第三章 救護


 すっかり暗くなった公園を浅田未由は早足で歩いていた。
 莉奈と同じマンションの一室に間借りして十日近く経つ。
 二DKの公園に面した大きな窓から新緑が見下ろせる上に、地下鉄駅まで徒歩十分、そこからJRの駅まで地下鉄に乗って最短で5分という絶好の立地条件だ。一般の顧客を募ったならかなりの家賃収入が見込めるだろうが、恐ろしく贅沢な間取りのせいで、地上十四階という高層マンションの割には全個数は八十に満たない。つまり単純に計算してもワンフロアに戸数が五軒ちょっととなる。しかも、その住人は北原家とブラック・アイズのメンバーのみ。他はゲストルームとして常時何戸か空いているという。文字通り北原家の居城というわけだ。
 もっともこの建物自体は、天野建設の所有で、そもそも娘の優子が一人暮らしをするために、ボディガードまで一緒に住まわせようと建てたものをそのまま使用しているとか。
 今でこそ、北原莉奈の親衛隊の顔が表に出ているが、ブラック・アイズは元々優子のためのボディガードだった。
 渡辺穣と北原莉奈及びブラック・アイズの小競り合いの一件は莉奈の帰宅後、すぐに未由に知らされた。
 誤解が解けた後で、一緒に来て未由に逢わないかと訊いてみたが、結局断られたけど、良かったのか?と、あのいつも元気な少女がしゅんとしている。
 穣が莉奈に詰め寄ったのを言い掛かりと断じるのは、ある意味酷かもしれない。莉奈と出逢わなかったら、恐らく今でもあの部屋で未由は過ごしていただろうから。
 それがいいことかどうかは別にして。
 優子の誘いに乗った形ではあるが、莉奈との件に託つけて、未由が穣の元を逃げ出したのは事実なのだから。
 置き手紙一つであの部屋を出たとばっちりが莉奈に向けられた責任は、未由にある。
 けれど、莉奈はそのことを一つも責めなかった。
 それどころか沈んだ顔でこういうのだ。
――ねえ、 莉奈はあのおじさんから、お姉ちゃんのこと取っちゃったのかな?――
 ブラック・アイズによると、穣が直接そういう言い方で莉奈を責めた訳ではないが、何故彼が莉奈に怒声を浴びせたのかを考えればすぐにわかることだ。
 そうじゃない、と勿論未由は答えた。
 むしろ、莉奈といることを未由が選んだのだから。
 未由は池のほとりまで来た。
 明日、桜庭竹史との初めてのレッスンがあるので、その諸々の準備のため、街の楽器店に出かけたのだ。出かけた時間も遅かったが、結局閉店まで店にいることになった。そのまま徒歩で帰路についた。北原のマンションに住むようになってから、未由は初めて外に出たのだ。
 ゲストルームのためか、部屋は家具付きでクロゼットの中身も充実していたし、来て早々某下着メーカーの通信販売のカタログを渡されて必要なものを注文するように言われ、注文の品は翌日の夕方には届いた。食事はなんと北原家で優子の手料理が振る舞われたし、自室の冷蔵庫はホテル並みに飲み物が揃っていて、食器棚に紅茶、緑茶、烏龍茶のティーパックとインスタントコーヒーの小瓶が備えられていた。しかも最上階以外の各階には煙草と飲み物の自動販売機が置かれている。その上頼めば大抵のものは遅くても翌日には手に入ると、坂田と名乗った北原家の執事が言った。
 初老の穏やかな紳士だがブラック・アイズの創立当初からのリーダーだと言う。彼が言うには未由は莉奈お嬢さまのためのアルトサックス・プレイヤーで、彼にとっては賓客扱いなのだそうだ。
 つまりは生活物資を買いに外に出ていく必要が本当にないのだ。
 未由自身も資産家の令嬢で、それなりに贅沢に育てられたが、ここまで丁重に扱われたのは生まれて初めてだった。生活水準が違う訳ではない。北原家の食卓に並ぶのはごく普通の食事だし、別に素材に拘っているとも思えない。部屋にあるのも普通にコンビニで売っている品だ。だけど押付けでない気配りができる使用人が一人いるだけで、全く違う暮らしができる。食事が終わったのを見計らったように好みの飲み物が運ばれるとか、たったそれだけのことでも、坂田がするだけで違うのだ。
 そんな生活を十日近く過ごすと、どれだけ渡辺の部屋での生活に心に負担を抱えていたか未由は気が付いた。穣にどれだけ愛されていたとしても、家出娘が転がり込んだという事実が消える訳じゃない。あそこは未由の場所ではなかったのだ。
