイヤーへの道が拓けたのだ。
 戸惑い顔で答える未由に莉奈はぱっと明るい表情をした。
「……良かった!」
 そう言うなり莉奈はベンチから立ちあがり、未由の前に来た。そして深々と頭を下げる。
「ありがとうございます」
 未由は呆気に取られて少女を見た。それから我に返って莉奈に言った。
「気持ちはわかったから、顔を上げて。ね、お願い」
 莉奈は素直に顔を上げ、それから元通り未由の隣に腰を下ろした。
「マスターに怒られたの。人の都合も聞かずに勝手に物事を決めるなって。今回は、何とか説得できたからいいけど、とにかく突然本人を引っ張ってくるのは、これきりにしてくれって」
 未由はクリスティに引っ張られていった時の栗林の驚き顔を思い出した。
 それはそうだろう。 莉奈は未由に逢ったその日に、もうスカウトをしたのだ。
「それにね、莉奈を気に入ったとしても、だからと言って必ずしも、一緒に演奏してもらえるわけじゃない。人にはそれぞれ大事なものが違うから、莉奈とプレイするよりも大事なことだってあるんだって。今回もお姉さん、かなり困ってたって聞いたよ」
「マスターが言ったことと、私の事情はまた別なんだけどね。莉奈ちゃんはもうプロとして歌ってるけど、私はそうじゃないわ。だからちゃんと練習しないと、せっかく誘ってもらっても、同じステージには立てないから」
「レッスンを受けてくれるって、拓ちゃんが言ってたけど」
「だからちゃんと受けられるように、練習が必要でしょう?」
 莉奈は何を言われたかわからないと言う顔をした。
 莉奈にとって練習とはレッスンを意味することを、未由は知らなかった。所構わず歌い出す習性のある莉奈には、自己練習という観念がそもそもなかった。
「でもこんな天気じゃ、練習にならないわ」
「確かに今日は寒いけど、公園でどうしてもサックス吹かなきゃならないわけじゃないでしょう?」
「生憎、スタジオを借りるなんて出来ないわ。お金もないし、手配なんかで栗林さんに面倒かけるの悪いし、でも家じゃ吹けないし」
「マスターに言えば、クリスティで吹かせてくれるだろうけど」
「あんな静かな喫茶店じゃ吹けないわよ。近所迷惑……」
 反射的に答えて、未由ははっとした。
「お姉さん、拓ちゃんとクリスティでサックス吹いたんじゃなかったけ?」
「吹いたわ。しかも真夜中に」
「ひょっとしてマスターから何も聞いてない? あそこ、一見普通の喫茶店に見えるけど、実はライブができるようになっているの。真夜中にエレキ弾いても大丈夫なように、レコーディングスタジオ並みの防音設備があるから」
 先夜は生ピアノに合わせてアルトサックスを吹いた。もちろんマイクなんか通していない。だから気にもしなかったが、今から思えばただの喫茶店にしてちゃんと調律されたアップライトピアノがあること自体が不思議である。それに静かなせいだけじゃなく、微妙なピアノのタッチまで聴き取れた。
「でも普段は喫茶店として営業してるんでしょう? それに私は練習がしたいんだもの。自宅に帰れれば、いいんだろうけど」
「え? さっき家じゃ吹けないって言わなかった?」
「今いるところはね。普通のマンションだから。マンションって言っても、アパートと大差ないような安普請だからね。 それによその家に転がり込んでるから、迷惑かけられないし」
 未由の話をじっと聞いていた莉奈が、しばし考え込んで言った。
「お姉さん、今はよその人の家にいるんだ。じゃあ、そこを出ても構わないのね?」
「でも行くとこないわ。自分の家には帰れないし」
 正確には帰りたくない、だ。
 あの夜、マンションの前に高瀬明人がいたのは、いくら渡辺の部屋の電話を鳴らしても、常に留守電であることに業を煮やした彼が、未由を家に連れ戻すべく直談判に及ぼうとしたのだろう。もっとも、あんな話になったし、あれきり未由の前に姿を現していないから、本当のところはわからない。
