第二章 入門



「頼もう」
 威勢だけはよい声が天野道場に響き渡った。
 たまたま玄関先にいた恭之介がその声に振り向き、破顔する。
「少年、やはり来たか」
 ともあれば恭之介自身、少年と言われかねない容貌なのだが、それは童顔のせいである。榊恭之介は数えで二十六になる。
 実は昨夜の一件でこれではいけないと一念発起した一色宗眞に、恭之介がこの剣道場の入門を勧めたのだ。
「榊先生、昨日はどうもありがとうございます」
「屋敷には断わってきたのだろうな」
「はい」
 心地の良い真っ直ぐな返事に、恭之介は笑みを零した。
 落日間近で、東の空には夕月がほんわかと浮かんでいる。
 恭之介とて暇な身分ではない。一応、師範代ではるが、手が空いたら稽古をつけているだけだ。
 そもそも道場主自身ここに寄りつくことが珍しいのだ。恭之介も別に気にしていない。
 三和土で足を洗い、素足で道場に案内された一色宗眞は、先に汗を流していた人影にふと目を向けた。
 どこかで見たような後姿だ。無造作に結いあげた黒髪の先が、首筋で揺れている。男にしては細すぎる身体が、格子窓から入りこんだ夕陽で長い影を作る。
 宗眞がある種の予感を感じその名を口にする前に、恭之介がこともなげにその者を呼び寄せた。
「ゆう、新しい門下生だ」
 宗眞は、その名に心臓が早鐘のように鳴り出すのを感じた。自分がどこにいるかも忘れて、ただゆうに視線が釘付けになる。
 麻の稽古着姿も凛々しいゆうが、木刀を片手に顔をこちらに向ける。
「恭之介、今日は早かったのだな」
 ゆうは嬉しそうにまず恭之介に目を止め、それから、背後でつっ立っている新入りに視線を移し、安堵の笑顔を向けた。
「良かった。存外、酷い怪我ではなかったのだな」
「ゆうは、私の話を全く聞いていないのだな」
 思わず苦笑を閃かせ、恭之介は生きた武者人形と化した宗眞の肩を叩いた。
「少年も、ここまでゆうに逢いにきた訳ではあるまい」
 反応は思わず感心してしまうくらい、なかった。
 汗で胸元にくっついてしまった襟も、ほつれ毛が張り付いた項も、宗眞の目には毒にしかならないようだ。
 もっとも、ゆうをただのじゃじゃ馬としか思っていない恭之介でさえも、時折目のやり場に困ることがある。
「恭之介、せっかく来たのだから、手合わせしよう」
 ゆうもゆうだ。自分を見つめ続けている男の視線などものともせず、恭之介に甘えるようにそう告げる。
 まあ、この道場の門下生になって以来、惚れた腫れたも含め、不躾な野郎共の視線に曝され続けているのだから、いい加減馴れっこになっているのだろう。
 それはそれで、困ったことなのだが。
 ゆうは訳あって、幼い頃から男に混じって、剣の修行を続けてきた。その事情が事情だけに、下手に剣を捨てさせる訳にもいかず、ゆうに関わる人々の意見を総合し、道場への入門を許可したのだ。
 そんな男勝りのゆうが、恭之介に対してまるでその辺の小町娘のような声を出している。
 宗眞がゆうのその声色に聞き過ごせない何かを感じたのも、むべもない。
「手合わせなら、私がします」
「大丈夫なのか」
 ゆうが心配そうに訊ねた相手が、恭之介だったものだから、宗眞の感情は一気に爆発した。
「昨日は油断していただけです。ちゃんとした手合わせなら、あんな醜態は曝しません」
 ゆうが訊いたのはそういう意味ではなかったから、恭之介はちゃんと答えた。
「本人が何やら燃えているようだから、平気だろう。それに、ここには桜の木はないし、私もいる」
 それを聞いて、ゆうはは安心したようだが、一抹の不安はあった。
「防具を付けてくれ。私は恭之介と違い、うまく手加減ができぬ故」
 男相手、しかもれっきとした武士に対して、かなりな言い草だが、恭之介の一言で少年はあっさり承諾した。
「ゆうがああ言っている。聞けるな」
 ところが、それでもなお結果は惨憺たるものだった。
 この方が動きやすいからというゆうのもっともな理由と、そのままのゆうを見ていたいと誘惑で、武士の誇りを簡単に売り渡した宗眞の勝敗は。