 未由の場所にすることも出来たのだろう。穣もそう望んでいた。
 けれど、いみじくも優子が指摘した通り、穣と暮らすことをちゃんと選ぶにせよ、別れるにしろ、あの場所から一度出る必要があったのだ。
 未由の頬を夜風がくすぐる。日中は暑かったから、少し冷たい風が頬に心地いい。
 池のほとりに立って水面に映る街灯が夜風で揺らぐのを見つめていると、背後から声が掛かった。
「未由様」
 振り向くと高瀬明人が怖い顔で立っていた。
「……明人」
「やっと逢えた」
 咎めるような瞳をしたまま明人が言った。
「どうしたの?」
 ちゃんと自宅には北原家にいると伝えている。
 正確に言えば家出先が変わっただけだが、ともかくも天野優のアシスタントとして住み込みの仕事をしていると言ってある。マンションに移る条件としてそう提示したのは天野優本人だし、雇用主である彼女からもちゃんと説明させた。
 それが明人の耳に入っていない筈がなかった。現住所も連絡先として天野優の事務所の電話番号も教えてある。天野優の事務所は北原家の隣で、北原家の優子の私室と内側で繋がっている。未由の部屋は北原家と同じマンションの最上階だし、ちゃんと独立回線の電話も設置している。もっともその番号は誰にも教えてはいないが。
 穣の部屋に転がり込んだ時は完全に家との連絡を絶った。いずれ明人が捜し出すのは解っていたし、心の底ではそれを望んでいた気もする。実際、明人はちゃんと未由を捜し出したし、部屋に訪ねてきた。正確に言えば穣の住むマンションの入口で出くわしたにせよ。
 確かにあの夜は、家出の件をちゃんと話すことができない状態で別れ、翌日の夜には北原のマンションに移動した訳だから、明人が慌てたのはわかる。
 でも、それもあったから今度はちゃんと家に連絡を入れたのだ。明人の知らない男と暮らすよりも、身元のちゃんとした人間の提供してくれた部屋で暮らす方が、明人は安心すると未由は考えていた。
 なのに。
 どうしてこんな顔をされなきゃならないのだろう。
「どうしたのじゃないです。何故北原家の世話になっているんです。天野優のアシスタントだなんて嘘をついて」
「嘘じゃないわ」
 現に一度、天野優の仕事場で雑用をしたこともある。
「明日、桜庭竹史のレッスンが午前十時からあるのに?」
 今日になってやっとレッスンの時間が決まったのに、どうしてそれを明人が把握しているのだろう。
「未由様は本気で、北原莉奈のバックでアルトサックスを吹くつもりなんですか? プロのミュージシャンはお嬢さまの趣味の延長で出来ることじゃない。北原のお嬢さまの我儘に振り回されて、恥をかくのはあなたですよ」
「そうならないように、レッスンを受けるんじゃないの」
「一流のプレイヤーから少々レッスンを受けたからって、演奏がうまくなるわけじゃないでしょう」
「やってみなきゃわからないじゃない」
 売り言葉に買い言葉。思わず声を荒げた未由に明人はため息をついた。
「北原莉奈はあなたと同じお嬢さま育ちでも、小さい時からプロミュージシャンに囲まれて育ったし、歌の才能もあるのでしょう。あなたとは全く違います」
「その莉奈が私とやりたいと言ったのよ」
「あの娘は歌い手であって、サックスプレイヤーじゃない。自分が出来るから、他人にも出来ると思っただけでしょう。天才に有りがちなことです」
「あなただって、サックスが吹けるわけじゃないでしょう」
「あなたに僕と同じ思いをさせたくない」
 そこまで言われて、未由は思い出した。
 明人は芸術大学付属高校のピアノ科で未由の二学年上になる。三歳からピアノを始め、ピアニストを夢見てピアノ科に入学。ところが当然周囲はそういう生徒ばかり集まる訳で、自分の実力が到底ピアニストになれるものではないと気がついて、進路を変え大学で経済を学び、卒業後、株式会社浅田に就職、今に至る。つまり、未由と明人は同じ高校の同窓生にあたる。
 もっとも明人の父親は浅田の重役だから、未由は小さい時から彼を知っていたし、明人も完全に縁故採用だ。
