第一章 取引
いくら好天とはいえ、冬に近づく季節でしかも行く先が北ならば、朝夕の寒さは日毎に身に染みてくる。まして五年余りの月日を、南の果てで過ごしてきた身なら、尚更のこと。それでも、榊冬馬の足取りは軽かった。生まれ育った場所に着々と近づいて行くのだ。
今朝も夜明け前、誰よりも早く宿場を出て次の宿場を目ざした。目下のところお役はなく、至って暇な身分なので、それほど急ぐ理由がないのけれど。
馴れ親しんだ景色に出会ったら、そこでのんびりしようと思い定めている。どうせ、連れのない、気ままな一人旅である。
とはいえ予定は未定、人生は何が起こるか予測不能なものだ。
冬馬は目の前で起こっている出来事を、知らぬ顔で過ごしていけるほど、不人情ではなかった。
青空を見上げ、ふと息をつく。こんな上天気なのに。
けれど目の前には行く手を阻まれた若者がいる。供も連れずの一人旅は冬馬と一緒だ。よもや取り囲んでいるならず者が、供ではなかろう。
冬馬は手近な浪人の肩を叩いた。
まさか関わってくる莫迦がいるとは思わなかったのだろう。浪人達は突如現れた邪魔ものを胡散くさげに見つめた。
「旅は道連れとはいうけど、相手は選びたいだろうに」
と、冬馬は笑顔で浪人の一人に詰め寄った。
「きさま、何者だ」
気色ばんだ男がそう問う。
さりげなく若者を背に庇いながら、冬馬は笑った。
「ただの通りすがりだ」
嘘ではないが、それを信じるかどうかは相手次第だ。
「なんだと」
若者も突然の事態に戸惑っているようすだ。
無理もない。それでもこの場は信じてもらうしかないだろう。
「おぬし、逃げ足は早い方か」
突然問いかけられた若者は、戸惑いながらもこっくりと頷いた。
「ならば、この場は私に預けて逃げろ」
何か言いたげな顔をしている若者に、冬馬はとびきりの笑顔を向けた。
次の瞬間、若者は踵を返すと、一目散に逃げ出した。
「待て!」
追いかけようとした男の足を、冬馬が引っかけた。男は見事に地面に転がる。
「そんなに暇なら、俺が相手になろう」
冬馬は危険な笑顔を浮かべた。
問答無用で切り掛かってくる男達を掻い潜り、冬馬は手刀で手近な男の刀を叩き落とす。ひるんだところをすかさず腹に一撃。背後から襲ってきた男は刀の鞘で叩き、脇から切り掛かってきた者を足払いする。残った男達も投げ飛ばし、蹴りつける。
ほんの数刻で、浪人達は全員地面に転がっていた。
しかも冬馬は刀も抜いていない。
「さて、話を聞かせてもらおうか。あの若者に何用だ」
浪人達の頭目と思われる男の襟元を締め上げ問いただしたが、口をつぐんだまま何も言わない。
「まあどうせ、お家騒動か何かだろう?」
試しにそう訊いてみると、
「貴様、公儀の手のものか?」
と、幾分怯んだ顔で冬馬を見た。
「さあな」
冬馬はとぼけ顔で答えると、男から手を放し立ち上がった。そのまま、北都の方角で歩き出す。
その背に声が掛かった。
「若造、喧嘩は強いようだが、命が惜しかったらこれ以上は深入りするな。我らを倒したからといい気にならぬことだ」
「ご忠告痛み入る」
人好きのする笑顔で殊勝な台詞を残し、その場を後にした冬馬だが、生憎、それを素直に聞き入れる性分ではない。
冬馬はあの若者に追いつくために足を速めていた。
☆
一方その若者は、宿場の喧噪の中でお節介な若侍のことを考えていた。
国許からの追っ手に囲まれていた自分を逃がしてくれたのはいいが、無事だろうか。あの者達は内務の役人でそう腕っぷしが強くはないのだが、たった一人では話が違う。なにせ女子のような優しげな顔立ちの細身の男だったのだから。
とは言え、あの場は自分が足手まといにしかならぬとわかっていた。それに北都を目前にして追っ手に捕まる訳にも行かなかった。
「兄さん、今夜の宿は決まったかい」
宿の客引きが声をかける。
「兄さん、そちらの宿はスベタばかりさ。おらのとこには器量良しが揃ってるぜ」
「なんだい、スベタとは。そっちこそションベンくさい小娘ばかりの癖に」
客引き同士が喧嘩を始めるのをやり過ごし、若者は小さな宿の前で足を止めた。