 未由の思いなどまるで頓着せず、目の前の少女はあっさりと言った。
「だからお姉さん、莉奈のとこに来ればいいよ」
 未由は言葉もなく、このとんでもない少女を呆然と見つめた。
 思考停止した未由を正気づかせたのは、ネックストラップに下がっている莉奈のPHSの着信音だった。どこかで聞き覚えのあるメロディは、それがなんだかわかる前に莉奈の手によって断ち切られた。
「匠君? ごめん。五分でクリスティに行くから。ああ、そうだ。そこにママいる? うん。わかった、じゃあね」
 PHSを切った莉奈は、ベンチから立ち上がると学生鞄を持った。
「悪いんだけど、お姉さん、一緒にクリスティに来てくれるかな」
 話が見えないまま未由は頷いた。それを了承と取ったのか、莉奈は空いた手に未由のサックスケースも持つ。
「それは私が」
「すぐにクリスティに行かなきゃならないから、サックスをしまう時間がないの。お姉さんにはサックスとケースを持つのは無理でしょう?」
 未由に持てなくはないが、危ない真似は正直したくなかった。
「莉奈ちゃん、さっき、自分の家においでって言った?」
「うん。正確には少し違うけどね。でもうちのマンション、防音管理しっかりしてるし、真夜中にサックス吹いても大丈夫だし。それに、若い女の人が一人で暮らしても、安心できるよ」
「莉奈ちゃんが住んでるマンションの部屋が空いてるっていう意味だったの?そんなの無理よ。家賃払えないわ」
「大丈夫」
「でも」
 気がついたら、クリスティのドアの前まで来ていた。
 莉奈は店に入るなり、カウンターの中にいる女性に声をかけた。
「ママ。このお姉さんの部屋用意できる?」
「その前にご挨拶は?」
「……ただいま」
「お帰りなさい。そして初めまして、麻田未由さんね。北原優子、莉奈の母です」
「初めまして。あの……私、部屋を用意いただいても、家賃払えないんですが」
「わかったわ。まあ、かけてちょうだい」
 未由に席を勧めると、優子は先客に声をかけた。
「匠君、莉奈はすぐ出なきゃならないんでしょう?」
 カウンター席に座っていた男が軽く頷き、煙草をもみ消した。
「じゃあ、莉奈。これを車の中で二人で食べなさい」
 優子は母親の顔で娘にバスケットを渡した。
「あとは私に任せていいわ」
「わかった。じゃあお姉さん、またね」
 匠と呼ばれた男はカウンター席から立ち上がると、店の入口に向かって歩いてきた。その顔を見て、未由は驚いた。
「西野先輩?」
「お姉さん、匠君のこと知ってるの?」
 莉奈も驚いたように二人を見比べた。
 だが西野匠は未由に軽く頭を下げただけで、そのまま店を出た。莉奈もその後に続いた。店内には初対面の女性二人が残された。
「おかけなさい」
 カウンターの中から優子が改めてそう声をかけるまで、未由は店の入口で立ちつくしていた。
「マスターがいないから、コーヒーは出せないけど、何か飲む?」
 匠が使った灰皿とコーヒーカップをカウンターの中に片付けながら、優子が訊く。見るといつもマスターが着けていると同じクリスティのロゴ入りのエプロンをしている。こうしているといかにも喫茶店のウエイトレスだ。
「じゃあ、紅茶を」
 何気なくそう返事をして未由ははっとした。
 目の前の女性は北原莉奈の母親なのだ。ということは――。
「確か、小説家の天野優さんじゃ」
 未由の前に氷入りのグラスを置き、ケトルに水を入れて火にかける優子を未由は訝し気に見た。
「そうよ」
「なんで、クリスティのカウンターに入っているんですか?」
「ストレス解消かな。私、学生時代からこの店の常連でね。通いつめているうちにいつの間にか、料理を勝手に作るようになってね。当時私一人暮らしだったし、かといって一人でご飯食べるの嫌いだし。ここにいたら誰か彼かいるし」