「未由様はただサックスに逃げているだけだ。麻田の家からも、それにこの僕からも。家出しただけでは飽き足らず、この上どうしてそんな無謀なことをするんです」
「明人につべこべ言われたくないわ! 私の人生よ」
「僕の人生にあなたが必要だからだ」
「そうでしょうね。麻田を手に入れるためには、私と結婚する必要がある。今時、娘婿が会社を継ぐなんて時代遅れもいいところだけど、でも慣習はそう簡単に変えられないから仕方がないわね」
 怒りに任せて未由が言い放った途端、明人の平手が未由の頬を叩いた。
 未由は頬を押さえて明人を睨つけた。
「図星ね。本当のことを言い当てられたからでしょう」
「逆だ。あなたを手に入れるためには、麻田のトップに立つ必要がある」
「なら、どうして私があの部屋にいる間に連れ戻しに来なかったの。毎日留守電に伝言をするだけで。あの部屋の住所が解っている上に、私が毎日この公園でサックスを吹いているのだって、あなたは知ってたはずだわ。そもそも、家を出たいってどうしてあなたに相談したか、解っていないのは明人じゃないの」
「二人で駆け落ちなんかできないでしょう? なのに、僕があなたの安全な家出先を見つける前に勝手に出ていったのはあなただ」
「私が行きずりの男についていっても平気だった人に、今更責められたくないわ」
「未由!」
 呼び捨てにされて、未由は驚いて明人を見つめた。
「未由があんな男のものになったのが、平気だっただって! そんな訳あるか。あなたは僕のものだ」
 怒りに青ざめた顔で明人は未由に詰め寄った。そしてそのまま未由の池のほとりの草むらに押し倒した。
「やめて! 明人」
 未由が叫んでも明人が腕の力を緩めはしない。荒い息をした唇で強引に口付けられる。
 明人に抱かれるのは初めてじゃない。家出をする前は恋人同士と言っていい関係だったのだ。家を出たのはさまざまな理由があるが、自分が本当に好きなのか、出世の手段に利用されるのか、明人の気持ちを計りたかったのが一番の理由だ。
「こんなのイヤ!」
 強引な口づけの隙をついて、必死に逃れようとするが、我を忘れた明人には通じない。このままレイプされてしまうのかと絶望した時だった。
 力任せに明人の体が押し退けられた。そのまま明人はその男に胸倉を捕まれ数発殴られる。その男の横顔を見て、未由ははっとした。
「西野先輩」
 殴られた明人も相手に気づいて名を呼んだ。
「西野」
 匠は名を呼ばれても驚きもせず、明人をあっさり放り出すと、未由に向き直った。
「立てるか」
 未由はこっくりと頷き、慌てて着衣の乱れを直した。明人の方を見ないように草むらから立ち上がる。
 そのまま匠と連れ立って歩き出した。
 明人は追ってこなかった。



 西野匠は並んで歩きながら、未由の肩に着ていた上着をかけた。
「どうしてピアノをやめたの?」
 匠は何も言わない。
 昔からそうだ。無口なところは変わっていない。そういうところも含め、この男に恋をしていたのが、未由の高校時代だった。初恋だった。
 どうして自分はこんなに遠くに来てしまったのだろう。
「砂田先輩があんな死に方をしたから?」
 西野は弾かれたように未由を見た。
「でもそれは先輩がピアノを弾かなくなった理由にはならないでしょう」
「俺がピアノを弾こうと弾かないとあんたには関係ない」
「明人に言われる迄もなく、私に才能なんてないわ。だけどあなたは違う。私はあなたのピアノが好きで、自分じゃどうしてもあんな風に弾けなかったけど、だからこそ焦がれていたわ」
 匠は歩きながら煙草に火をつけた。
 未由はその横顔を見つめながら続けた。
「アルトサックスを始めたのは、ピアノじゃあなたに追いつけなかったからだわ。砂田先輩の自殺の後、先輩が学校を辞めたと知ってすごく悲しかった。でも、どこかでピアノは弾いてるとずっと思っていた。莉奈ちゃんに訊いて驚いたわ。あの娘、先輩がピアノを弾けること自体知らなかったのね」
「俺はあの娘の付き人だ。ピアニストじゃない」
「ミューズに愛された人間は、音楽を捨てて生きられないわ。先輩はピアノを弾かなくちゃいけないのよ」
 いつの間にか二人は北原のマンションの前まで来た。
 玄関先まで送り届けると、マンションの駐車場にある自分の車の方向に歩き出そうとする匠に、未由は声を投げた。