宿場女郎のいるような宿には泊まる気などなかった。そんな金は持ち合わせてないし、仮に金があったとしてもそんな気などない。
こぢんまりとしていても老舗の、子供連れでも安心して泊まれるような旅籠を選び、若者は暖簾を潜る。
「ごめんよ。部屋はあるかい」
えてしてこういう宿ほど部屋が早く埋まる。早い話、宿場女郎がいるような宿はやくざの溜り場になりやすく、お世辞にも身の安全が保証されるとは言い難い。
「いらっしゃいませ。お二人相部屋で宜しければすぐにご用意できますが」
宿の女将が言うのに若者が怪訝な顔して振り返るのと、後ろから声がするのが同時だった。
「構わぬから、頼む」
置き去りにしたはずの若侍が五体満足で立っていた。若者が口を挟むまもなく、女将が深々と礼をした。
「ありがとうございます。今、すずぎをお持ちします」
と、女将が奥に引っ込んでもまだ茫然としている若者に彼は笑いかける。
「どうしたんだ。幽霊でも見たような顔をしているが」
「私に関われば本当に幽霊になってしまうんだぞ」
すすぎ湯が入った桶を下使いの者に持たせて戻ってきた女将が、幽霊という言葉を聞きつけたのか、ケラケラと笑いながら言った。
「お客様。この宿には女郎もおりませんが、幽霊もいません。さあ、すすぎを使って、お上がりくださいな」
「それを聞いて安心した。私は昔から透き通った奴を足のない奴とは折り合いが悪いんだ」
屈託のない様子で笑う若侍を呆れ顔で見て、若者は大きな溜息を吐いた。
☆
飯の前に一風呂浴びたいと、部屋に落ち着くまもなく若侍が出ていったので、若者はほっと一息吐いた。
それから、よその部屋に膳を運ぶ途中の女中を廊下で捕まえてこう告げた。
「すまぬが、部屋を移りたい。何とかならぬか」
「と、申されても、生憎ここは部屋数も少のうございまして、確か、お二人で部屋が埋まったはずです」
「一人きりで眠れる場所であれば、布団部屋でも納屋でも構わぬのだが」
「とおっしゃられても」
女中は困り顔になった。
それから、思い当たったように言う。
「あの方、優しそうなお顔をなさっていましたし、いい方のようでしたが? なにか不都合でも?」
「いや、悪かった。今の話はなしだ。忙しいのに引き止めて悪かった」
若者が微笑むと、女中は桜色に頬を染めた。
「あの、あたしの部屋で良かったら、一緒に」
お節介な若侍に負けず劣らず、この若者もかなりの美形だ。女中が余計な気を起こしても不思議はない。それとも、表立って湯女がいると謳っていずとも、内実はそうして稼いでいるのか。
「いや、本当にいいんだ。今の話は忘れてくれ。いいな」
若者は慌てて手を振った。知らず冷汗が出ている。とんだ藪蛇だ。
「そうですか」
女中は心底残念そうに若者を見つめた。
「それ、どこかの部屋に運ぶんじゃなかったのか」
若者の言葉に女中は手にした膳を見た。
「いっけいない」
女中は若者に頭を下げると、ばたばたと膳を運んでいった。
☆
「何で、おぬしは湯に来なかったんだ」
宿の浴衣に着替えて上気した顔で戻ってくるなり若侍は、部屋を変われなかった若者に笑いかけた。
「ここの温泉はいいぞ。湯も熱いし、よく温まる。やはり旅の疲れには温泉が一番だ」
悪気がないのはわかっているのだが、この脳天気な若侍を思わず叩き斬りたくなった。
人の気も知らないで、太平楽な奴だ。
「何か、大事な物でも持ち歩いているのなら、部屋に置いて行くといい。この宿は間違いがなさそうだからまず安心だと思うが、私が番をしよう」
「氏素姓もわからぬ男に荷物を預けられるか」
思わず言い捨てる若者に、若侍は苦笑する。
「恩着せがましく言う気はないが、俺は命の恩人だぞ。そんな言い方はあるまい」
「それはそうだが」
若者が言い澱んでいるところに膳が運ばれてきた。運んできたのは、先程若者に呼び止められた女中で、この二人連れを興味深げに見つめ、戻っていった。
「それほど妙な組合せでもないと思うのだが」
一緒に運ばれてきた銚子を手に、若侍が呟く。
「十分、妙な組合せだと思うぞ」
と、若者が言うのを若侍は微笑み一つで交わし、
「まず、一献どうだ」
渋る若者に、若侍は軽く笑う。