「だから言ったろう。私はまだ手加減ができぬと」
 結局ゆうから一本も取れなかっただけではなく、真っ直ぐに入った面の一撃に再び昏倒してしまった宗眞に、ゆうが告げた。
 宗眞の腕の未熟さを責めなかったのはゆうの優しさなのだが、それが逆に仇となった。
 帰り道、すっかり意気消沈してしまった宗眞を、恭之介が慰めた。
「惚れた女を本気で打てる男はいない」
「ゆう殿にそんな、私は」
 途端に真っ赤になって目一杯否定する宗眞に、恭之介がくすくす笑う。
「ならば、そういうことにしておこう」
「榊先生は、きっと剣の腕もお強いのでしょうね」
「そう見えるか」
 恭之介は穏やかな笑顔で逆に問い返す。
 肩で切り揃えた総髪と優しげな童顔、それに白衣に包まれた男にしては華奢な身体つき、それに恭之介の自身の醸しだす雰囲気もどこかおっとりとしたものだ。
「全然」
 素直すぎる宗眞の言葉に、恭之介は思わず苦笑した。
「あっ、すみません。失礼なことを」
「いいんだよ。私は医者だからね、剣の腕は必要ない。ところでまた明日も天野道場に来る気があるか」
 相手に気づかぬよういつのまにか質問を摩り替えた挙句、恭之介は話の矛先を変えた。
「はい」
 即答の真意がどこにあるかは明白だが、恭之介は嬉しそうに頷いた。
「それは良かった。元気な顔を見せれば、ゆうも喜ぶだろう」
「あの、榊先生と、ゆう殿は」
 聞きたくてうずうずしていたのだろう。勢い込んで聞いてくる少年に恭之介は初めて意味あり気な笑みを浮かべて告げた。
「私は医者だよ。あの娘が健やかに暮らしていけるように、病を癒し、時には悪い虫を追い払う。拾った責任というのもあるしね」
「拾った責任?」
 思わず聞き咎めた宗眞に、恭之介は深く頷いて見せた。
「父親を訪ねて来たあの娘を保護して、北都まで連れてきたのは、この私だから」
 だから、ゆうが恭之介に懐いているのか。と、当たってはいるが、その他の可能性を綺麗に無視して、納得顔の宗眞である。
 自分が悪い虫と思われているなどとは微塵も思っていない、素直すぎる少年だった。


 夕刻、一色宗眞が気掛かりで道場へと足を運んだ恭之介は、稽古場に彼の姿が見えないので、何とはなしに落胆の溜息を吐いた。いつも回りの連中に年下扱いされてきた恭之介にとって、宗眞は可愛い弟分となっていた。
「恭之介が二日続けてここに来るとは、珍しい」
 毎日、夕闇に包まれた桜の園に鍵を降ろして道場に通っているゆうが、恭之介に気づいて歩み寄ってくる。
「少年はどうした」
 恭之介の台詞に、ゆうが拗ねた顔で庭を指す。宗眞が懸命に竹刀を素振りしているのが格子窓の向こうに見えた。
「ゆうに逢いに来たのではないのか」
 ゆうがふくれ顔で、恭之介の横顔を睨んだ。
「何でわざわざゆうに逢いに来なければならぬ。いつでも逢えるのに」
 恭之介の声を聞きつけた宗眞が、庭で手を振った。
「着替えたらすぐ行く」
 恭之介が宗眞にそう呼び掛け、身仕度を整えるためにゆうに背を向ける。
 自分のことなど眼中にないと言った様子の恭之介に、ゆうが声を挙げて軽く竹刀を振り降ろす。
 その気配だけで、後姿のまま難なく交わし、恭之介は軽くゆうを睨んだ。
「背後から襲うのは神沢様だけにしてくれ。あの人ならわざと打たれてくれるから」
 その名を出したら、ゆうはますますむくれた。
「あの人は、私が迷惑なのだ。その証拠にここにも寄りつかぬ」
 都までわざわざ尋ねてきた父親ではあるが、離れて暮らしていたため馴染もない。ゆうが、未だに神沢を未だに『父上』とは呼べずにいる理由は他にもあるのだが。
「神沢様は前からこの調子だ。むしろ、ゆうが門下生になってから、前より顔を出すようになった」
 本当だろうかとゆうが考えこんでいる間に、恭之介はさっさと稽古場を出た。
「神沢様とはどなたですか」
 稽古着に着替え、木刀片手に庭へと出た恭之介に宗眞が訊いた。
「少年、立ち聞きとは、感心しないな」
 わざと怖い顔で恭之介が叱ると、宗眞はシュンと肩を落とした。けれど、すぐに素直に頭を下げる。