「砂田先輩の分も先輩はピアノを弾くべきよ」
「俺がピアノを弾かないのは、奴のためだ」
 匠は振り向いてそう告げた。それからふっと笑っていった。
「北原莉奈は本物だ。本物には本物と偽物の区別がちゃんとつく。あんたのサックスは本物だ。高瀬や他の奴が何と言おうと気にすることはない」
「西野先輩だって本物だわ」
 西野はそれ以上何も言わずに車に乗り込んだ。
「上着!」
 はっと気が付いて叫ぶ未由の声は、車のエンジン音にかき消された。




 一階に停まっていたエレベーターに乗り、未由は一四階のボタンを押した。まるでデパートにでもあるようなガラス張りのエレベーターは、高所恐怖症の人間には向かない。この建物が立った時から住んでいる筈の優子は高いところが駄目で、乗る度に足が竦むという。未由は別に平気だ。
 この街を縦断する川を真下に見下ろし、その向こうに瞬く星屑に似た街灯りを見つめる。綺麗だなと未由は思った。学生時代に聴いた西野匠のピアノの調べに、或いは北原莉奈の歌声に通じる、風に身を任せながらもけして損なわれない静かなのに強さを秘めた清らかさ。
 自分はどうなのだろう。浅田未由のアルトサックスはどんな風に響くのだろう。そう考えて、未由は奈落の底に落とされたような恐怖を感じた。
 未由は不意に足元から崩れ落ちた。急に腰が抜けたようにエレベーターの床に座り込んで立てなくなる。
 どうしようと思った瞬間、エレベーターの扉が開かれた。
 扉の向こうに立っていた人影が、未由を見てぎょっとした顔をする。次の瞬間、彼は踵を返して走っていった。
 後ろ姿からその人影が北原彬だと気がついた。莉奈の二つ違いの弟だ。
 声を掛けようとして、未由は自分の身なりを思い出した。
 高瀬明人に乱暴されたせいで、髪には草がついているし、シャツブラウスのボタンも取れている。西野匠が何故上着を貸したまま帰っていったか、その理由にやっと思い至って、未由は顔から血の気が引いた。
 ドタドタという音が響いた。
 何事かと顔を上げ、未由はいつの間にエレベーターの扉が閉まっていたことを知った。
「未由ちゃん、大丈夫なの?」
 そんなかけ声と同時に、再びエレベーターの扉が開かれた。
 今度、扉の向こうに現れたのは北原優子だった。
 優子は未由の姿を見るなり息を飲んだ。それから駆け寄って未由に抱きつきながら、そのまま彼女自身エレベーターの床に座り込んだ。
 何が起こったか、未由は一瞬わからなかった。
 だけど、優子の体の暖かさに気づいた瞬間、涙が溢れてきた。そのまま未由は声を上げて泣きじゃくった。
「もう大丈夫よ。安心して、ね。未由ちゃん」
 子供をあやすように優子は何度も言った。
 頷きはするも、未由の涙は止まらない。
 ただ、一つだけわかったことがある。
 初めて逢った午後、ダージリンを振舞ながら、優子は未由を助けたいと告げた。だから、自分の元に誘うのだと。
 あの時は本当には理解していなかった。
 けれど、今ならわかる。
 未由は助けて欲しかったのだ。
 自分の抱えたさまざまな重荷から。
 こうして姉のように母のように胸に抱かれて、未由は確かに救われたと思った。




「未由お姉ちゃん」
 上天気の公園で、未由をいち早く見かけて、莉奈が手を振る。
 翌日の午後。未由は桜庭竹史のレッスンを終えた帰り道だった。わざわざ日帰りで飛行機に乗ってまで、この街に桜庭がやってきた甲斐があったかどうか未由にはよくわからない。ただ、来週の金曜日に新進ジャズピアニストのツアーでまたこちらに来るからと、彼はチケットを二枚未由に寄越した。
――一枚は好きな奴を誘って来いよ。あんたなら、BFがダース単位でいるだろうし――
 こちらの私的な事情を全く知らないはずの桜庭の言葉に、未由は苦く笑うだけだった。
 本当は西野匠を誘いたいところだが、にべもなく断られそうな気がする。昨日のお礼としたとしても、あんなことがあった後でデートと取られかねない誘いをするのも気が引ける。未由にしても初恋の相手ではあっても、今はそんな気持ちが微塵もない匠に誤解の種は蒔きたくない。とはいえ、勘違いもしてくれないのも嫌な気がする。
 お礼というなら、優子を誘うべきだろうか?