「そうか、氏素姓のわからぬ人間が勧める酒は呑めんか」
おせっかいな若侍は一旦銚子を膳に戻し、居住まいを正した。
「私は榊冬馬。南国での任期を終えて、北都に戻る旅の途中だ」
相手が礼儀正しく名乗ったので、若者も名乗らぬ訳には行かなかった。
「私は……岩村千早と申す」
そう口にした後で、千早はしまったと思った。
しかし既に後の祭りだ。
「ならば千早殿、一献呑まれよ」
冬馬は快活な笑みを浮かべ、銚子を手にした。
千早は諦めて盃を手にした。
注がれた酒を呑み干すと、千早は自分の膳の銚子を持つ。
「榊様もどうぞ」
冬馬は意外そうに千早を見つめた。
それでも、勧められるままに盃を手にする。
「俺を迷惑に思っているのではないか」
盃を呑み干し、冬馬は訊いた。
「只でさえ、密命を帯びて大変なところなのに、いくら窮地を救ったとはいえ、訳のわからない野郎に付き纏われてはな」
千早は言葉を失って榊冬馬を凝視した。
――この男はいったい何者なのだろう……。
☆
榊冬馬は手酌で酒を呑みながら、黙り込んだ千早を見つめていた。
冬馬とて莫迦ではない。千早が自分をどう思うかくらい、凡その見当がつく。自分の行動が多少常識を外れだともわかっている。それでも、放っておけなかった。どんな理由があるにせよ、千早は刀を持った侍達に囲まれていたのだ。
「どうして、密命を帯びていると」
呪縛から解けたように千早が口を開く。
「やつら、浪人の姿だったがおそらく違うな。金目当ての食い詰め者共ならばもっと荒んでいるし、あんな手にも乗らない。それに、もっと腕も立つ」
千早が驚いた目を冬馬に向けた。
榊冬馬の素姓を知らない千早が驚くのは無理ないが、この男にしてみれば別段特別なことをしたという自覚などない。
「何故、千早殿を襲ったか問いただしたが、口を割らなかった」
冬馬にとって、それはいわば習慣みたいなものだ。
けれどそんなことは、千早にはわからない。
「そんなことまで」
と呆れ顔で言った後で、千早ははっとした。
「まさか、公儀隠密……」
冬馬は憮然とした。
「よしてくれ。もしも公儀隠密ならば、千早殿に怪しまれるようなドジは踏まぬさ」
「ならば何故」
「乗りかかった船」
自分にも理由がわからないのだから、他に言い様がない。
「ただ、千早殿が言いたくないことを根掘り葉掘り聞くつもりはないし、邪魔をする気もない」
「榊様」
冬馬は穏やかに微笑み千早を見つめた。
「とりあえず飯にしないか。今後のことは、それから話そう。ここの飯は実に美味しそうだ」
冬馬はそう言って箸を取った。
☆
結局、榊冬馬という男は捕らえどころがない人物だと岩村千早は結論づけた。そして、悪い男ではない。酒は好きらしいが、酔って崩れるほどは呑まなかったし、まして千早に絡むなどということもなかった。
初めに千早に勧めたのはあくまでも礼儀だったようで、千早が呑まないとわかると、それ以上勧めようとはしなかった。千早が酌をせずとも、手酌で楽しそうに呑んで、千早が残した銚子を勧められるまま遠慮なく空にしてしまうと、追加を頼もうともせず、そこでやめた。
「ここの温泉は本当に気持ちがいいから、千早殿もゆっくり入ってくるといい」
食事が終わって、膳を女中が下げた後で冬馬が言った。
「今時分なら、湯も空いているから、きっとのんびりできる」
千早の気持ちを読んだわけでもないだろうが、戸惑う気分は否めない。
「もし、少しでも不審があったなら、私を代官所に突き出しても構わぬ」
冬馬があくまで生真面目に言うので、千早は信用することにした。
いや、暢気に呑んだり食べたりしている冬馬を見ているうちに、ある程度気を許したと言った方がいい。冬馬には傍にいるものを和ませる雰囲気がある。
旅先で親切にされたら、まず頭から疑って掛かれというのが、国許を出る時に何よりきつく言われたことだ。
事実、世間知らずの千早が、追っ手はさておき、これといった災難に合わずにここまで無事に来れたのは、必要以上に気を張っていたからだ。
それがこの榊冬馬という千早と同年輩の青年に出逢って、警戒心を抱かずに接している自分がいる。