「ごめんなさい。悪気はなかったんです。ただ……」
「わかってるよ」
 昨今、珍しいほど邪心のない子だ、と恭之介の方が恐縮した気持ちになる。
 少年の質問をはぐらかし、恭之介はこの人物と出会って以来抱えていた問いを口にした。
「あのお転婆のどこがそんなに気に入ったのだ。次男とはいえ、旗本家のそなたなら、まわりにもっと淑やかな娘がいるだろう。ゆうは女だてらに刀を振り回すような娘だぞ」
「初めてお目にかかった時、桜の化身と思ったのです」
 恭之介は誰かを懐かしむように、遠くに視線をさまよわせた。
「……桜の化身なら、私も子供の頃に出逢ったことがある。この世のものとは全く異なる存在だ」
 その言葉に計り知れぬ微かな、けれど癒しきれぬ痛みを感じて、宗眞はまじまじと恭之介を見つめた。稽古場からゆうが恭之介を振り返る。
「出来うるならばもう一度、逢いたいと思う。最も、宗眞殿の意見に逆らう気は毛頭ないけれどね」
 恭之介の言葉をどうとったのか、宗眞は桜の化身については、それ以上何も聞かなかった。自分の居場所を思い出した顔で、生真面目に話しかける。
「陽が落ちてしまう前に、もう少し素振りをします。榊先生、そこで御指南願います」
 恭之介はからかい顔で笑いかける。
「私はそれ程強くは見えないと申していたではないか」
「それは……」
 宗眞は落陽に照らされるよりも真っ赤な顔になって俯いた。
「刀も持っていなかったのに、悪漢どもをあっという間に叩き伏せ、ゆう殿を救い出したと伺いました。何も知らぬのに失礼なことを……」
 恭之介は片手で宗眞の台詞を遮った。
「命の恩人の私にゆうが何と言ったかまでは聞いてはいないだろう」
「何と言ったのですか」
「誰の手もいらぬ、と。……すごい剣幕でな。私の目には、とてもとても桜の化身には見えなかった、と」
 格子窓の間からゆうが投げつけた手裏剣を素手で受け止めると、恭之介は今度は本気で怒鳴り返した。
「莫迦野郎! 宗眞殿に当たったらどうする」
「大丈夫だ。ちゃんと奈津様に習ったから」
 思わず恭之介が頭を抱えたくなるような物騒な台詞を告げて、ゆうは踵を返した。稽古場の入口で振り返り、こんな声を投げてくる。
「師範代。あとはお任せします」
 本気で恭之介が腹を立てているので、宗眞は触らぬ神に祟りなしとばかりに、一人で素振りを始めた。


「えらく、あの坊やが気に入ったようじゃないか」
 栗諏亭、いつものように仲間達が集まってくる頃。
 小上がりで珍しく仏頂面で湯のみを呷っている恭之介の隣に座り込み、右京が肩を叩いた。
 恭之介がむくれた顔で返事もせずに、刺身を口に運んでいるので、右京が板場の次郎吉を顧みた。次郎吉も訳がわからぬと言った風に首を振る。もっとも湯飲みの中身はいつもの通り、熱い番茶だった。
「まさか、あのクソガキとゆうがどうかした訳じゃないだろうな」
「その方がなんぼかマシか」
 的外れの右京の台詞に、恭之介は卓の上にそれを置いた。
「手裏剣じゃないか。……誰が教えたんだ」
 話の運びから、誰がそれを使ったのか右京には自明の利だ。
「本当に訊きたいか」
 と、恭之介が右京を睨む。
「……道理でお前が荒れているわけだ」
 同じように溜息をつき、右京は次郎吉に酒を持ってくるよう声をかけた。
「やはり人選に問題があったんだよ。いくら周防の旦那も、奈津様も気に入ったとはいえ。……母上はゆうの素質を見逃す方じゃねえしな」
 恭之介の母である奈津は、一尺八寸の刀を振り回す女丈夫である。
 奈津自身にとってゆうは、兄と慕う神沢の娘だし、女の子に恵まれなかったので実の娘のように可愛がっているのはいい。
 だが、しかし、思えばあの奈津に、あれだけ活発で女だてらに刀を振うことを好む娘を預ければどうなるか、わからなかったとは断じて言わない。
 それどころか、なにせ実の父親が娘であるにも関わらす、ゆうが剣の稽古をするのをおおっぴらに認めているのである。恭之介とて、奈津がゆうに剣の稽古をつけないとは微塵も考えなかった。
 とはいえ……。