「普通、喫茶店でご飯食べても、自分でカウンターの中に入って作ろうなんて思いませんよ」
「だから、ストレス解消なの。ストレスたまると私は無性に料理がしたくなるの。だけど、自分だけで食べるためには作りたくないのよ。マスターに聞いたら食べたいから作れっていいっていうし。敬は目の前に出せば絶対食べるし」
「敬って」
「夫よ。北原敬一」
 もしかしなくとも娘の莉奈よりも顔が売れているだろう男だ。自社のCMに社長自ら出演することは今まであったが、それがドラマに出てくるようなハンサムな社長だったものだから、日本中の話題をさらった。
「そうそう忘れないうちに」
 そう呟いたかと思うと、優子はどこからかPHSを取り出すとどこかに連絡を取り始めた。
「坂田さん、優子です。うちのマンションの中で2DKの空室あるかしら。若い独身の女の子なの。ブラック・アイズとは別の階がいいわ。了解。もしかしたら後で行くかもしれないから、部屋を見ておいてね」
 未由が声を挟む間もなく、優子は指示を出すとPHSの回線を切った。
「私、本当に家賃払えませんよ」
「大丈夫よ うちは社宅の家賃なんか取らないわ」
「だって私、北原の社員じゃないです」
「似たようなものよ。私そういうこと気にしないし。それにね、未由ちゃん」
 優子はふと表情を引き締めた。
「家出娘を見つけたら、自分の管理下に保護するのがちゃんとした大人の役目だわ」
「その人間が二十歳を過ぎていても?」
 優子はこっくりと頷いた。
「別に家に帰そうなんて言ってるわけじゃないわ。せっかく家を出てきたのに帰りたくなんかないでしょう?」
「だからといって、迷惑はかけられないです」
 ケトルが蒸気を吹き、口笛みたいな音を立てる。
 優子はカウンターのシンクに置いた洗い桶に、紅茶茶碗とポットを入れてケトルのお湯を全部注ぐ。
 それから再度ケトルに水を入れるともう一度火にかけた。
「迷惑をかけてるのはこちらの方じゃないかしら。 莉奈の我儘に振り回されて」
「正直振り回されているとは思わなくもないけど、でも迷惑だなんて思ったことはないです」
 そう答えながら、未由はこの二人は間違いなく親子だと、変なことに感心した。こちらが思ってもいないことを気にするくせに、自分達のペースで未由を振り回すのだ。
「でも未由ちゃんは、今の状態がいいとは思っていないんじゃないかしら」
 カウンターの中の棚から紅茶の缶を取りながら優子は言う。
「拓ちゃんと顔合わせした夜、お供が二人もいたって聞いたわ」
 未由は苦い顔をした。渡辺も高瀬も連れては来たくなかったのだ。
「あのね。私は莉奈のバンドの一員になるなら身辺整理をしろなんて野暮は言わないわ。そんなプライベートに立ち入る権利はないもの」
 ケトルがまた口笛を鳴らす。シンクの中で暖めていた紅茶ポットに茶葉を入れ、勢い良くお湯をそそぐ。それから優子は砂時計をひっくり返した。
「だけど、助けがいるのをわかっていて黙っているのは、どうしても出来ないの」
「どうして」
「わかるわよ。未由ちゃん、20年前の私だもの。もっとも私には彼氏を作ってそこに転がり込むなんて甲斐性なかったけどね。幸い高校卒業と同時にデビューできたから、それをきっかけに実家を飛び出せた。だからね。放っておけないの。莉奈のためじゃないわ。私のためなの」
 優子は未由の前に紅茶茶碗を置くとポットの紅茶を注いだ。ダージリンの馨しい香りが未由の鼻腔をくすぐった。
「無理強いはしないわ。でもその方がいいと思うの。二人のどちらかを撰ぶでも、或いは別れるでも」
「……どうして」
 未由は同じ言葉しか口に出来ない。二人のお供がそれぞれに未由に求愛していると、その場にいなかった優子に何故思えたのだろうか?