そもそも自分は何故この男に本名を明かしたのだろう。初対面で、しかも一晩同じ部屋に泊まる破目になったこの若侍に。この男が余計な声をかけなければ、今頃は宿で刀を抱えて眠っていたはずだ。
――たった一人で。
そう考えて、千早は思わず安堵した。
もし何かあったら場合でも、有象無象のやくざ連中を相手にするより、この育ちの良さそうな若侍一人を相手にする方が遥かに楽だろう。
榊冬馬がたとえ何者であっても、一度信じてしまった以上、もうどうしようもない。勝手に信じてしまったのだから、仮に自分を殺しに来た刺客でも、責任は私が取ればいい。
張り詰めすぎた弓の弦は簡単に切れると、千早はわかっていた。
宿のものが床の支度に来るといけないなどと、妙なところに気が回る冬馬に苦笑しながら、邪魔にならないところに荷物を置き、千早は湯に立った。
もう、湯を抜く寸前だったのか、小さな湯殿に人影はなかった。冬馬が勧めるだけあり、天然の温泉を引いた湯は熱いくらいの温度で、手足を伸ばしながらのんびり浸かると、ゆったりした心地になった。
それにしても、榊冬馬は何者なのだろう。
年の頃は千早と大差はないだろう。男としてはやや小柄だが、均整の取れた体つきだ。ともかく、あの追っ手をたった一人でやっつけてしまったのだから、ある程度腕も立ちそうだ。
言い出したら聞かないところはあるが、結局は正直な人柄なのだろう。
冗談ごとではなく千早と関わっていたら、命を落としかねないとわかっているのにそれでも構わぬらしい。冬馬が世間知らずのボンボンならば、途中で逃げ出すだろうが。
などと、冬馬のことばかり考えていたので、千早は見事にのぼせて、危うく湯で倒れるところだった。
なるべく人目につかぬよう湯殿を出て、冬馬が待つ部屋に戻る。
「すっかり長湯をしてしまったようだ」
なんて言い訳を口にしながら部屋の戸を開けた千早は、壁に寄りかかって荷物の番をしている冬馬の顔を覗き込んだ。
「この大莫迦……」
千早は冬馬から目を逸らすと、自分の荷を改めた。手を触れた形跡はなく、中身も無事だったが。それにしても……。
「誰が代官所に訴えてくれて構わないだ。全く頼りにならぬ」
思わずそう口に出した千早は、何となく部屋が狭い気がしてぐるりと見回す。何が原因かはすぐにわかった。食事時には、部屋の隅に畳まれていた屏風が仕切り代わりに二つの布団の間に置かれている。おそらく、冬馬の仕業だろう。
無理やり部屋を変わらずともこんな方法があったのかと、千早は拍子抜けした。
こうして相部屋になることもあるために、宿で気を使って置いてあるのだろう。
有難いことなのだが、冬馬の意図がわからない。それが不安と言えば不安だ。
当の冬馬と言えば、千早が戻って来たのにも気がつかずにいる。この大莫迦は、壁に寄りかかったまますっかり眠り込んでいるのだ。しかも実に気持ち良さそうに熟睡している。試しに揺すってみたが起きる気配もない。
旅の疲れも手伝っているのだろう。遠く南国から来たとか言っていたが、それが本当ならかなりの長旅だ。
「榊様、こんなところで眠り込んだら風邪を引きますよ」
耳元で話し込んでも駄目だ。こうして無邪気に眠っていると、昼間より幼く思える。刺客などと疑った自分が後ろめたくなるほど、無防備な寝顔。
思わず零れた微笑みを引っ込めて、千早は考え込んだ。
このまま寝ていたなら、十中八九風邪を引く。夏ならまだしも、冷たい秋雨が降る季節なのだ。朝方には冷え込んで霜が降りる。
かといって、千早一人で布団に寝かすなど不可能だ。いくら小柄でも大の男なのだ。無理に引きずれば、体をどこかにぶつけて起こしてしまう。こんな無邪気な寝顔を見たら、起こすのは忍びない。かといって、宿の人間の手を借りるのは剣呑だ。
仕方がないので、丹前と掛け布団を冬馬にかけた。ここまでやっても風邪をひいたら、あとは冬馬の責任だ。
千早は仕切り屏風の向こうで横になった。
――風邪を引かなければいいが。
手を尽くすだけ尽くしてもなお、千早は思う。
――だって、目覚めが悪いじゃないか。
素性も知らぬ莫迦な男のためにした行為の意味を、千早はそう思い込んでいた。
