第一章 遭遇
北のお宮の境内には、帝から献上されたと噂の高い桜の庭があり、何人ともみだりに立ち入ることが出来なかった。
しかしながら、そんなことは意に返さぬ不届き者が多々いるのも、これはまた火を見るよりも明らかである。
このお宮の神主は至って気まぐれな性格で、庭に通じる中門の鍵だけは頑丈な物を備えつけてはいるが、あとは気が向いた時に、花見を兼ねてそぞろ歩きをするだけだった。
それでも聖地に立ち入ることを許された花見の客は、神主の剣客仲間のみのため、桜の花が咲き始める頃になると、酒徳利を片手に無償の用心棒を買ってでる者に、さして不自由はしてなかった。
さて、今年の桜の園には、一風変わった用心棒が登場した。
その者は今までのどの用心棒よりも見目麗しく、しかも、今までのどの用心棒よりも使命感に燃えていた。
その者は実のところ、今までのどの用心棒より剣の腕が劣っていたのだが、花盗人の前ではいささかの問題はなかった。
問題は他にあったのだ。しかも、ある意味では恐ろしく厄介な問題が。
☆
花盗人に罪がないとはいえ、この境内の桜の木は、枝一本を植木屋に持ちこんでも結構な値になる。桜は口を開かないし、植木屋も多少頭が働けば余計なことは訊かない。花盗人は言うまでもないだろう。
だが、その者の名誉の為に言えば、桜に対する邪念などこれっぽっちもなかった。彼は本当に迷い込んだだけなのだ。
暖かな春風が、桜の枝をそっと揺らしていた。
彼はそれをほのぼのと見つめながら、ふと軽い溜息を吐いた。北海のお宮で待っていた友人は急用が出来て来れなくなった、と先刻使いが言付けを聞いてきた。
帰ろうかとも思ったが、陽射しは暖かく、境内の奥で垣間見た桜は今が盛りで、もう少し花見を楽しんでも悪くはない気がした。
中庭の桜の庭は立入厳禁で、本来、柵のこちらから眺めているしか出来ないのだが、広すぎる境内を歩き回っているうちに、気がついたら何の弾みでか桜の園に入りこんでしまっていた。
「そこで、何をしているのです」
さてどうしようか、と見事に咲き誇っている桜の枝を見上げていたら、凛とした声が耳に届いた。
心からほっとして、声の方を振り返り、彼は息を飲んだ。
「何をしているのか、と聞いているのだ」
その声は確かに、その者が発していた。
彼は瞬きをして、その者をまじまじと見つめた。
ほどいたままの黒髪が、突然吹いた花吹雪に乱れた。煩わしげにそれを直す仕草さえ神々しく見えた。
彼はその者を桜の化身と思いこんだのだ。
桜の化身は苛立った様子で、一歩、彼に近づいた。
白無垢の着流しに、帯を男結びにしているのは帯刀しているからだが、その方が気が落ち着くというのは、かなり問題があるだろう。
「もしや、口が聞けぬのか」
惚けたように桜の番人を見つめる若侍は、その言葉にはっと我に返った。
「あなたは?」
「この宮の者だが、その方は」
桜の化身ならば、冷たい声でも心地好く聞こえるのか。
間近で見れば、ほとんど目が眩むような美しさだ。
再び口を利けなくなった若侍に、桜の番人はふっと肩の力を緩めた。
「……誰でもよい。早々に立ち去られよ。見たところ身分のある侍のようだ。それに、そうぼーっとしていては、花盗人にもなれまい」
番人はそう言い捨てて、背を向けた。
若侍はその行動に慌ててとっさに番人の手を掴んだ。おいてゆかれたら困るし、何よりもその正体を知りたかった。
「無礼者!」
確かな人肌の温もりに驚く間もなく、鋭い一喝が飛び、若侍は土の上に転がされた。その弾みで桜の幹に頭を強くぶつけてしまう。
「おい、しっかりしろ」
慌てた声とともに、傍に寄る気配がした。