「だがなあ、小柄ならともかく、何も手裏剣まで教えなくともなあ」
 右京の言葉に、恭之介は海よりも深く沈み込んだ。
「何のために私が、あの少年を道場に連れてったと思ってるのだ」 「何といっても桜の化身だものな。男のなりしたゆうに投げ飛ばされてなお、あんな台詞が吐けるんだからたいした奴だ」
 その感情がたとえ、盲目的な恋にしろ、だからこそ純粋で、力を秘めている。
 右京は酒が余り得手ではない恭之介に番茶をいれてやりながら、全然違うことを言った。
「……ゆうが、右京も桜の化身を見たのかって聞いてたな。ゆうなんかじゃ比べものにならなくらい美人だったと言ったら。えらくむくれていたが」
 幼い頃からの恭之介とともに過ごし、榊家の主家に行儀見習という名目で一緒に奉公にあがっていた右京も、『桜の化身』と恭之介が呼んだ人物を良く知っている。今では行き方知れずとなった故に神格化された、類い希なる美しさの持ち主である。
 もっともゆうとて、そこらの小町娘とはまったく違う種類の美人である。
 花ならば咲き始めの桜、風ならば雨上がりの薫風、水ならば春の小川に流れる雪解け水。
 誰にも汚されない、強い意志と心を持った凛とした清らかな魂。
「恭之介、お前なんでゆうにそうかまう。いつもの逆じゃないか」
 女にまめなはずの右京より、恭之介の方が気にしてる。
「まあ、悪い虫をわざわざ近づけるんだから、惚れた訳でもないだろうけど」
 右京の言葉に、恭之介は苦笑した。
「当たり前だろう。じゃじゃ馬は、母上だけで十分だ」
 すると次郎吉が、右京に酒とつまみを、恭之介に握り飯を運んできてこう笑いかけた。
「恭之介様、大丈夫ですぜ。先だって、神沢様がおゆうちゃんのために、反物を買ってきて嬉しそうに広げてましたから」
 そうかと頷きかけ、恭之介は次郎吉の顔を見直した。
 神沢が女に着物を誂えてやるのは、今に始まった話ではなし、何も珍しいことではない。
 問題はその着物を女が嬉しそうに自慢するのを見たことはあっても、いまだかって、神沢本人が喜んで人に見せびらかしたのを目撃した覚えはないことだ。
「綺麗な着物を着て、髪型も娘らしく結えば、十分女らしく見えるようになる。それにあれだけの別嬪でっせ。その格好で歩けば、ほっといてもまわり中が誉めちぎる。本人がその気になれば後はすぐですよ」
 恭之介の表情に気づいて次郎吉は微笑みかけた。
「恭之介様だって、神沢様がおゆうちゃんを可愛がっているのはご存じでしょう。着物を買ってやるのに何の不思議があるんです」
「まあ、そう言われれば、そうだが。それにしても、次郎吉、本当にゆうが女らしくなると思うか?」
 次郎吉は微笑みながら頷いた。
 二人の会話を聞いていた右京が横合いから口を出す。
「俺は恭之介が、何故あのじゃじゃ馬娘をそう構うか、そっちの方が気がかりだな」
「拾った責任だ」
 どこかの若造に返した答えをそのまま返し、くすくす笑う右京を尻目に、恭之介は冷めた番茶を飲み干した。
「それに、ゆうとの賭はまだ終わっていない。それを見届けるとあいつと約束したからな」
 恭之介の言葉に、一同の顔が複雑な色に染まった。
「それは本来、神沢の旦那の仕事じゃねえか」
 と、右京が正論を吐く。
「親子なんだから」
 次郎吉が右京に酒をついでやりながら、頷いた。
「賭は恭之介様が勝ちますぜ。おゆうちゃんは巫女だ。神様がついてる以上、無茶なことはさせないでしょうし、それに何といっても親子には違いない」
「私も同じ意見だ。だから、神沢様に任せようと思う。ゆうの気持ちも大分、変わってきたようだし」
 先日、道場でゆうは確かに拗ねていた。
 まるで、楽しみにしていた縁日に連れていかなかった父親を責める幼な子のように。
「私はあの少年の一途さに、やはりゆうの変化をかけたいな」
「恋は盲目か。だが、そううまくいくかな。今のゆうならば、お前が自分で口説いた方がいいような気がするぞ」
「お前と同じ真似はできない」
「それもそうだな」
 恭之介の思惑など知らぬ気に、時は厳かに流れてゆく。