いや、榊冬馬について抱いている感情の意味を、無意識の内に封じ込めたのだ。
この旅に掛かっているのは千早自身の命ではない。
千早自身よりも大切なあの子との約束。
無事でいてくれるだろうか。
「……正景」
祈るように呟いて千早は目を閉じた。
急に睡魔が襲ってきた。
☆
障子戸の向こうから差し込んでくる朝の光で冬馬は目覚めた。
千早の荷物の番をしながら、今後のことをいろいろと思案していたはずなのだが、いつのまに寝入ってしまったらしい。
千早が戻ってきたのも気づかずに眠り込んでいたのだから、冬馬としては面目丸つぶれというところだ。どんな顔で布団を掛けてくれたか考えると怖いものがある。これで、千早の荷に異変でもあれば代官所に突き出されても文句は言えぬ、と冬馬は苦笑した。
とりあえず、千早も荷も異常がないようだ。
千早はまだ寝ているのか、とても静かだ。
冬馬はためらいがちに屏風の向こうを覗き込んだ。
千早は穏やかな顔で眠っている。
一安心した冬馬は夜具を畳むと、朝風呂に出かけた。
冬馬が部屋に戻ってくると、千早は起きていて、布団も片付けられていた。
「やあ千早殿、おはよう」
千早の顔を見て自然に浮かんだ微笑みをそのまま向けて冬馬は言った。
「おはようございます。夕べはゆっくりお休みになられたようですね」
皮肉に満ちた台詞を言われたが、冬馬は悪びれた風もなく素直に礼を言った。
「千早のお陰で風邪を引かずにすんだようです。ありがとう」
「どういたしまして」
千早は怒ったように言った。
「でも、無責任だ。荷が無事だったから良かったものの」
「面目ない」
冬馬が神妙に頭を下げたところに、女中が朝餉を運んできた。
二人の様子を面白そうに見ながら膳を置いて下がって行く。
「朝餉がすんだら、出発します。榊様はお好きなだけ御逗留下さい」
「俺も一緒に行く」
間発も容れずに告げる冬馬に、千早は深い溜息を吐いた。
「夕べの件を怒って申しているんじゃありません。榊様をこれ以上巻き込みたくないから言ってるんです。貴殿に何かあったらと思うと……」
言葉を途切らせ、千早は目を伏せた。
けして厄介払いなどではない。昨夜の一件は、千早に残っていた冬馬へのなけなしの警戒心をすっかり拭い去っていた。なにせ、千早がその気になれば、冬馬の懐中物を頂戴してそのままトンズラできたのだから。
「心配してくれるのはありがたいが、俺はそうやすやすと命を落とすようなことはない。それにこのまま千早殿を一人で行かせて、その身に何かあったら、俺は一生後悔する」
冬馬はそう口に出して、ようやく己の気持ちに気がついた。
岩村千早が、この若者が気に入ってしまったのだ。どんな意味であれ、この思いは偽れないし、そうする理由もない。
千早は呆気に取られた顔で冬馬を見た。
一瞬の沈黙の後、静かに言葉を発する。
「このお役を申し出た時から、我が命はないものと思っています」
そう、自分が死んだとわかれば、確実にあの子の命は助かる。けれど、生きて北都にたどりつく、それがあの子との約束。それ故に、千早はこうしてここにいるのだ。
「俺では足手まといだと」
千早はゆっくりと首を横に振った。
「ならば、利用できるものはとことん利用するんだな。下手に情けをかけることはない」
千早は冬馬をじっと見つめた。
冬馬もまた千早を見ている。
何にも動じない真っ直ぐな視線が、じっと千早に注がれる。
千早の顔に思わず笑みが零れる。
「……蛇に見込まれた蛙とは、正に私のようなものを言うのでしょうね。榊様には、負けました」
おかしな例えが千早の口から零れる。
それでも伝えたい意味は分かる。
冬馬が瞳で促すと、千早は深く頷いた。
「ならば、俺はこれから千早殿の用心棒だ」
冬馬は満面の笑みで告げた。
「勝手に押しかけたのですから、御代は期待なさらないで下さいな」
「おぬしにたからずとも、路銀はたんまりある。それにこれは俺の道楽みたいなものだから、気づかいは無用だ」
「はい」
千早は笑顔で頷いた。
「そうと決まれば、腹ごしらえだ」
冬馬は喜色満面で朝餉を片付けだした。