それっきり、若侍の意識は桜の花の間から零れ落ちる陽射しに埋もれていった。
☆
「そんな顔をしなくても、大丈夫だ。命に別状はない」
耳元で呆れ声がする。
「でも、このまま目が覚めなかったら」
「……ゆう。この通り脈はある。刀を抜いた訳ではなし、この程度で死ぬほど、人はヤワに出来てはいない」
「何なら、もう一度殴ってやろうか」
くすくす笑う男の声が別方向から聞こえてきた。
「ゆうに悪さをしようとしたのだろう?」
「右京に殴られたら、本当に死んでしまう!」
悲鳴のようなその声に彼は慌てて飛び起きた。
これ以上痛い目に遭うのは嫌だった。
「ほら、目が覚めたではないか」
白衣の男が呑気な声で笑いかけ、彼の顔を覗き込む。
「具合はどうだ。まあ、頭にそれだけ派手に瘤を作っていれば、痛いだろうが」
「痛いけど、……桜の化身は」
それどころではないと、きょろきょろ辺りを見回し、途端にぶり返した痛みに顔をしかめる。
そんな彼にゆうが、済まなそうに頭を下げた。
「驚いて、つい場所を忘れた。痛むか」
先程の白装束のままだが、髪は首筋で簡単に結んである。
「いや、平気です。全然平気です」
療養所からゆうに呼ばれて、慌てて駆けつけた医師の榊恭之介と、野次馬でついてきた水澤右京が思わず顔を見合わせた。
ただ一人何が起きたか気づいていないゆうが、きょとんとこのとんだ花盗人を見つめた。
☆
「大事な桜に悪い虫がついた?」
栗諏亭で一杯引っかけていた神沢俊尋が何事かと河口真之介を見た。
「ゆうの手柄話しか私は知らぬが」
神沢俊尋は北海神宮の宮司である。
神沢の台詞からゆうが何を話したか、おおよそ見当が付く。
一方、真之介は恭之介から本日の往診について事細かに聞いていた。患者の容体は療養所の責任者たるもの、知らないでは済まされない。
「それにゆうが転がした男は、駕籠も呼ばずに屋敷に帰ったと聞いたぞ」
「平気だと言った手前、這ってでも自力で帰るだろう。それに、女に投げ飛ばされて怪我をしたとは、まさか言えまい」
「その一色宗眞といえば、旗本・一色家の次男坊か。勘定方主座の」
神沢はやや考えこんだがすぐに頭を振った。
「文句を言ってきても大丈夫だな」
悪いのは向こうでも、目に見える瘤が出来ている。こじれると厄介だが。
「本人が道端で転んだとでも言い訳するだろう。第一、帝拝領の桜だぞ。相手がたとえ、上様でも理不尽な振舞は出来まい」
「ゆうがな、本気で気に病んでいる。そこに付け込まれたらどうする」
「本当にその方の娘か? やけに気が優しいではないか」
からかい顔でそう告げる悪友を、神沢は憮然と見つめた。
「あれだけの美人、私の娘でなくて他にいると思うか」
ゆうが素顔に男物の着物と帯であれだけ艶やかなのは、若さのせいばかりではない。
「母親が鄙に希見る器量よしだったのだろう。何しろ、怪我をさせられてなおかつ、ゆうを桜の化身だと言ったらしいからな」
何の苦もなく言い返す真之介に、神沢は当然とばかりに頷いた。
「で、一色の若様のどこが悪い虫なんだ」
あくまでそう問いただす神沢に、真之介は溜息を落とした。
「お前、父親なら少しはそれらしい態度を示せ。全く、変わらぬな」
「そうでもないぞ。今までは他の女ばかりに着物を買ってやっていたが、娘にも選ぶようになった」
と、神沢は嬉しそうに風呂敷包みを広げた。反物を取り出し畳の上に広げる。
「どうだ。いい柄だろう、ゆうに似合うと思わぬか」
春らしい薄紅色に鮮やかな紅の桜が咲いている、総柄の反物である。
諦め顔で投げやりに頷き、やはり変わったかも知れぬと、悪友を見つめる真之介であった。