「未由ちゃん、言ったじゃないの。私は小説家よ」
 小説の中の恋愛と現実のそれとは違うだろう。
 心の中で否定しても、未由はそう口にすることが出来なかった。
「紅茶、冷めないうちにどうぞ」
 優子はそう言うと、皿に入れたクッキーを紅茶茶碗の横に置いた。
「もし良かったら、食べて。莉奈たちにあげた残りで悪いけど」
 つまりはバスケットの中身はクッキーだった訳だ。それも彼女の手焼きなのだろう。
 母親の手焼きのクッキー。それが不満だった記憶さえないが、未由の母親にはありえないことだった。
 未由はクッキーを手にとって、一口齧った。未由の好みからすると若干甘めだけど、とてもおいしい。心込めて焼いたのだろう。 優しさが口の中に溢れた。
「……莉奈ちゃんは、家出をしようなんて思わないでしょうね」
「そうならないよう願ってはいるけど、私はいい母親じゃないから、どうかしらね」
「どこがです」
「子守がいるのをいいことに、子供を放って取材旅行に出かける。たとえ家にいたとしても、仕事が立て込めば部屋にこもって、同じ家にいるのに丸一日顔を合わさないってこともあったわ」
「でも、仕事を持っているお母さんなら、子供を保育所に預けて働いているでしょう?」
 優子は自分の分の紅茶を、そっと口に運んだ。
「だけどね未由ちゃん。私の仕事は今ではもうお金のためじゃないのよ」
 そこまで言われて未由は、優子がどうしてそう自分を責めるのか、やっとわかった。
 優子はあの北原敬一の妻なのだ。世界のKITAHARAの社長夫人だ。たしかにあくせく働く必要はない。
「それにせめて子供たちが幼稚園の年齢になるまで、筆を休むこともやろうと思えば出来た。そうしたら、彬があれほど莉奈に執着することもなかったでしょうに」
 初めて耳にする名前の未由の表情が微かに変わった。
「莉奈の弟よ。中学生になったというのにいまだに莉奈にべったりだわ」
「羨ましいな。私は一人っ子だから」
「私もそう。だから結婚したら子供は二人って決めていたのよ。お兄ちゃんが欲しかったから、最初の子は男の子が良かったんだけど。うまく行かないものね。……ごめんなさいね。初めてあった人に話すことじゃないわね。莉奈が、あなたのことをすごく気に入っていて、だから勝手に親しみを感じてしまったのよ」
「莉奈ちゃんには二回? いや最初の日に二回逢ってるから、今日で三回目なんですね。どうしてそこまで思い入れしてくれるのか」
 それは優子にも言える。彼女とは正真正銘今回が初対面だ。
「シュン――神沢俊広の曲を吹いていたってせいもあるでしょうけど。でも、それだけじゃないと思うわ。それに人を好きになるのは回数じゃないでしょう? 仕事場で毎日あっていたって、同僚以上の関係にならない人もいるし、一度逢っただけでも、特別な感情を抱く人もいる。だからって相手もそうだとは限らないわ。今回の話もあなたの意思をきちんと確認しないで強引に決めてしまって」
「莉奈ちゃん、ちゃんと私に訊きましたよ。『お姉さん、莉奈が一緒に歌うの好き? 莉奈の歌に合わせてサックス吹くの好き?』って。それがこんな大きな話になるとは思わなかっただけで」
 それが素直な未由の気持ちだ。次から次へと飛び込んでくる状況についていくだけで精一杯で、何がなんだかわからない。でも……。
「迷惑じゃなかった?」
「迷惑じゃなかったら今頃こうして、優子さんの手作りのクッキーを食べてなんていません。それに、莉奈ちゃんはいい子ですよ。私も大好きです。 だから、本当に北原莉奈のバンドのサックスが私でいいのかって」
「あなたでいいのじゃないの。 麻田未由さんがいいの」と、優子は栗林貴志と同じ言い方をした。
「莉奈だけじゃなく、拓ちゃん――相澤拓哉もあなたを選んだのよ。大丈夫、自信を持って」
「なら、やっぱり練習場所確保しなきゃ」
 未由は重いため息をついた。
「だから最高のセキュリティと防音設備を誇る、うちのマンションにいらっしゃい。家賃がどうしても気になるのなら、空いた時間で、私のアシスタントをしてちょうだい」
「アシスタントって」
「天野優のアシスタントよ。資料のコピーとか原稿のプリントアウトとか、まあ、雑用ね。それならいいでしょう?」
 未由は目まぐるしく変わる自分の人生に、軽い眩暈を感じた。
「それとも、今の家出先にどうしてもいたい? まさか自分の意志と関わりなく、そこにいなきゃならないって訳じゃないわよね?」