 そう考えながら、莉奈の元まで歩み寄ると、少女はにっこりと笑った。
「おかえりなさい」
「ただいま」
 反射的にそう返した後、未由ははっとした。
 莉奈は制服姿だが、まだ昼過ぎだ。
「もう学校終わったの?」
 そう訊いたら、莉奈は呆れ顔をした。
「お姉ちゃん、今日は土曜日だよ。学校はお昼までなの」
 今日が何日かは覚えていたが、そういえばバイトをやめてから、曜日の感覚が全くなくなった気がする。
「優子さん、ジャズとか好きかな?」
 並んで歩きながら未由は莉奈にそう訊いてみた。
「ママは音楽なら何でも好きなはずだよ。なんで?」
「桜庭さんが参加するライブのチケットが二枚あるの」
「それ、莉奈が行く」
 莉奈の即答に未由は驚いた。
「ジャズだよ」
「わかってるよ。ピアノを燃やしながら弾くやつでしょう」
「違うよ。確かに山下洋輔はジャズピアニストだけど。なんで莉奈ちゃんそんな古いこと知ってるの」
「シュンちゃんが記録フィルムを見せてくれた。捜せばクリスティにあるはずだよ。マスターに訊いてみる?」
「そのうちね」
 未由はあっさり答えた。
「じゃあ、優子さんがいいって言ったらね。ナイトライブだから」
 莉奈は手を叩いてはしゃいだ。
「元気だね」
 思わずそう言うと、莉奈はふわっと笑っていった。
「お姉ちゃんもね。元気になったね」
 本当に嬉しそうに笑う少女を未由は眩しく見つめた。
 昨夜の未由の状態を莉奈も見ている。彬が機転を利かせて、掛かり付けの医師、河口真一を呼んだ。時間外の診察にも拘らず、救急車に匹敵する早さで駆けつけた真一は、泣きじゃくる未由をまずはゲストルームに運び、優子に手伝わせて、パジャマに着替えさせ、打撲以外の怪我がないことを確認した。
 それから、優子に洋風卵酒を用意させると、未由に飲ませた。カスタードミルクに少し多目のブランディ、そして蜂蜜。少し甘すぎたけれど、色々あって疲れた体にはちょうど良かった。
 真一はメタルフレームをかけたハンサムなのに全く冷たさを感じさせない素敵な紳士で、恋人だった男に危うくレイプされるところだったのに、医者だって意識もあったけど、何の心配もなく未由は眠りに落ちた。手当らしい手当も必要ないのに呼び出されたのに真一は未由が熟睡するまで、枕許にいた。ちょっと歳はいっているけど、おとぎ話の王子さまのようだと、未由は思った。
 こんな夜なのに、未由はやっとぐっすり眠れた気がする。
 そして今朝目覚めたら、長い間の闇が明けたように、心の中が澄み切っていた。
 優子は心配して、栗林社長を通じて今日の桜庭竹史のレッスンをキャンセルするように言ったが、未由は軽く笑って見せた。だって自分でも不思議なくらい絶好調だったから。
 自分でも呆れるほど立ち直りが早いと思う。
 というよりも開き直ったのだ。
 未由が何一つ試していないのに、まるでそれが正しいことのように否定する恋人気取りの男たちに心底憤っていた。
 未由はお嬢さま育ちで確かに自分で出来ることは少ないかもしれないけど、だからこそ自分がいなきゃ駄目なんだと決めるつける二人に。
 けれど、何より情けないのは、そう言われても仕方ないくらい、実際何も出来ていなかった未由自身だ。
 駄目で元々だ。
 けれど、そもそも未由を巻き込んだのは、隣を歩く少女で、その我儘を叶えるために少女の周囲の大人が未由を取り込んだのだ。
 やると決めたのは未由自身だ。けれど、未由のアルトサックスがプロとして通用しなかったら、その責任は栗林社長を始め、プロデューサーの相澤拓哉にかかってくる。未由は元のただアルトサックスが好きなお嬢さんに戻るだけだ。
 未由が望むのがプロとしての名声やそれで得られる金だとしたら、それはすごく大きな損失だろう。
 けれどただ自分の力を試したいだけなら、これ以上のお膳立てはないのだ。やるだけやって駄目ならきっぱり諦めもつくだろうし。
 そんな未由の気持ちが、果たしてあの二人にわかるだろうか?
