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第三章 祝司
花の命は短いもの。また、幸せな日々というのも、長続きしないものだ。
桜の季節が終わりに近づいたある日、一通の早飛脚が北の都に届いた。その結果、一人の若者の運命が、あっけない程、簡単に変わってしまった。
桜は散り際もまた美しいものだ。事情を知った一人の男が、何人もみだりに立ち入れぬ桜の園にその若者を招きよせた。
若者〜一色宗眞は、桜の木々の間から現われでた娘に気づき、まずは我が目を疑った。
それから、それが誰かを何度も記憶と照らし合わせ、ようやく賛美の溜息を落とした。
ゆうは不機嫌な顔で宗眞を見つめた。
「やはり、このような姿は似合わぬのだな」
宗眞は首をぶんぶん振って、その言葉を否定しようとした。
ほんとは、そんなことがないと口にすればいいのだが、ともすればすぐに娘姿のゆうに見惚れて亡我の境地に達するので、それが精一杯だった。
さしものゆうにもそれが通じたようで、安堵の笑みを浮かべる。
そんな笑顔を向けられると、宗眞はもう夢現で、何もいらなくなってしまう。
けれど、本日の一色宗眞は悲壮なまでの決意を胸に抱いていた。
すなわち、自分の気持ちからけして逃げないこと。
何故なら、それは……。
「せっかく道場の門を潜ったというのに残念だ。恭之介から、事情は聞いた。兄上が亡くなったのだそうだな。心からお悔み申す。さぞかし、悲しいかろう。私も母を失くしたばかりだ。だから、よくわかる」
本気でそう言ってくれるゆうの気持ちは心底嬉しかった。
けれど。
「だがな。けして世を儚んではいけない。私を見てみろ。母の代わりにはならぬが、こうして都に出てきて、少なくとも一人ではなくなった」
ゆうの言葉に面を伏せた宗眞に、彼女は懸命に言葉をかけ続ける。
「私は卑怯者なのです。兄上が国許で不慮の死を遂げたというのに、真っ先に心に浮かんだのはあなたと逢えなくなる、その想いだった。私は、ゆうどのにそのように言葉をかけられる資格など」
宗眞の悲嘆とは裏腹に、ゆうの表情は共感の微笑みに変わった。
「それは私も同じだ。私は父の顔を知らないで育った。母は私一人を抱えてさぞかし苦労したろうと思う。都に来たのは、母を一人で死なせた父に復讐するためだった。それなのに私は」
ゆうは言葉を止めて、自分が身にまとっている春色の小袖を見下ろした。
「この姿を宗眞殿は、本当に似合うと思うか」
宗眞は、力一杯頭を振り降ろすことで、返事とした。
「これは、父が買ってくれたものだ。恭之介や奈津様にむりやり着せられたのだが、似合うと言われると嬉しいのだ。あの人が、嬉しそうに私に反物をあて、はしゃいでいると嬉しいのだ」
むしろ悔しそうな顔で言葉を紡ぐゆうに、宗眞は一歩近づいた。
着物に似合うように娘らしく結いあげた髪に手を触れる。自分が何をしているかはっきりとわからぬまま、宗眞はゆうを抱きよせた。
そのまま、力の限り抱きしめる。
反射的に投げ飛ばそうとしたゆうは、只ならぬ宗眞の気迫に負けてじっとしていた。
抱きしめるというよりはむしろ、しがみつくといった抱擁はけれど、けして悪い気分ではなかった。
突然、宗眞はゆうから手を解き、今度は痛むほど肩をつかみ叫ぶように言った。
「私と一緒に国許に来てはくれませんか。無論、正室として迎え、一生不自由はさせません。必ず幸せにします。だから」
人が変わったようにまくし立てる宗眞の手を、ゆうは静かに解いた。
自分で不思議な程、心が揺れた。
抱きしめられた腕が暖かかったせいかもしれない。宗眞の真剣な想いに巻きこまれたのかも知れない。
それでも。
「私は都から離れるつもりはない」
「榊先生がお好きだからですか」
宗眞の言葉に、ゆうは一瞬、息を飲んだ。
でも、それよりなにより。
「恭之介が言ったのだ。神沢俊尋はよい人間だと。着物一枚で、それを認めるのは癪だからだ。だから、もう少し私はあの男の傍にいることに決めた」
父親を斬り殺すために、剣の稽古までした。
父親への恨みが消えた訳ではない。
「ゆう殿の父上ならば、喜んで国に迎えましょう」
神沢俊尋が誰かわかった宗眞が即座にそう告げる。
「妻子を放って都暮しをしてきた男が、今更、私と一緒に来ると思うか」
ゆうの言葉に宗眞は言葉が詰まった。
そんな宗眞を静かに見つめ、ゆうはおもむろに、袂から榊を取り出した。
「宗眞殿の気持ちは本当に嬉しく思うが、私にはあなたについては行けぬ。だからせめて、兄上の遺志を継いで、立派なお世継ぎになれるよう、お祈り申し上げよう」
巫女の装束姿でもないのに、ゆうからは清漣な気が発しているのが手に取るようにわかる。
恭之介が見た桜の化身はゆうとは違うのだろう。
しかしながら、宗眞には、やはりゆうは桜の化身に他ならなかった。
この腕に浚って連れてはゆけぬと思わされる何かが、ゆうにはあった。
ゆうが祝詞を唱え、榊を振ると、澄んだ鈴の音が聞こえてきた。
恋は実らなかったけれど、宗眞は心の底から自信を持って言える。
私は確かに桜の化身をこの目で見たのだと。
一陣の風が宗眞とゆうの間を吹き抜けた。
花吹雪が宗眞の心に甘い痛みを乗せて静かに舞い降りた。
終