第二章 暗雲



 雲の動きを見ていた冬馬が溜息を吐いたので、千早は何事かと見つめた。
 困り顔で振り向く冬馬に、千早の表情も曇る。ああは言ったものの、用心棒になったことを後悔しているのではないかと思うのだ。
「雨が降る。小雨くらいですめばいいが」
 冬馬は千早の思いとは全く関わりのない台詞を吐いた。
「とにかく急ごう。山道で大変だが、この山の中腹に猟師小屋があったはずだ」
 千早はきょとんとした顔を冬馬に向けた。
「確かに風は強くなってきたけれど、こんなにいい天気なのに」
 青空を見上げて、千早は言った。すると冬馬は北西の空に浮いている黒雲を指さした。
「あの雲が悪い」
 確かに千早が見ても嫌な感じのする雲だ。
「おぬしの足では少々きついかも知れぬが、雨が降りだしたらもっと大変だ。さあ、早く」
 冬馬に急かされるように千早は急ぎ足で歩き始めた。時折気づかうように振り返りはしても、けして歩調を緩めることはなく冬馬は黙々と前を行く。千早はその後について行くだけで精一杯だ。
 そうする間にも風がだんだん強くなってきた。あんなに気持ちよく晴れていた空も雲で覆われてくる。
 冬馬の言葉通り、じきに雨になると千早が不安に思い始めた頃、冬馬の足が街道からそれた。そのまま山道を分け入って行く。
「榊様」
 どこに行くのか半ば不安になりながら千早が声をかけると、冬馬は振り向いて微笑みかけた。それは昨日、追っ手から千早を逃がしてくれる際に向けたものと同じだった。
 春の陽差しのように暖かな、それだけでほっとするような微笑み。千早の警戒心を一瞬で解かしてしまった魔法。
 なんとなく、ふんわりとした安心感に包まれながら、冬馬の後をついて行く千早の目の前に、堀建て小屋が現れた。
「これは酷いな。まあ、俺がここに来たのもの五年ぶりかそこらだが」
 冬馬が思わず呟いた。
 逆に言うと、その後は誰も使ってないのじゃないか、と思いたくなるほど荒れている。余りの惨状に二人が逡巡している間に、ふいに暗雲が立ちこめ、雷鳴が轟き、そして雨が降り出した。
「千早殿、早く!」
 戸を蹴倒し、千早を中に入れると、冬馬はきちんと戸を立て直した。
「なんだ、ちゃんと雨風が凌げるじゃないか。上等、上等。千早殿、濡れなかったか」
「大丈夫です」
「寒いだろうが、少し辛抱してくれ。今、火を起こすから」
 床に落ちている木屑を囲炉裏に置き、火打石でそれに火を点けてから、徐々に薪をくべてゆく。
 一見育ちの良さそうな、というよりは乳母日傘で育った若様に思える冬馬だけに、思わず感心してその様子を見つめる千早だった。
 冬馬がいなければ火を起こすどころか、今頃雨に打たれてどこかの木の下で凍えていただろうとの自覚がある千早だ。
「榊様と一緒で良かった」
 思わず千早の口をついて出た言葉に、
「そう言ってもらえるだけでも、一緒に行動した甲斐があるな」
 と、冬馬は照れたように笑った。それから真顔で千早を見る。
「このまま雨が止まなければ、今夜はここに泊まらなければならぬ。俺一人ならどうと言うことはないのだが……」
 気がかりそうに見つめる冬馬から、千早は目をそらした。
「私のことなら、気づかいは無用です。一人でここに残されるのならともかく、榊様と一緒なら」
 それは千早の本音だ。それに対し、何故かムキになって冬馬は言った。
「無論、千早殿をここに残して俺だけ山を降りるような、そんな真似はしない」
 それからムキになった自分を隠すようにからかい口調で言う。
「おぬしも、案外意気地がないな」
「榊様が幽霊を怖がるように、私は雷と山犬が怖い。人には得手不得手があるのだから仕方がないだろう」
 拗ねる千早に冬馬は苦笑した。むしろ、ムキになってしまった自分に対してなのだが、伝わるわけもない。
「雨はまだ止まないから、千早殿は少し眠った方がいい」
 拗ねた子供をあやすように冬馬は微笑む。
「雷鳴を止めることは出来ぬが、山犬を追い払うくらい朝飯前だ」
 実を言うと、千早はただ単にここで冬馬においてきぼりされることが怖かっただけで、雷鳴や山犬が全く駄目だというわけでない。
 けれど、それを素直に口に出来る性格ではなかった。
 可愛気があるとかそんなこととは別にしても。
 ……違う。