 誰かに与えられるのではなく、自分の力で未由は自分の居場所を得たいと思うのだ。
 それが叶うものだと、昨夜優子が教えてくれた。
「莉奈ちゃん、わからず屋の男たちを黙らせる方法ないかな」
 通りを渡ればクリスティという場所まで着た時、未由は傍らの少女にそう尋ねた。
「私が莉奈ちゃんの歌に合わせてサックスを吹くのが好きってことを」
「そんなの簡単だよ。目の前で演奏してみればいいの」
 莉奈はそう言うと、未由の手をつかみ、車が途切れた車道を向こう岸へ向かって走り出した。




 渡辺穣の元に浅田未由からの知らせが届いたのは、家出娘が忽然と消えてからら一と月余りが過ぎた頃だった。
 とっくに忘れたと思っていた穣の携帯メールに入ったのは、出ていった時と同じたった二行のメッセージだった。
――今度の水曜日の夕方六時に、クリスティで待っています。時間があればお越しください――
 夕食時だというのに客が自分一人しかいない喫茶店でタバコをふかしながら、注文のコーヒーを運んできたマスターに、そう皮肉混じりに問いかけると、相手はにやっと笑って答えた。
「今日は貸切りなんだよ」
 意味もわからずにブラックのコーヒーをすすると、ドアベルが鳴って、逢いたくない男が入ってきた。
 高瀬明人は先客である穣を一瞥すると、これ見よがしに隣のテーブル席に腰を下ろした。
「あんたも呼ばれたって訳か」
 ついそう声にすると、明人は不機嫌な顔で頷いた。
 それから明人は何かに気がついたように座ったばかりの席を立った。
「マスター、このグランドピアノどうしたんです。いくら音楽事務所の社長経営の喫茶店でもこんなところにあっていい品じゃない」
「こんなところで悪かったな」
 咎める台詞なのに、どこか楽しげにマスターは言い返した。
「折角だから、明人、弾いてみる? 昔取った杵柄で」
 第三の声が響いて、明人は雷に打たれたようにそちらを見た。
 カウンターの奥から未由がこちらに歩いてきた。
 その後ろに北原莉奈がついてくる。
「え? ピアノ弾けるんだ」
 無邪気な顔で少女にそう言われて、明人はむっとした。
「だってこの人ピアニストになりたかったんだもの」
「なのに、お姉ちゃんがサックスプレイヤーになるの反対するんだ」
 心底わからないという顔で莉奈が明人を見る。
「莉奈のピアノだよ。普段は地下にしまってあるんだけどね。たまに弾いてあげなきゃ可哀相じゃない」
「そこの秘書君がピアニストになれなかったのも無理ないな。こないだ拓哉が弾いたアップライトピアノも、このグランドピアノと同じメーカーの品なんだよ。グランドピアノは場所を取るからって、先代のマスターの時代にさる財閥の令嬢が特別注文で作らせて寄贈したんだ」
「なんで北原のマンションに置かないんです。完全防音なら夜中にグランドピアノ弾いても問題ないでしょう」
「家にはママのアップライトピアノがあれば十分だもの」
 莉奈の説明じゃ、さすがに何もわからないと気がついたのだろう。
 マスターが補足説明をした。
「元々は神沢俊広の所有物だ。やつの死後、莉奈が譲り受けた。ここならたまに奴の知り合いが来て地下で自由に弾いたり、こうして店に上げて莉奈が弾いて聴かせたりできるだろう。寂しがり屋だった男には一番の供養さ」
「で、俺たちは神沢俊広と逢ったこともなけりゃ、ファンでもないのに、その供養に付き合わされるって言うわけか」
 穣がこれ見よがしに皮肉を投げる。
「莉奈は二人から未由お姉ちゃんを取ったけど、それがお姉ちゃんにとって一番いいことだって、わかってもらおうと思って、ここに来てもらったの」