 渡辺は未由が出ていくと言えば、絶対に止めるだろうけど、彼が留守の間に出て行けばいいことだ。
「お世話になります」
 未由はそう言って頭を下げた。



 渡辺穣はテーブルの上の置き手紙を読み返した。
 ――住むところが見つかったので、出ていきます。お世話になりました――
 たった二行の文章と、[みゆ]とひらがなで書かれた名前。
 それだけしか残さずに、未由が自分の元を去って行ける女だと、穣は思いもしなかった。
 アルトサックスのケースを大事に抱えて、舗道に座り込んでいた娘を拾ったのは、確かに気まぐれだったと思う。下心はもちろん十分あったし、少し酔ってもいた。思ったより簡単に身元が分かり、娘が株式会社麻田の一人娘だと知った時は、いい金づるになると思ったものだ。
 だけど、拾った子猫でも三日も親身に世話をすれば情もわく。ましてや、十人に聞けば半分以上が美人だと言うだろう容姿だ。未由がさして抵抗もなしに身を任せた理由が、あの明人とかいう若造への当てつけからだとしても、素直に腕の中で眠りに落ちた幼い寝顔を愛しく思ったのは本当だった。
 麻田の名前を捨てて、結婚しようと告げたのも、酔いに任せたのは、柄にもなくマジに惚れた照れだったが、その言葉に偽りなどなかった。
 夜に家を空けたのは、どうせ帰るところはないと、高をくくっていたからもあるが、やむを得ない事情もあった。
 その気になれば、高級ブランドのダイヤの指環など選び放題だろう、資産家のお嬢さまに渡すための婚約指環を得るためのバイトをしていたのだ。非合法すれすれのネット取引を友人と企てた。 欲しい奴がいて、売りたい人間がいる。使用用途は相手負かせ。たとえ顧客が自殺に使ったとしても、死にたい奴が死ねただけだ。どんなに死にたくても死ねない人間がいる。何よりまともな親も係累もいない穣は、まずは生き延びることに必死だった。ちゃんと親兄弟がいるのに初対面の人間と心中する人間の気持ちなど理解できないし、わかりたくもなかった。 それが仮に誰かの死と引換だったとしても、未由の指に愛の証が輝くのなら、それで穣は満足だった。死んだ人間も、その代わりに幸せになれる人間がいるなら、少しは浮かばれるだろう。
 そうしてやっと手に入れた指環をポケットに忍ばせて帰ってきた穣を待っていたのは、人気のない部屋と一枚の紙切れ。
 何杯目かわからない水割りのグラスを一気にあおった穣の耳に、聞き覚えのあるイントロが飛び込んできた。TVでは、引退して表舞台に出てこなくなったアイドル歌手の懐かしの映像が映っている。テロップで流れたタイトルは『ガラスのマーメイド』。 同時にクレジットされている作詞者の名前に気がついた時、穣は今回の未由の失踪の原因にやっと思い当たった。


 翌日、クリスティに怒鳴り込むべく、 渡辺穣は大きな公園を突っ切っていた。
 未由は北原莉奈のバンドの一員として、スカウトされていた。穣はその所属事務所の社長と莉奈のプロデューサーである相澤拓哉を名乗る人物と未由の顔合わせなるものに立ち会っている。北原の御令嬢であるアイドル歌手の所属事務所が自宅のこんな近所にあるなんて、そもそも可笑しいではないか。あの麻田の秘書とかいう若造はどうであれ、穣はそんな話を頭から信じてはいなかった。おそらく未由は騙された挙句、浚われたに違いない。
 相澤拓哉と名乗った男は生ピアノを器用に弾いていた。素人にしてはうますぎる演奏だったが、それだけのことだ。ピアノはある程度までは素人でも練習すれば弾きこなせると確か聞いた覚えがある。
 考えれば考えるほど、未由を騙す舞台装置が整っていた気が、穣にはすごくした。未由の身柄を確保したら、 後は麻田を相手に身代金要求をするのだろう。
 穣の頭の中ではそこまでの筋書きがすっかり出来上がってしまった。
 息を弾ませて池の縁まで出る。
 その時、澄んだ歌声が穣の耳に飛び込んできた。
 そちらの方を見ると、セーラー服の少女が、池のほとりのベンチに座り無邪気に歌っている。
 未由は公園でアルトサックスを吹いていて、突然にそれに合わせて歌い出した少女に一緒に演奏しないかと誘われたのだ。
 では、あの子も一味なのだ。穣は瞬時にそう結論づけた。
 向こうが未由を連れ去ったなら、こちらもそうして悪い理由があろうか?