 この一件が起こる前の千早ならば、子供のように、怖いものは怖い、嫌いなものは嫌いと口に出せたし、そう告げれば、回りの者が千早の意に沿うようにしてくれた。
 だが、今の千早にはそれが許されなかった。
 一人旅など一生せずに暮らして行けるはずだった千早が、供も連れずに北都へ赴く。そうする必要に迫られる状況に至って、泣き言など言っていられない。
 それに千早は正体がばれると困るのだ。
 でもこんな風に優しくされると、全てを冬馬に打ち明けて任せ切ってしまいそうで怖い。
 そう、きっと怖いのは、刺客より、冬馬より、自分の心。
 不機嫌な顔で黙り込んだ千早を見え、冬馬が訊いた。
「どうしたのだ。千早殿」
 そんな気持ちを擦り替えたくて、千早は全部相手のせいにした。
「榊様と一緒に来なければ良かった」
「おぬしが、ちょっとからかったくらいで、すぐ拗ねるような大人気ない人間だとわかっていたなら、用心棒になどならん」
 冬馬の表情が悪戯を咎められた子供みたいだったので、千早は思わず笑ってしまった。それでますます機嫌を損ねる冬馬に、千早はくすくす笑う。
「何がおかしい」
 本気で怒る冬馬に、千早は笑いを納めた。
「悪かった。榊様の表情があまりに可愛かったものだから」
「可愛いのは恭之介! 俺は違う」
 そう断言する冬馬に、千早は呆気に取られた。
「恭之介って、誰です」
「えっ?」
 その言葉に正気に戻った冬馬は笑みを浮かべた。
「双子の弟だ。幼い頃は、近所の者で我らを見分けられるものなど数えるほどしかいなかった。今ではあいつは医者になって髪型が違うから、そんなことはないだろうが」
 千早はしみじみと言った。
「榊様と同じ顔の方がもう一人いるのですか。是非お逢いしたいものだ」
 冬馬は笑顔で頷く。
「無事に事が済んだら、いくらでも逢える。あいつも喜ぶだろう」
 千早はからかい顔で言う。
「でも、榊様と同じお顔なのでしょう」
「双子だからな」
 何を決まり切ったことをと、冬馬は千早を見返す。
「いいんですか」
「何が? ああ、あいつはいいんだ。俺と違って本当に可愛いから」
 当人がその場にいたら、烈火の如く怒り出すであろう台詞を、平然と冬馬は吐いた。
 無論、恭之介の眼前でも同じように言う冬馬だ。本人がどれほど否定しようと、誰もが認める事実だったし、それに水澤右京という強い味方もいる。
 何だかんだとすっかり機嫌を直した冬馬を見つめ、千早はにっこりと笑った。
「さっきの話だが。とにかく誤解を解いておきたい。私は別にからかわれて怒ったんじゃない。とはいえ、榊様も悪い。大の大人が、自分とほとんど年の変わらぬ男に守ってやると言われても嬉しくないぞ。大体あれは、どう考えても、女子供に聞かせる台詞だ」
 筋が通っているようでも、千早の意見は詭弁である。自分の心を守るために吐いた嘘だった。
 それでも、冬馬の表情は変わる。
「……そう言えば、そうだな。すまなかった」
 心底済まなさそうな表情で、率直に謝る冬馬に、千早の胸が痛む。
 だからこそ千早は告げた。せめてもの誠意の証として。
「でも、榊様の心づかいは嬉しかった。だから、困る。大事な役目を果たさなければならないのに、そんな風に甘やかされると、挫けそうになるから困る」
 冬馬が何も言えずに黙り込むと、千早は深く溜息をつく。
 本当に素直に大事に愛されて育った人なのだと、冬馬を見ていればわかる。無邪気でわがままで、でもすごく優しい、真っ直ぐな気性の青年。
 一度でも本気で、千早を見捨てて置き去りにするかもしれないなどと、思った自分が恥ずかしくなる。
 一度懐に入れて守ろうとしたものは、どんなことになろうと、この人は守り通すだろう。
 強くて、そして、それ故に傷つきやすい。
 千早は冬馬に巡り会えたことを感謝すると同時に、自分の運命に巻き込んでしまったことを後悔もしていた。
 雨は一向に止む気配を見せず、風がまた一段と強くなってきた。
 冬馬は黙ったまま囲炉裏の火を見ている。
 どうやら今日はここで夜更かしになりそうだ。
 千早は無理に微笑みを浮かべた。
「榊様が悪いわけじゃないのだから、そんなに気にしないでくれないか」
 冬馬は笑顔で振り向いた。
 その笑顔に釣られるように、千早の微笑みが本物に変わる。
「榊様の好意に甘えて、私は眠らせてもらう」
 千早は小屋の隅で丸くなって目を閉じた。