「今更?」
 明人がそう未由を見つめた。
 二人が顔を合わせるのは、あの夜以来だ。
 言い訳の出来ない行為をしたと公園に置き去りにされた後に気がついたが、後の祭りだった。あれから一と月。簡素なメールでの呼び出しに応じたのは、引導を渡されたとしても、未由に許しを請いたかったからだ。よもや渡辺も来ているとは思わなかったが。
「だって莉奈はこうしてみせるしかないんだもの。でも納得してもらえなくてもいいの」
 そう言って莉奈はグランドピアノの前に座った。
「ピアニストになろうと思ったことはないけど、一応物心ついた時からシュンちゃんにピアノ習ったからね。弾き語りなら何とかできるんだ。莉奈の歌だけでもいいけど、それじゃちょっと寂しいからね」
 未由は何も言わずに、グランドピアノの下に用意していたアルトサックスをケースから取り出し、マウスペットをつける。それから、鍵盤のタッチを確かめるように悪戯弾きしている莉奈に頷いた。
 やがて莉奈が奏で出したメロディは二人の出会となったあの曲、ガラスのマーメイドだった。




 小一時間ほど莉奈のピアノと歌声に合わせて未由はアルトサックスを奏でた。観客が二人だけの、考えてみればなんて贅沢なライブだろう。
 これで二人がわかってくれなくても、それは仕方なかった。
 たった一と月でアルトサックスのプレイが目に見えて向上するなら、二人とも頭から反対はしないだろう。
 あとは自分が話すと、莉奈を帰した。
 気を使ったのか、ブレンドコーヒーを満たしたポットを残してマスターも姿を消した。
 意を決して二人が隣合わせに座るテーブル席に未由が近づくと、穣が声を掛けた。
「何も言わなくていい。未由の好きにすればいい」
「私もそう思います」
 あっさりと言われて未由は戸惑った。
「俺は素人だから、プロのレベルがどの程度要求されるかはわからない。だけど、少なくともあのお嬢ちゃんが俺に大丈夫だっていった意味がやっとわかったよ。莉奈の歌声にちゃんと解け合っている。それに、未由は俺の部屋にいた時よりもいい表情してるよ」
「麻田の家にいる時よりもです」
 明人も言った。
「じゃあ、私は莉奈ちゃんと一緒にいていいのね」
「あんなもの聴かされて止めようがない」
「浅田の家には私から伝えましょう。でも折を見てちゃんと社長に逢ってお話くださいね」
 そういって明人は席を立った。
 示し合わせたわけでもないだろうが穣もそれに習う。
「待って」
 二人の足が止まる。
「だからね。私、今は」
 言葉をうまく並べられない未由に、穣は苦く笑った。
「二人まとめて振られたって言うんだろう。だが、俺は諦めたわけじゃない」
「私の気持ちも変わらない」
 二人の気持ちは今の未由には辛いだけだ。
 嫌いなわけじゃないそれどころか、恋しさが消えたわけでもない。でも今は……。
「白紙に戻して欲しいの」
 時間も気持ちも元には戻らないけれど。
 真摯に訴える未由に、明人は淡い笑みを浮かべた。
「いいでしょう。今のあなたには私は役不足だ。だが、こんな男に負けるつもりは更々ない」
「いってろよ。そうだ。プロになるんなら、麻田未由のファンクラブを作ろう。俺が会員ナンバー1番だ」
 負けずに穣も告げる。だけど、険悪な雰囲気はない。
 だから未由は安心する。何故、ファンクラブなんて話が出てきたかはよくわからないけど。
「二人で取り合いになりそうだから、マスターに任せるわ」
 未由はそう言って笑った。


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