 穣は、その考えを行動に移すべく、少女の前に立った。


 見知らぬ男が目の前に立ったからと言って、即座に歌を唄うのをやめるようなら北原莉奈ではない。急に陽射しが遮られ、足元が暗くなったから、誰かが目の前に立ったのには気がついていた。だから、莉奈は唄いながら素直に席を立った。つまりベンチを譲って欲しいのだと思ったのだ。
 だが、男はベンチに座ろうとはせずに、じっと莉奈を睨つけている。
 莉奈はしかたなく歌をワンコーラスでやめた。
 それを待っていたように男は言った。
「未由はどこにいる」
 莉奈は何を聞かれたか本当に理解できなかった。
「知りません。おじさん、誰?」
 中学生の女の子におじさんに呼ばわりをされた男は、もっと不機嫌になった。
「知らない? そんな訳ないだろう?」
「だって本当に知らないもの」
 莉奈にとって未由は『お姉さん』だった。だから『未由』がアルトサックスを吹くお姉さんの名前だと咄嗟に思い出せなかった。
 あくまでそう言い張る莉奈に男――渡辺穣は逆上した。
「ふざけんな! 悪い大人の片棒を担いで、いくらもらったんだ北原莉奈を騙って、未由を騙しやがって」
 莉奈は怒鳴られて一歩あとずさった。だが、莉奈が北原莉奈を騙ると言われても困る。いくら怒鳴られても言い掛かりである。
「莉奈が自分のこと、北原莉奈って名乗ったからって、どうして怒られなきゃならないの?」
「いい加減にしろ。中学生ならやっていいことと悪いことの区別ぐらいつくだろう! お前は軽い気持ちで話に乗ったかもしれないが、営利誘拐は犯罪だぞ。いいから来い。お前が未由の居所を知らなくても、知ってる奴から聞き出せばいいだけだ」
 言うなり穣は少女の手首を掴もうとした。
 その瞬間、鈍い痛みが穣の右腕を走った。
 何事かと振り向いたら、黒いスーツを身にまとった数人の男が背後を取り囲んでいた。その一人がこの腕を捻り上げている。
「お嬢さま、ご無事ですか?」
 莉奈は声も出せずに頷いた。
「あんたたち、何者だ?」
 痛みで顔を歪めながら穣は訊いた。
「ブラック・アイズ。北原莉奈さま付のボディガードだ」
「北原莉奈?」
「渡辺様、あなたは何か勘違いされているようですが、この方は間違いなく北原莉奈さま本人です」
 穣の全身から力が抜けた。それと同時に右手の拘束が解かれた。
 穣はそのままベンチに腰を下ろした。
「どうして俺の名を知っている?」
「失礼ながら調査させていただきました。莉奈様に少しでも関わりのある方について把握をするのも私どもの仕事ですので」
「――本物なのか? この子は」
 莉奈はこっくりと頷いた。
「じゃあ、未由はどこにいるんだ? あいつがいなくなったこととこの子は全く無関係なのか?」
「麻田未由様は、確かに私どもがお預かりしています。ただし、それは対麻田家に対してで、あなたとは関係あることではございません」
 返ってきた言葉はあくまでも冷徹だったが、 穣の欲しかった情報ではあった。
「やっぱりお前らが未由を連れていったんじゃないか? 北原莉奈のバンドでアルトサックスを吹かないかとあいつは誘われたんだ」
「未由って、お姉さんのことだったの? なら知ってるよ。うちのマンションに来てもらったんだから」
「何だって?」
 思わず腰を浮かす穣から莉奈を庇うように、ブラック・アイズの一人が前進する。
「でもそれは、今いる場所ではサックスを吹けないって困っていたからだよ。うちは防音完備だから、夜中じゅう吹いていても問題ないし」
 ――住むところが見つかったので、出ていきます。お世話になりました――
 確かに未由はそう書き残していった。
 だが。
「未由様とあなたに何があったかは存じません。未由様からは渡辺様が留守の間に出てきたけれど、簡単な挨拶は書き置いてきたと聞いております」
「住むとこが見つかったとだけだ。新居の住所も電話番号もなしにな」
「今回の件を最初に切り出したのは確かに莉奈お嬢さまですが、実際に手配をしたのは優子奥様です。ですが強制はしておりませんし、時期も未由様にお任せしました。 お話をした当日にこちらに移られたのはあくまで未由様自身です。渡辺様がお留守の時に部屋を出られたのは、きっと余計なトラブルを避けたかったのでしょう。あなたは今回のスカウトを頭から疑っていましたし」
「俺は未由を軟禁していた訳じゃない」
「それはこちらも同じです。つまり、未由様はいつでも渡辺様に会いに行ける状態です。もちろん、電話をかけることもできます」
 ブラック・アイズと名乗った男はにこりともせずにそう言い放った。
「なら、なんで」
「存じません。ともかく、未由様は自分の意志で私どもの管理しているマンションに移られた。理由はともかく、今回の件で、莉奈お嬢さまがあなたに危害を加えられる謂れはない」
「それはどうかな。この娘が余計なことを言い出さなかったら、未由は俺の部屋から出ていくことはなかった筈だ」
「それは違います。サックスの練習場所として、マンションを利用するだけでもよかった。通えない距離じゃないですから」
 不審を露に見返す穣に男は告げた。
「現に莉奈様は徒歩通学をしていらっしゃいます学校と渡辺様のお住まいは、マンションからほぼ同じ距離です」
 理詰めで攻められた穣に冷厳な声が追い打ちをかけた。
「女に逃げられたからと言って、人を責めるのはおやめなさい。情けないとは思いませんか」
 人間図星を指されると頭に来るものだ。穣は言い返した。
「大の男が、数をなしてこんな小娘の警護をしているのは情けなくないのか。ええ? いくら仕事とはいえ」
 ブラック・アイズの面々に相手を哀れむ表情が浮かんだ。
 それから全員ほぼ同時に、スーツの内ポケットからカードを取り出して穣に示した。
 それをまじまじと見つめる穣に告げる。
「我々は誇りと情熱を持ってこの任務についている。他人に嘲られる謂れはない」
 全員別々の二桁のナンバーが振られたそのカードは、北原莉奈公式ファンクラブ[歌姫倶楽部]の会員証だった
 もはや怒る気力も殺がれた穣はふと疑問を感じて言った。
「ひとつ訊いていいか?」
「何か」
 問われた男は会員証をカードを内ポケットにしまいながら訊く。
「会員ナンバー1は誰なんだ?」
 答えは少女の口から語られた。
「パパよ」
 そう答えた後、莉奈は穣の顔を覗き込んだ。
「そんなにお姉さんに逢いたければ、莉奈と一緒に来る?」
 穣は探るようにブラック・アイズの面々を見た。
「未由様が逢われるというなら、私どもは関知しません」
「つまり、あいつが逢わないといったのに、無理やりマンションに入ろうとしたら、あんた方が阻止するって言うんだろう。下手すると今の倍の人数が出てくるわけだ」
 返事はなかったが、表情をみてれば肯定とわかる。
「驚かせてすまなかったな。今日は帰るよ」
 そう言って穣は立ち上がった。今度は妨害はなかった。
「未由に伝えてくれ。逢う気になったらクリスティまで行くって。喫茶店であいつと普通にお茶するだけなら、あんたたちも文句言わないだろう?」
 そう告げて穣はベンチを後にした。
 ブラック・アイズの間を抜け、そして振り返る。
「俺はまだ信じられないよ。お嬢さまの気まぐれで、あいつをプロにしたとしても、それが本当にあいつのためになるとは思えない」
「大丈夫。お姉さんは莉奈が見つけた人だもの。おじさんはお姉さんの演奏を聞いているのに何故そんな心配するの?」
 少女の瞳が穣を射る。
 答えを見つけられずに黙り込んだ穣に、北原莉奈はふわっと笑った。
「お姉さんのこと好きなら、信じてみて。莉奈のこと嫌いでもいいから、だってお姉さん、あんなに頑張っているんだから」
 どんなに頑張っても駄目なことが世の中にはいくらでもある。
 だが、それを目の前のお嬢さまに告げてみても今は納得させることができないと穣は知っていた。
 ……いずれにせよ、すぐに解ることなのだから。